SSブログ

群馬県前橋市勝沢田之口遺跡で古代泰山口墨書土器(長さん)

今回は、榛名山や赤城山で名高い、群馬県
前橋市の勝沢田之口遺跡で、地名に口が付
いているのとの関連を疑わせる、漢字で
「泰山口」と「口(くち)」の字が、たぶ
ん奉山では無くて、「泰山」に追加されて、
漢字3文字墨書となったように見える、
台付き杯土器遺物が出土しているの旨の
話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15105_1_勝沢田之口遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
勝沢田之口遺跡発掘調査報告書、2008.2、
前橋市埋蔵文化財調査団。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、群馬県前橋市勝沢町。遺物が出土し
たのは、西暦2007年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、遺物は住居跡第25
号から出土したが、発掘報告書第10ペー
ジ付近の記載によると、この遺物の形等か
ら、10世紀前半の成立ではないかと、発
掘報告書では見ているように、読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第9
の下から2段目右から2個目に在り、住居
跡(H)第25の土器遺物第2番との旨、
ナンバリングされている。台付きの杯型の
土器のように私には見え、2コマ上下に
並んだ写真の上の方の側面の右の縁付近に、
話題にする漢字のように見える模様がある。

勝沢田之口泰山口.gif

 上図のように煤が多いが、右の縁に淡い
字で、縦に「泰山円」のように一見見える
模様が在るように私見する。第3文字に、
水平下線があるようであり、周囲の模様と
の連続性から、中央の+部分は汚れのよう
である。よって、第3文字は「口(くち)」
であり、泰山の麓に勝沢田という場所が在
り、土器が出土したのは田の入り口である
という意味のように見える。
 泰山は榛名山や赤城山の事であり、
勝沢田之口という地名か、それと類似する
元地名が、平安時代には成立していた事を
示唆するようにも、私には思える。(2023/03/31)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

群馬県前橋市茂木山神Ⅱ遺跡で飛鳥初期泰山視墨書土器(長さん)

今回は、群馬県前橋市、当時勢多郡大胡町の
茂木山神遺跡で、榛名山か赤城山とみられる
「泰山を見る」の意味の、漢字で「泰山視」
と読めるような煤模様のついた土器の破片が
出土しているとの旨の話題である。
なお、同じ発掘報告書の写真図版第55号に、
第6号住居跡から出土した甕型土器に「奉馬」
と書かれているように見える、墨書土器が
あるのを、以前紹介している。以下の遺物は、
住居跡が異なるが、たまたまだが、ほぼ同じ
時代の、同じ甕型土器の破片のようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。 
15397_1_茂木山神II遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
群馬県勢多郡大胡町大字茂木茂木山神Ⅱ遺跡、
2001、群馬県勢多郡大胡町教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所は、
群馬県勢多郡大胡町大字茂木字(山神・小林・
諏訪前)。
 遺物が出土したのは目次に次いで挿入され
ている抄録によれば、西暦1999年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第16号住居跡
から出土したが発掘報告書第192ページの
記載から、住居跡自体が、7世紀中ばの、
飛鳥時代初期と考えられているように、私に
は読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第60:
”第16号住居跡出土遺物”の第2段目左に
あり、遺物番号第16号出土土器の第8番と
の旨、ナンバリングされていて、土器の破片
のように私には見える。

茂木山泰山視.gif

上図のように、輪状に大きく黒い帯に見える
煤跡がある中に、やや上にズレて、かなり
小さい文字で、漢字で「泰山視」と縦に3文
字墨書きされているように、私には見える。
 文字通り榛名山ないし赤城山を崇拝する、
古代の祭祀用土器ではないかと、私は疑う。
(2023/03/30)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

熊本県菊池市ワクド石遺跡で平安期俊馬墨書土器(長さん)

今回は、本ブログで従来より、龍馬は駿馬
の意味であると記載してきたが、駿と俊で
字は違うが、平安期に「しゅん馬」と意識
されて、飼われていた馬が、存在した事を
示唆する、漢字で俊馬と書かれた、杯型の
墨書土器が、熊本県菊池郡旭志村で出土し
ているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15603_1_伊坂上原遺跡・ワクド石遺跡・城ン原遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第213集
伊坂上原遺跡・ワクド石遺跡・城ン原遺跡、
2003.3、熊本県教育委員会。
 遺物はこのうち真ん中の、ワクド石遺跡
で見つかったようである。
 発掘報告書序文によるとワクド遺跡の場
所は、熊本県菊池市(旧:菊池郡旭志村)
川辺。遺物が出土したのは西暦2000年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書末尾抄録
によると、遺跡自体が平安期のものと考え
られ、平安期の墨書土器と考えられている
ようである。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第12:
”ワクド遺跡出土遺物(3)”の、上段に
在り、遺物番号第103番との旨、ナンバ
リングされている。杯型土器の底面の写真
のように、私には見える。

ワクド石俊馬.gif

 上図のように、写真で反時計回りに少し
回転しているが、綾ないし俊のように見え
る漢字模様と、その下にはっきりしないが、
もう一字、漢字模様が在るようにも見える。
発掘報告書第32ページ付近の記載による
と「鶴」の崩し字か、2文字だが不詳と考
えられているように読み取れる。

私見だが、俊馬と書かれている

かもしれないと考える。龍馬と同義語の意
図で書かれており、平安時代、朝廷へ献上
する馬に、付帯させる為の土器だったのか
もしれないと私見する。(2023/03/29)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

熊本県五木村頭地下手遺跡で亀龍墨書縄紋土器(長さん)

今回は、熊本県五木村の頭地下手遺跡で、
縄文土器とみられる出土遺物に漢字で、
「亀龍」と書かれているように見える
物品が在るとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15659_3_頭地下手遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告書第297号頭地下手遺跡、
西暦2014年3月、熊本県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の
場所は、熊本県球磨郡五木村甲字下手。
遺物が出土したのは、発掘報告書第3
ページ付近の調査の経緯によれば、西暦
2004年前後の事のようである。
 今回本ブログで以下紹介する、遺物の
成立年代は、発掘報告書第409ページ
の記載によると、概ね九州における、
縄文時代後期成立の遺物が層序が明確で
は無いものの、この回の発掘で広範に出
土していると発掘報告者は見ているよう
に、読み取れるように思われる。
 遺物の写真は、発掘報告書第3写真図
版の第304ページ上コマ:”縄紋土器
RP(調査区Ⅳ区)遺物番号第4229”
番の土器として写真が在る。

頭地下手亀龍.gif

 上図のように、左上の方に、黒いシミ
のような模様が2個縦に並んでいて漢字
で「亀龍」のようにも、私には見える。
 漢字が成立していない時代のはずの為
不思議であるが、祭祀用であり、わが国
に於いて竜神信仰が早い時代に大陸から
伝わって居た事を、恐らくは示している
のであろう。(2023/03/28)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長崎県高来町上田井原遺跡で5C龍馬墨書土器(長さん)

今回は、長崎県の有明海に面した海岸から
扇状地に少し入った平地の地点の、高来町
上田井原遺跡で、古墳時代とみられる広口
壷型土器に、煤に覆われていて若干不明確
なものの整った字で「龍馬」と書かれてい
るように見える、土器が出土しているとの
旨の紹介である。
 遺物の写真はweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15734_1_中江遺跡・上田井原遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
高来町文化財調査報告書第1集中江遺跡・
上田井原遺跡、1993年、長崎県高来町
教育委員会。
 中江遺跡と上田井原遺跡とは同じく高来
町内にあるものの、やや離れていて関連性
は、大きくはないとみられる。遺物は後者
の上田井原遺跡で出土したようである。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所
は、長崎県北高来郡高来町小江名。また、
発掘報告書第1ページ「発掘調査の端緒」
によると遺物が出土したのは西暦1991
年前後のことのようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第76ペー
ジ付近の記載によると今回の上田井原遺跡
で発掘された遺物は、概ね古墳時代中期の
5世紀のものではないかと、形から推定さ
れているように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第33:
”上田井原遺跡の出土遺物第4”の下から
3段目の左から3個目にあり、遺物番号第
92番との旨、ナンバリングされている。
金魚鉢のような形の、口の広い壷型土器の
ようである。

上田井原92龍馬.gif

 上図のように、写真の左上に漢字で龍の
ように見える黒い模様があり、それに気が
つくと、煤に埋もれて、その右側にやや右
下がりでわずかに小さい大きさで、「馬」
と読めるような模様がある。ただし下部の
点のうち左の2点が、やや、下に下がりす
ぎている。
 古墳時代の馬の水桶なのであろうか。字
が整っており、この遺物も古墳時代の日本
での漢字の成立を、例示しているように私
見される。ただし煤が多く、さほど明快な
例とまでは言えないだろう。(2023/03/27)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

静岡県岡部町入野高岸古窯で古墳期末奔土墨書土器(長さん)

今回は静岡県の古墳から出土した副葬品の
土器に奉王型の漢字墨書土器に見える遺物
で、正確には、

胚の蓋であり、頂に王、側面に「奉土」と
3文字記載されている

ように見える出土物が有るとの紹介である。
 遺物の写真がWEB上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15809_1_入野東古墳群・入野高岸古窯.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告書第177集
入野東古墳群・入野高岸古窯、西暦2007年
中日本高速道路株式会社横浜支社・財団法人
静岡県埋蔵文化財調査研究所。
 遺物はこのうち後者の入野高岸古窯内の
入野高岸1号窯で出土したようである。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、静岡県志太郡岡部町入野243-2
番。遺物が出土したのは、第78地点の調
査として発掘が行われた、西暦2000年
前後の事のように発掘報告書冒頭第5ペー
ジ付近の記載から読み取れる。
 遺物の成立年代は、第1号窯の前庭部か
ら紹介する遺物は出土したが、発掘報告書
第102ページ付近の「結語」によると、
7世紀前半の古墳期末の窯で、その生産物
とみられているようである。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第26:
”入野高岸1号窯”の下カラム:”前庭内
出土遺物1・窯体内出土遺物”の下段左側
に在り、遺物番号第77番との旨ナンバリ
ングされ、繰り返すと杯の蓋のような形の
土器である。

入野高岸奔王.gif

 上図のように、頂上部分にやや不明確だ
が、漢字で「王」と読めるような模様が
在り、縁近い部分に、写真の右から左へ、
2文字漢字で「奉土」と読め、古墳時代の
豪族へ、窯の製品を献上するという意図の
墨書のようにも見える。
 古墳の故人へは、親族だけではなくて、
少なくとも飛鳥期に近くなると、東海地方
では、付近の窯元から弔辞の意図の器が、
贈られたように見える物品である。これも
「古墳時代の墨書土器」の疑いの有る遺品
だと私は考える。(2023/03/26)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

熊本県小坂トンネル出口試堀で古代疑歩兵木簡(長さん)

 今回は熊本県熊本市の郊外で、古代の木簡
とみられる出土遺物に「歩兵数八少象(戯)」
と書かれている疑いのある墨書遺物が出土し
ているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
15941_1_花岡山・万日山遺跡群+新馬借遺跡+北島遺跡群+万楽寺出口遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第266集、
花岡山・万日山遺跡群・新馬借遺跡・
北島遺跡群・万楽寺出口遺跡、2010年、
熊本県教育委員会。
 遺物はこのうち、花岡山・万日山遺跡群・
新馬借遺跡に近接した小塚トンネル熊本市街
側出口を、試堀した際に出土したように、
今回紹介した発掘報告書からは、読み取れる
ようである。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所は、
記載がないが、熊本県熊本市横手付近とみら
れる。遺物が出土したのは、西暦2018年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、共出土した別の木簡の
様子から古代と私見されるが、発掘報告書に、
遺物が出土した地点と遺物の説明が、私には
発見出来無い。残念である。
 遺物の写真は、発掘報告書冒頭のカラー写
真図版第5の左と、発掘報告書の後半の、
赤外線写真図版(PL.)第15:”小塚ト
ンネル熊本駅側抗口試掘調査時出土遺物(遺
物のオモテ面)”の左端に在る。遺物番号は
記載されていない。赤外線写真とみられる後
者の方が、下記のように模様がはっきりと出
ている。

小塚トンネル歩兵.gif

 上図のように木簡と私見され、写真の右列
に縦に「歩(空白)歩兵攻八十日東」等と、
漢字が書かれているようにも見える。

無理読みすれば「歩。 歩兵数八少象戯」に、
見えなくもない。

 つまり原始平安小将棋が8升目である事を
述べている、11世紀の木簡である可能性が、
ゼロでは無いと、現時点で私は疑っている。
 繰り返すが、今回紹介した発掘報告書で、
遺物の説明が、今のところ私に発見出来てい
無いのが、たいへん残念だ。(2023/03/25)

nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岐阜県坂祝町梅替遺跡で古墳期西泰山酒立墨書土器(長さん)

 今回は、「西奉山酒二立」等と縦に数文字、
古墳に副葬される、高杯型土器の台の部分に文
字が書かれているように見える、出土遺物の紹
介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
16023_2_梅替古墳.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岐阜県文化財保護センター調査報告書第135集
梅替古墳、2015年、岐阜県文化財保護センター。
 発掘報告書第2pdf末尾の抄録によると、
遺跡の場所は、岐阜県加茂郡坂祝町深萱字梅替。
遺物が出土したのは、西暦2014年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第104ページ
の記載によると、古墳自体が6世紀前期から
中期にかけての、古墳時代後半のものと考えら
れ、遺物もその時代の高脚杯の台座部と考えら
れているように受け取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第9の、
最上段右にあり、遺物番号第42番との旨、
ナンバリングされている。繰り返すと高脚杯状
土器の脚台部の破片とみられる土器遺物である。

梅替古墳西泰山酒.gif

 上図のように刻書か墨書か、その組み合わせ
かで、漢字で「西奉山酒二立」(+イラスト)
等と読めるような、文字と末尾に図のようにも
見える模様がある。西の山とは迫間山の事であ
ろうか。
 飛鳥・奈良期でなく古墳から出土した古墳時
代の物品であるとすると、整った漢字を普通に
書けるような識字層が、この古墳の埋葬者と、
発掘報告書で見られている有力家父長に、もと
もと付き人として関係していた事を示している
のかもしれないと、私的に疑われる。
 日本で漢字が盛んに使用されるようになった
のは、7世紀後半の古代からでなく、古墳時代
からであるという、証拠のひとつと言える物品
のなのではなかろうか。(2023/03/24)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

群馬県前橋市上大屋遺跡で縄文期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、縄文時代の住居の暖炉の壁材と
して用いたと見られる土器に、漢字で、
奉馬のような模様が書かれているとの旨
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開され、発
掘報告書に載っている。発掘報告書が奈
良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
16123_5_上大屋・樋越地区遺跡群.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
町発掘調査報告書Ⅲ上大屋・樋越地区遺跡群、
西暦1986年3月31日、群馬県勢多郡大胡町
教育委員会。
 遺物は、表題の最初方の上大屋遺跡の
E地区の住居跡で出土したとの事である。
 発掘報告書冒頭「発掘調査に至る経過
と調査の経過」によると遺跡の場所は、
群馬県前橋市(勢多郡大胡町:当時)
大胡町上大屋字八ケ峰。
 遺物が出土したのは、西暦1983年
11月から1985年3月までの間のよ
うである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書10ペー
ジの記載から今回主として議論する遺物
である奉馬の漢字模様の土器は、E区第
1住居跡で出土、住居跡からは縄文土器
が出土したということである。発掘報告
書によると、問題にする遺物に火種を入
れて、暖炉として機能させたのであろう
と推定されているように、発掘報告書は
私には読み取れる。
 遺物の写真は、奉馬漢字模様土器につ
いては、次の通りである。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第22
の最上段右側にあり、遺物番号第2番と
ナンバリングされている。七輪型土器の
ように、私には見える。

上大屋奔馬.gif

 上図のように、左端に漢字で馬のよう
にも見えるはっきりしない、黒い文字模
様があり、その右にやや小さく同じく漢
字で、極はっきりしないが「奉」にも見
える黒い模様がある。
 実は、この回の発掘で、漢字の模様の
ような土器は、他にも発見される。下記
は、写真図版第24の同じく最上段右に
在る土器で、第12番と、ナンバリング
されている、同じくE区第1住居跡から
出土した別の遺物の写真である。

上大屋奔行.gif

 上図のように、遺物写真の左下の部分
に、今度は第2番土器よりは、やや明快
に漢字で縦に「奉行」と書かれているよ
うにも見える。将棋駒の類に「奉行」も
「奔行」も存在しないので、少なくとも、
いわゆる日本の将棋とは、繋がらない事
は確かである。しかし以下の点の問題が
ある。
 すなわち縄文時代後半の土器であると
すれば、漢字の成立より以前となるため、
墨書の存在自体が謎である。なお、遺物
番号第2番土器には縄文が私には見つか
らないが。第12番土器については、上
部の破片に波のような模様があり、縄文
土器の縄文であると、発掘報告書で指摘
されているように読めるのと、比較的良
く合っているように、私にも思える。
 なお、発掘報告書にその回の発掘の、
E区第1住居跡の成立年代に関する記載
は、今のところ私には発見出来ていない。
 発掘報告書によると、E区の住居跡は
1軒で、やや離れた包含層から縄文土器
が大量に出土しているように書かれてい
るように見える。煤模様の付いた土器が、
この発掘では幸運なことに比較的多いよ
うに私には感じられる。よって偶然模様
だとすれば、似た例が、包含層出土土器
からも、まんべんなく出土するはずのよ
うに思えるので、漢字の無い時代の漢字
の墨書のようであるという、今回の疑問
点については、発掘報告書の別の地点の
縄文土器遺物等について、更にチェック
して見る必要があると感じた。(2023/03/23)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

広島市広島城より明治期歩兵石碑(長さん)

今回は、明治時代の日清戦争時建てられたと
記録されている戦争石碑の破片に、複数の
「歩兵」という文字が刻まれているという旨
の話題である。

地元から歩兵師団として出軍した事との旨の
内容であり、本物の歩兵であって日本将棋の
歩兵駒は指さない

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
16632_2_広島城跡八丁堀地点発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の表題は以下の通りである。
広島城跡八丁堀地点発掘調査報告書、2010年、
株式会社パスコ・財団法人広島市文化財団。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、広島県広島市中区八丁堀。
 遺物が出土したのは、西暦2007年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第74ページ
付近の「Ⅵまとめ」によると、明治29年
(西暦1896年)設置の「北清事変記念碑」
かもしれないと見られているように、読み取
れる。近代のものとみられているようである。
 遺物の写真は、冒頭に示した第2写真図版
pdfの写真図版第61の第2段目にある。
同系統の遺物は発掘数が数個以下だった模様
で、特にナンバリングはされていない。

広島城歩兵.gif

 上図のように、下部の拓本によると、残っ
た破片の第5行目から9行、歩兵と書いてあ
るように読み取れる。
 9行だと

日本将棋の初期配列を一見連想するが、前段
に「師団」等の文字があり、将棋には関連せ
ず、日清戦争に出軍した、地元の師団が9隊、
歩兵隊を所持していた事等を示している

のであろうと、私見する。
 現物は広島市に太平洋戦争末期に落とされ
た原爆で吹き飛んで、破片になったのであろ
うか。(2023/03/22)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー