島根県出雲市壱丁田遺跡で戦国期泰山墨書土器(長さん)
今回は、島根県出雲市で弥生時代後期か
ら続く「奉山」墨書祭祀用土器作成の習
慣が、中世後期室町~戦国時代迄切れ目
無く続いたと疑われる証拠となる墨書土
器破片が今世紀の初に、表題の遺跡で、
発掘されているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
2774_1_壱丁田遺跡第3次発掘調査報告書.pdf
なお、本文pdfが第2pdfに、
写真図版pdfが第1pdfに、全国遺
跡報告総覧登録の際、逆転複写されてい
るようである。
発掘報告書の名称は以下の通りである。
壱丁田遺跡第3次発掘報告書、2006年
3月、出雲市教育委員会。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は、島根県出雲市白枝町667番地。
遺物が出土したのは西暦2005年前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書の、
「まとめ」により、遺物は第07土溝で
出土したが、遺物の形態等から室町時代
から戦国時代にかけての比較的後期のも
のと推定されているように、私には読み
取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第7
第2カラム目:”土溝第07号出土遺物”
右写真の上段右から2個目に在り、スケッ
チ図第17図の遺物番号第3番との旨、
ナンバリングされている。土器の破片の
ようである。
上図のように、一見して比較的濃く、
漢字で「山」のように見える黒い模様が
下の方の中央やや右寄りに有り、よく見
ると、やや左にズレているが、同じく漢
字でいっけん「竜」のように見える模様
が有って、「竜山」と書かれているよう
にも見える。
しかしながら第1字目の上部の「立」
であるべき部分は、よく見ると「土」で
あり、「竜」よりは下部がカスレている
が「奉」であって「奉山」の方が尤もら
しいと気がつく。成立年代が前術のよう
に室町時代や戦国時代という歴史時代の
為、山水画に対応した竜山信仰の祭祀用
かもしれないが。弥生時代後期から続く、
島根県出雲市付近の、神道系の祭祀用杯
型土器の破片の疑いもあるものと私見さ
れる。(2023/05/31)
ら続く「奉山」墨書祭祀用土器作成の習
慣が、中世後期室町~戦国時代迄切れ目
無く続いたと疑われる証拠となる墨書土
器破片が今世紀の初に、表題の遺跡で、
発掘されているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
2774_1_壱丁田遺跡第3次発掘調査報告書.pdf
なお、本文pdfが第2pdfに、
写真図版pdfが第1pdfに、全国遺
跡報告総覧登録の際、逆転複写されてい
るようである。
発掘報告書の名称は以下の通りである。
壱丁田遺跡第3次発掘報告書、2006年
3月、出雲市教育委員会。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は、島根県出雲市白枝町667番地。
遺物が出土したのは西暦2005年前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書の、
「まとめ」により、遺物は第07土溝で
出土したが、遺物の形態等から室町時代
から戦国時代にかけての比較的後期のも
のと推定されているように、私には読み
取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第7
第2カラム目:”土溝第07号出土遺物”
右写真の上段右から2個目に在り、スケッ
チ図第17図の遺物番号第3番との旨、
ナンバリングされている。土器の破片の
ようである。
上図のように、一見して比較的濃く、
漢字で「山」のように見える黒い模様が
下の方の中央やや右寄りに有り、よく見
ると、やや左にズレているが、同じく漢
字でいっけん「竜」のように見える模様
が有って、「竜山」と書かれているよう
にも見える。
しかしながら第1字目の上部の「立」
であるべき部分は、よく見ると「土」で
あり、「竜」よりは下部がカスレている
が「奉」であって「奉山」の方が尤もら
しいと気がつく。成立年代が前術のよう
に室町時代や戦国時代という歴史時代の
為、山水画に対応した竜山信仰の祭祀用
かもしれないが。弥生時代後期から続く、
島根県出雲市付近の、神道系の祭祀用杯
型土器の破片の疑いもあるものと私見さ
れる。(2023/05/31)
島根県出雲市山持川川岸遺跡で3C泰山墨書土器(長さん)
今回は過去類例を紹介しているが、
島根県で弥生時代後期の成立とされて
いる土器破片に、黒く”奉山”、少な
くとも漢字の”奉”がくっきり書いて
あるように見える土器が、前世紀末に
出土しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に掲っている。発掘報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開
されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
2986_1_山持川川岸遺跡.pdf
なお、pdfファイルは2つだが、
遺物の写真はたまたま、第1本文
pdfの末尾に入った、写真図版冒頭
の方の部分に掲載されている。
発掘報告書の名称は以下の通りである。
山持川川岸遺跡、1996年、出雲市教育委員会。
発掘報告書冒頭例言によると、遺跡
の場所は、島根県出雲市市内たぶん
林木町付近であり、出雲北稜高校に近
接する現在宅地、当時北の田の中のよ
うに発掘報告書第1ページ付近の地図
から読み取れるが、今の所私には、
住所等の発掘報告書内の記載は発見出
来てい無い。
遺物が出土したのは発掘報告書第3
ページ付近の記載より、西暦1994
年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第
52ページ付近の記載より、遺跡自体
が弥生時代後期後半、3世紀頭前後の
集落と見られているように読み取れ、
今回紹介する物品も、その頃のものと
見られているように、私には読める。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第
12:”第2土坑”の下段カラム右上
に在り、スケッチ図第11の遺物番号
第3番との旨ナンバリングされている。
破片土器の側面写真のように私には
見えるが、スケッチ図1により高台付
杯の杯部の破片と見られているようで
ある。
上図のように、かなりくっきりと、
中央に横に並んで、二つの黒い煤模様
が在り、左から右へ漢字で”奉山”と
書かれているように私見する。ただし、
「山」の右部分がカスレているように
も見えて、やや不明確ではある。
渡来人が出雲市の山沿いの山間部に
入り、山で何らかの活動をしながら
弥生時代後期後半に、道教的信仰等か
ら山を奉じた、祭祀用墨書土器が疑わ
れると考える。従来の本ブログ見解を、
補強している例と私見する。(2023/05/30)
島根県で弥生時代後期の成立とされて
いる土器破片に、黒く”奉山”、少な
くとも漢字の”奉”がくっきり書いて
あるように見える土器が、前世紀末に
出土しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に掲っている。発掘報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開
されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
2986_1_山持川川岸遺跡.pdf
なお、pdfファイルは2つだが、
遺物の写真はたまたま、第1本文
pdfの末尾に入った、写真図版冒頭
の方の部分に掲載されている。
発掘報告書の名称は以下の通りである。
山持川川岸遺跡、1996年、出雲市教育委員会。
発掘報告書冒頭例言によると、遺跡
の場所は、島根県出雲市市内たぶん
林木町付近であり、出雲北稜高校に近
接する現在宅地、当時北の田の中のよ
うに発掘報告書第1ページ付近の地図
から読み取れるが、今の所私には、
住所等の発掘報告書内の記載は発見出
来てい無い。
遺物が出土したのは発掘報告書第3
ページ付近の記載より、西暦1994
年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第
52ページ付近の記載より、遺跡自体
が弥生時代後期後半、3世紀頭前後の
集落と見られているように読み取れ、
今回紹介する物品も、その頃のものと
見られているように、私には読める。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第
12:”第2土坑”の下段カラム右上
に在り、スケッチ図第11の遺物番号
第3番との旨ナンバリングされている。
破片土器の側面写真のように私には
見えるが、スケッチ図1により高台付
杯の杯部の破片と見られているようで
ある。
上図のように、かなりくっきりと、
中央に横に並んで、二つの黒い煤模様
が在り、左から右へ漢字で”奉山”と
書かれているように私見する。ただし、
「山」の右部分がカスレているように
も見えて、やや不明確ではある。
渡来人が出雲市の山沿いの山間部に
入り、山で何らかの活動をしながら
弥生時代後期後半に、道教的信仰等か
ら山を奉じた、祭祀用墨書土器が疑わ
れると考える。従来の本ブログ見解を、
補強している例と私見する。(2023/05/30)
宮崎県宮崎市倉岡第2遺跡で6C王奔墨書土器(長さん)
今回は、古墳時代後期から古代にかけ
ての遺跡であるとされている表題遺跡の
発掘で、6世紀前後に成立したとされる
甕型土器の側面に、漢字で「王奉」と書
かれているように見える出土土器がある
との旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
3627_1_倉岡第2遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第48集
倉岡第2遺跡、2001年、宮崎県埋蔵文化財センター。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は宮崎県宮崎市大字金崎字手尻。遺物が
出土したのは、西暦1997年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、この発掘で検出さ
れた住居跡が報告書第79ページの記載
により、6世紀~7世紀初とされている
ように読み取れ、発掘報告書第30ペー
ジ付近の記載により、話題とする遺物は
甕型土器で、この住居跡に関連し、古墳
時代で、6世紀前後のものとされている
ように、私には読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第6:
”A区出土遺物(2)”中段右の遺物
集合写真の左下に在り、遺物番号第73
番との旨、ナンバリングされている。
上図のように、かなり大きく、写真で
中段やや下にやや不明確に漢字で「奉」
のように見える暗い模様が在り、更に、
以下もやや不明確だが、その左上に漢字
で、「王」のようにも見える模様がある。
宮崎県宮崎市の土地の有力者を6世紀
に住民が「王」と崇め、何らかの献上品
を甕型土器に納めて、貢いでいたという
事が疑われると私は考える。(2023/05/29)
ての遺跡であるとされている表題遺跡の
発掘で、6世紀前後に成立したとされる
甕型土器の側面に、漢字で「王奉」と書
かれているように見える出土土器がある
との旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
3627_1_倉岡第2遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第48集
倉岡第2遺跡、2001年、宮崎県埋蔵文化財センター。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は宮崎県宮崎市大字金崎字手尻。遺物が
出土したのは、西暦1997年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、この発掘で検出さ
れた住居跡が報告書第79ページの記載
により、6世紀~7世紀初とされている
ように読み取れ、発掘報告書第30ペー
ジ付近の記載により、話題とする遺物は
甕型土器で、この住居跡に関連し、古墳
時代で、6世紀前後のものとされている
ように、私には読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第6:
”A区出土遺物(2)”中段右の遺物
集合写真の左下に在り、遺物番号第73
番との旨、ナンバリングされている。
上図のように、かなり大きく、写真で
中段やや下にやや不明確に漢字で「奉」
のように見える暗い模様が在り、更に、
以下もやや不明確だが、その左上に漢字
で、「王」のようにも見える模様がある。
宮崎県宮崎市の土地の有力者を6世紀
に住民が「王」と崇め、何らかの献上品
を甕型土器に納めて、貢いでいたという
事が疑われると私は考える。(2023/05/29)
宮崎県高崎町上示野原遺跡で3C王奔墨書土器(長さん)
今回は、九州宮崎の表題遺跡で、
弥生時代末~古墳時代初成立とみられる
高台杯土器に、漢字で王奉に見えるよう
な模様が有るとの旨の話題である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
3832_1_虎崩・榎木田遺跡黒勢戸・上示野原遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第41集
虎崩・榎木田遺跡・黒勢戸・上示野原遺跡、
2001年、宮崎県埋蔵文化財センター。
遺物はこのうち最後の上示野原遺跡で
出土したようである。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は宮崎県都城市(旧:北諸県郡)高崎町
大字大牟田字上示野原。遺物の出土は
西暦1996年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第43
ページ付近の記載によると遺物は、
上示野原遺跡の、竪穴住居跡らしい遺構
1軒付近で出土したが、その形態から
弥生時代末~古墳時代初の3世紀前後の
成立とみられる土器群のひとつで、高台
杯の杯部分の破片とみられているようで
ある。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
4の右下カラム:”上示野原遺跡竪穴
住居跡及び包含層出土土器”の右上隅に
在り、遺物番号第17番とナンバリング
された、土器の破片のように、私には見
える物品である。
上図のように、左上に漢字で”王”、
中央やや右下に同じく漢字で”奉”のよ
うに見える、暗い模様がある。古墳時代
の始め頃に、宮崎県当地で土地の有力者
を、王と崇め何らかの貢物を収める神事
に似た祭祀が行われた、跡のようにも、
私には疑える。少なくとも簡単な、漢字
程度なら使用者等が識字出来る事になる
から、王を含め、当時の都城市のこの遺
跡の住人は、大陸との繋がりが深い一族
だったと疑えるのであろう。(2023/05/28)
弥生時代末~古墳時代初成立とみられる
高台杯土器に、漢字で王奉に見えるよう
な模様が有るとの旨の話題である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
3832_1_虎崩・榎木田遺跡黒勢戸・上示野原遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
宮崎県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第41集
虎崩・榎木田遺跡・黒勢戸・上示野原遺跡、
2001年、宮崎県埋蔵文化財センター。
遺物はこのうち最後の上示野原遺跡で
出土したようである。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は宮崎県都城市(旧:北諸県郡)高崎町
大字大牟田字上示野原。遺物の出土は
西暦1996年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第43
ページ付近の記載によると遺物は、
上示野原遺跡の、竪穴住居跡らしい遺構
1軒付近で出土したが、その形態から
弥生時代末~古墳時代初の3世紀前後の
成立とみられる土器群のひとつで、高台
杯の杯部分の破片とみられているようで
ある。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
4の右下カラム:”上示野原遺跡竪穴
住居跡及び包含層出土土器”の右上隅に
在り、遺物番号第17番とナンバリング
された、土器の破片のように、私には見
える物品である。
上図のように、左上に漢字で”王”、
中央やや右下に同じく漢字で”奉”のよ
うに見える、暗い模様がある。古墳時代
の始め頃に、宮崎県当地で土地の有力者
を、王と崇め何らかの貢物を収める神事
に似た祭祀が行われた、跡のようにも、
私には疑える。少なくとも簡単な、漢字
程度なら使用者等が識字出来る事になる
から、王を含め、当時の都城市のこの遺
跡の住人は、大陸との繋がりが深い一族
だったと疑えるのであろう。(2023/05/28)
大阪府八尾市東郷遺跡で4C泰山等墨書土器(長さん)
今回は、以前紹介した東郷遺跡&
田中井追跡の発掘報告書記載の出土土器
の中に、こんどは古墳時代前期の比較的
成立年代が早い、漢字で「奉山」「山奉」
と書かれているように見える土器遺物が、
出土しているとの旨の紹介である。
遺物写真は同様にweb上に公開され
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開された同じ、
発掘報告書で説明本文が今度は前半の第
1pdfに記載されている。
pdfファイル名、発掘報告書名、
遺跡の場所、今回紹介する遺物の出土年
は、順に次の通り。
写真図版のpdfファイル名:
4434_2_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告昭和63年度.pdf
発掘報告書の名称:
(財)八尾市文化財調査研究会報告17
Ⅰ.東郷遺跡・Ⅱ.田中井追跡、1989年3月、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
今回紹介する遺物は、以前と違い前半
の東郷遺跡で、どちらも出土したようで
ある。
遺跡の場所と出土年:
発掘報告書東郷遺跡編第130ページ
付近に記載された「第18次調査の調査
に至る経過」により大阪府八尾市光町1
丁目19-4。遺物が出土したのは、
東郷遺跡編の冒頭「調査に至る経過」に
より、西暦1984年前後の何れの遺物
についても同じで、第18次調査のとき
のようである。
遺物の成立年代は、以下紹介する
「山奉」墨書土器が第2土坑、「奉山」
墨書土器が第1溝から出土したが、発掘
発掘報告書第132ページの記載等から、
層序により何れも古墳時代前期、4世紀
程度成立の遺物と考えられているように
読み取れるようである。
遺物の写真は「山奉」墨書土器が発掘
報告書東郷遺跡写真図版編第2pdf前
半の写真図版第43の最下段左側に在り、
第18次調査の遺物番号第13番との旨、
ナンバリングされている。丸底瓶の破片
土器のように、私には見える。
上図のように、側面の中央に左上から
右下に斜めに漢字で「山奉」とかなり、
大きく書かれているように、私には見え
る。
次で写真は「奉山」墨書土器が発掘
報告書東郷遺跡写真図版編第2pdf前
半の写真図版第45の最上段左側に在り、
第18次調査の遺物番号第53番との旨、
ナンバリングされている。こちらも丸底
瓶の破片土器のように、私には見える。
上図のように、今度は左に寄った丸瓶
胴中央段に、くっついて右から左に奉山
のようにも見える、不明確だが暗い塊が
あり、「山」と読んだ塊の下に今度は縦
に「山々」と読める模様が在って、結局
「奉山山山」と読めるようにも見える。
これまで示した大阪府の古墳期の山奉
類墨書遺物同様、大阪・兵庫を拠点とし
て古墳時代の前期4世紀に、日本各地の
山岳部で生産活動をしていた有力識字層
がおり、八尾市付近の宗教施設で、活動
している日本各地の山を奉じる祭祀が、
盛んだった疑いがあるのではないかと、
本ブログでは考えているという事である。
(2023/05/27)
田中井追跡の発掘報告書記載の出土土器
の中に、こんどは古墳時代前期の比較的
成立年代が早い、漢字で「奉山」「山奉」
と書かれているように見える土器遺物が、
出土しているとの旨の紹介である。
遺物写真は同様にweb上に公開され
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開された同じ、
発掘報告書で説明本文が今度は前半の第
1pdfに記載されている。
pdfファイル名、発掘報告書名、
遺跡の場所、今回紹介する遺物の出土年
は、順に次の通り。
写真図版のpdfファイル名:
4434_2_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告昭和63年度.pdf
発掘報告書の名称:
(財)八尾市文化財調査研究会報告17
Ⅰ.東郷遺跡・Ⅱ.田中井追跡、1989年3月、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
今回紹介する遺物は、以前と違い前半
の東郷遺跡で、どちらも出土したようで
ある。
遺跡の場所と出土年:
発掘報告書東郷遺跡編第130ページ
付近に記載された「第18次調査の調査
に至る経過」により大阪府八尾市光町1
丁目19-4。遺物が出土したのは、
東郷遺跡編の冒頭「調査に至る経過」に
より、西暦1984年前後の何れの遺物
についても同じで、第18次調査のとき
のようである。
遺物の成立年代は、以下紹介する
「山奉」墨書土器が第2土坑、「奉山」
墨書土器が第1溝から出土したが、発掘
発掘報告書第132ページの記載等から、
層序により何れも古墳時代前期、4世紀
程度成立の遺物と考えられているように
読み取れるようである。
遺物の写真は「山奉」墨書土器が発掘
報告書東郷遺跡写真図版編第2pdf前
半の写真図版第43の最下段左側に在り、
第18次調査の遺物番号第13番との旨、
ナンバリングされている。丸底瓶の破片
土器のように、私には見える。
上図のように、側面の中央に左上から
右下に斜めに漢字で「山奉」とかなり、
大きく書かれているように、私には見え
る。
次で写真は「奉山」墨書土器が発掘
報告書東郷遺跡写真図版編第2pdf前
半の写真図版第45の最上段左側に在り、
第18次調査の遺物番号第53番との旨、
ナンバリングされている。こちらも丸底
瓶の破片土器のように、私には見える。
上図のように、今度は左に寄った丸瓶
胴中央段に、くっついて右から左に奉山
のようにも見える、不明確だが暗い塊が
あり、「山」と読んだ塊の下に今度は縦
に「山々」と読める模様が在って、結局
「奉山山山」と読めるようにも見える。
これまで示した大阪府の古墳期の山奉
類墨書遺物同様、大阪・兵庫を拠点とし
て古墳時代の前期4世紀に、日本各地の
山岳部で生産活動をしていた有力識字層
がおり、八尾市付近の宗教施設で、活動
している日本各地の山を奉じる祭祀が、
盛んだった疑いがあるのではないかと、
本ブログでは考えているという事である。
(2023/05/27)
大阪府八尾市田中井遺跡で弥生中奔王墨書土器(長さん)
今回は、大阪府出土土器の中に、成立
年代が弥生時代中期と、著しく早い、
漢字で「奉王」と書かれている遺物が
出土しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4434_2_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告昭和63年度.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
(財)八尾市文化財調査研究会報告17
Ⅰ.東郷遺跡・Ⅱ.田中井追跡、1989年3月、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
今回紹介する遺物は、このうち後半の
田中井遺跡で出土したようである。
発掘報告書田中井遺跡編「調査に至る
経過」により大阪府八尾市田中井4丁目。
遺物が出土したのは西暦1984年前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物の形から発掘
報告書第177ページ付近の記載により、
弥生時代中期、中国の秦王朝~前漢時代
程度に成立したと見られているように私
には読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書田中井遺跡の
写真図版編の写真図版第6:”第1次
調査第10層出土遺物”の第2段目左側
に在り、遺物番号第54番との旨、ナン
バリングされている。台付き杯土器のよ
うに、私には見えるが、田中井遺跡編
発掘報告書第201ページ付近によると、
壷の口の部分と、解釈されているようで
ある。
上図のように、側面の左の縁に漢字で
「奉」、中央下に漢字で「王」とも読め
るような、黒い模様がある。
前漢王朝の時代の皇帝を奉じた、渡来
人筆のもので、大阪府にその時点で在住
であり、活動結果の成果物を本国中国へ
送る貢ぎ物が、壷に入れて送るという性
質のものが含まれる事を、示唆している
ように、私には疑われる。(2023/05/26)
年代が弥生時代中期と、著しく早い、
漢字で「奉王」と書かれている遺物が
出土しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4434_2_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告昭和63年度.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
(財)八尾市文化財調査研究会報告17
Ⅰ.東郷遺跡・Ⅱ.田中井追跡、1989年3月、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
今回紹介する遺物は、このうち後半の
田中井遺跡で出土したようである。
発掘報告書田中井遺跡編「調査に至る
経過」により大阪府八尾市田中井4丁目。
遺物が出土したのは西暦1984年前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物の形から発掘
報告書第177ページ付近の記載により、
弥生時代中期、中国の秦王朝~前漢時代
程度に成立したと見られているように私
には読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書田中井遺跡の
写真図版編の写真図版第6:”第1次
調査第10層出土遺物”の第2段目左側
に在り、遺物番号第54番との旨、ナン
バリングされている。台付き杯土器のよ
うに、私には見えるが、田中井遺跡編
発掘報告書第201ページ付近によると、
壷の口の部分と、解釈されているようで
ある。
上図のように、側面の左の縁に漢字で
「奉」、中央下に漢字で「王」とも読め
るような、黒い模様がある。
前漢王朝の時代の皇帝を奉じた、渡来
人筆のもので、大阪府にその時点で在住
であり、活動結果の成果物を本国中国へ
送る貢ぎ物が、壷に入れて送るという性
質のものが含まれる事を、示唆している
ように、私には疑われる。(2023/05/26)
大阪府堺市余部日置荘遺跡で鎌倉期山泰等墨書土器(長さん)
今回は、大阪府は鎌倉幕府から遠い為、
鎌倉時代にも「奉王」・「山奉」といっ
た古代型神道を想起させる墨書土器が、
武家支配地でも、一般人の周辺集落から
は出土するとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4476_1_余部日置荘遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
大阪府埋蔵文化財調査報告2007-6
余部日置荘遺跡、2008年、大阪府教育委員会。
発掘報告書写真図版と遺構図の間に挿
入された抄録により遺跡の場所は大阪府
堺市美原区北余部。遺物が出土したのは、
以下奉王墨書土器が西暦2003年前後、
山奉墨書土器が西暦2005年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は遺跡全体が鎌倉時代
成立とされ、ほぼ全ての遺物は鎌倉期と
考えられているように、発掘報告書から
読み取れる。
遺物の写真は、写真図版第21の上段
集合写真最下段中央に「奉王」墨書土器
がある。集合写真の杯型土器全体が西暦
2003年に第130号溝で出土した
土器であると取れる旨、写真の下に付記
されている。
上図のように小さいが写真の中央に、
杯の底を挟んで縦に、漢字で奉王のよう
に見える、黒い模様がある。後鳥羽期の
朝廷を奉じたのかもしれない。王は天皇
であり、奔王という将棋駒名の意匠が、
鎌倉人には心地よかったと本ブログでは
見る、証拠のひとつのように私見される。
次に「山奉」土器については、発掘報
告書の写真図版第34の上段カラムの、
土器集合写真の中心部にあり、やはり杯
型の土器で、集合写真全体に、西暦
2005年に第896号掘立柱住居跡
柱穴から出土した土器との旨、写真の
下部に説明がある。
上図のように、漢字で「山泰」と縦書
きされているように、私には見えるが、
山の字が、やや崩れている。また、土器
の縁の部分にも「山」のように見える
模様があり、縦に「山山奉」のようにも
見える。神道系の山岳信仰であろうが、
弥生時代中・後期から鎌倉時代まで、
大阪府付近の山岳信仰は、民間で連続し
て存在している事を示しているように、
私には解釈される。(2023/05/25)
鎌倉時代にも「奉王」・「山奉」といっ
た古代型神道を想起させる墨書土器が、
武家支配地でも、一般人の周辺集落から
は出土するとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4476_1_余部日置荘遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
大阪府埋蔵文化財調査報告2007-6
余部日置荘遺跡、2008年、大阪府教育委員会。
発掘報告書写真図版と遺構図の間に挿
入された抄録により遺跡の場所は大阪府
堺市美原区北余部。遺物が出土したのは、
以下奉王墨書土器が西暦2003年前後、
山奉墨書土器が西暦2005年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は遺跡全体が鎌倉時代
成立とされ、ほぼ全ての遺物は鎌倉期と
考えられているように、発掘報告書から
読み取れる。
遺物の写真は、写真図版第21の上段
集合写真最下段中央に「奉王」墨書土器
がある。集合写真の杯型土器全体が西暦
2003年に第130号溝で出土した
土器であると取れる旨、写真の下に付記
されている。
上図のように小さいが写真の中央に、
杯の底を挟んで縦に、漢字で奉王のよう
に見える、黒い模様がある。後鳥羽期の
朝廷を奉じたのかもしれない。王は天皇
であり、奔王という将棋駒名の意匠が、
鎌倉人には心地よかったと本ブログでは
見る、証拠のひとつのように私見される。
次に「山奉」土器については、発掘報
告書の写真図版第34の上段カラムの、
土器集合写真の中心部にあり、やはり杯
型の土器で、集合写真全体に、西暦
2005年に第896号掘立柱住居跡
柱穴から出土した土器との旨、写真の
下部に説明がある。
上図のように、漢字で「山泰」と縦書
きされているように、私には見えるが、
山の字が、やや崩れている。また、土器
の縁の部分にも「山」のように見える
模様があり、縦に「山山奉」のようにも
見える。神道系の山岳信仰であろうが、
弥生時代中・後期から鎌倉時代まで、
大阪府付近の山岳信仰は、民間で連続し
て存在している事を示しているように、
私には解釈される。(2023/05/25)
大阪府豊中市桜井谷窯跡で古墳期泰山墨書土器(長さん)
今回は大阪府豊中市の表題土器窯跡で、
古墳時代後期、6世紀成立とみられる、
広口瓶のような形の蓋杯とされる土器
遺物に、漢字で「奉山」のように見える
模様があるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4556_1_桜井谷窯跡群2-17窯跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
桜井谷窯跡群2-17窯跡、1982年12月
少路窯跡遺跡調査団。
発掘報告書第3ページ付近の「位置と
環境」によると遺跡の場所は、大阪府
豊中市少路2丁目。第4ページの「調査
の経過」により遺物が出土したのは、
西暦1977年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が土器窯
跡と考えられ、遺物の周辺遺跡の形との
比較から6世紀、古墳時代後期の物品で
あると見られているように、私には読み
取れる。
遺物の写真は発掘報告書、写真図版第
17:”TN2-17灰原内出土遺物”
最上段右にあり、写真図版17の遺物
番号2番との旨ナンバリングされている。
広口の瓶のような形の土器に、私には見
える。
上図のように、中段のやや左に漢字で
「山」と書いたように見える黒い模様が
あり、その右隣の暗い塊模様が「奉」と
書かれているようにも見える。「奉山」
と書かれ、古墳時代に大阪府を拠点とし
て山に入り、生産活動を行った古墳時代
の者が山を奉じたか、または遺跡に近接
した低山「坊主山」を土器釜の職人たち
が奉じたか、以上のような事情と考えら
れる。これまで複数回本ブログで報告し
た、古墳時代後半の漢字で「山奉」「奉
山」と書かれた疑いのある遺物土器の、
作成経緯の一例であるように私は考える。
(2023/05/24)
古墳時代後期、6世紀成立とみられる、
広口瓶のような形の蓋杯とされる土器
遺物に、漢字で「奉山」のように見える
模様があるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4556_1_桜井谷窯跡群2-17窯跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
桜井谷窯跡群2-17窯跡、1982年12月
少路窯跡遺跡調査団。
発掘報告書第3ページ付近の「位置と
環境」によると遺跡の場所は、大阪府
豊中市少路2丁目。第4ページの「調査
の経過」により遺物が出土したのは、
西暦1977年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が土器窯
跡と考えられ、遺物の周辺遺跡の形との
比較から6世紀、古墳時代後期の物品で
あると見られているように、私には読み
取れる。
遺物の写真は発掘報告書、写真図版第
17:”TN2-17灰原内出土遺物”
最上段右にあり、写真図版17の遺物
番号2番との旨ナンバリングされている。
広口の瓶のような形の土器に、私には見
える。
上図のように、中段のやや左に漢字で
「山」と書いたように見える黒い模様が
あり、その右隣の暗い塊模様が「奉」と
書かれているようにも見える。「奉山」
と書かれ、古墳時代に大阪府を拠点とし
て山に入り、生産活動を行った古墳時代
の者が山を奉じたか、または遺跡に近接
した低山「坊主山」を土器釜の職人たち
が奉じたか、以上のような事情と考えら
れる。これまで複数回本ブログで報告し
た、古墳時代後半の漢字で「山奉」「奉
山」と書かれた疑いのある遺物土器の、
作成経緯の一例であるように私は考える。
(2023/05/24)
岡山県八束村水別古墳で古墳期泰山墨書土器(長さん)
今回は、表題の岡山県の山間部の古墳
跡で、副葬品土器の中に、漢字で奉山と
書かれたような模様の土器が、出土して
いるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4611_1_水別古墳群・水別遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告第131
水別古墳群・水別遺跡、1998年、
岡山県教育委員会。
遺物はこのうち、古墳跡で出土したよ
うである。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は岡山県真庭郡八束村下長田488-1。
遺物が出土したのは西暦1996年前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は第1号墳墓
から出土したが、発掘報告書第35ペー
ジ付近の記載により、出土した土器の形
等から7世紀~8世紀前半の古墳期後期
から末期の間と考えられているように私
には読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第
12の最上段右側に在って、遺物番号第
14番との旨ナンバリングされ、第1号
墳出土土器(2)との旨、下段に付記さ
れている。顕花用の花瓶のような形の土
器である。
上図のように、胴の部分で写真の右の
中段に漢字で「奉」のように見える模様
が有り、その左斜め下に同じく漢字で、
「山」のように見える模様が有って、
山を奉じる祭祀用のようにも見える。尚
山の上の煤模様も、崩れているが「奉」
かもしれない。「奉・奉山」と読むべき
かとも考えられると思う。
埋葬されている人間が神主か、または、
山で何らかの経済活動を古墳時代に行い、
その結果、成功した人物ではないかと私
は疑っている。(2023/05/23)
跡で、副葬品土器の中に、漢字で奉山と
書かれたような模様の土器が、出土して
いるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4611_1_水別古墳群・水別遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告第131
水別古墳群・水別遺跡、1998年、
岡山県教育委員会。
遺物はこのうち、古墳跡で出土したよ
うである。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は岡山県真庭郡八束村下長田488-1。
遺物が出土したのは西暦1996年前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は第1号墳墓
から出土したが、発掘報告書第35ペー
ジ付近の記載により、出土した土器の形
等から7世紀~8世紀前半の古墳期後期
から末期の間と考えられているように私
には読み取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第
12の最上段右側に在って、遺物番号第
14番との旨ナンバリングされ、第1号
墳出土土器(2)との旨、下段に付記さ
れている。顕花用の花瓶のような形の土
器である。
上図のように、胴の部分で写真の右の
中段に漢字で「奉」のように見える模様
が有り、その左斜め下に同じく漢字で、
「山」のように見える模様が有って、
山を奉じる祭祀用のようにも見える。尚
山の上の煤模様も、崩れているが「奉」
かもしれない。「奉・奉山」と読むべき
かとも考えられると思う。
埋葬されている人間が神主か、または、
山で何らかの経済活動を古墳時代に行い、
その結果、成功した人物ではないかと私
は疑っている。(2023/05/23)
大阪府八尾市木の本遺跡で弥生末山泰墨書土器(長さん)
今回は表題の大阪府八尾市の遺跡で、弥生末
成立とみられる小型鉢土器に、漢字で「山奉」
と書かれているように見える模様があり、
弥生時代後期から断続的に大阪府・兵庫県に
渡来人が上陸して、日本各地の鉱脈探索を、
手がけた事を示唆しているとの、本ブログの
従来よりの考えを、更に補強するとみられる
遺物が、出土していると取れるの旨の紹介で
ある。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4761_1_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
八尾市文化財調査研究会報告34;
Ⅰ久宝寺遺跡(第10次調査)・
Ⅱ久宝寺遺跡(第11次調査)・
Ⅲ久宝寺遺跡(第12次調査)・
Ⅳ恩智遺跡(第5次調査)・
Ⅴ恩智遺跡(第6次調査)・
Ⅵ中田遺跡(第7次調査)・
Ⅶ中田遺跡(第9次調査)・
Ⅷ水越遺跡(第4次調査)・
Ⅸ萱振遺跡(第11次調査)・
Ⅹ大竹西遺跡(第2次調査)・
ⅩⅠ東郷遺跡(第38次調査)・
ⅩⅡ竜華寺跡(第2次調査)・
ⅩⅢ跡部遺跡(第6次調査)・
ⅩⅣ木の本遺跡(第5次調査)、1992年、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
遺物はこのうち最後の木の本遺跡で出土
したようである。
発掘報告書第142ページ付近の木の本
遺跡(第5次調査)の例言により遺跡の場所
は、大阪府八尾市南木の本3丁目40・70~
74と4丁目22~30。遺物が出土したの
は、西暦1991年前後のことのようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第147ペー
ジ付近の記載により、遺物は第3トレンチで
出土し、弥生時代末の小型鉢と見られている
ように読み取れる。
遺物の写真は、発掘報告書木の本遺跡(第
5次調査)編の写真図版第4の下から2段目
右に在り、第3トレンチ包含層の出土物と注
記されているとみられ、遺物番号木の本遺跡
の土器の第18番との旨、ナンバリングされ
ているようである。私にははっきりしないが、
壷か甕の下部の破片のようにも見える。
上図のように写真で左に寄って縦に、明快
に漢字で「山奉」と読めるような模様が在り、
渡来人が3世紀に道教信仰ないし、大阪府・
兵庫県を起点に日本各地で鉱山探索を繰り返
すに際しての、成功祈願、祭祀用に墨書きし
たように見える物品とも疑われると私見する。
本ブログの過去、複数回の主張を繰り返すも
のである。(2023/05/22)
成立とみられる小型鉢土器に、漢字で「山奉」
と書かれているように見える模様があり、
弥生時代後期から断続的に大阪府・兵庫県に
渡来人が上陸して、日本各地の鉱脈探索を、
手がけた事を示唆しているとの、本ブログの
従来よりの考えを、更に補強するとみられる
遺物が、出土していると取れるの旨の紹介で
ある。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
4761_1_八尾市埋蔵文化財発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
八尾市文化財調査研究会報告34;
Ⅰ久宝寺遺跡(第10次調査)・
Ⅱ久宝寺遺跡(第11次調査)・
Ⅲ久宝寺遺跡(第12次調査)・
Ⅳ恩智遺跡(第5次調査)・
Ⅴ恩智遺跡(第6次調査)・
Ⅵ中田遺跡(第7次調査)・
Ⅶ中田遺跡(第9次調査)・
Ⅷ水越遺跡(第4次調査)・
Ⅸ萱振遺跡(第11次調査)・
Ⅹ大竹西遺跡(第2次調査)・
ⅩⅠ東郷遺跡(第38次調査)・
ⅩⅡ竜華寺跡(第2次調査)・
ⅩⅢ跡部遺跡(第6次調査)・
ⅩⅣ木の本遺跡(第5次調査)、1992年、
財団法人八尾市文化財調査研究会。
遺物はこのうち最後の木の本遺跡で出土
したようである。
発掘報告書第142ページ付近の木の本
遺跡(第5次調査)の例言により遺跡の場所
は、大阪府八尾市南木の本3丁目40・70~
74と4丁目22~30。遺物が出土したの
は、西暦1991年前後のことのようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第147ペー
ジ付近の記載により、遺物は第3トレンチで
出土し、弥生時代末の小型鉢と見られている
ように読み取れる。
遺物の写真は、発掘報告書木の本遺跡(第
5次調査)編の写真図版第4の下から2段目
右に在り、第3トレンチ包含層の出土物と注
記されているとみられ、遺物番号木の本遺跡
の土器の第18番との旨、ナンバリングされ
ているようである。私にははっきりしないが、
壷か甕の下部の破片のようにも見える。
上図のように写真で左に寄って縦に、明快
に漢字で「山奉」と読めるような模様が在り、
渡来人が3世紀に道教信仰ないし、大阪府・
兵庫県を起点に日本各地で鉱山探索を繰り返
すに際しての、成功祈願、祭祀用に墨書きし
たように見える物品とも疑われると私見する。
本ブログの過去、複数回の主張を繰り返すも
のである。(2023/05/22)