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さいたま市南区太田窪円正寺遺跡で弥生中泰山墨書土器(長さん)

今回は、以前に埼玉県さいたま市南区大谷場
遺跡で、泰山、山竜等と書かれた土器が出土
したと紹介したが、その遺物が出土した地点
から2km程度東側とみられる、埼玉県さい
たま市南区太田窪の円正寺遺跡で、弥生土器
に、漢字で小さく泰山と読めるような土器が、
同じく、西暦1960年前後に出土している
との旨の紹介である。アップダウンのある
さいたま市南区の地形から考え、昔は小さな
丘陵が存在し、渡来人による道教信仰の地と
して使われたのかもしれないと、私は考える。
 遺物の写真は、大谷場遺跡の巻頭カラー写
真土器を紹介したのと同じ、当時「浦和市の
市史」の考古学史料編その1に在る。
すなわち、書誌は概略以下の通りである。
(埼玉県)浦和市(当時)市史第一考古資料
編、西暦1974年、浦和市(現:さいたま
市浦和区等)総務部市史編纂室。
 当該成書の第289ページ付近の記載から、
遺跡の場所は、埼玉県さいたま市南区太田窪
2997番地付近で、大谷場遺跡の2km程
度東とみられる。同289ページ付近の記載
から遺物が出土したのは、大谷場遺跡とほぼ
同じ西暦1960年3月ないし、その少し前
のようである。WACOM社ペンタブレット、
WACOM/BAMBOO/CTE-650
等を取り扱うディスカウントショップ「ハー
ドオフ/さいたま太田窪店」の太田窪である。
 遺物の成立年代は、成書第290ページ付
近の記載により、弥生時代の中期末との旨記
載され、西洋紀元前後と考えられているよう
に、私には読み取れる。墨書だとすれば古い。
 遺物の写真は、300ページ付近の、図第
326”円正寺遺跡出土土器写真”として有
り、289ページ付近に、形の整った壷形
弥生土器との旨の説明がある。

太田窪泰山.gif

 上図のように、中央やや右の中ほどの高さ
のところに、ごく小さく漢字で「泰山」のよ
うに見える模様がある。上記図では第2字目
が、「山」のような「王」のような、不明確
な模様になっているが、画像処理前の写真で
は、「山」のようである。
 縄文土器として紹介した前の例よりは新し
いが、実際には両方共に、弥生時代後半の、
西洋紀元前後のものであり、大陸で発生した
道教信仰が、日本の関東地方に達していて、
祭祀用土器が、当時かなりの量有ったという
事なのではないかと、これらの例に対して私
は疑っている。(2024/04/30)

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元禄期、福井城には榧の碁・将棋盤在り(長さん)

既に、最近発掘調査報告書が発行された西暦2016~
7年調査の有った福井市の福井城跡で、金将将棋駒が
一枚出土していた旨、本ブログで紹介した。奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧に、西暦2024年版の発掘報告書が登録・公開
されていて、pdfファイル名は、繰り返すと以下の
通りであった。
139201_4_福井城跡.pdf
 実はこの発掘調査報告書には、このとき福井城から
出土した金将将棋駒の材質が、

イヌガヤであった

との旨、写真図版第60等で紹介されている。なお、
出土した木製品で、イヌガヤ材だったのは、どうやら、
この将棋駒だけだったようである。城内で自作する訳
ではなく、江戸の元禄時代に専門業者から遊戯具を、
通常想定されるように、普通に購入していたからであ
ろう。なお出土した金将将棋駒は 元禄期成立だが、
簡単に廃棄される位だから、黄楊では無いようである。
 そこでイヌカヤという樹木名からは、碁盤と将棋盤
の高級品の材である「榧」が、ただちに連想される。
 イヌガヤ将棋駒を例えば桂の材の将棋盤で指しては
いけないという道理は、一応無いのだろうが。福井城
から元禄時代に、囲碁と将棋の盤駒の製造を、業者に
依頼した際、依頼を受けた業者は、江戸時代の国内の
何処かで高級品の碁盤や、将棋盤を製造していたので
あろう。つまり「盤はカヤだから、将棋駒はイヌガヤ
で良いだろう」と考えるような、職人であると見るの
が自然なように、私には一応思える。このへんは私は
余り詳しく無いので、将棋駒の材に占めるイヌガヤの
割合が、どの程度なのか、余り良く判らないのだが。
 福井城からの碁石と将棋駒の出土は有っても、碁盤
と将棋盤の出土は、今のところ無いようだが。
 将棋駒の材質が、たまたまイヌガヤだったことから、
榧材碁盤・榧材将棋盤が連想され、それが城域の中で
使える、元禄時代の福井藩の裕福さを、充分物語って
いるように、私には良く見えるのである。(2024/04/29)

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福井県福井城跡で元禄期金将将棋駒(長さん)

結城春朝/秀康の城として有名な、福井県福井市
福井城跡からも、遂に西暦2017年頃の発掘
調査で、将棋駒が出土したようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
139201_4_福井城跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
福井県埋蔵文化財調査報告第188集福井城跡、
西暦2024年、福井県教育庁埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第4pdf末尾の抄録によると、
遺跡の場所は、福井県福井市手寄1丁目。同じく
抄録により遺物が出土したのは、繰り返すと、
西暦2017年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、第4pdf第90ページ
付近の遺物観察表のうちの第23表”墨書・焼印・
木札観察表”によると、17世紀後半の元禄時代
と考えられているように、私には読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書同じく第4pdfの
写真図版第35:木製品;人形・玩具・不明品等
の、第3段目左から2番目に在り、遺物番号で、
スケッチ図の第58図の第11番との旨ナンバリ
ングされている。裏が削がれて無地だったかどう
か謎なようだが、オモテ面はきれいに残り、金将
の将棋駒のようである。

福井城金将.gif

 江戸時代の城から将棋駒が出土するのは自然な
為、遂に越前松平氏の城からも出土したかと、私
は正直感心した。出土地点は、城主を含む重臣の、
普段の屋敷跡という事らしい。墨書遺物は膨大で、
本文中のこの遺物についての言及が、私には発見
出来てい無い。遊具では他には碁石が、このとき
の発掘調査でかなりの数、出土したとの事である。
(2024/04/28)

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福岡県前原市上鑵子遺跡で3C泰山水鳥木製品(長さん)

今回は、九州北部福岡県の、「伊都国」が弥生期
に在ったとされる、前原市上鑵子遺跡で、西暦
1994年の発掘調査で、大量の木製品が出土し、
祭祀用のように見られているらしい、動物形木製
品に漢字で、「奉山」と書かれているように私に
は見える模様の有る物品が、出土したようだとの
旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開され、発掘を一般
向けに啓蒙するパンフレット状冊子に載っている。
冊子は奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
139139_1_上鑵子遺跡.pdf
 冊子の名称は、以下の通りである。
上鑵子遺跡(出土木製遺物の概要)、西暦1996年、
福岡県前原市教育委員会。
 発掘報告書冒頭第2ページ「上鑵子遺跡の位置」
により、遺跡の場所は前原市市街の南東方の丘陵
との旨記載され、冊子冒頭の「はじめに」により、
遺物は西暦1994年前後に出土したとの旨読取
れる。webによると前原市大字有田字上鑵子に、
遺跡は存在するらしい。
 遺物の成立年代は、他に人物線刻画が出土し、
魏志倭人伝の記載と符合する事から3世紀頃の、
弥生時代後期と推定されているように、私には読
取れる。
 遺物の写真は、冊子の第11ページの上段の、
右に在り、水鳥形木製品との旨、付記されている。
高さが約9.5センチで、祭祀用かとの旨、説明
がある。

上鑑子泰山.gif

 上図のように、鳥の形をした木片の首に、ヨゴ
レに埋もれているが、縦に漢字で「奉山」と読め
るように疑われる、黒い模様がある。墨書木製品
としては、この解釈が正しければ、本ブログで過
去紹介した中でも最古級であろう。
 山中に点在する沼や沢に居た、水鳥の上半分の
姿のようでもあり、時代が下れば玩具の類の遺物
であるが、冊子の通り、山を奉じる祭祀具の一つ
なのかもしれない。夭折した死者を弔う法事の類
か、或いは盆祭りの先祖のようでもあると私見さ
れる。(2024/04/27)
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大阪府八尾市久宝寺南遺跡で平安期狛犬墨書土器(長さん)

大分前のことであるが、大阪府八尾市久宝寺
所在の竜華操車場跡にて、狛犬または狛大と
書かれた、鮮明な墨書土器が西暦2002年
頃に発掘されたとの旨、本ブログにて紹介し
た事がある。だが、それよりかなり前の、
西暦1985年前後に、それにほど近い地点
である同大阪府八尾市西久宝寺内で、別の
「狛犬」または「狛大」杯型墨書土器が発掘
済みであったという情報を、最近得たので、
以下に紹介する。「狛犬」近似墨書杯土器は、
久宝寺遺跡では、2枚出土していたようだ。
 ただし、問題の西暦1985年頃出土した
杯の遺物に関しては、当時の発掘報告書に、
写真は有るにはあるのだが、内面底の墨書の
写真が、少なくとも以下紹介する発掘報告書
に、今のところ発見され無いようである。
 その発掘報告書自体は、いつものように、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139143_1_久宝寺南.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
九宝寺南(その3)、西暦1986年、
大阪府教育委員会・財団法人大阪文化財センター。
 発掘報告書冒頭の第1ページの調査に至る
経過により、遺跡の場所は大阪府八尾市西
久宝寺。遺物が出土したのは、冒頭例言によ
り、西暦1985年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第59ペー
ジ付近の、「まとめ」によると、遺物は河川
跡1より出土し、9世紀中ばの平安時代初の
ものとみられているように、私には読取れる。
 なお、pdfファイル名:
24131_10_久宝寺遺跡・竜華地区発掘調査報告書VII.pdf
発掘報告書名:
(財)大阪府文化財センター調査報告書第156集
久宝寺遺跡・竜華地区発掘調査報告書Ⅶ、
2007年3月、財団法人大阪府文化財センター
に記載され、西暦2002年頃に発掘された、
冒頭述べた別の杯「狛犬」~「狛大」墨書杯
土器の成立年代は、平安初期の8世紀末から
9世紀前にかけてとされたから、2枚の間に
さほど大きな成立年代の差は無く、かつ同類
土器のようである。
 遺物の写真は、側面と底面が、発掘報告書
写真図版第35の左下に載っているが、墨書
が在るとみられる、内面底の写真が無い。た
だし、スケッチ図が発掘報告書の第22ペー
ジ、スケッチ図第17の右下に在り、ツクリ
が白では無くて、「百」、犬は少し小さめに、
「大」のように、このとき読まれているよう
である。例言末尾により、墨書釈文の専門家
の藤沢一夫氏に、報告書著者は「狛族の者の
苗字」と、教示されたと取れる旨有る。西暦
2002年に出土した同類土器が、狛大麻呂
と解釈されているとされるので、同類との意
識が、2枚目出土の当時から存在したようで
ある。
 2002年出土遺物の紹介のときにも述べ
たが、発掘報告書の通り、渡来人の使用した
器に、使用者名を書いた土器が、少なからぬ
枚数久宝寺南遺跡周辺に存在したとしか考え
られないように私にも見える。(2024/04/26)

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埼玉県坂戸市中耕遺跡で4C泰山墨書土器(長さん)

今回は以前に述べた埼玉県坂戸市中耕遺跡で、
古墳時代の前期成立とされる、台形土器に、
同じく道教山岳信仰を連想させる、漢字で、
「泰山」ないし「奉山」と書いてあるように
見える模様が、西暦1990年前後の同じ
発掘調査時に、出土しているとの旨の紹介で
ある。
 遺物の写真は、以前紹介した発掘報告書の
データベース上、11番では無く、次の12
番、しかも土器の表面加工の説明図版に偶然
撮影されていたものである。すなわち、
pdfファイル名は、以下の通りである。
139094_12_中耕遺跡.pdf
 発掘報告書の名称、場所、出土年、成立年
それぞれ同じで、遺物自体が同系統である。
発掘報告書名:
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第125集
坂戸市中耕遺跡、西暦1993年、
財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
 例言により遺跡の場所は、繰り返すと
埼玉県坂戸市大字善能寺字南耕569-2。
遺物が出土したのは繰り返すと西暦1990
年前後の事。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第2pdf
の第315ページ付近の表により古墳時代
前期の4世紀前後。
 遺物の写真は、発掘報告書第12pdfの
写真図版第241の最下段左に在り、「ヘラ
磨き、高杯脚部」と付記され、遺物番号は、
遺溝第52番の第22番との旨、
ナンバリングされている。台型の土器で、
「奉玉土器」とほぼ、形まで同系統である。

中耕泰山.gif

 「奉玉墨書土器」もヘラ磨きのようであり、
縞模様が無い。他方側面に穴らしいものが、
どちらにも有るが、その穴の形まで、ほぼ同
じものである。
 上図のように、足の部分の右端付近に、
ぼやけて「泰山」か「奉山」と、縦に漢字で
書いてあるようにも見える、黒い模様が在る。
 祭祀用の土器が、運ばれて来て廃棄された
ものであり、今度は、山そのものを崇拝した、
神道系の祈祷を、古墳期にこれで行ったのか
もしれないと、私は考えている。
 何を意図して撮影された写真かに係わらず、
表面の模様に、注意すべきという例であろう。
(2024/04/25)

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(コラム)栃木県教育委員会が実質主催の歴史会では講師泥酔(長さん)

最近ブックオフで、栃木県史が英文で対訳されて
る書籍を定価の一桁下(1/10ほど)で買った。
本ブログを万が一、英訳する必要があるとき、廉
価なこの、ディスカウント本が有れば役立つ事も、
稀には有るかもしれないと、そのケースのレアー
性の割の安さから私は試し購入してみた。
 その結果、歴史研究の会合で栃木県教育委員会
が実質主催していると見られる会合や講演会で、

講師や司会が、酒を飲んで議題を進行させるとい
う習慣が、栃木県でしばしば以前に有ったらしい

との情報を得た。購入した成書(2012年版)
の、「あとがき」の中段に、「(元栃木県

教育委員会教育長の古口紀夫らは、その書籍の、)
最終の編集・校正のために合宿を行いました。
お酒の勢いで脱線することもありましたが・・」

との旨記載されている。下記書籍は本の校正時、
著作者は、つまり酒を飲んでいたようだ。
「英語で発信栃木の歴史」、西暦2012年、
大關篤英(他4名)、下野新聞社。
 その為とは厳密には証明困難だが、西暦
1382年前後の第3次小山義政の乱の記載と、
第269ページ付近の小山氏系図との間に、
(重興)小山泰朝の名が無く、本文第90ページ
付近の小山義政の乱の記載に名の載っていない、

小山若犬丸の名があるという、チグハグさがある。

しかも、小山若犬丸が、小田孝朝関連の乱で介在
した、僧頼印の伝記である頼印大僧正行状絵詞に
も「小山若犬丸は小山義政の弟だ」と載っている
という話は、少なくとも本ブログの管理人は、聞
いた事もないにも関わらず、

小山若犬丸は、小山義政の息子では無くて、弟の
ように記載されている。

 酒気帯びで本来の注意力が散漫なため、若犬丸
の乱は英文スペースの制約から、割愛化されたに
も関わらず、系図作成のときのミスで、小山義政
で、朝政系小山氏の記載は、止めなければならな
いのに、著作者が気が付かずに、校正会合で是正
が出来ずに

余計な名前の人物名を、しかも間違って線で結ん
で載せてしまった

と推定するのは容易である。
 栃木県教育委員会の教育長が参画している事か
ら考えて、少なくとも2000年から2010年
代頃、栃木県教育委員会が主幹する歴史関連会合
では、講師や司会等が、予め酒気帯びでイベント
を開催しているのではないかと、私には疑われる。
 というのも、私が小山市史に関して調査の駆け
出しだったこの頃、栃木県教育委員会が主幹する、
南北朝時代の下野史の歴史研究成果発表会に参加
した事が有るのだが。この方面で著名な講師のM
先生に、「小山義政の一連の乱で、小山氏には咎
めが有ったにも拘わらず、喧嘩両成敗のはずが、
宇都宮氏が温存されたのはなぜか」と私が質問し
た所、数百人の受講者の居る前で、

「そんな質問には答えられない」と、いきなり
≪不可解な張り倒し応答≫を私が喰らった

事があるからである。なお、M先生と私の間に、
分野が、政治史と遊戯史の大差が有るので、特に
蟠りの経緯は無い。なお、wikiにあるように
「その前に宇都宮氏は、西暦1368年の武蔵平
一揆の乱への反乱軍への加担で、鎌倉公方の
足利氏満、管領上杉憲顕らに、宇都宮氏綱自体が
叩かれて勢力が削がれていたので、それに乗じて
伸びた小山義政を、互い違いに叩いたという
だけの事である」と答えるのが、普通は穏当と私
には疑われる。
 今にして思えば、そのときの他の質問者の実態
は私には謎だが。ようするに、

M先生の体内には、かなりの量の酒が入っていた

と考えると、ピタリとツジツマの合う話である。
 ちなみに、幸運だがこのブログを始めて7年半
位になるが、飲酒は私の方は、ほぼしてい無い。
 その為か、何回か本ブログでは、西暦1380
年代の小山義政の乱に言及した記憶が有るものの、

本ブログの、小山義政の乱に関連する紹介記事に
限定すると幸運な事に苦情が有るとの噂を、私は
余り聞かない。

 なお、ブログ記事の校正時、いつも大量なエラー
の存在に、酒の入らない普通の状態での作業の為、

そのつど気が付いては、自身の瞬発力の無さを
嘆きつつ、訂正を繰り返す毎日

である。
 正直、このブログを開設してから半年間までの
事は、はっきり覚えてい無いのだが。その後の7
年間は杯程度の甘酒を一杯飲んだか飲まないかで
あり、練りショウガに入っているとされる食用酒
を入れてもブログ開設後の飲酒量は約7年半で私
の場合は、

1リットル/7.5年に達しては、い無いだろう

と推定できる。
 冒頭紹介した成書は、察するに系図のミス等で、
流通価格が1/10になってしまったのであろう。
 酒を飲んだ事に起因する、校正の散漫化で私の
ブログが同じ憂き目を見ないよう、これからも、
ブログ記事を校正する前に、飲酒は厳禁としよう
と考えている。
 まあ思い起こせば他人の「ながら飲酒仕事」の、
そのおかげで私の方は、安く英作文手引きが入手
出来、今回ラッキーな目に会ったという事なので
はあるという事なのだが。(2024/04/24 その2)

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埼玉県坂戸市中耕遺跡で4C奔王墨書土器(長さん)

今回は埼玉県西部の坂戸市中耕遺跡で、古墳
時代の前期成立とされる、台形土器に漢字で、
「奉王」と書いてあるように見える模様が、
西暦1990年前後の発掘調査時に、出土し
ているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139094_11_中耕遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第125集
坂戸市中耕遺跡、西暦1993年、
財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
埼玉県坂戸市大字善能寺字南耕569-2。
遺物が出土したのは繰り返すと西暦1990
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第2pdf
の第315ページ付近の表によると古墳時代
前期の4世紀前後と読取れるようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第11pdfの
写真図版第228の下から2段目左に在り、
遺物番号、遺溝第40番の第7番との旨、
ナンバリングされている。台型の土器のよう
に、私には見える。

中耕奔王.gif

 上図のように、足の部分の少し右寄上部に、
ぼやけて「奉」のようにも「天」のようにも
見える、黒い模様が在るようであり、その下
に横に伸びる、黒いがぼやけた太い帯状部分
の下で、第1字目のほぼ真っ直ぐ下に、「王」
か「玉」のように見える、薄いが暗い模様が
在る。点が有るようであり、「玉」のようで
ある。
 祭祀用の土器が、運ばれて来て廃棄された
ものであり、当時は付近から取れた硬玉を、
台の上に乗せ、神道系の祈祷を古墳期に行っ
たのかもしれないと、私は考えている。埋葬
者を送る為なのかもしれないが、死者が「王」
とは、特に考えられてはい無い、むしろ比較
的珍しい例なのかもしれない。(2024/04/24)

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西暦2022年平泉柳之御所銀将出土駒は取捨将棋主張(長さん)

既に述べたように、岩手県平泉町柳之御所遺跡の
西暦2022年前後の発掘で、成「ケ」崩し金の
銀将駒が一枚出土している。
 そのとき述べたが、成文字「ケ」の左に、駒師
の指導者と疑われる者による「ケを書け」書込み
が有る。また、以前に述べたようにこの駒の成駒
の「金」崩しの「ケ」書体は、西暦1990年前
後の第28次調査で出土した、成「ケ」歩兵駒と
全く同一である。
 また、本ブログでは述べてい無かったが、駒の
大きさは、長さが銀将が2.4センチ、歩兵が
2.9センチと、今回の銀将が0.5センチ「寸
詰まり」のほかは、

お互いに、大きさはぴたりと同じの規格品

に見える。
 他方、解明:将棋伝来の「謎」で、松岡信行氏
は、西暦2014年前後に、「平安末に小将棋は、
木村義徳氏示唆のように持駒将棋であった」との
旨表明している。が、今回の出土駒は、前記2つ
の将棋駒が、銀将は保管の都合による、上下の切
り取りだったとして、状況から柳之御所で指す小
将棋は、全部駒の外見かつ成金の「ケ」書体が、
同一であり、よって取捨将棋用に適しており、

松岡氏の論にとっては、否定的史料と解釈できる

と言えるのではないかという事である。
 さて、本ブログの管理人はうっかりしていたの
だが、この銀将駒の成の書体の「ケ」が1990
年出土の歩兵の成「ケ」書体と、ほぼ同一である
ばかりか、付記された「ケ」と同じである点が、
とりわけ重要である。
 なぜなら、1セットの将棋駒に関して、

「金将と玉将の裏以外であるから、同じ書体の
『ケ』を書け」と、指示していると、このケース
は取れる

点からみて、成駒名を、どう書くのかという点に
関して、柳之御所お抱えと解釈出来る、駒師の
親方と疑われる人物は、

習慣で、全部同じ書体を日常使う癖が有るらしい
と推定出来る

からである。
 つまり、この時点の小将棋は、少なくとも柳之
御所で指す場合、対局中棋士は、裏返した駒から、
オモテ駒名を推定する手掛りを、全く考えなくて
も良い、「取捨て小将棋」を指していたと考える
のが自然だからである。単に出土した歩兵と銀将
の成の「ケ」書体が近似しているばかりで無く、

将棋の1セット全部で、金成だから「ケ」と書く
と指示しているように見える「付記」こそが大事

だったと、少なくとも本ブログの管理人は、今の
時点で考えているという意味である。
 いままで、平安時代の小将棋の将棋駒が出土し
た際、思えば

これほど成字体が整った将棋駒の出土が無かった

ように、本ブログの管理人は認識している。
 字体の揃った、比較的上流階級で指す将棋は、
平安末には取捨ての小将棋だった可能性が高い。
簡単に言えば、今の日本将棋よりも国際標準に
未だ、近かったのではないか。以上の説にとり、
むしろこの史料は有利で、西暦2014年頃当時
の松岡信行説にとっては、やや不利な史料が、
西暦2022年前後に出土したと解釈すべきと私
は考える。つまり、この将棋駒史料は、いっけん
してよりも、相当に重要な情報を含んでいたと私
は今では疑っているという事である。(2024/04/23)

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さいたま市南区大谷場遺跡で縄文晩期泰山墨書(長さん)

今回は、西暦1960年頃の発掘調査で埼玉県
さいたま市南区大谷場の同遺跡で、鉢型の
縄文晩期土器に「奉山」または「泰山」、更に
「山竜」「角行」のように見える、黒い煤模様
のある土器が出土しているという紹介である。
 なお、この土器は埼玉県さいたま市の市史に
載っている。
 写真の載った書籍の名称は、次の通りである。
(埼玉県)浦和市(当時)市史第一考古資料編、
西暦1974年、浦和市(現:さいたま市浦和
区等)総務部市史編纂室。
 当該成書の第260ページ付近の記載から、
遺跡の場所は、埼玉県さいたま市南区大谷場
で、南浦和駅の西口とされるが、遺跡の名称か
らみて、南浦和駅の北1キロ程度の浦和競馬場
付近なのではないかと、本ブログ管理人には
疑われる。遺物が出土したのは、大谷場遺跡の
説明の冒頭から、西暦1960年前後と、たい
へん前の事のように私は読む。
 遺物の成立年代は、成書第263ページ付近
の記載により、(埼玉県川口市)安行Ⅲα式
土器とされ、埼玉県の縄文晩期で、紀元前3~
4世紀とされているのではないかと、私には思
われる。
 遺物の写真は、成書該分冊の冒頭、口絵5に
あり「鉢型土器」と付記されている。

大谷場泰山.gif

 上図のように、黄色の四角の部分に左から右
へ横に、「泰山」ないし「奉山」のようにも見え
る黒い、煤模様があり、その他に青い四角の中
に縦に「山竜」、緑の四角に第1字目が薄いが、
驚くことに「角行」のように見える模様も有る。
 大陸から渡来した帰化人が、相当に早い時期
に、道教信仰を伝来させているようにも私見さ
れるが、「角行」は間が離れている上に、字も
薄いので、偶然模様かもしれない。
 さいたま市南区付近は山が無いものの、現地
は、坂によるアップダウンが多く、太古には小
山が有るように、認識されたのかもしれない。
 また坂を下りた所に、昔は小川も流れていて、
龍も神として伝来し信仰されたのかもしれない。
 なお蛇足だが、競馬場の他、現地は日本将棋
を表計算ソフトで指すときに、本ブログで入力
補助具として紹介している、ペンタブレット、
WACOM/BAMBOO/CTE-650等
を取り扱うディスカウントショップが、近くの
さいたま市南区太田窪店として、実際には同区
大谷口番地内にて店を出している場所である。
(2024/04/22)
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