歌川国芳の龍王は水無瀬兼成中将棋成飛車龍王(長さん)
以前、web上の将棋駒店のページの解説を本
ブログで紹介し、歌川国芳の盤上太平棋の龍王駒
の王は、オリジナルであり、出現経緯は結局謎と
の旨を述べた。
その後更に調査の結果、どうやら水無瀬兼成が
「王」の草書や変体カナ「わ」を書くときに、
縦棒を右端にシフトして書く、書き癖がある事に
起源が有るようだ
と私には思えるようになって来た。その為この書
体は、だいたい元禄時代以降には、出現するべく
して、出現する可能性が有り、
該錦絵が江戸後期まで下るという証拠として弱い
と私は思うようになった。
変体仮名の書体の、王を崩した「わ」でも、崩
し方で同じような形になる事が有ったと私は記憶
するが、水無瀬兼成は、将棋駒で、中将棋の飛車
の成りの龍王を書くときに、将棋纂図部類抄の、
以下に示す奔王の草書の王を、第2字目に書く事
が、どうやら多いようだ。なお将棋纂図部類抄で
は、飛車成りの龍王そのものは、王の縦棒を、
中央付近まで、普通にシフトさせている。縦棒を
以下のように右にシフトさせるのは、将棋の駒を
書く時の専用のようで、その癖が、書籍では龍王
には現れず、奔王だけそうなっている。草書で龍
王を書くのが中将棋だけな為、将棋纂図部類抄で
は、混乱が有るようだ。実際の将棋駒の書体でも、
水無瀬駒では、日本将棋の龍王の王は、草書にし
無いという点でレアーだと、増山雅人は「将棋駒
の世界」で紹介している。なお、良く知られてい
る、水無瀬駒以外の書体では、龍王の王の崩し字
は、もっと王に近くて、下のようには見えない。
戻すとたとえば、その増山雅人「将棋駒の世界」
の第19ページ付近に、熊本市本妙寺宝物館所蔵
水無瀬兼成中将棋駒の写真が載っているが、飛車
と鳳凰の成りの、龍王と奔王の「王」の字が、上
図の書体である。
この書体は、王上部の、「T」を崩した部分を
省略すると、王の中央横棒の筆さばきで生まれる
「〇」が巨大化した結果「巳」に見え、その為、
元々の書き順を無視して、「コ」と「L」の組み
合わせで、「巳」と似たような形に、結果として
書く事が出来る。そこで本当に
「コ」+「L」と書いてしまい、草書または変体
仮名「わ」の癖字の「王」の中央と下部だけ残し、
この略「王」を使って、歌川国芳は王と表現した
と見ることが可能である。
つまり、水無瀬兼成の草書の「王」の書き癖が
起源であり、王の「T」部以外の部分を「巳」の
ように書いて「龍巳」で「龍王」と、歌川国芳は、
読ませようとしているという事である。
だとすれば、水無瀬兼成駒よりも、少し遅れて、
江戸時代の元禄期頃には、それが基の書体が出来
てもおかしくは無い。ので、問題にしている
「龍王書体」の成立が、江戸後期だと断定するの
は無理だという論法になる。
残念ながら錦絵である事ないし、歌川国芳の銘
が入っているという性質が無いと、この絵につい
ては、龍王の書体の性質から、絵の成立年代を割
り出すには、無理があると考えた方が、少なくと
も安全ではないかと、その後私は、以上の経緯で
思い直すようになったのである。(2024/05/21)
ブログで紹介し、歌川国芳の盤上太平棋の龍王駒
の王は、オリジナルであり、出現経緯は結局謎と
の旨を述べた。
その後更に調査の結果、どうやら水無瀬兼成が
「王」の草書や変体カナ「わ」を書くときに、
縦棒を右端にシフトして書く、書き癖がある事に
起源が有るようだ
と私には思えるようになって来た。その為この書
体は、だいたい元禄時代以降には、出現するべく
して、出現する可能性が有り、
該錦絵が江戸後期まで下るという証拠として弱い
と私は思うようになった。
変体仮名の書体の、王を崩した「わ」でも、崩
し方で同じような形になる事が有ったと私は記憶
するが、水無瀬兼成は、将棋駒で、中将棋の飛車
の成りの龍王を書くときに、将棋纂図部類抄の、
以下に示す奔王の草書の王を、第2字目に書く事
が、どうやら多いようだ。なお将棋纂図部類抄で
は、飛車成りの龍王そのものは、王の縦棒を、
中央付近まで、普通にシフトさせている。縦棒を
以下のように右にシフトさせるのは、将棋の駒を
書く時の専用のようで、その癖が、書籍では龍王
には現れず、奔王だけそうなっている。草書で龍
王を書くのが中将棋だけな為、将棋纂図部類抄で
は、混乱が有るようだ。実際の将棋駒の書体でも、
水無瀬駒では、日本将棋の龍王の王は、草書にし
無いという点でレアーだと、増山雅人は「将棋駒
の世界」で紹介している。なお、良く知られてい
る、水無瀬駒以外の書体では、龍王の王の崩し字
は、もっと王に近くて、下のようには見えない。
戻すとたとえば、その増山雅人「将棋駒の世界」
の第19ページ付近に、熊本市本妙寺宝物館所蔵
水無瀬兼成中将棋駒の写真が載っているが、飛車
と鳳凰の成りの、龍王と奔王の「王」の字が、上
図の書体である。
この書体は、王上部の、「T」を崩した部分を
省略すると、王の中央横棒の筆さばきで生まれる
「〇」が巨大化した結果「巳」に見え、その為、
元々の書き順を無視して、「コ」と「L」の組み
合わせで、「巳」と似たような形に、結果として
書く事が出来る。そこで本当に
「コ」+「L」と書いてしまい、草書または変体
仮名「わ」の癖字の「王」の中央と下部だけ残し、
この略「王」を使って、歌川国芳は王と表現した
と見ることが可能である。
つまり、水無瀬兼成の草書の「王」の書き癖が
起源であり、王の「T」部以外の部分を「巳」の
ように書いて「龍巳」で「龍王」と、歌川国芳は、
読ませようとしているという事である。
だとすれば、水無瀬兼成駒よりも、少し遅れて、
江戸時代の元禄期頃には、それが基の書体が出来
てもおかしくは無い。ので、問題にしている
「龍王書体」の成立が、江戸後期だと断定するの
は無理だという論法になる。
残念ながら錦絵である事ないし、歌川国芳の銘
が入っているという性質が無いと、この絵につい
ては、龍王の書体の性質から、絵の成立年代を割
り出すには、無理があると考えた方が、少なくと
も安全ではないかと、その後私は、以上の経緯で
思い直すようになったのである。(2024/05/21)