福岡県福岡市西新町遺跡で弥生末山泰墨書土器1(長さん)
今回は、弥生時代末の集落遺跡とみられる、
福岡県福岡市西新町遺跡で、かなり以前に、
広口鉢型土器、弥生時代の骨壷土器下半分に、
漢字で奉山王ないし、山奉と書かれている、
煤模様がある遺物が出土しているとの旨の
紹介である。なお、この遺跡からは弥生時代
の硯が疑われている、砥石状の石製品も、私
には確認できないが、恐らく別の発掘時に、
出土しているらしい。
大量の弥生期遺物が出土する集落中心であり、
硯は、その頃実際に、字を書くのに使われた
のであろう。
遺物の写真がweb上に公開されて、
2つの物品について、別々の発掘報告書に
載っている。それぞれの発掘報告書は、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
広口鉢型土器、甕状骨壷土器の順に、
それぞれ並べるが、pdfファイルは、
以下の通りである。
17022_1_西新町遺跡.pdf
19965_1_西新町遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、それぞれ次の通り。
西新町遺跡/福岡市埋蔵文化財調査報告書第79集
西暦1982年、福岡市教育委員会。
西新町遺跡7/福岡市埋蔵文化財調査報告書第683集
西暦2001年、福岡市教育委員会。
それぞれの発掘報告書冒頭例言により、
遺跡の場所は福岡県福岡市早良区西新6-
1-10。
広口鉢状土器が出土したのは西暦1976
年~1978年前後とかなり前のようである。
甕状骨壷土器が出土したのは西暦1996
年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、第1番目の発掘報告書
の第7ページや、第2番目の冒頭から私には、
この遺跡自体が弥生末期で紀元3世紀前後
の、遺物と見られているように読取れる。
遺物のうちの第1の、広口鉢型土器の写真
は、第1番目の発掘報告書の写真図版第35
(PL.35)の第3段目右に在る。遺物
番号は、私は確認してい無い。

中央のカケラとして出土した部分に、ごちゃ
ごちゃと、山、その右下に奉、山の下、やや
左に王と漢字で書いたような、煤模様が在り、
全体として奉、山王の意図のようにも見える。
日本の何処かで精力的に鉱物捜索して成功
した、西洋紀元前後生存した先祖を、福岡市
で子孫が3世紀頃祀った、祭祀用土器に、私
には見える。
次に遺物のうちの第2番目の、骨壷の下側
用と見られる、鉢型土器の写真は、第2番目
の発掘報告書の、写真図版第13の最下段右
に在り、第4番の下との旨ナンバリングされ
ている。

滲んでいるが明快に、右上に漢字で、山奉
と読めるような、濃い模様がある。埋葬され
た故人が、山を奉じる神官だったのかもしれ
ないと、私は疑う。
さて成書、発掘された日本列島/2019
年、文化庁の第23ページ第2段目によると、
佐賀県神埼市吉野ケ里遺跡で、「弥生の硯が
出土した」との旨、記載されている。そして
その吉野ケ里遺跡の発掘報告書群のうち、
「弥生時代総集編」によると、「形が福岡県
福岡市西新町遺跡出土の、砥石状弥生の硯と、
佐賀県神埼市吉野ケ里の物品はほぼ同一」と
の旨記載が有る。web上でどの砥石を指し
ているのか、繰り返すと本ブログ管理人には、
まだ判ら無いが、福岡市のこの遺跡でも砥石
状の、「弥生の硯」物品が出土したという、
事実自体は有るようである。
前記2物品を見る限り3世紀頃の硯は在り、
その硯は、今回紹介したような模様を書くの
に実際に使われ、弥生末期に「山奉」程度の
意味は判って書いているという意味での識字
が、今回紹介した西新町遺跡の住人には出来
たのは、どうやら確かだったのであろう。
(2024/06/30)
福岡県福岡市西新町遺跡で、かなり以前に、
広口鉢型土器、弥生時代の骨壷土器下半分に、
漢字で奉山王ないし、山奉と書かれている、
煤模様がある遺物が出土しているとの旨の
紹介である。なお、この遺跡からは弥生時代
の硯が疑われている、砥石状の石製品も、私
には確認できないが、恐らく別の発掘時に、
出土しているらしい。
大量の弥生期遺物が出土する集落中心であり、
硯は、その頃実際に、字を書くのに使われた
のであろう。
遺物の写真がweb上に公開されて、
2つの物品について、別々の発掘報告書に
載っている。それぞれの発掘報告書は、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
広口鉢型土器、甕状骨壷土器の順に、
それぞれ並べるが、pdfファイルは、
以下の通りである。
17022_1_西新町遺跡.pdf
19965_1_西新町遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、それぞれ次の通り。
西新町遺跡/福岡市埋蔵文化財調査報告書第79集
西暦1982年、福岡市教育委員会。
西新町遺跡7/福岡市埋蔵文化財調査報告書第683集
西暦2001年、福岡市教育委員会。
それぞれの発掘報告書冒頭例言により、
遺跡の場所は福岡県福岡市早良区西新6-
1-10。
広口鉢状土器が出土したのは西暦1976
年~1978年前後とかなり前のようである。
甕状骨壷土器が出土したのは西暦1996
年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、第1番目の発掘報告書
の第7ページや、第2番目の冒頭から私には、
この遺跡自体が弥生末期で紀元3世紀前後
の、遺物と見られているように読取れる。
遺物のうちの第1の、広口鉢型土器の写真
は、第1番目の発掘報告書の写真図版第35
(PL.35)の第3段目右に在る。遺物
番号は、私は確認してい無い。

中央のカケラとして出土した部分に、ごちゃ
ごちゃと、山、その右下に奉、山の下、やや
左に王と漢字で書いたような、煤模様が在り、
全体として奉、山王の意図のようにも見える。
日本の何処かで精力的に鉱物捜索して成功
した、西洋紀元前後生存した先祖を、福岡市
で子孫が3世紀頃祀った、祭祀用土器に、私
には見える。
次に遺物のうちの第2番目の、骨壷の下側
用と見られる、鉢型土器の写真は、第2番目
の発掘報告書の、写真図版第13の最下段右
に在り、第4番の下との旨ナンバリングされ
ている。

滲んでいるが明快に、右上に漢字で、山奉
と読めるような、濃い模様がある。埋葬され
た故人が、山を奉じる神官だったのかもしれ
ないと、私は疑う。
さて成書、発掘された日本列島/2019
年、文化庁の第23ページ第2段目によると、
佐賀県神埼市吉野ケ里遺跡で、「弥生の硯が
出土した」との旨、記載されている。そして
その吉野ケ里遺跡の発掘報告書群のうち、
「弥生時代総集編」によると、「形が福岡県
福岡市西新町遺跡出土の、砥石状弥生の硯と、
佐賀県神埼市吉野ケ里の物品はほぼ同一」と
の旨記載が有る。web上でどの砥石を指し
ているのか、繰り返すと本ブログ管理人には、
まだ判ら無いが、福岡市のこの遺跡でも砥石
状の、「弥生の硯」物品が出土したという、
事実自体は有るようである。
前記2物品を見る限り3世紀頃の硯は在り、
その硯は、今回紹介したような模様を書くの
に実際に使われ、弥生末期に「山奉」程度の
意味は判って書いているという意味での識字
が、今回紹介した西新町遺跡の住人には出来
たのは、どうやら確かだったのであろう。
(2024/06/30)
福岡県糸島市井原遺跡で3C泰山墨書土器(長さん)
今回は、福岡県糸島市の低地の表題遺跡で、
紀元3世紀前後の成立とみられる広口瓶型
土器に、漢字で「奉山」と書いてあるよう
にも見える、煤模様があるとの旨の紹介と、
弥生時代の硯が出土したとして、有名な
遺跡である
との旨の紹介をする。
遺物の写真の方はweb上に公開されて
いて、発掘報告書に載っている。発掘報告
書が奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開され
ている。pdfファイル名は次の通り。
58842_4_井原遺跡群.pdf
なお、弥生時代の硯については、次の
成書に紹介が有る。
発掘された日本列島/2019、文化庁。
その第68ページ付近の中段、「東西弥生
文化の大発見」。
web上には、奈良文化財研究所が、
全国遺跡報告総覧の別の発掘報告書の中で、
「硯かどうか疑問視された遺物」のみ公開
していてこの遺跡の、「弥生時代の硯」と
される物品
全般について以下私見であるが、成立年代
に関して、「弥生時代」では無くて、より
時代が下る古墳時代に、古墳に納める埴輪
に墨書きする道具に使う、硯の疑いがある。
戻って、「奉山」墨書遺物が紹介されて
いる発掘報告書の名称は以下の通りである。
井原遺跡群/糸島郡前原町(当時。現糸島
市)文化財調査報告書第25集、1987、
福岡県糸島郡前原町(当時。現糸島市)
教育委員会。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
福岡県糸島市大字井原。遺物が出土したの
は、西暦1985年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は第22号住居
跡で出土し、発掘報告書第35ページ付近
の記載から、弥生時代末3世紀程度と私に
は読取れる。
遺物の写真は、第4写真図版pdfの、
写真図版第34の下から2段目右に在り、
本文中の説明により、第22号住居跡の第
2番広口瓶土器、上半分のカケラのようで
ある。

上図のように、発掘報告書にも説明ある
通り、割れた土器の下が、均らされている
事から、別の皿や杯型土器の台に転用した
もので、写真の中央右寄りに、漢字で縦に
「奉山」と書かれているような、煤模様が
ある。皿や杯に、山岳信仰用の供え物を乗
せる台として使用した、祭祀用が私的に疑
われる。
よって、この器物型物品については、
弥生時代末の成立で間違い無く、遺跡から
見てやや遠方の山を奉じる為に、弥生時代
に日本に渡来した、渡来人が作成したもの
ではないかと私見する。
さてこの遺跡からは、数百メートル程度
と、やや離れた「三雲遺跡」で砥石が出土
し、硯と考えられている。
web上には、そのうち「疑問視された
物品」しか写真は見当たらないようである。
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧中に写真が在りpdf
ファイル名は、次の通りである。
49500_2_三雲・井原遺跡.pdf
硯の写真は、写真図版第14:三雲番上
332番地出土遺物②に在り、第62
スケッチ図第15番とナンバリングされた
石製品のようである。真ん中が凹んでいて、
硯だと見れば、そうも見えると私も思う。
ただし三雲遺跡も前原遺跡も、弥生時代
遺物も出土するが、複数の発掘報告書から
古墳時代の墳墓地域でもあり、埴輪に字を
書く為に硯を作成したと見ても矛盾し無い
ように発掘報告書情報から読み取れると私
は考える。
よって、発掘された日本列島で弥生期の
硯として紹介された物品全般について私見
だが、古墳時代の硯の疑いが有ると私は思っ
ている。現地は住居跡も有るが、たまたま、
弥生時代から古墳時代に掛けて墓地だった
所であり、弥生時代に
有力者の住居跡ないし祭祀用施設であった
と見られてい無いように発掘報告書から私
は見ている。
たまたまこの地点に、弥生時代の渡来人
の、大規模住居地帯の中心点は無く、この
低地の遺跡では無く、何キロか離れた高台
に別に弥生期の大集落が在った
のではないかと私は疑っている。(2024/06/29)
紀元3世紀前後の成立とみられる広口瓶型
土器に、漢字で「奉山」と書いてあるよう
にも見える、煤模様があるとの旨の紹介と、
弥生時代の硯が出土したとして、有名な
遺跡である
との旨の紹介をする。
遺物の写真の方はweb上に公開されて
いて、発掘報告書に載っている。発掘報告
書が奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開され
ている。pdfファイル名は次の通り。
58842_4_井原遺跡群.pdf
なお、弥生時代の硯については、次の
成書に紹介が有る。
発掘された日本列島/2019、文化庁。
その第68ページ付近の中段、「東西弥生
文化の大発見」。
web上には、奈良文化財研究所が、
全国遺跡報告総覧の別の発掘報告書の中で、
「硯かどうか疑問視された遺物」のみ公開
していてこの遺跡の、「弥生時代の硯」と
される物品
全般について以下私見であるが、成立年代
に関して、「弥生時代」では無くて、より
時代が下る古墳時代に、古墳に納める埴輪
に墨書きする道具に使う、硯の疑いがある。
戻って、「奉山」墨書遺物が紹介されて
いる発掘報告書の名称は以下の通りである。
井原遺跡群/糸島郡前原町(当時。現糸島
市)文化財調査報告書第25集、1987、
福岡県糸島郡前原町(当時。現糸島市)
教育委員会。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
福岡県糸島市大字井原。遺物が出土したの
は、西暦1985年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は第22号住居
跡で出土し、発掘報告書第35ページ付近
の記載から、弥生時代末3世紀程度と私に
は読取れる。
遺物の写真は、第4写真図版pdfの、
写真図版第34の下から2段目右に在り、
本文中の説明により、第22号住居跡の第
2番広口瓶土器、上半分のカケラのようで
ある。

上図のように、発掘報告書にも説明ある
通り、割れた土器の下が、均らされている
事から、別の皿や杯型土器の台に転用した
もので、写真の中央右寄りに、漢字で縦に
「奉山」と書かれているような、煤模様が
ある。皿や杯に、山岳信仰用の供え物を乗
せる台として使用した、祭祀用が私的に疑
われる。
よって、この器物型物品については、
弥生時代末の成立で間違い無く、遺跡から
見てやや遠方の山を奉じる為に、弥生時代
に日本に渡来した、渡来人が作成したもの
ではないかと私見する。
さてこの遺跡からは、数百メートル程度
と、やや離れた「三雲遺跡」で砥石が出土
し、硯と考えられている。
web上には、そのうち「疑問視された
物品」しか写真は見当たらないようである。
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧中に写真が在りpdf
ファイル名は、次の通りである。
49500_2_三雲・井原遺跡.pdf
硯の写真は、写真図版第14:三雲番上
332番地出土遺物②に在り、第62
スケッチ図第15番とナンバリングされた
石製品のようである。真ん中が凹んでいて、
硯だと見れば、そうも見えると私も思う。
ただし三雲遺跡も前原遺跡も、弥生時代
遺物も出土するが、複数の発掘報告書から
古墳時代の墳墓地域でもあり、埴輪に字を
書く為に硯を作成したと見ても矛盾し無い
ように発掘報告書情報から読み取れると私
は考える。
よって、発掘された日本列島で弥生期の
硯として紹介された物品全般について私見
だが、古墳時代の硯の疑いが有ると私は思っ
ている。現地は住居跡も有るが、たまたま、
弥生時代から古墳時代に掛けて墓地だった
所であり、弥生時代に
有力者の住居跡ないし祭祀用施設であった
と見られてい無いように発掘報告書から私
は見ている。
たまたまこの地点に、弥生時代の渡来人
の、大規模住居地帯の中心点は無く、この
低地の遺跡では無く、何キロか離れた高台
に別に弥生期の大集落が在った
のではないかと私は疑っている。(2024/06/29)
埼玉県さいたま市中里前原遺跡で弥生期山泰墨書土器(長さん)
今回は、埼玉県さいたま市中央区(現。当時与野市)
の表題遺跡で、弥生時代とされる椀型土器に、漢字
で「山奉山奉」と、2回繰り返して書かれているよ
うに見える土器遺物が、かなり以前に出土している
との旨の紹介である。
今回の遺物は、当時の埼玉県与野市市史/原始等
資料集に載っている。成書の表題は、以下の通りで
ある。
埼玉県与野市史/自然・原始古代資料編、西暦
1984年、埼玉県与野市(当時。現さいたま市)
総務部市史編さん室。
成書第477ページ付近から、当該遺跡の記載が
ある。遺跡の場所は、昭文社の文庫地図「埼玉」に
より、埼玉県さいたま市中央区大戸2丁目付近と見
られる。遺物が出土したのは成書によると、第1次
発掘の際であり、西暦1978年前後と、かなり前
のようである。
遺物の成立年代は、弥生土器であるとされたよう
であり、弥生時代の中期程度ではないかと私見する。
遺物の写真は、成書の第504ページ上段右に有
る。第1次調査の第8号竪穴住居跡で、出土したと
読み取れるようである。椀型土器のように、私には
見える。

上図のように、反時計回りに角度で30°程度、
斜めに傾いているが、縦に漢字で、「山奉(改行)
山奉」のように私には見える、煤模様が有る。
JR北浦和駅ないし、南与野駅付近に山は無いと
見られるが、渡来人により書かれ、道教信仰が行わ
れていた事を示しているのかもしれないと私見する。
付け足すと、資料編の同一ページの、今回紹介し
た写真の左下に、同じく別の椀土器の底面に、今回
紹介した上記の写真よりかなり濃く、岩山の絵の中
に、漢字で「山」と書いたようにも見える、第8号
住居跡で共出土した土器遺物の写真も載っている。
(2024/06/28)
の表題遺跡で、弥生時代とされる椀型土器に、漢字
で「山奉山奉」と、2回繰り返して書かれているよ
うに見える土器遺物が、かなり以前に出土している
との旨の紹介である。
今回の遺物は、当時の埼玉県与野市市史/原始等
資料集に載っている。成書の表題は、以下の通りで
ある。
埼玉県与野市史/自然・原始古代資料編、西暦
1984年、埼玉県与野市(当時。現さいたま市)
総務部市史編さん室。
成書第477ページ付近から、当該遺跡の記載が
ある。遺跡の場所は、昭文社の文庫地図「埼玉」に
より、埼玉県さいたま市中央区大戸2丁目付近と見
られる。遺物が出土したのは成書によると、第1次
発掘の際であり、西暦1978年前後と、かなり前
のようである。
遺物の成立年代は、弥生土器であるとされたよう
であり、弥生時代の中期程度ではないかと私見する。
遺物の写真は、成書の第504ページ上段右に有
る。第1次調査の第8号竪穴住居跡で、出土したと
読み取れるようである。椀型土器のように、私には
見える。

上図のように、反時計回りに角度で30°程度、
斜めに傾いているが、縦に漢字で、「山奉(改行)
山奉」のように私には見える、煤模様が有る。
JR北浦和駅ないし、南与野駅付近に山は無いと
見られるが、渡来人により書かれ、道教信仰が行わ
れていた事を示しているのかもしれないと私見する。
付け足すと、資料編の同一ページの、今回紹介し
た写真の左下に、同じく別の椀土器の底面に、今回
紹介した上記の写真よりかなり濃く、岩山の絵の中
に、漢字で「山」と書いたようにも見える、第8号
住居跡で共出土した土器遺物の写真も載っている。
(2024/06/28)
大阪府和泉市池上曽根遺跡で弥生後山龍土器(長さん)
今回は、大阪府和泉市・泉大津市市内
の表題遺跡で、西暦1~2世紀前後成立
とみられている、弥生式土器の口の大きな
壺型器物に、
龍の絵が描かれていると紹介されているが、
龍山等と刻書もされている疑いが有る
との旨の紹介である。
作成者が渡来人だったので、単に龍は絵
として描かれただけで無く、「龍山」等と、
説明書きもされた、疑いが有ると私見する。
今回の遺物は、以下の成書に載っている。
発掘された日本列島/2020、同年6月
4日、文化庁。
発掘報告書の第47ページ付近に写真と
共に、情報が記載されている。
それによると遺跡の場所は大阪府和泉市
および泉大津市。遺物が出土したのは、
西暦1990年代以降との事である。
遺物の成立年代は、中段の遺物の写真の
付記によると、井戸跡から出土したもので
あり、集落としては末期に近い、弥生時代
後期の、今から1900年前程度のもので
はないかとの旨、説明されているように私
には読み取れる。
遺物の写真は、同ページの繰り返すが中
段に在り、龍の絵画土器との事である。

画像処理の状態により、図の紫色マーカー
の矢印のところに、多数の翼を持つ舟型の
龍の絵が浮き出るようである。土器の色が
濃く、成書の写真は、元々の器物のコマで
は、刻み跡は良く判らない。そしてその他
に、そのかなり右の方の同段に、左から右
に横に「龍山」と、互いに離れて漢字で、
刻書されているようにも、私には見える。
但し第1字目の龍の右上にも何か模様が
有り、表現が充分に明確とまでは言え無い。
弥生時代後期の大阪の集落には渡来人が
居て、壺型土器に絵を刻書したのであり、
渡来人であるから、母国の漢字で「龍山」
と、道教信仰が動機で、その絵を描いた事
を示した疑いも有ると私見される。弥生
時代から、渡来人なら日本国内でも漢字を、
当然だが使っていたのでは無いのだろうか。
(2024/06/27)
の表題遺跡で、西暦1~2世紀前後成立
とみられている、弥生式土器の口の大きな
壺型器物に、
龍の絵が描かれていると紹介されているが、
龍山等と刻書もされている疑いが有る
との旨の紹介である。
作成者が渡来人だったので、単に龍は絵
として描かれただけで無く、「龍山」等と、
説明書きもされた、疑いが有ると私見する。
今回の遺物は、以下の成書に載っている。
発掘された日本列島/2020、同年6月
4日、文化庁。
発掘報告書の第47ページ付近に写真と
共に、情報が記載されている。
それによると遺跡の場所は大阪府和泉市
および泉大津市。遺物が出土したのは、
西暦1990年代以降との事である。
遺物の成立年代は、中段の遺物の写真の
付記によると、井戸跡から出土したもので
あり、集落としては末期に近い、弥生時代
後期の、今から1900年前程度のもので
はないかとの旨、説明されているように私
には読み取れる。
遺物の写真は、同ページの繰り返すが中
段に在り、龍の絵画土器との事である。

画像処理の状態により、図の紫色マーカー
の矢印のところに、多数の翼を持つ舟型の
龍の絵が浮き出るようである。土器の色が
濃く、成書の写真は、元々の器物のコマで
は、刻み跡は良く判らない。そしてその他
に、そのかなり右の方の同段に、左から右
に横に「龍山」と、互いに離れて漢字で、
刻書されているようにも、私には見える。
但し第1字目の龍の右上にも何か模様が
有り、表現が充分に明確とまでは言え無い。
弥生時代後期の大阪の集落には渡来人が
居て、壺型土器に絵を刻書したのであり、
渡来人であるから、母国の漢字で「龍山」
と、道教信仰が動機で、その絵を描いた事
を示した疑いも有ると私見される。弥生
時代から、渡来人なら日本国内でも漢字を、
当然だが使っていたのでは無いのだろうか。
(2024/06/27)
石川県小松市八日市地方遺跡で弥生中鬼王木製品(長さん)
今回は、web上にパンフレットで紹介された
表題の弥生時代中期後半、西洋紀元頃の木製の、
掛矢の頭に「鬼王之(碁盤の目)」と書かれて
いるようにも見える、凹凸を伴う暗い模様が
有るように見えるとの旨の紹介である。
「天の鬼王」の意図であり、弥生遺跡には帰化
人がこの遺跡付近に居て、自国の漢字を書き、
魔物祓い呪い用の、物品を作成した疑いが有る
のではないかと私見する。
遺物の写真がweb上に公開されて、
パンフレットの類に載っている。パンフレット
が、奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139831_1_八日市地方遺跡地中から今、弥生時代が
甦る県文化財指定記念特別.pdf
パンフレットの名称は、以下の通りである。
県文化財指定記念特別展/八日市地方遺跡、
2006.11.30、石川県小松市教育委員会。
パンフレットの冒頭第1ページ「遺跡の発見」
により、遺跡の位置は石川県小松市日の出町・
八日市町地方。遺物が出土したのは西暦
1997~1999年の間の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が弥生時代中期
で、西暦前300~400年のBC4世紀程度
を中心とし遺物は木製品で、第3期の弥生中期
の後半で、西暦紀元前後と見られているように、
パンフレットの第3ページ下付近の図から、私
には推測される。
遺物の写真は、パンフレットの第26ページ
「木の道具」の上段中央に在り、「『掛矢』で、
カシ材」との旨の紹介が有る。「摩耗している」
との旨説明であるが、建築道具のようには、私
には見えない。「掛矢」では無く武具の「鏑矢」
の、頭のようにも、私には見える。

上図のように、頭の部分は先端にトンガリの
ある細長い木製品で、水色四角で囲った部分に、
縦に漢字で擦れているものの「鬼王」のように
も見える、凹凸を伴った暗い模様が有る。その
下に之と、呪術譜の碁盤(#)マークが、更に
有るように私には見える。「天の鬼王」の意図
ではないかと、私は疑う。
西洋紀元前後に、石川県小松市の弥生遺跡
にも、海を渡り渡来人がやってきて、住人の
一部を形成していて、母国語の漢字を書き、
魔物祓いの物品を作成していた疑いも有ると私
見する。(2004/06/26)
表題の弥生時代中期後半、西洋紀元頃の木製の、
掛矢の頭に「鬼王之(碁盤の目)」と書かれて
いるようにも見える、凹凸を伴う暗い模様が
有るように見えるとの旨の紹介である。
「天の鬼王」の意図であり、弥生遺跡には帰化
人がこの遺跡付近に居て、自国の漢字を書き、
魔物祓い呪い用の、物品を作成した疑いが有る
のではないかと私見する。
遺物の写真がweb上に公開されて、
パンフレットの類に載っている。パンフレット
が、奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139831_1_八日市地方遺跡地中から今、弥生時代が
甦る県文化財指定記念特別.pdf
パンフレットの名称は、以下の通りである。
県文化財指定記念特別展/八日市地方遺跡、
2006.11.30、石川県小松市教育委員会。
パンフレットの冒頭第1ページ「遺跡の発見」
により、遺跡の位置は石川県小松市日の出町・
八日市町地方。遺物が出土したのは西暦
1997~1999年の間の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が弥生時代中期
で、西暦前300~400年のBC4世紀程度
を中心とし遺物は木製品で、第3期の弥生中期
の後半で、西暦紀元前後と見られているように、
パンフレットの第3ページ下付近の図から、私
には推測される。
遺物の写真は、パンフレットの第26ページ
「木の道具」の上段中央に在り、「『掛矢』で、
カシ材」との旨の紹介が有る。「摩耗している」
との旨説明であるが、建築道具のようには、私
には見えない。「掛矢」では無く武具の「鏑矢」
の、頭のようにも、私には見える。

上図のように、頭の部分は先端にトンガリの
ある細長い木製品で、水色四角で囲った部分に、
縦に漢字で擦れているものの「鬼王」のように
も見える、凹凸を伴った暗い模様が有る。その
下に之と、呪術譜の碁盤(#)マークが、更に
有るように私には見える。「天の鬼王」の意図
ではないかと、私は疑う。
西洋紀元前後に、石川県小松市の弥生遺跡
にも、海を渡り渡来人がやってきて、住人の
一部を形成していて、母国語の漢字を書き、
魔物祓いの物品を作成していた疑いも有ると私
見する。(2004/06/26)
長野県茅野市棚畑遺跡で縄文泰山墨書土器(長さん)
今回は、長野県の霧が峰高原南麓の縄文中期
(BC30~20世紀)成立とされる深鉢型
の大型土器に、漢字で奉山と読める、煤模様
があるとの旨の紹介である。
偶然模様であると、見られる。
今回紹介する出土土器は、web上では無
くて、次の成書に載っている。
発掘された日本列島、2020、文化庁。
遺物が出土した場所は、長野県茅野市。
遺物が出土した年代は、2010年代程度と
みられるが、詳細の記載が私には発見されて
い無い。
遺物の成立年代は、成書第40ページの
記載により、BC30~BC20世紀となっ
ていて、漢字が成立しているとはとても考え
られないほど、古い時代の遺物である。
遺物の写真は成書の第40ページ上段中央
に在り、「パネル文様式深鉢土器」であると
の旨、説明が有る。

上図のように、写真の左上に、右上から
左下に向かい、漢字で奉山のようにも見える、
煤模様がある。
しかし良く見ると、「兼ム」であり意味不明
である。
よって、一見すると墨書のようにも見える
が、このケースは
単なる煤模様であり、偶然と見るべきである
と私は解釈する。(2024/06/25)
(BC30~20世紀)成立とされる深鉢型
の大型土器に、漢字で奉山と読める、煤模様
があるとの旨の紹介である。
偶然模様であると、見られる。
今回紹介する出土土器は、web上では無
くて、次の成書に載っている。
発掘された日本列島、2020、文化庁。
遺物が出土した場所は、長野県茅野市。
遺物が出土した年代は、2010年代程度と
みられるが、詳細の記載が私には発見されて
い無い。
遺物の成立年代は、成書第40ページの
記載により、BC30~BC20世紀となっ
ていて、漢字が成立しているとはとても考え
られないほど、古い時代の遺物である。
遺物の写真は成書の第40ページ上段中央
に在り、「パネル文様式深鉢土器」であると
の旨、説明が有る。

上図のように、写真の左上に、右上から
左下に向かい、漢字で奉山のようにも見える、
煤模様がある。
しかし良く見ると、「兼ム」であり意味不明
である。
よって、一見すると墨書のようにも見える
が、このケースは
単なる煤模様であり、偶然と見るべきである
と私は解釈する。(2024/06/25)
三重県明和町斎宮跡で古代山泰墨書土器2(長さん)
今回は、以前古代山奉墨書土器を紹介した表題
遺跡の発掘報告書とは、別の発掘報告書にも、
椀では無くて杯型土器に山を奉じたと見られる
「山奉」型の墨書遺物が、出土して紹介されて
いるとの旨の内容である。
遺物の写真がweb上に公開されて発掘報告
書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース全国遺跡報告
総覧に、登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
72020_1_斎宮跡発掘調査報告Ⅱ.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
斎宮跡発掘調査報告Ⅱ(柳原区画編)、西暦
2019年、斎宮歴史博物館。
発掘報告書等の末尾抄録によると遺跡の場所
は、三重県多気郡明和町斎宮・竹川。
遺物が出土したのは、第8~9次調査のとき
との事であり、西暦1974年前後と、この物
品については、かなり前の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が、飛鳥期より
平安時代のものとされるが、今回の発掘地点は、
平安期とされているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版の第1図
版:”柳原区画出土遺物(1)”最上段左に在
り、遺物番号第43番との旨、ナンバリングさ
れている。杯型の土器のようである。
またこの物品は「第276号の井戸跡で出土
した」との旨の説明が、発掘報告書第5ページ
付近に在る。

上図のように、写真の左に寄って漢字で縦に
第1字目と第2字目がくっついているものの、
「山奉」と書いたような、やや薄い煤跡が有る。
現地は祭祀用の神官関連の施設であり、低地
では有るものの、少ない数だが、一通りの祭祀
項目カテゴリーの器物が、用意されていた為に、
「山」を奉じた物品も、有ったのだろうと、私
には疑われる。(2024/06/24)
遺跡の発掘報告書とは、別の発掘報告書にも、
椀では無くて杯型土器に山を奉じたと見られる
「山奉」型の墨書遺物が、出土して紹介されて
いるとの旨の内容である。
遺物の写真がweb上に公開されて発掘報告
書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース全国遺跡報告
総覧に、登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
72020_1_斎宮跡発掘調査報告Ⅱ.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
斎宮跡発掘調査報告Ⅱ(柳原区画編)、西暦
2019年、斎宮歴史博物館。
発掘報告書等の末尾抄録によると遺跡の場所
は、三重県多気郡明和町斎宮・竹川。
遺物が出土したのは、第8~9次調査のとき
との事であり、西暦1974年前後と、この物
品については、かなり前の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が、飛鳥期より
平安時代のものとされるが、今回の発掘地点は、
平安期とされているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版の第1図
版:”柳原区画出土遺物(1)”最上段左に在
り、遺物番号第43番との旨、ナンバリングさ
れている。杯型の土器のようである。
またこの物品は「第276号の井戸跡で出土
した」との旨の説明が、発掘報告書第5ページ
付近に在る。

上図のように、写真の左に寄って漢字で縦に
第1字目と第2字目がくっついているものの、
「山奉」と書いたような、やや薄い煤跡が有る。
現地は祭祀用の神官関連の施設であり、低地
では有るものの、少ない数だが、一通りの祭祀
項目カテゴリーの器物が、用意されていた為に、
「山」を奉じた物品も、有ったのだろうと、私
には疑われる。(2024/06/24)
三重県明和町斎宮跡で古代山泰墨書土器1(長さん)
今回は、かなりの数の墨書遺物が出土している
とされる、三重県の表題の遺跡で、数が少ない
ものの、山を奉じたと見られる「山奉」型の墨
書遺物も見られるとの旨の、紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて発掘報告
書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース全国遺跡報告
総覧に、登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
53284_1_史跡斎宮跡斎宮小学校内発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
史跡/斎宮跡、西暦1985年、明和町教育委員会。
別途の斎宮跡に関する発掘報告書等により、
遺跡の場所は、三重県多気郡明和町斎宮・竹川。
遺物が出土したのは、第15次調査に関する、
説明の冒頭、第6ページの記載より、西暦
1977年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が、飛鳥期より
平安時代のものとされる為、古代のどこかと
みられる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第18:
”第720号井戸跡出土土器”との旨の、下か
ら3段目右に有り、遺物番号第23番との旨、
ナンバリングされている。椀型の土器のようで
ある。

上図のように、写真の右に寄って漢字で縦に
「山奉」と書いたような煤跡が有るが、それ
だけで無く、奉の字の右隣に小さく「山」
その右縁に行って「奉」、更には、左側中央付
近に「山○」、左上縁に「山」等、多数の文字
のように見える、煤模様が有るように私見され
る。現地は低地では有るものの、少ない数だが、
山岳信仰系祭祀土器が古代に存在したように私
には見える。(2024/06/23)
とされる、三重県の表題の遺跡で、数が少ない
ものの、山を奉じたと見られる「山奉」型の墨
書遺物も見られるとの旨の、紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されて発掘報告
書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース全国遺跡報告
総覧に、登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
53284_1_史跡斎宮跡斎宮小学校内発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
史跡/斎宮跡、西暦1985年、明和町教育委員会。
別途の斎宮跡に関する発掘報告書等により、
遺跡の場所は、三重県多気郡明和町斎宮・竹川。
遺物が出土したのは、第15次調査に関する、
説明の冒頭、第6ページの記載より、西暦
1977年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺跡自体が、飛鳥期より
平安時代のものとされる為、古代のどこかと
みられる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第18:
”第720号井戸跡出土土器”との旨の、下か
ら3段目右に有り、遺物番号第23番との旨、
ナンバリングされている。椀型の土器のようで
ある。

上図のように、写真の右に寄って漢字で縦に
「山奉」と書いたような煤跡が有るが、それ
だけで無く、奉の字の右隣に小さく「山」
その右縁に行って「奉」、更には、左側中央付
近に「山○」、左上縁に「山」等、多数の文字
のように見える、煤模様が有るように私見され
る。現地は低地では有るものの、少ない数だが、
山岳信仰系祭祀土器が古代に存在したように私
には見える。(2024/06/23)
千葉県四街道市小屋ノ内遺跡で8C山泰墨書土器(長さん)
今回は、web上に紹介された「奉」墨書土器
研究の論文に「山夲」墨書土器として別表に載っ
ている、本ブログ以外でも「山奉型墨書土器」
と認識されている、言わば「代表的な山奉墨書」
の紹介である。
筑波山を奉じていると見られ、奈良時代にも
筑波山付近に、神社用祭祀器物を作成する工房
が存在したようである。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧にも登録・公開されている。
全国遺跡報告総覧のpdfは、以下の通り
である。
30948_5_四街道市小屋ノ内遺跡2縄文時代~中・近世編.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
千葉県教育振興財団調査報告第557集/
四街道市小屋ノ内遺跡(2)縄文時代~中・
近世編、西暦2006年、独立行政法人/都市
再生機構・財団法人/千葉県教育振興財団。
なお、この文献を紹介した、web上に公開
の論文のpdfは、以下の通りである。
asia-41_133-150.pdf
論文の表題等は、以下の通り。
Review of Asian and Pacific Studies No. 41/P133
「奉」「本」「夲」などと記された墨書土器に
関する予備的考察、有富純也(成蹊大学文学部)。
論文の載った文献の発行年が私には判らないが、
西暦2016年前後と見られる。
論文の第140ページ付近の別表に、今回
以下に紹介する、出土土器の破片が、「山夲」
墨書土器と見られている旨の記載が有る。本文
中の詳細記載は見当たらない。「山」が付いて
いる点についての言及も、私には発見されてい
無い。山の付く例は少数との心証の紹介である。
さて冒頭の、発掘報告書第5pdf末尾の
抄録により遺跡の場所は、千葉県四街道市
物井字小屋ノ内1322。遺物が出土したのは、
西暦1989年~1998年の間付近のようで
ある。
遺物の成立年代は、遺物は第108号竪穴
住居跡で出土したが竪穴住居跡第108号自体
が発掘報告書第3pdfの第920ページ付近
の記載により、奈良時代から平安時代初、
8世紀成立とみられているようであり、遺物も、
その頃のものと考えられる。
なお、器物自体は、茨城県の筑波山の麓の、
「新治窯」で作成されたとみられているようで
あり、表面の刻書も、作成場所付近で付いた
可能性が有ると私見される。
遺物の写真は、発掘報告書第5pdfの写真
図版第267の第3段目中央に在り、第108
竪穴住居跡遺物番号第2番との旨ナンバリング
されている。台付き高杯土器の台の部分の破片
と見られているようである。

上図のように、文句無く刻書で「山奉」の
意図で「山夲」等と、刻まれているように見え、
ルートは不明なものの、筑波山麓の祭祀場から、
千葉県四街道市の現地へ、8世紀に運ばれて、
使われたように私見される。筑波山の山麓に、
奈良時代から神社があって、古代から山が奉じ
られていた事を、恐らく示しているのであろう。
(2024/06/22)
研究の論文に「山夲」墨書土器として別表に載っ
ている、本ブログ以外でも「山奉型墨書土器」
と認識されている、言わば「代表的な山奉墨書」
の紹介である。
筑波山を奉じていると見られ、奈良時代にも
筑波山付近に、神社用祭祀器物を作成する工房
が存在したようである。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧にも登録・公開されている。
全国遺跡報告総覧のpdfは、以下の通り
である。
30948_5_四街道市小屋ノ内遺跡2縄文時代~中・近世編.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
千葉県教育振興財団調査報告第557集/
四街道市小屋ノ内遺跡(2)縄文時代~中・
近世編、西暦2006年、独立行政法人/都市
再生機構・財団法人/千葉県教育振興財団。
なお、この文献を紹介した、web上に公開
の論文のpdfは、以下の通りである。
asia-41_133-150.pdf
論文の表題等は、以下の通り。
Review of Asian and Pacific Studies No. 41/P133
「奉」「本」「夲」などと記された墨書土器に
関する予備的考察、有富純也(成蹊大学文学部)。
論文の載った文献の発行年が私には判らないが、
西暦2016年前後と見られる。
論文の第140ページ付近の別表に、今回
以下に紹介する、出土土器の破片が、「山夲」
墨書土器と見られている旨の記載が有る。本文
中の詳細記載は見当たらない。「山」が付いて
いる点についての言及も、私には発見されてい
無い。山の付く例は少数との心証の紹介である。
さて冒頭の、発掘報告書第5pdf末尾の
抄録により遺跡の場所は、千葉県四街道市
物井字小屋ノ内1322。遺物が出土したのは、
西暦1989年~1998年の間付近のようで
ある。
遺物の成立年代は、遺物は第108号竪穴
住居跡で出土したが竪穴住居跡第108号自体
が発掘報告書第3pdfの第920ページ付近
の記載により、奈良時代から平安時代初、
8世紀成立とみられているようであり、遺物も、
その頃のものと考えられる。
なお、器物自体は、茨城県の筑波山の麓の、
「新治窯」で作成されたとみられているようで
あり、表面の刻書も、作成場所付近で付いた
可能性が有ると私見される。
遺物の写真は、発掘報告書第5pdfの写真
図版第267の第3段目中央に在り、第108
竪穴住居跡遺物番号第2番との旨ナンバリング
されている。台付き高杯土器の台の部分の破片
と見られているようである。

上図のように、文句無く刻書で「山奉」の
意図で「山夲」等と、刻まれているように見え、
ルートは不明なものの、筑波山麓の祭祀場から、
千葉県四街道市の現地へ、8世紀に運ばれて、
使われたように私見される。筑波山の山麓に、
奈良時代から神社があって、古代から山が奉じ
られていた事を、恐らく示しているのであろう。
(2024/06/22)
群馬県長野原町上ノ平遺跡で10C山泰墨書土器(長さん)
今回は、表題の群馬県長野原町の山間部の遺跡で、
10世紀初頭の炊事用の甕型の土器に、漢字で
「山奉」と書いてあるように見える、煤模様が有
るとの旨の紹介である。
煤では無くて祭祀用の疑いもある
と私見する。
遺物の写真がweb上に公開されていて、この
ケースは研究紀要の冊子に載っている。その研究
紀要の冊子が、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録公開され
ている。pdfファイル名は、以下の通りである。
139772_1_研究紀要.pdf
研究紀要である冊子の表題は、以下の通り。
研究紀要32、2014、公益財団法人/群馬県
埋蔵文化財調査事業団。
論文は紀要の第53ページより在り、表題は、
以下の通り。
平安時代主食穀物についての素描2―長野原町
上ノ平Ⅰ遺跡の土器使用痕と出土炭化種実―、
洞口正史・外山政子・有山径世・小此木真理・
佐々木由香・バンダリ=スダルシャン。
遺跡の場所は、紀要の第54ページ付近の記載
より、群馬県吾妻郡長野原町大字川原畑字上ノ平。
高地に所在する。
遺物が出土したのは、論文冒頭により、
西暦2008年前後の事のように私には読取れる。
遺物の成立年代は、該研究紀要の第55ページ
付近の記載より、10世紀初頭と考えられている
ようである。
遺物の写真は、紀要の第62ページの第3段目
左に有り、第1住居跡の遺物番号第21番との旨、
ナンバリングされている、炊事用釜のように私に
は見える出土品である。なお本文中にこの物品に
対する説明は、今のところ発見され無い。論文で
は、出土物に付着した煤について論じているが、
個別に、以下の模様が何なのかは、文面からは私
には良く判らない。

上図のように写真の右のほぼ中段に小さく、漢
字で山奉と書かれているように見える、模様が有
るように私には見える。煤の可能性も有るであろ
うが、浅間山を奉じる、古代の山岳信仰の祭祀用
遺物の可能性も有りえると、今の所私見する。
(2024/06/21)
10世紀初頭の炊事用の甕型の土器に、漢字で
「山奉」と書いてあるように見える、煤模様が有
るとの旨の紹介である。
煤では無くて祭祀用の疑いもある
と私見する。
遺物の写真がweb上に公開されていて、この
ケースは研究紀要の冊子に載っている。その研究
紀要の冊子が、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録公開され
ている。pdfファイル名は、以下の通りである。
139772_1_研究紀要.pdf
研究紀要である冊子の表題は、以下の通り。
研究紀要32、2014、公益財団法人/群馬県
埋蔵文化財調査事業団。
論文は紀要の第53ページより在り、表題は、
以下の通り。
平安時代主食穀物についての素描2―長野原町
上ノ平Ⅰ遺跡の土器使用痕と出土炭化種実―、
洞口正史・外山政子・有山径世・小此木真理・
佐々木由香・バンダリ=スダルシャン。
遺跡の場所は、紀要の第54ページ付近の記載
より、群馬県吾妻郡長野原町大字川原畑字上ノ平。
高地に所在する。
遺物が出土したのは、論文冒頭により、
西暦2008年前後の事のように私には読取れる。
遺物の成立年代は、該研究紀要の第55ページ
付近の記載より、10世紀初頭と考えられている
ようである。
遺物の写真は、紀要の第62ページの第3段目
左に有り、第1住居跡の遺物番号第21番との旨、
ナンバリングされている、炊事用釜のように私に
は見える出土品である。なお本文中にこの物品に
対する説明は、今のところ発見され無い。論文で
は、出土物に付着した煤について論じているが、
個別に、以下の模様が何なのかは、文面からは私
には良く判らない。

上図のように写真の右のほぼ中段に小さく、漢
字で山奉と書かれているように見える、模様が有
るように私には見える。煤の可能性も有るであろ
うが、浅間山を奉じる、古代の山岳信仰の祭祀用
遺物の可能性も有りえると、今の所私見する。
(2024/06/21)