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(コラム)このナンバーにピンと来たら百十番(長さん)

2024年7月31日の11時(JST)過ぎの事であるが。
妙な2人組の車が、

駐車禁止の道路に止まり、2人共に下車。その間車は空。

次いで、当家の方へ歩み寄り、一人の男が当家のチャイムを
鳴らした。アポ無しの為怪しみ、しばらく応対せず様子を
見ると、住居地図のコピー等と見られる用紙に何か書き込み、
「これで判った」などと言いながら、やがて空の車に2人共
に乗り込んで、その車で走り去る。

空き巣の下見の疑いが有ると私見。

空き巣.gif

上図のナンバーの車は、何を調査しているものやら、とても
怪しい。ナンバープレートに妙なシールが複数見えるのも、
尋常でない証拠だ。とりあえず、皆さんに警告!
 このナンバーに、ピンと来たら百十番!(2024/07/31)

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群馬県渋川市金井下新田遺跡で5C山泰墨書土器(長さん)

今回表題で紹介する、台付き椀型「山奉」墨書
土器は、5世紀後半に現地に榛名山信仰が存在
した事を示しているのであると見られる。更に
墨書の内容が同類とみられる奉口(口はひょっ
とすると「ま」:馬)墨書甕共出土土器が有り、
その字が、5世紀後半成立の文字として、

極めて鮮明な為、注目に値する例

である。以上の2つの出土遺物を紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
122366_3_金井下新田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
調査報告書第684集/金井下新田遺跡、
西暦2021年、群馬県渋川土木事務所・
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 発掘報告書第1pdf末尾抄録により、
遺跡の場所は、群馬県渋川市。同市金井に有る、
金井東裏遺跡に隣接しているとの事である。
 遺物が出土したのは、西暦2014年から
西暦2018年ないし、その前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、日本国内での、通常使用
の漢字の成立年代に関して注目すべき、奉口
甕土器に関して、発掘報告書第803ページの
記載から、5世紀後半の古墳時代中期とみられ
ているように読み取れる。「火山の噴火で壊滅
した遺跡な為、年代の上限(新しい)が、くっ
きりとしている」との事である。つまり下新田
遺跡も金井東浦遺跡同様、6世紀初の榛名山の
噴火で埋没した遺跡な為、何れの遺物も5世紀
後半成立と解釈されているように、私には読取
れる。
 最初に紹介する「山奉」台付き椀型土器は、
発掘報告書第3pdf写真図版の、写真図版
(PL.)第507図の、上の土器集団:”第
1区第10号竪穴建物”の左下に在り遺物番号、
1区の10号住居の第18番との旨、ナンバ
リングされている。

金井下新田山泰.gif

 上図のように、ぼやけているが左にやや寄っ
て縦に、漢字で「山奉」のように見える、煤模
様が在るように私には認識され、古墳時代中期
の榛名山信仰を連想させる。
 次に、甕土器については、第3pdfの写真
図版(PL.)第546図の、最下段左から
2番目に在り、第4区第2号竪穴建物跡の第
18番との旨、ナンバリングされている。

金井下新田奔馬.gif

 上図のように、写真のほぼ中央に、

極めて整った漢字で、「奉」と書かれている

ように私には見える。現代の神社の備品と同じ
であると考える。何を奉じているのかは、現地
に於いて、暗示的に示す器物な為、現代の奉甕
同様詳らかでは無いが、奉の右側のスジ模様が、
ひらがなの「ま」のようにも見え、ひょっとす
ると馬なのかもしれない。軍馬が複数飼われて
いる、牧場も在る地帯であり、古墳時代の騎兵
も、駐屯している場所だった為、識字層が居住
していて、神主も字が読め、上記のような遺物
が、使われたという経緯なのかもしれないと私
は思う。

 5世紀に、国内で普通に漢字が使われていた
事を象徴的に示す、印象深い

今でも、ごく「ありきたりな物品」だと、私は
思う。(2024/07/31)

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群馬県渋川市金井東裏遺跡で古墳期龍馬墨書土器(長さん)

今回は、榛名山とみられる火山の噴火の
火砕流で、古墳時代に集落が全滅し遺物
が散乱しているとされる、表題遺跡で、
祭祀用とみられ、漢字で「龍馬」と書か
れたように見える、高杯型の土器が出土
しているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファィル名は以下の通りである。
90317_6_金井東裏遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
調査報告書第652集/金井東裏遺跡、
西暦2019年、群馬県渋川土木事務所・
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 発掘報告書第4pdf末尾抄録により
遺跡の場所は、群馬県渋川市金井。遺物
が出土したのは西暦2012年~西暦
2016年ないし、その前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は遺跡自体が古墳時代
の6世紀に榛名山の噴火の火砕流で消滅
した集落とみられており、その頃のもの
と考えられているようである。また問題
の墨書遺物は、第4面第3祭祀用遺構で、
出土したとされ、第1pdfの第38ペー
ジの図からも、5世紀後半から6世紀初
の地層と考えられているように読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書第6pdf
の、写真図版(PL.)第356の、
最下段中央に在り、第497号ピットの
遺物第1で、遺物通し番号第711番と
の旨、ナンバリングされている、台付き
高杯土器の裏側のように、私には見える
部分にある。

金井東裏龍馬.gif

 上図のように、縦にぼやけているし、
第2字目の「馬」と見る模様が、反時計
回りに回転している上に、その足の点が
1個しか見えないが、漢字で「龍馬」と
書いて、あるようにも見える模様が在る。
有力者の支配する集落であり、駿馬が、
祀られるような、豪族支配下にある地帯
のようにも、私には連想される。
 鎧兜に身を固めた軍馬に乗る古墳時代
の武者が、駐屯する場所での自然災害だっ
たのかもしれないと私見する。(2024/07/30)

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秋田県秋田市久保田城跡で江戸期将棋駒(長さん)

今回は秋田駅に近い、秋田県秋田市千秋明徳町
の久保田城三の丸跡で大量の家老渋江家の遺物
が出土したが、その中に将棋の駒が混じってい
たとの旨の紹介である。
 発掘報告書を単純に画像処理すると、右側の
写真のコマがオモテで、成り一文字「と」銀将
のように、本ブログの管理人には思える。が、

詳しい解析が待たれる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
140020_3_久保田城跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第532集/
久保田城跡、2024.3、秋田県教育委員会。
 発掘報告書第1pdf末尾抄録により遺跡の
場所は、繰り返すと秋田県秋田市千秋明徳町2-
52。遺物が出土したのは西暦2018年から
西暦2021年までか、その前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、江戸時代から明治初頭の
どこかのようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第3分冊の第
223図:”木製品(その他8>玩具;人形・
将棋の駒)の、左下に在り、第104土溝出土、
人形・将棋駒木製品の第5番との旨、ナンバリ
ングされている。

久保田城王将.gif

 上図のように、いっけんして右がオモテで、
第1字目の「へん」が見当たらないが、「金
へん」だとすれば銀将であり、画像処理すると、
裏面と見ていた左側の中央にひらがなで「と」
のような「C」のような、横広の模様が、薄く
浮かぶ。
 東北地方の出土将棋駒で、しばしば見られる
縦長型であり、形も珍しいので、今後の詳しい
解析が期待される。(2024/07/29)

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群馬県前橋市ニ之宮宮下東遺跡で古代奔戌墨書土器(長さん)

今回は祭祀用とみられる則天文字の「天」墨書
土器が複数出土した等の表題遺跡で、関連する、
北西を奉じる漢字で「戌奉」等の奉墨書土器が
出土しているとの旨の紹介である。比較的高度
な漆職人の集落が、古代に在ったようであり、
そこで行われた、祭祀に使われる遺物のようで
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
28903_1_二之宮宮下東遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告書
第163集/ニ之宮宮下東遺跡、1994年、
建設省・群馬県教育委員会・財団法人
群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 発掘報告書目次と本文の間に挿入された抄録
により遺跡の場所は、群馬県前橋市ニ之宮町
宮下東。遺物が出土したのは、西暦1987年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、以下紹介する「戌奉」
墨書遺物は、発掘報告書第165ページにより、
8世紀、奈良時代とみられているように私に
は、読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版(PL-)
第65の最上段左に在り、住居跡第50号の、
遺物番号第14番との旨、ナンバリングされて
いる。土器の破片のように、私には見える。

二之宮宮下奔戌.gif

 上図のように、外側の下のコマのやや左下に
明快に、漢字で「奉」と書かれその上に、はっ
きりとし無いが、北西を意味する「戌」と漢字
でゴシック調で書いたような、黒い模様がある。
 北西に埋設するか置いて奉じる祭祀用土器が
連想される。則天文字の書かれた「天」土器と、
組で使うのでは無いだろうか?
 ちなみに、この回の発掘で、以下の漢字の
模様の有る土器も出土している。以下の遺物は、
発掘報告書の写真図版(PL-)66の右下に
在る、皿型土器の裏面とみられ、漢字で「瓦」
ないし則天文字の「天」と、その下に「奉」
のようにも見える、擦れた模様がある。恐らく
「瓦奔」では無くて、「天奉」の意図であろう。

二之宮宮下奔瓦.gif

 この遺物は、第3区の第15層で出土したが、
発掘報告書、第189ページ付近の記載により
平安時代の成立とされ、8世紀末程度の成立で、
前記の「戌奉」墨書土器と、さほど成立年代は
離れてい無いようである。天を奉じたり、各方
向に、土器を埋葬して奉じたりしている事から、
東洋系の易学系の占い/呪いが、奈良時代から
平安期にかけて、盛んに行われた祭祀場所に、
ひょっとして近いのであろう。一帯が宗教集団
が居住し、漆職人集団を兼ねたような律令集落
の跡なのかもしれないと、私見する。(2024/07/28)

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富山県立山町横沢Ⅱ遺跡で縄文後期奔王墨書土器(長さん)

今回は、西洋紀元前1000年頃成立の縄文
土器に、漢字で「主・泰主」等と読める遺物
が、富山県の常願寺川流域で出土していると
の旨の紹介である。

弥生期~古代のどこかで縄文土器が採取され、
龍神信仰の祭祀用容器に転用

されたのでは無いかと、個人的に疑う。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
17243_1_横沢2遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
立山町文化財報告書第27冊/横沢Ⅱ遺跡、
1998年、立山町教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
富山県中新川郡立山町横沢。遺物が出土した
のは、西暦1997年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第8ページ
付近によると、形から縄文時代後期後半の、
西暦前1000年程度に成立した井口式の、
深鉢との事であり、とても古い。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第8
の最上段左に在り、遺物番号第1番との旨、
ナンバリングされている。

横沢奔王.gif

 上図のように、ほぼ中央に漢字で「主」の
ように見える暗い模様が有り、その右下に同
じく漢字で「泰」、左下に「王」かまたは、
「主」のように見える模様が有って、近くを
常願寺川が流れている事から、私には龍神が
連想される。
 現地は、縄文期、古代~現代へ連続的に集
落の続く場所だとの事である為、古代までに、
遺物が拾われて、縄文土器特有の縄目の文様
が龍を連想させ、龍神信仰用の祭祀土器とし
て転用された疑いが、有るのではないかと私
は疑っている。(2024/07/27)

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青森県青森市浪岡城跡で戦国期奔銅木箱(長さん)

今回は当時の青森県南津軽郡浪岡町、現
青森県青森市の戦国時代のものとされる城、
浪岡城跡で、木箱の横板のように見える木
片の端、内側の角となるとみられる部分に、
漢字で「奉銅」と書いて有るように見える、
薄い模様が有るとの旨の紹介である。

分銅か粗銅か、銅の類を木箱に入れ、仏像
等の材料にしたのかもしれないと私は疑う。

 遺物の写真がweb上に行為されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
12537_1_浪岡城跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
浪岡城跡、1986年1月、青森県土木部・
浪岡町・浪岡町教育委員会。
 発掘報告書冒頭第1ページ「調査に至る
経過」により遺跡の場所は、青森県南津軽
郡浪岡町大字浪岡字前田75、76、79、
84、85。
 遺物が出土したのは、西暦1985年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第36
ページの記載から、16世紀初の戦国時代
の城跡で使われた物品群のうちの、ひとつ
と見られているようである。なお浪岡城の
城主は、浪岡北畠氏との事である。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版(P
L.)第10:”木製品(1)”の、左端
の下から2段目に在り、遺物番号第93番
との旨、ナンバリングされている。一辺が
十数センチ程度の箱の、横板の一枚のよう
に見える。

浪岡城奔銅.gif

 上図のように、箱にしたときに天地が逆
だが、角部分に、漢字で「奉銅」のように
見える極薄い模様が写真の上、内面と見ら
れる方の左端に在るように思う。
 箱の蓋の材であり、分銅、粗銅などの銅
を納めて、ひょっとすると後者のケースな
ら仏像の材料にしたのかもしれないと、私
は想像する。(2024/07/26)

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静岡市大谷川Ⅳ遺跡で古墳期頃奔王墨書土器(長さん)

ミニュチュア動物型土器、墨書土器、木製品等
が大量に出土している、表題の静岡県静岡市の
遺跡で、以前に木製品の鋤のヘラ部分に、文字
が書かれているように見えるとの旨の紹介を本
プログでした事がある。結局、その鋤のヘラの
模様については仔細は解明出来無かった。
 今回は、そのときの発掘調査で、これとは別
に杯合わせの土器台のように見える出土遺物に、
漢字で「奉王」のように見える、煤模様が有る
ように認識されるので、今回は以下に紹介する。
 遺物の写真は、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書は以前に
紹介した奈良文化座研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に、登録公開されて
いて、同じpdfファイルである。
 pdfファイル名、発掘報告書名、遺跡の
場所、遺物の出土年、遺物の成立年代を順に
示すと、以下のようになる。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1374_1_大谷川.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第20集
大谷川Ⅳ、1989、財団法人静岡県埋蔵文化
財調査研究所。
 遺跡の場所は、静岡県静岡市大谷地先。遺物
が出土したのは、1985年前後のようである。
 以前に紹介した、以下のpdfに情報が有る。
1940_1_大谷川Ⅳ遺物・考察編本文編.pdf
または、変更されているとすれば、以下の名称。
1940_1_大谷川.pdf
 古代以前の遺物が出土しているとの旨の記載
も、このpdfに有るとの紹介を以前にした。
以下では、この、「発掘報告書本文pdf」の
「特論」の記載により、遺物の成立年代を古墳
時代の後期と仮定する。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第35
:”水上7区 第810流路跡出土土器Ⅰ”の、
右側最下段に在り、遺物番号第65番との旨、
ナンバリングされている。杯のような形が連結
で繋がった、土器台のように私には見える。

大谷川奔王.gif

 上図のように、右下に左から右に、漢字で、
「奉王」のように見える模様が有り、王の字の
下に、呪いの升目模様のような絵が書かれてい
るようにも見える。地域の有力者の墓に納めて、
故人を祀る祭祀に使われる遺物のように、私見
する。古墳時代の後期の、遺跡付近の豪族の存
在といった状況の、手がかりとなる、物品なの
かもしれないと疑う。(2024/07/25)

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熊本県熊本市二本木遺跡で平安初山睨墨書土器(長さん)

今回は、熊本市西区二本木遺跡春日地区
とされる場所の発掘で、平安初期成立の
壷型土器と見られる出土遺物に、漢字
で山睨ないし、山呪に見える煤模様が
有るとの旨の紹介である。

阿蘇山等の、山そのものを神と見立てて、
呪い祭祀を行っていた事を示している

のかもしれないと私見する。この回の発
掘で、複数の墨書土器・刻書土器と認定
されている物品も共出土しているらしい。
 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
90331_2_二本木遺跡群8春日地区田崎地区・
牧崎遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第338集/
二本木遺跡群8(春日地区)(田崎地区)
牧崎遺跡、2020、熊本県教育委員会。
今回紹介する遺物は、このうち二本木遺
跡群で出土した物品である。
 発掘報告書の第1pdfの末尾抄録に
より遺跡の場所は、熊本県熊本市西区
春日三丁目。遺物が出土したのは発掘
報告書第39ページの記載から、西暦
2018年前後の、発掘調査最終時期の
事のように、私には読取れる。
 遺物の成立年代は、遺物は井戸跡20
で出土したが、何れにしてもこの発掘調
査で出土した遺物の大半は8世紀後半~
10世紀までのもので、特に8世紀末~
9世紀第1四半期の、平安時代初が多数
と考えられているように、同じく私には
読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版
(PL)第34:”・・・第17次4区
第20号井戸跡出土遺物”の右の第2段
目の2つの土器の集合写真のうち、向こ
う側左の土器で、第237番との旨、
ナンバリングされている。下記図のよう
に、壷型土器の一種のように、私には
見える。長頸壺との事らしい。

二本木山睨.gif

 上図のように、左の縁に縦に、漢字で
山睨、或いは山呪のように、私には見え
る煤模様が、有るようにも見える。
 山を神として呪いの対象にするか、山
で鉱脈探査をした他界した山伏等を偲ぶ
等の祭祀行為が、古代に熊本県熊本市の、
遠方に阿蘇山が見えているような環境下
で、行われていた事を、示唆しているの
かもしれないと、私は疑う。墨書で、
「山奉」と書かれた祭祀用土器と類似系
統の遺物では無いかと思う。(2024/07/24)

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埼玉県久喜市栗橋北2丁目陣屋跡で第4枚目「将棋駒」(長さん)

以前に述べたが、埼玉県久喜市栗橋北西陣屋跡
から、江戸時代後期18世紀初成立とされる、
成り龍馬角行が出土し、恐らく数十メートル
以内の地点で、一連の同じシリーズの発掘で、
江戸期の成金銀将と、駒名が消えた将棋駒型の
木片が1枚ずつ、計3枚の将棋駒が発掘されて
いるとの旨、本ブログで紹介した。後2者は、
pdfファイル名で、以下の名称で、web上
に公開されているという事であった。
132733_2_北2丁目陣屋跡.pdf
 本ブログの管理人も、実際に発掘作業が行わ
れていた頃、偶然通りかかり、その作業を西暦
2018年頃見学している。西陣屋跡遺跡の
発掘はしばらく続き、翌年頃の西暦2019年
前後に、前記pdfの後2者の将棋駒遺物は、
発掘されていたようだ。
 結局ここまでで、この遺跡から出土した将棋
駒は、3枚のはずだったのだが。
 前記の発掘報告書を良く読み返したところ、

第4枚目とされる第128番木製品が、写真で
出ている

事が判明した。
 ただし、将棋駒では無くて、

木製の小さなカルタ板のように私には見える。

 繰り返すと遺物の写真が、web上に公開さ
れていて、発掘報告書に載り、発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されているが、
その4枚目の「将棋駒」が載っている報告書の、
pdfファイル名、発掘報告書名、遺跡の場所、
出土年、成立年代を順に述べてまとめると、
以下のようになる。
 pdfファイル名:
132733_2_北2丁目陣屋跡.pdf
 発掘報告書の名称;
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第468集
北2丁目陣屋跡、2021年、国土交通省
関東地方整備局・公益財団法人埼玉県埋蔵文化財
調査事業団。
 発掘報告書末尾(第2pdf)の抄録により
遺跡の場所は埼玉県久喜市栗橋北2丁目
3409の2他。遺物が出土したのは、
西暦2019年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、同じく抄録によると、
幕末西暦1860~1870年代の陶磁器製品
が主体であり、その頃の史料と考えられている
ようである。
 遺物の写真は発掘報告書第2pdf写真図版
の部の写真図版第22の第3段目左にどちらが
「上の句」なのか私には謎だが、2コマ両面
写真が在り”9遺物包含層(第74図第128
番)”との旨、ナンバリングされている。

将棋駒のように見えない台形なので、まさか
「将棋駒」と発掘報告書で紹介されたとは、私
は思わなかった

という事情で、初紹介になった次第である。
栗橋カルタ.gif


 以下私見だが。字は和歌に必要な数だけ裏表
に上の句、下の句が分けて書かれていて、全部、
油等により滲んで内容が判らない状態で出土し
たという代物ではないかと疑う。縦書きに和歌、
下の方に、墨で挿絵や、コメントが書いてあっ
たのではないかと疑う。台形なのは単純に意匠。
 カルタの詳しい歴史を個人的に、未チェック
だが。百人一首のカルタ取り遊びの類を、江戸
末期には、していたという証拠の遺物ではない
かと、はっきりし無いが思っている。(2024/07/23)

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