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青森県つがる市亀ケ岡遺跡で縄文晩期山泰墨書土器2(長さん)

既に紹介の青森県つがる市亀ケ岡遺跡の縄文
晩期の壷型土器で、漢字で今度は山奉と書い
てあるようにも見える遺物も、有るとの旨を、
以下に紹介する。
 道教信仰も有ったが、寒冷地の青森県の
津軽地方に渡来人が、西暦紀元前1~2世紀
に上陸した理由は、資源捜索に関連したもの
であり、付帯的に利益をもたらす山々に対し
ての山岳信仰も、

最初の段階から、発生している事を意味する

と取れると考える。
 遺物は、以前に紹介した通り、太平洋戦争
前に出土している物品であり、国立歴史民俗
博物館編集の、以下の成書の別のページに載っ
ている物品である。
 成書の書誌は概略、以下の通り。
国立歴史民俗博物館資料図録第11/
亀ケ岡遺跡・是川遺跡縄文時代遺物、西暦
2015年3月、国立歴史民俗博物館。
 成書第135ページ付近の記載により遺跡
の場所は青森県つがる市木造町。遺物が出土
したのは、西暦1940年代の頃との、事で
ある。遺物の成立年代は、遺物に付記された
情報から、晩期の縄文土器であり、西日本の、
弥生時代中期の頃のものであろうと私見する。
 遺物の写真は今度は、成書「壷型土器編」
第30ページ下段に在る。遺物番号は第A-
258-1-20番との旨、ナンバリングさ
れいる。壷型晩期縄文土器であるが、前のよ
りは、手間を掛けた良い出来の物品と、私に
は見える。道教信者よりも、鉱脈捜索技術者
の方が、器物作成技能は上という事か。大き
さは前の遺物と同類の、直径10センチ以下
の、小さいものらしい。

亀ケ岡山泰2.gif

 上図のように、下段左端に、やや薄く漢字
で「山」のように見える模様があり、その下
に、煤の間を削った後に書いたようにも見え
るが、漢字で「奉」のようにも見える模様が
有る。大きな円形ドーナツ状の煤模様も有る
が、実際に使用時に発生したのかもしれない
し、山の神社で今も、藁を束ねて作成したも
のを見掛けるが、日輪でも表現したのかもし
れない。鉄製品を入れ、山を奉じた祭祀を私
には連想させる物品である。
 渡来人は、紀元前1~2世紀に本州全体に、
隈なく分布し、山間部を往来して鉱脈を捜索
したり、持参した粗製鉄から武具等を作成し
ており、その北端は実際に、本州北端の津軽
半島付近であった事を、示唆していると私見
する。(2024/07/22)

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青森県つがる市亀ケ岡遺跡で縄文晩期山泰墨書土器(長さん)

今回は、青森県の津軽地方の縄文晩期の壷型
土器に、漢字で山泰と書いてあるようにも見
える壷型土器が、太平洋戦争前に出土してい
るととれる情報が、国立歴史民俗博物館編集
の、成書に載っているとの旨の紹介である。
 今回の情報源は、成書(図書)であり、
web上には出土の時代が古すぎて、載って
い無い内容とみられる。
 成書の書誌は、概略、以下の通りである。
国立歴史民俗博物館資料図録第11/
亀ケ岡遺跡・是川遺跡縄文時代遺物、西暦
2015年3月、国立歴史民俗博物館。
 成書第135ページ付近の記載により遺跡
の場所は青森県つがる市木造町。遺物が出土
したのは、西暦1940年代の頃の事のよう
である。遺物の成立年代は、遺物に付記され
た情報から、晩期の縄文土器であり、西日本
の、弥生時代の頃のものであろうと私見する。
 遺物の写真は、成書「壷型土器編」第33
ページ上段に在り、遺物番号第A-258-
1-25番との旨、ナンバリングされいる、
粗製の、繰り返すと壷型晩期縄文土器という
事である。直径10センチ以下の小さいもの
らしい。

亀ケ岡山泰.gif

 上図のように、上端の口に近い部位の中央
やや右寄りに、濃く漢字で「山」のように
見える模様があり、その下に下部が煤を被っ
ていて不明確だが、良く見ると漢字で「泰」
のように見える模様が有る。道教信仰の祭祀
用遺物を、連想させるようである。
 渡来人は、紀元前1~2世紀に本州全体に、
隈なく分布しており、その北端は、津軽半島
付近であった事を、示唆していると私見する。
(2024/07/21)

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(コラム)モミジアオイは、日暮れのエアコンが大好き(長さん)

2024年7月20日午前、1日花のモミジアオイの咲き数
が二十数輪/1日となり、昨年最高時と並んだ。

モミジアオイ2024_7_20.gif

昨19日の感触から、20日は十数輪だと私は見ていたが、
十輪位増えた。

 蕾が、最低気温が上昇して、ほころびが早まった為

とみられる。華の金曜晩の、市街住宅地のエアコン競使いが、

屋外最低気温の低下が嫌いな彼らにとり、余程嬉しかった

のであろう。咲きパターンに7日周期が有るとは、前々から
気が付いていたが。理由のひとつが、これだったようだ。
 本当に暑いのは14時なのに。気温日周、或いは1週間
周期性の、誠に奇怪な国に住んでいるものだと、常々感じる。
 ちなみに、モミジアオイの水やりによる蒸発潜熱のおかげ
で、暑さには耐えられる程度であり、私の家宅では今の所、

装備はあるけれどもエアコンは、全く使っていない。

(2024/07/20)

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滋賀県彦根市国領遺跡で15C夜叉鳩槃木簡(長さん)

今回は、お経の妙法蓮華経を書いたこけら経木簡
に、お経の文句に出て来る、夜叉と鳩槃茶の文字
が、その通りに書かれている、室町時代成立の
遺物が出土しているとの旨の紹介である。
 遺物はスケッチ図だけが、web上に公開され、
「木簡研究」の第30号に載っている。研究会報
が、奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
90198_1_木簡研究.pdf
 会報の名称は、以下の通りである。
木簡研究第30号、西暦2008年、木簡学会。
 情報はその第88ページ付近から書かれている。
 会報のその箇所の記載により、遺跡の場所は、
滋賀県彦根市田附町。遺物が出土したのは、西暦
2003年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、木簡の片側に写経すると
いう形態等から、15世紀中期以降の室町時代の
ものであろうとの旨が、会報の同88ページ下段
にある。
 残念ながら、実物の写真は会報には無い。
スケッチ図が、第90ページの上段に、経文内の、
書かれた内容の順序で第4番目として載っている。
 「龍夜叉鳩槃茶等得」と読まれ「妙法蓮華経の、
薬王菩薩本事品第二三の第152行目の通り」と
の事である。妙法蓮華経に龍、夜叉、鳩槃茶と、
並んでいたので、後に安土桃山時代に、大大将棋
に夜叉と鳩槃が、龍駒の存在からの連想で取り込
まれる要因になったものと、私見する。(2024/07/20)

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山形県米沢市馳上遺跡で古代竜王木簡(長さん)

今回は、木簡学会の会報「木簡研究」に、
表題遺跡で平安初の木簡が出土し、洪水
の収束ないし、雨乞いが目的と思われる、
呪術用の、龍神に祈願する内容の木簡で
あるとの旨の紹介である。
 龍神で雨乞いないし洪水の収束を祈祷
するという内容の祭祀は全国的に行われ、

東北地方からも、その系統の呪術木簡が
例外無く、存在している事を示している

という事であり、会報の内容の通りであ
ると、以下に結論づける。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
会報冊子「木簡研究」の第23号に載っ
ている。冊子は奈良文化財研究所の発掘
報告書データベース、全国遺跡報告総覧
に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
90185_1_木簡研究.pdf
 会報の書誌概略は以下の通りである。
木簡研究第23号、西暦2001年、
木簡学界。
 情報は、該会報の第103ページ付近
からある。遺跡の場所は、山形県米沢市
大宇川井字元立。木簡遺物が出土したの
は西暦2000年前後の事のようである。
 会報の同じく第103ページ下段付近
の記載より、遺物の成立年代は9世紀
前半の、平安時代初期と、発掘時に出土
地点の様子から、考えられたようである。
 遺物の写真は、同会報の第104ペー
ジに在り、両面に「竜王」ないし「○王」
の墨跡が、明らかに存在する。

馳上竜王.gif

 釈文で下部の切れ端の右側が「八竜王」、
左側も「八竜王」と、木簡学会により読
みを付与されたようである。
 会報では「草木万七千(または十)」
と上図右下のように、書いて有るので、
枯れ草木が、青々と蘇るように雨乞いが
行われたと、みられているようである。
 それで正しいであろうと、私も考える。
龍神信仰が本州北端まで有るのが自然だ
から、東北地方でも、この類の呪術木簡
が出土するのは、時間の問題だったのだ
ろうと、木簡学会の会報の記載の意に私
も同意する。(2024/07/19)


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群馬県石川原遺跡10C初石夲墨書は神官家章(長さん)

ちょうど2年位前、本ブログで八ツ場ダム
建設時に、それに絡んで発掘調査が行われ
た、表題群馬県長野原町在の石川原遺跡で、
物部氏系豪族の、「石上氏に付近の民が、
物品を入れて奉じた」と紹介した「石夲」
墨書土器8つについてその後、奈良文化財
研究所、発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録された、群馬県埋蔵
文化財調査事業団の研究紀要に考察が追加
されている事が判った。
 それによると、それら8つの

石夲遺物は、山岳信仰の祭祀神官である、
石上氏系の人物が、個人的に短期間に作成
したもので、石上氏に対する不特定多数の
民による、継続的租税品献上の事実は無い

と読取れる内容が書かれている事が、判明
した。山を奉じる石上氏姓の神官が、祭祀
用の墨書土器を作ったが、結果として律令
村に、それらが何らかの経緯で配布されて
出土した物品のようである。その為、
個人流の特殊なデザインの墨書遺物であり、
該「石奉」型土器が、全国的に見れば「山
奉」型土器ほど、多数は存在し無い理由
になっているらしい。
 以前の本ブログの解釈は、律令時代に、
租税を特定地方氏族で、せしめてしまう
豪族が存在する、かのようであって奇妙で
あり、

以上のように、間違いが有ったので、訂正

したい。
 以下の紀要の冊子に、8つの出土物品
は、西暦901年から925年の間のもの
であり、更に土器の種類が、全く同じで、
かつ、墨書を書く位置も、土器の横で同じ
な為「一例としてそのようにも推定できる」
と、慎重な言い回しの上、前記のように、
特定神官による特別墨書であるとの旨が、
載っていると、読み取れるようである。
 pdfファイル名は、以下の通り。
139754_1_研究紀要.pdf
 研究紀要の名称は、以下の通り。
研究紀要39、2021、公益財団法人
群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 その第88ページの左カラムの最下段付
近に、上記の内容が、著者の高島英之氏に
より、紹介されている。
 なお、繰り返すと、8つの石夲墨書土器
の載っている発掘報告書のpdfファイル
名は、以下の通り。
122372_4_石川原遺跡2.pdf
 研究紀要の書名は、以下の通り。
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団調査
報告書第671集/石川原遺跡(2)、
2020年、国土交通省・公益財団法人
群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 一例で、その墨書土器のうち、墨書が
最も鮮明な、以下の例を再掲する。
以下は、写真図版第424の下カラム:
”2)第30号竪穴建物出土遺物1”の、
右下で第5番とナンバリングされた、土器
破片である。

石川原石奔1再.gif

 以前の紹介では、右側の正体コマが、
本ブログでは紹介落ちしていた。
 良く見れば第1字目の「石」の右に、
漢字に無い≪右払い≫が付与され山の絵に
明らかにはめ込まれていて、個人で工夫し
たデザインである。氏族の名前を山岳信仰
の祭祀用土器には、普通は入れ無いので、
全国的に見れば、このデザインの墨書は
特殊という事になろう。(2024/07/18)

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牛僧孺「岑順」金象軍の相手が天那国+匈奴の理由(長さん)

前野直彬翻訳の牛僧孺「岑順」は、宝応将棋の
史料として知られ、9世紀の晩唐成立である。
今回は、その物語のコンテンツに、

11世紀半ばの加筆部が在る

と指摘した上で、加筆の動機が、

日本に平安小将棋が成立した事による、北宋
王朝知識人内の、軍事的な<先越され焦り感>
が存在

した事、その結果中国シャンチーのゲーム・ルー
ルを、早期に全国統一し無ければならないとの
認識が有った事を、淡く示唆しているとの旨、
以下に指摘する。
 日本語訳した牛僧孺「岑順」は、前野直彬
翻訳の東洋文庫、「唐代伝記集」の第2の、
第88ページから在り、加筆と本ブログの管理
人が疑う箇所は、そのうち、第89ページの、
下段の後ろから3行目に在る。
「わが国は匈奴と境を接し、戦闘の耐えぬまま・」
という、金象国国王の手紙の冒頭部分であり、
「わが国は北山国と境を接し戦闘の耐えぬまま・」
が、唐代の原文だったと、管理人は同じく推定
する。

「匈奴」という国名に、原文が交換されたと見
ているという意味

である。この下りは、ほぼ以降のストーリーと
関連してい無い。匈奴の分国のように見える
「天那国」が、どういう素性の国なのかは、
玄怪録岑順の話全体には、余り関係が無いので
ある。
 では、匈奴が唐突に出てきた理由だがずはり、

チェス型ゲームが、北宋王朝を差し置いて、
雲南大理国の王族内戯事の範疇を越えて、軍事
シミュレーションとして、日本の武族も、軍の
士気向上に活用しているという願意の「枕詞」

として使ったと本ブログ管理人は見るのである。
 ここで「匈奴」とは、「前漢王朝の時代に、
相手が渡れぬ、海の向こうの島国日本で武具を
製造する事を目的として、船団で中国から大量
の要員が派遣された『かの倭国』の曙の、発生
要因を思い出させる国」という意味の「枕詞」
と見ている。
 北宋の知識人には、古事記や日本書紀には
書かれてい無い、弥生時代中期の日本への中国
渡来人の渡来の動機や目的、活動経過の状況が、
今と違って、王朝内書庫には記憶として完全に
残って知っていたというのは、本ブログ管理人
の私論だが、明らかなのでは無いかと疑われる。
 つまり、「わが国は匈奴と境を接し、戦闘の
耐えぬまま・・」は牛僧孺がそう書いたのでは
無く、太平広記の初期の読者の何者かが、何ら
かの手段で、冊本を手直しして誤伝したと考え
ると、存在する理由が、無理無く説明出来ると
いう事である。
 これは「北宋時代の昨今、従来なら雲南省で
細々、ふざけで遊戯されていたが、日本にまで、
プレーヤ層が拡大して、宮廷内でも、軍の士気
の、日本に対する相対的立ち遅れが問題になっ
ている所の、かの『将棋』の話をこれからする
のだが」という願意を、「匈奴」という国名を
出す事によって、醸し出しているのではと、私
は考えるという意味である。
 実際太平広記が出版され、初期購読された頃
北宋内関係者の間では、

宮廷を巻き込んで、中国シャンチーの成立に、
躍起になっていた時代

であったのでは無いのだろうか。つまり日本に
推定中国雲南省から将棋が伝来し、刀伊の入寇
が原因で、それが日本では国軍の士気に、影響
があると考えられて、五角形駒が製作される等
して、遊戯具技術的な改善や、ゲームルールに、
「裸王の、自殺手に対する優先」というソフト
ウェアー的な改善も有って、盛んになったとの
情報が、少なくとも10年以内の西暦1030
年頃には、北宋王朝内にも、当然の事ながら、
もたらされていた。そして、

その技術の無い、北宋時代の中国の立ち遅れが、
太平広記読者層の宮廷内知識人層の間でも問題
になった

のでは無いのかという事である。
 更に、一例周文裔等、北宋期の中国人の将棋
を実伝来させた交易商人も、宮殿に呼び出され
て、藤原道長から「(幼帝の)後一条天皇用に、
珍しければとにかく何でもよいから、玩具を取
り寄せろ」等と依頼されて、将棋道具を取り扱っ
た等の旨の報告が、聞き取り調査されたりも、
当然かもしれないが、あったのかもしれない。
 何れにしてもその結果、囲碁と同じように、
交点置きゲームにフォームを変える等して、
国家の庇護が有る事を保障などしながら、

砲駒・九宮存在型の現中国シャンチーの成立が、
西暦1050年前後までには加速していった

という事なのであろう。その結果中国シャンチー
は、以前に本ブログでも指摘した通り、日本へ
のいわゆる日本型将棋の、雲南大理国からの伝
来に遅れる事数十年の、西暦1065年頃には、
完成/完全成立したのではあるまいか。
 つまり、西暦1015年前後に上陸したとみ
られる日本への将棋の伝来が先で、その数十年
遅れで、その「焦り」もあって、中国シャンチー
は確立された疑いが有る事を、この物語史料は、
太平広記に取り込まれて出版された後、しばら
くして何らかの方法で、加筆がされた事により、
淡く示している疑いが有るという意味である。
 恐らく日本の将棋が、実際の戦闘局面との
戦術とは、ほぼ似てい無いしろものであっても、
軍隊兵士の軍事シミュレーションをするという
行為自体で、士気が高まるという事実を、イス
ラム国家の8世紀頃の認識同様、東アジアにお
いて最初に気がついたのは、当時大宰府権帥の、
藤原隆家あたりであっのだろう。後一条天皇に
まで、昭和の太平洋戦争終結時点までの意味の
国家元首も、戦略シミュレーションに興味を持
つべきだと、隆家は刀伊の入寇時、相手を追い
払ってから、京都に帰って主張していた為に、
その当時は、経緯のニュースが数年は掛かるだ
ろうが北宋宮廷内に届いていたほど、極東地域
で有名な話だったのてはなかろうか。
 それに対し中国側は、「象棋系はゲームとし
ての出来が劣る上に、実際の戦闘に役立つとは
内容から見て思えない」という点が、日本の動
向が伝わる以前には、強調されすぎていたとい
うような内容の反省が、北宋朝国内では、当時
なされたのではあるまいか。
 当時の先進国家中国北宋では、その結果、
ゲームに砲駒を加え、九宮ルールを発明する事
によって、ゲームの出来という点では、あっと
いう間に、実際には日本を追い抜いていったの
だが。
 現時点では、興福寺駒よりも古いシャンチー
駒が、中国で出土し無いという現実によって、
中国がチェス系ボードゲームのの発明国である
との論を、大きく揺るがす皮肉な要因になって
いるように、私には、その推移が読めるような
気がするのである。(2024/07/17)

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群馬県高崎市本郷広神遺跡で9C奔人墨書土器(長さん)

今回は「榛名山信仰祭祀が行われた遺跡で
ある事が疑われ、墨書遺物が出土したが、
2文字以下の墨書ばかりでありはっきりし
無い」と、群馬県埋蔵文化財調査事業団の
研究紀要に記載された、遺跡の文字史料遺
物のうち、釈文不明のものの一つに、幸い、
「奉巫人」の3文字墨書土器があり、祭祀
の行われた遺跡に間違い無く、恐らく、
榛名山等を奉じた祭祀の行われた場所なの
ではないかと、同意した遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
131442_4_本郷上ノ台遺跡・本郷満行原遺跡・
本郷広神遺跡・本郷西谷津遺跡.pdf
 なお、この発掘報告書は、別の釈文が
曖昧な墨書遺物を以前に、本ブログでは、
紹介した事がある。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団
調査報告書第722集/本郷上ノ台遺跡・
本郷満行原遺跡・本郷広神遺跡・本郷西谷津遺跡・
本郷大カサ遺跡・本郷鶴窪遺跡・本郷萱原遺跡・
本郷嶋上遺跡、2023年、群馬県高崎土木事務所・
公益財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 この遺跡群からは、墨書遺物が複数発掘
されているが、以下に紹介するのは、近接
して存在する8遺跡のうち、本郷広神遺跡
で出土した土器である。
 発掘報告書第1分冊末尾抄録により、遺
跡の場所は群馬県高崎市本郷町703-1。
遺物が出土したのは、西暦2018年から、
西暦2020年の間、ないしその前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、以下の同じく、奈良
文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録された冊子に、情
報が在る。
 pdfファイルは以下の通りである。
139760_1_研究紀要.pdf
 冊子名は、以下の通りである。、
研究紀要42、2024年、公益財団法人
群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 その第49ページ「墨書・刻書土器一覧
表」の中の第15番目に、9世紀前半の、
平安時代初期と推定された旨、記載が有る。
その前後に、墨書・刻書遺物の詳しい考察
が記載されている。
 遺物の写真は、戻って元の発掘報告書、
第4分冊の写真図版(PL.)第389の
下から2段目、左から2番目に在り、遺物
番号第20番と、ナンバリングされている。
杯型土器の裏面のようである。

広神奔人.gif

 上図のように、左上に、上部が遺物の割
れ部分の外に出てしまい欠けているが「奉」、
その右下に、右の「人」の右払いが薄く、
下の横棒が消失しているが「巫」のように
見える模様が有り、その右に、杯の底面の
形に、恐らく従って時計回りに回転して
「人」と書かれているものの、ヨゴレの
せいで「J」のように見えている模様が在
ると私見する。全体で「奉巫人」(ほう
ふじん)と三文字であり、恐らく山岳崇拝
用の祭祀場所が、遺跡内に在り、研究紀要
に記載の通り、平安時代前期の榛名山信仰
と解釈して正しいのではないかと、私には
そこから推定可能な遺物と見る。(2024/07/16)

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大阪府泉大津市東雲遺跡で4C銅曹墨書土器(長さん)

本ブログではこれまで、中国古代後漢~魏王朝期
の、対中交易品は鉄制武器が主力と説明してきた。
が祭祀用等の銅製品も、4世紀ごろ大阪の港から、
積み出されていた事を示唆する壷型土師器土器が、
表題遺跡で、だいぶん前に出土したらしい。以下
に、その旨を紹介する。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
4615_1_泉大津市埋蔵文化財発掘調査概報.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大阪府泉大津市文化財調査報告13/
泉大津市埋蔵文化財発掘調査概報5、
1987.3、大阪府泉大津市教育委員会。
 発掘報告書冒頭第3ページの発掘調査経過一覧
表により、遺跡の場所は大阪府泉大津市板原66・
67。遺物が出土したのは西暦1986年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代はこの遺跡自体が古墳時代前期
4世紀のものと、発掘報告書第10ページ付近の
記載よりされ、また、第45ページの遺物の説明
からも、土器自体の形態等から古墳時代前期、
4世紀前後の成立と考えられているように、私に
は読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第14の、
最上段左端に在り、遺物番号第4番との旨、ナン
バリングされている。大型広口の壷型土師器土器
のように、私には見える。

東雲銅曹.gif

 上図のように、写真の右側に縦に目立って大き
くやや薄いが、漢字で「銅」のように見える、
珍しい模様が有り、その下に第2字目のようにも
見える、はっきりしないが「曹」のようにも、
また単なる煤のようにも見える、暗い模様が在る。
「銅箆」かその意と書かれているのかもしれない。
 大陸、後漢~魏王朝時代の交易品に「銅製品」
が古墳時代前期には含まれていた事を示すと私見
する。鉄製武器だけではなく、貴金属一般が当時
日本と大陸間で流通し、場合によっては、古墳期
には銅剣・銅鐸・銅鏡などの原料になっていた疑
いも、有るのではないかと私は思う。(2024/07/15)
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岩手県平泉志羅山両面飛龍は浄土教念仏と共出土(長さん)

以前に述べたが本ブログでは、15升目130枚
制大将棋の歩兵下袖配列同様、13世紀後鳥羽
上皇期の仮説13升92枚制歩兵4段型大将棋で
も、袖は同様な角行、竪行、横行配列に、なって
いると仮定している。元々の中央列横行は玄怪録
岑順の、「上将」の動きの「横暴→横行」が起源
であり、

竪行と角行は、親鸞の説法起源で発生し、それに
よる横行駒の袖移動

としている。つまり横行は、行駒の種類が増加し
たので、シフトしたと考えたのである。
 浄土教の信者に、その頃の大将棋を指す傾向
が有ったと、駒数多数将棋に残る独特の配列を
説明するために仮定したが、従来史料としての証
拠に乏しかった。
 しかるに今回、岩手県西磐井郡平泉町平泉字
志羅山の志羅山遺跡で両面飛龍が発掘された当時
の共出土文字史料が、「木簡研究」第25号に載っ
ていて、表題のように、

「南無阿弥陀仏」卒塔婆の存在が、数の上で卓越
して共出土しているという情報を得た結果、未知
の裏づけ史料が見出された

と判断し、以下「木簡研究」第25号の内容を紹
介する。
 冊子はweb上に公開されていて、スケッチ図
がその中にある。「木簡研究」第25号自体の、
抜粋が奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
90192_1_木簡研究.pdf
 冊子の概略書誌は、次の通り。
木簡研究/25号、2003年11月、木簡学会。
 pdfファイル内のページは、ところどころで
飛んでいるが、第132ページと表記されたとこ
ろから、西磐井郡平泉町志羅山遺跡の、西暦
2001年の発掘調査で出土した、文字史料すな
わち、卒塔婆、将棋の駒、定規等不明の木製品に
習字した物品の、以上3種の紹介が有る。
 まともに卒塔婆内容が読める木板が6枚有るが、
5枚が浄土教の阿弥陀念仏特有の「南無阿弥陀仏」
であり、残りが「南無大日如来」である。浄土教
の早期の信者が、ここには少なくとも、今に痕跡
が残るほどに優勢に存在したことは、どう見ても
明らかなようだ。

つまり、法然生存時の浄土教信者が多数存在した
中で、二中歴系とみられる平安大将棋系が指され
た事が明確だ。

 ちなみに、成立年代は、冊子に12世紀と記載
されている。ほとんど、親鸞本人が「竪行、横行」
で説教し始めたのと、同時成立という事だろう。
 以上の事から、68枚制13升目平安大将棋か
ら、仮説92枚制13升目後鳥羽上皇期大将棋に
移行する段階で、大将棋は浄土教信者の居る環境
で指されていたという事を、裏付ける史料が、存
在する事がどうみても明らかなのではないかと私
は考える。(2024/07/14)

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