福岡県福岡市西新町遺跡で古墳初泰山墨書土器2(長さん)
既に、弥生時代末から古墳時代初とされる、
表題の集落遺跡とみられる、福岡県福岡市
西新町遺跡で、2個の「山奉」型墨書等土器
を紹介した。が、1世紀ほど時代が下る古墳
時代初期の4世紀の、蛸壺型土器、台付き杯
土器台部分に、漢字で奉山と書かれている、
煤模様がある遺物が出土しているとの旨の、
以下紹介である。繰り返すがこの遺跡からは、
弥生時代の硯と疑われている、砥石状の
石製品も、私には確認できないが、別の
発掘調査時に出土しているとの事である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
2つの物品について、別々の発掘報告書に
載っている。それぞれの発掘報告書は、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
蛸壺型土器、台付き杯土器の順に、
それぞれ並べるが、pdfファイルは、
以下の通りである。
57610_1_西新町遺跡.pdf
72659_1_西新町遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、それぞれ次の通り。
西新町遺跡Ⅲ/福岡市埋蔵文化財調査報告書第157集
西暦2001年、福岡市教育委員会。
西新町遺跡Ⅶ/福岡市埋蔵文化財調査報告書第208集
西暦2006年、福岡市教育委員会。
それぞれの発掘報告書末尾抄録等により、
遺跡の場所は福岡県福岡市早良区西新6-
1-10。
蛸壺型土器土器が出土したのは西暦
1998年前後。
台付き杯土器が出土したのは西暦2003
年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、それぞれの発掘報告書
の同じく末尾の抄録から、各回の発掘調査は、
古墳時代初の4世紀付近に成立した遺物が、
採取されたように、私には読取れる。
遺物のうちの第1の、蛸壺型土器の写真
は、第1番目の発掘報告書の写真図版第
107:”第101・第102号竪穴住居跡
出土土器”の、最上段右に在り、スケッチ図
第211の第82番との旨、ナンバリング
されているようである。

紐で吊るす穴のように、私には見える上方
部分の右に、漢字で奉、その真下で下部に、
山のように見える煤模様が有るようである。
海で使う物品にも、山を奉じるような墨跡
が有るところを見ると、古墳時代に入っても
なお、日本の何処かで精力的に鉱物捜索して
成功した、西洋紀元前後生存した先祖が、
福岡市のこの遺跡で、崇拝されていたほどに、
彼の仕事の成果は大きいと、みられていたの
であろう。
次に遺物のうちの第2番目の、台付き土器
の写真は、第2番目の発掘報告書の写真図版
第42:”第25~27・30号竪穴住居跡
出土土器・第31号竪穴住居跡出土土器(1)”
の最下段右に在り、スケッチ図第112番の
第29番との旨ナンバリングされている。

台の支柱部分の写真でほぼ中央に、漢字で
薄く「奉」、台に近いそこから真っすぐ下の
部分に、こちらも薄く「山」と書いて有る
ように、私見される。同じく、山を奉じる、
供え物をする祭祀用土器だったのかもしれな
いと私は疑う。
以前に紹介した2つの「山奉」型土器も合
わせて、計4つの物品を見る限り、やはり私
には、硯を使って紹介したような、漢字を書
く事は実際に使われ、弥生末期から古墳時代
初に「山奉」・「奉山」程度の漢字は、日本
国内でも、普通に使われていたのではないか
と、依然として私は疑っている。(2024/07/01)
表題の集落遺跡とみられる、福岡県福岡市
西新町遺跡で、2個の「山奉」型墨書等土器
を紹介した。が、1世紀ほど時代が下る古墳
時代初期の4世紀の、蛸壺型土器、台付き杯
土器台部分に、漢字で奉山と書かれている、
煤模様がある遺物が出土しているとの旨の、
以下紹介である。繰り返すがこの遺跡からは、
弥生時代の硯と疑われている、砥石状の
石製品も、私には確認できないが、別の
発掘調査時に出土しているとの事である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
2つの物品について、別々の発掘報告書に
載っている。それぞれの発掘報告書は、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
蛸壺型土器、台付き杯土器の順に、
それぞれ並べるが、pdfファイルは、
以下の通りである。
57610_1_西新町遺跡.pdf
72659_1_西新町遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、それぞれ次の通り。
西新町遺跡Ⅲ/福岡市埋蔵文化財調査報告書第157集
西暦2001年、福岡市教育委員会。
西新町遺跡Ⅶ/福岡市埋蔵文化財調査報告書第208集
西暦2006年、福岡市教育委員会。
それぞれの発掘報告書末尾抄録等により、
遺跡の場所は福岡県福岡市早良区西新6-
1-10。
蛸壺型土器土器が出土したのは西暦
1998年前後。
台付き杯土器が出土したのは西暦2003
年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、それぞれの発掘報告書
の同じく末尾の抄録から、各回の発掘調査は、
古墳時代初の4世紀付近に成立した遺物が、
採取されたように、私には読取れる。
遺物のうちの第1の、蛸壺型土器の写真
は、第1番目の発掘報告書の写真図版第
107:”第101・第102号竪穴住居跡
出土土器”の、最上段右に在り、スケッチ図
第211の第82番との旨、ナンバリング
されているようである。

紐で吊るす穴のように、私には見える上方
部分の右に、漢字で奉、その真下で下部に、
山のように見える煤模様が有るようである。
海で使う物品にも、山を奉じるような墨跡
が有るところを見ると、古墳時代に入っても
なお、日本の何処かで精力的に鉱物捜索して
成功した、西洋紀元前後生存した先祖が、
福岡市のこの遺跡で、崇拝されていたほどに、
彼の仕事の成果は大きいと、みられていたの
であろう。
次に遺物のうちの第2番目の、台付き土器
の写真は、第2番目の発掘報告書の写真図版
第42:”第25~27・30号竪穴住居跡
出土土器・第31号竪穴住居跡出土土器(1)”
の最下段右に在り、スケッチ図第112番の
第29番との旨ナンバリングされている。

台の支柱部分の写真でほぼ中央に、漢字で
薄く「奉」、台に近いそこから真っすぐ下の
部分に、こちらも薄く「山」と書いて有る
ように、私見される。同じく、山を奉じる、
供え物をする祭祀用土器だったのかもしれな
いと私は疑う。
以前に紹介した2つの「山奉」型土器も合
わせて、計4つの物品を見る限り、やはり私
には、硯を使って紹介したような、漢字を書
く事は実際に使われ、弥生末期から古墳時代
初に「山奉」・「奉山」程度の漢字は、日本
国内でも、普通に使われていたのではないか
と、依然として私は疑っている。(2024/07/01)