群馬県富岡市内匠日向周地遺跡で古墳期泰山墨書(長さん)
今回は、奈良時代の祭祀跡の遺跡である事が
判明している複合遺跡で、時代が更に上る、
古墳期後期の竪穴住居跡出土の杯型土器に、
「泰山」と漢字で書いてあるような、黒い
模様が有るとの旨の紹介である。
道教信仰の龍が、日本の龍神信仰に転換した
事を印象づける遺物である。
遺物の写真がweb上に紹介されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
28928_1_内匠日向周地遺跡下高瀬寺山遺跡
下高瀬前田遺跡.pdf
遺物はこのうち奈良時代の祭祀用呪術木簡
が、同じ遺跡内の、軽く土が谷間に堆積した
「谷津状遺構」(U字谷地)で、共出土して
いるとされる内匠日向周地遺跡で見つかった
ようである。
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告第188集/
内匠日向周地遺跡・下高瀬寺山遺跡・下高瀬前田遺跡、
1995、群馬県教育委員会・財団法人群馬県
埋蔵文化財調査事業団・日本道路公団。
発掘報告書の本文と写真図版の間に挿入さ
れている、抄録より遺跡の場所は、群馬県
富岡市内匠(たくみ)。遺物が出土したのは、
西暦1990年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第60ペー
ジ付近の記載から、話題とする杯型土器は第
3号住居跡から出土し、遺物の形から6世紀
後半の、古墳時代後期の成立と、考えられて
いるように、私には読み取れる。
遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
第22の、右から2列目の第2段目に在り、
第3住居跡の第4番との旨、付記されていて、
杯型土器のように、私には見える。

上図のように、写真で左に寄って横に、右
から左に、漢字で「泰山」と読めるような、
濃く黒い模様が有るように、私には見えるが、
ただし山の中央部の墨が、擦れている。また、
その他に今述べた擦れているものの濃い「山」
の左上に、もっと大きく薄く、もう一字「山」
と書いてあるようにも見える。
渡来人の、道教泰山信仰のように見えるよ
うである。
ところでこの回の発掘で同じ内匠日向周地
遺跡の「谷津状遺構」から「天塁蚊蛇奉龍王」
等と、墨書されているとされる、木簡が出土
していると発掘報告書に記載されている。そ
の古代成立の遺物は、写真図版第26の右端
に、第1号木簡と付記され、下記のような物
品である。

別の奈良文化財研究所、発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に以下のpdf名、
100966_1_研究紀要.pdf
で登録されている、財団法人群馬県埋蔵文化
財調査事業団の研究紀要「1997年3月号」
の第22ページ付近の記載により、木簡の
文字は「武神北斗七星の化身:蚊蛇(みづち)
神を仲立ちにして、龍神に雨乞い、または、
洪水収拾を祈」った、日本古来の祭祀行為に
関連するものと、考えられるとの事である。
遺跡の北方に川が有り洪水収拾かもしれない。
なお木簡の方が成立年代は後で、同冊子第
21ページ下端付近の記載から、7世紀後半
ないし8世紀の、奈良時代成立とされている
ように、私には読み取れる。
よって道教の龍神信仰が古墳時代後期まで
は、元々この地に存在し、日本的な龍神信仰
に、古墳時代から奈良時代に移るにつれて、
変容したと考えられるのは、前者の6世紀後
半成立の、同祭祀系遺跡出土の「泰山」墨書
土器の存在から見て明らかなように、私には
認識される。(2024/07/12)
判明している複合遺跡で、時代が更に上る、
古墳期後期の竪穴住居跡出土の杯型土器に、
「泰山」と漢字で書いてあるような、黒い
模様が有るとの旨の紹介である。
道教信仰の龍が、日本の龍神信仰に転換した
事を印象づける遺物である。
遺物の写真がweb上に紹介されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
28928_1_内匠日向周地遺跡下高瀬寺山遺跡
下高瀬前田遺跡.pdf
遺物はこのうち奈良時代の祭祀用呪術木簡
が、同じ遺跡内の、軽く土が谷間に堆積した
「谷津状遺構」(U字谷地)で、共出土して
いるとされる内匠日向周地遺跡で見つかった
ようである。
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告第188集/
内匠日向周地遺跡・下高瀬寺山遺跡・下高瀬前田遺跡、
1995、群馬県教育委員会・財団法人群馬県
埋蔵文化財調査事業団・日本道路公団。
発掘報告書の本文と写真図版の間に挿入さ
れている、抄録より遺跡の場所は、群馬県
富岡市内匠(たくみ)。遺物が出土したのは、
西暦1990年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第60ペー
ジ付近の記載から、話題とする杯型土器は第
3号住居跡から出土し、遺物の形から6世紀
後半の、古墳時代後期の成立と、考えられて
いるように、私には読み取れる。
遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
第22の、右から2列目の第2段目に在り、
第3住居跡の第4番との旨、付記されていて、
杯型土器のように、私には見える。

上図のように、写真で左に寄って横に、右
から左に、漢字で「泰山」と読めるような、
濃く黒い模様が有るように、私には見えるが、
ただし山の中央部の墨が、擦れている。また、
その他に今述べた擦れているものの濃い「山」
の左上に、もっと大きく薄く、もう一字「山」
と書いてあるようにも見える。
渡来人の、道教泰山信仰のように見えるよ
うである。
ところでこの回の発掘で同じ内匠日向周地
遺跡の「谷津状遺構」から「天塁蚊蛇奉龍王」
等と、墨書されているとされる、木簡が出土
していると発掘報告書に記載されている。そ
の古代成立の遺物は、写真図版第26の右端
に、第1号木簡と付記され、下記のような物
品である。

別の奈良文化財研究所、発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に以下のpdf名、
100966_1_研究紀要.pdf
で登録されている、財団法人群馬県埋蔵文化
財調査事業団の研究紀要「1997年3月号」
の第22ページ付近の記載により、木簡の
文字は「武神北斗七星の化身:蚊蛇(みづち)
神を仲立ちにして、龍神に雨乞い、または、
洪水収拾を祈」った、日本古来の祭祀行為に
関連するものと、考えられるとの事である。
遺跡の北方に川が有り洪水収拾かもしれない。
なお木簡の方が成立年代は後で、同冊子第
21ページ下端付近の記載から、7世紀後半
ないし8世紀の、奈良時代成立とされている
ように、私には読み取れる。
よって道教の龍神信仰が古墳時代後期まで
は、元々この地に存在し、日本的な龍神信仰
に、古墳時代から奈良時代に移るにつれて、
変容したと考えられるのは、前者の6世紀後
半成立の、同祭祀系遺跡出土の「泰山」墨書
土器の存在から見て明らかなように、私には
認識される。(2024/07/12)