牛僧孺「岑順」金象軍の相手が天那国+匈奴の理由(長さん)
前野直彬翻訳の牛僧孺「岑順」は、宝応将棋の
史料として知られ、9世紀の晩唐成立である。
今回は、その物語のコンテンツに、
11世紀半ばの加筆部が在る
と指摘した上で、加筆の動機が、
日本に平安小将棋が成立した事による、北宋
王朝知識人内の、軍事的な<先越され焦り感>
が存在
した事、その結果中国シャンチーのゲーム・ルー
ルを、早期に全国統一し無ければならないとの
認識が有った事を、淡く示唆しているとの旨、
以下に指摘する。
日本語訳した牛僧孺「岑順」は、前野直彬
翻訳の東洋文庫、「唐代伝記集」の第2の、
第88ページから在り、加筆と本ブログの管理
人が疑う箇所は、そのうち、第89ページの、
下段の後ろから3行目に在る。
「わが国は匈奴と境を接し、戦闘の耐えぬまま・」
という、金象国国王の手紙の冒頭部分であり、
「わが国は北山国と境を接し戦闘の耐えぬまま・」
が、唐代の原文だったと、管理人は同じく推定
する。
「匈奴」という国名に、原文が交換されたと見
ているという意味
である。この下りは、ほぼ以降のストーリーと
関連してい無い。匈奴の分国のように見える
「天那国」が、どういう素性の国なのかは、
玄怪録岑順の話全体には、余り関係が無いので
ある。
では、匈奴が唐突に出てきた理由だがずはり、
チェス型ゲームが、北宋王朝を差し置いて、
雲南大理国の王族内戯事の範疇を越えて、軍事
シミュレーションとして、日本の武族も、軍の
士気向上に活用しているという願意の「枕詞」
として使ったと本ブログ管理人は見るのである。
ここで「匈奴」とは、「前漢王朝の時代に、
相手が渡れぬ、海の向こうの島国日本で武具を
製造する事を目的として、船団で中国から大量
の要員が派遣された『かの倭国』の曙の、発生
要因を思い出させる国」という意味の「枕詞」
と見ている。
北宋の知識人には、古事記や日本書紀には
書かれてい無い、弥生時代中期の日本への中国
渡来人の渡来の動機や目的、活動経過の状況が、
今と違って、王朝内書庫には記憶として完全に
残って知っていたというのは、本ブログ管理人
の私論だが、明らかなのでは無いかと疑われる。
つまり、「わが国は匈奴と境を接し、戦闘の
耐えぬまま・・」は牛僧孺がそう書いたのでは
無く、太平広記の初期の読者の何者かが、何ら
かの手段で、冊本を手直しして誤伝したと考え
ると、存在する理由が、無理無く説明出来ると
いう事である。
これは「北宋時代の昨今、従来なら雲南省で
細々、ふざけで遊戯されていたが、日本にまで、
プレーヤ層が拡大して、宮廷内でも、軍の士気
の、日本に対する相対的立ち遅れが問題になっ
ている所の、かの『将棋』の話をこれからする
のだが」という願意を、「匈奴」という国名を
出す事によって、醸し出しているのではと、私
は考えるという意味である。
実際太平広記が出版され、初期購読された頃
北宋内関係者の間では、
宮廷を巻き込んで、中国シャンチーの成立に、
躍起になっていた時代
であったのでは無いのだろうか。つまり日本に
推定中国雲南省から将棋が伝来し、刀伊の入寇
が原因で、それが日本では国軍の士気に、影響
があると考えられて、五角形駒が製作される等
して、遊戯具技術的な改善や、ゲームルールに、
「裸王の、自殺手に対する優先」というソフト
ウェアー的な改善も有って、盛んになったとの
情報が、少なくとも10年以内の西暦1030
年頃には、北宋王朝内にも、当然の事ながら、
もたらされていた。そして、
その技術の無い、北宋時代の中国の立ち遅れが、
太平広記読者層の宮廷内知識人層の間でも問題
になった
のでは無いのかという事である。
更に、一例周文裔等、北宋期の中国人の将棋
を実伝来させた交易商人も、宮殿に呼び出され
て、藤原道長から「(幼帝の)後一条天皇用に、
珍しければとにかく何でもよいから、玩具を取
り寄せろ」等と依頼されて、将棋道具を取り扱っ
た等の旨の報告が、聞き取り調査されたりも、
当然かもしれないが、あったのかもしれない。
何れにしてもその結果、囲碁と同じように、
交点置きゲームにフォームを変える等して、
国家の庇護が有る事を保障などしながら、
砲駒・九宮存在型の現中国シャンチーの成立が、
西暦1050年前後までには加速していった
という事なのであろう。その結果中国シャンチー
は、以前に本ブログでも指摘した通り、日本へ
のいわゆる日本型将棋の、雲南大理国からの伝
来に遅れる事数十年の、西暦1065年頃には、
完成/完全成立したのではあるまいか。
つまり、西暦1015年前後に上陸したとみ
られる日本への将棋の伝来が先で、その数十年
遅れで、その「焦り」もあって、中国シャンチー
は確立された疑いが有る事を、この物語史料は、
太平広記に取り込まれて出版された後、しばら
くして何らかの方法で、加筆がされた事により、
淡く示している疑いが有るという意味である。
恐らく日本の将棋が、実際の戦闘局面との
戦術とは、ほぼ似てい無いしろものであっても、
軍隊兵士の軍事シミュレーションをするという
行為自体で、士気が高まるという事実を、イス
ラム国家の8世紀頃の認識同様、東アジアにお
いて最初に気がついたのは、当時大宰府権帥の、
藤原隆家あたりであっのだろう。後一条天皇に
まで、昭和の太平洋戦争終結時点までの意味の
国家元首も、戦略シミュレーションに興味を持
つべきだと、隆家は刀伊の入寇時、相手を追い
払ってから、京都に帰って主張していた為に、
その当時は、経緯のニュースが数年は掛かるだ
ろうが北宋宮廷内に届いていたほど、極東地域
で有名な話だったのてはなかろうか。
それに対し中国側は、「象棋系はゲームとし
ての出来が劣る上に、実際の戦闘に役立つとは
内容から見て思えない」という点が、日本の動
向が伝わる以前には、強調されすぎていたとい
うような内容の反省が、北宋朝国内では、当時
なされたのではあるまいか。
当時の先進国家中国北宋では、その結果、
ゲームに砲駒を加え、九宮ルールを発明する事
によって、ゲームの出来という点では、あっと
いう間に、実際には日本を追い抜いていったの
だが。
現時点では、興福寺駒よりも古いシャンチー
駒が、中国で出土し無いという現実によって、
中国がチェス系ボードゲームのの発明国である
との論を、大きく揺るがす皮肉な要因になって
いるように、私には、その推移が読めるような
気がするのである。(2024/07/17)
史料として知られ、9世紀の晩唐成立である。
今回は、その物語のコンテンツに、
11世紀半ばの加筆部が在る
と指摘した上で、加筆の動機が、
日本に平安小将棋が成立した事による、北宋
王朝知識人内の、軍事的な<先越され焦り感>
が存在
した事、その結果中国シャンチーのゲーム・ルー
ルを、早期に全国統一し無ければならないとの
認識が有った事を、淡く示唆しているとの旨、
以下に指摘する。
日本語訳した牛僧孺「岑順」は、前野直彬
翻訳の東洋文庫、「唐代伝記集」の第2の、
第88ページから在り、加筆と本ブログの管理
人が疑う箇所は、そのうち、第89ページの、
下段の後ろから3行目に在る。
「わが国は匈奴と境を接し、戦闘の耐えぬまま・」
という、金象国国王の手紙の冒頭部分であり、
「わが国は北山国と境を接し戦闘の耐えぬまま・」
が、唐代の原文だったと、管理人は同じく推定
する。
「匈奴」という国名に、原文が交換されたと見
ているという意味
である。この下りは、ほぼ以降のストーリーと
関連してい無い。匈奴の分国のように見える
「天那国」が、どういう素性の国なのかは、
玄怪録岑順の話全体には、余り関係が無いので
ある。
では、匈奴が唐突に出てきた理由だがずはり、
チェス型ゲームが、北宋王朝を差し置いて、
雲南大理国の王族内戯事の範疇を越えて、軍事
シミュレーションとして、日本の武族も、軍の
士気向上に活用しているという願意の「枕詞」
として使ったと本ブログ管理人は見るのである。
ここで「匈奴」とは、「前漢王朝の時代に、
相手が渡れぬ、海の向こうの島国日本で武具を
製造する事を目的として、船団で中国から大量
の要員が派遣された『かの倭国』の曙の、発生
要因を思い出させる国」という意味の「枕詞」
と見ている。
北宋の知識人には、古事記や日本書紀には
書かれてい無い、弥生時代中期の日本への中国
渡来人の渡来の動機や目的、活動経過の状況が、
今と違って、王朝内書庫には記憶として完全に
残って知っていたというのは、本ブログ管理人
の私論だが、明らかなのでは無いかと疑われる。
つまり、「わが国は匈奴と境を接し、戦闘の
耐えぬまま・・」は牛僧孺がそう書いたのでは
無く、太平広記の初期の読者の何者かが、何ら
かの手段で、冊本を手直しして誤伝したと考え
ると、存在する理由が、無理無く説明出来ると
いう事である。
これは「北宋時代の昨今、従来なら雲南省で
細々、ふざけで遊戯されていたが、日本にまで、
プレーヤ層が拡大して、宮廷内でも、軍の士気
の、日本に対する相対的立ち遅れが問題になっ
ている所の、かの『将棋』の話をこれからする
のだが」という願意を、「匈奴」という国名を
出す事によって、醸し出しているのではと、私
は考えるという意味である。
実際太平広記が出版され、初期購読された頃
北宋内関係者の間では、
宮廷を巻き込んで、中国シャンチーの成立に、
躍起になっていた時代
であったのでは無いのだろうか。つまり日本に
推定中国雲南省から将棋が伝来し、刀伊の入寇
が原因で、それが日本では国軍の士気に、影響
があると考えられて、五角形駒が製作される等
して、遊戯具技術的な改善や、ゲームルールに、
「裸王の、自殺手に対する優先」というソフト
ウェアー的な改善も有って、盛んになったとの
情報が、少なくとも10年以内の西暦1030
年頃には、北宋王朝内にも、当然の事ながら、
もたらされていた。そして、
その技術の無い、北宋時代の中国の立ち遅れが、
太平広記読者層の宮廷内知識人層の間でも問題
になった
のでは無いのかという事である。
更に、一例周文裔等、北宋期の中国人の将棋
を実伝来させた交易商人も、宮殿に呼び出され
て、藤原道長から「(幼帝の)後一条天皇用に、
珍しければとにかく何でもよいから、玩具を取
り寄せろ」等と依頼されて、将棋道具を取り扱っ
た等の旨の報告が、聞き取り調査されたりも、
当然かもしれないが、あったのかもしれない。
何れにしてもその結果、囲碁と同じように、
交点置きゲームにフォームを変える等して、
国家の庇護が有る事を保障などしながら、
砲駒・九宮存在型の現中国シャンチーの成立が、
西暦1050年前後までには加速していった
という事なのであろう。その結果中国シャンチー
は、以前に本ブログでも指摘した通り、日本へ
のいわゆる日本型将棋の、雲南大理国からの伝
来に遅れる事数十年の、西暦1065年頃には、
完成/完全成立したのではあるまいか。
つまり、西暦1015年前後に上陸したとみ
られる日本への将棋の伝来が先で、その数十年
遅れで、その「焦り」もあって、中国シャンチー
は確立された疑いが有る事を、この物語史料は、
太平広記に取り込まれて出版された後、しばら
くして何らかの方法で、加筆がされた事により、
淡く示している疑いが有るという意味である。
恐らく日本の将棋が、実際の戦闘局面との
戦術とは、ほぼ似てい無いしろものであっても、
軍隊兵士の軍事シミュレーションをするという
行為自体で、士気が高まるという事実を、イス
ラム国家の8世紀頃の認識同様、東アジアにお
いて最初に気がついたのは、当時大宰府権帥の、
藤原隆家あたりであっのだろう。後一条天皇に
まで、昭和の太平洋戦争終結時点までの意味の
国家元首も、戦略シミュレーションに興味を持
つべきだと、隆家は刀伊の入寇時、相手を追い
払ってから、京都に帰って主張していた為に、
その当時は、経緯のニュースが数年は掛かるだ
ろうが北宋宮廷内に届いていたほど、極東地域
で有名な話だったのてはなかろうか。
それに対し中国側は、「象棋系はゲームとし
ての出来が劣る上に、実際の戦闘に役立つとは
内容から見て思えない」という点が、日本の動
向が伝わる以前には、強調されすぎていたとい
うような内容の反省が、北宋朝国内では、当時
なされたのではあるまいか。
当時の先進国家中国北宋では、その結果、
ゲームに砲駒を加え、九宮ルールを発明する事
によって、ゲームの出来という点では、あっと
いう間に、実際には日本を追い抜いていったの
だが。
現時点では、興福寺駒よりも古いシャンチー
駒が、中国で出土し無いという現実によって、
中国がチェス系ボードゲームのの発明国である
との論を、大きく揺るがす皮肉な要因になって
いるように、私には、その推移が読めるような
気がするのである。(2024/07/17)