青森県つがる市亀ケ岡遺跡で縄文晩期山泰墨書土器2(長さん)
既に紹介の青森県つがる市亀ケ岡遺跡の縄文
晩期の壷型土器で、漢字で今度は山奉と書い
てあるようにも見える遺物も、有るとの旨を、
以下に紹介する。
道教信仰も有ったが、寒冷地の青森県の
津軽地方に渡来人が、西暦紀元前1~2世紀
に上陸した理由は、資源捜索に関連したもの
であり、付帯的に利益をもたらす山々に対し
ての山岳信仰も、
最初の段階から、発生している事を意味する
と取れると考える。
遺物は、以前に紹介した通り、太平洋戦争
前に出土している物品であり、国立歴史民俗
博物館編集の、以下の成書の別のページに載っ
ている物品である。
成書の書誌は概略、以下の通り。
国立歴史民俗博物館資料図録第11/
亀ケ岡遺跡・是川遺跡縄文時代遺物、西暦
2015年3月、国立歴史民俗博物館。
成書第135ページ付近の記載により遺跡
の場所は青森県つがる市木造町。遺物が出土
したのは、西暦1940年代の頃との、事で
ある。遺物の成立年代は、遺物に付記された
情報から、晩期の縄文土器であり、西日本の、
弥生時代中期の頃のものであろうと私見する。
遺物の写真は今度は、成書「壷型土器編」
第30ページ下段に在る。遺物番号は第A-
258-1-20番との旨、ナンバリングさ
れいる。壷型晩期縄文土器であるが、前のよ
りは、手間を掛けた良い出来の物品と、私に
は見える。道教信者よりも、鉱脈捜索技術者
の方が、器物作成技能は上という事か。大き
さは前の遺物と同類の、直径10センチ以下
の、小さいものらしい。

上図のように、下段左端に、やや薄く漢字
で「山」のように見える模様があり、その下
に、煤の間を削った後に書いたようにも見え
るが、漢字で「奉」のようにも見える模様が
有る。大きな円形ドーナツ状の煤模様も有る
が、実際に使用時に発生したのかもしれない
し、山の神社で今も、藁を束ねて作成したも
のを見掛けるが、日輪でも表現したのかもし
れない。鉄製品を入れ、山を奉じた祭祀を私
には連想させる物品である。
渡来人は、紀元前1~2世紀に本州全体に、
隈なく分布し、山間部を往来して鉱脈を捜索
したり、持参した粗製鉄から武具等を作成し
ており、その北端は実際に、本州北端の津軽
半島付近であった事を、示唆していると私見
する。(2024/07/22)
晩期の壷型土器で、漢字で今度は山奉と書い
てあるようにも見える遺物も、有るとの旨を、
以下に紹介する。
道教信仰も有ったが、寒冷地の青森県の
津軽地方に渡来人が、西暦紀元前1~2世紀
に上陸した理由は、資源捜索に関連したもの
であり、付帯的に利益をもたらす山々に対し
ての山岳信仰も、
最初の段階から、発生している事を意味する
と取れると考える。
遺物は、以前に紹介した通り、太平洋戦争
前に出土している物品であり、国立歴史民俗
博物館編集の、以下の成書の別のページに載っ
ている物品である。
成書の書誌は概略、以下の通り。
国立歴史民俗博物館資料図録第11/
亀ケ岡遺跡・是川遺跡縄文時代遺物、西暦
2015年3月、国立歴史民俗博物館。
成書第135ページ付近の記載により遺跡
の場所は青森県つがる市木造町。遺物が出土
したのは、西暦1940年代の頃との、事で
ある。遺物の成立年代は、遺物に付記された
情報から、晩期の縄文土器であり、西日本の、
弥生時代中期の頃のものであろうと私見する。
遺物の写真は今度は、成書「壷型土器編」
第30ページ下段に在る。遺物番号は第A-
258-1-20番との旨、ナンバリングさ
れいる。壷型晩期縄文土器であるが、前のよ
りは、手間を掛けた良い出来の物品と、私に
は見える。道教信者よりも、鉱脈捜索技術者
の方が、器物作成技能は上という事か。大き
さは前の遺物と同類の、直径10センチ以下
の、小さいものらしい。

上図のように、下段左端に、やや薄く漢字
で「山」のように見える模様があり、その下
に、煤の間を削った後に書いたようにも見え
るが、漢字で「奉」のようにも見える模様が
有る。大きな円形ドーナツ状の煤模様も有る
が、実際に使用時に発生したのかもしれない
し、山の神社で今も、藁を束ねて作成したも
のを見掛けるが、日輪でも表現したのかもし
れない。鉄製品を入れ、山を奉じた祭祀を私
には連想させる物品である。
渡来人は、紀元前1~2世紀に本州全体に、
隈なく分布し、山間部を往来して鉱脈を捜索
したり、持参した粗製鉄から武具等を作成し
ており、その北端は実際に、本州北端の津軽
半島付近であった事を、示唆していると私見
する。(2024/07/22)