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長野県長野市桐原牧野遺跡で5C山泰墨書土器(長さん)

今回は、長野県長野市の表題遺跡で、漢字で
山奉と書かれているように見える、模様の在
る土器の紹介である。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
140149_1_浅川扇状地遺跡群桐原牧野遺跡(4).pdf
pdf名の最後の(4)が、複写不能である。
 なお、浅川扇状地遺跡群の別の遺跡、
平林東沖遺跡の墨書遺物を、以前本ブログで、
紹介した事が有る。その遺物の模様は偶然出
来たとものとそのときに解釈された。よって

浅川扇状地遺跡群の墨書土器としては、これ
が本ブログでは、初めてになるかもしれない

とみられる。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
長野市の埋蔵文化財第174集/
桐原牧野遺跡(4)、2024年3月/
長野市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
長野県長野市桐原二丁目883-1。
 遺物が出土したのは、西暦2023年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第2住居跡
(SB2)から出土したが、発掘報告書第
14ページ付近の記載により炭化材が共出土
し、年代測定により古墳時代中期後半の5世
紀頃から6世紀初頭の住居跡であり、ここで
紹介する遺物も、その頃成立した物品である
と考えられているようである。
 遺物の写真は、写真図版第26の、上から
2段目中央に在り、遺物番号は第70番との
旨、ナンバリングされている。下記に第2
竪穴住居跡出土である旨が付記され、更に、
古墳時代中期成立との旨も示されている。
台付き杯土器のように、私には見える。

浅川扇状地山泰.gif

 上図のように、写真で中央やや左の上部に、
遺物の内側のようであるが漢字で縦に、山奉」
に見える、淡い模様が有るようである。ただ
し、第1字目の「山」が大きく、「奉」がか
なり小さく、やや不揃いで、

この例も不鮮明

でははある。長野市周辺の山を奉じた祭祀用
土器と、一応疑がっている。(2024/08/31)

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奈良県桜井市纏向遺跡で古墳期泰山墨書高杯(長さん)

既に、この遺跡の古墳前期の奉山/山奉墨書
土器に付いては紹介しているが、別例があり、
かつ、

「金」と大きく書かれ、渡来人系の鉱脈探索
が、当然かもしれ無いが貴金属類の掘り出し
を目標としていた

と、はっきり判る例が有るので、以下に紹介
する。今回の遺物はweb上に写真が有る。
 遺物の写真は、かなり前の発掘報告書に載っ
ている。発掘報告書がいつもの通り奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に、登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
62743_1_纒向遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
纏向遺跡/1980年遺跡範囲確認発掘調査
概報、1981年3月、奈良県桜井市教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
奈良県桜井市大字巻之内564~565-1。
遺物が出土したのは、西暦1980年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第5ページ
付近によると、遺物はA地区の土器溜りで
出土したが、同発掘報告書第2ページ付近の
記載から古墳時代中期、5世紀後半前後の物
品と見られているように、私には読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第16
の下から2段目右から2番目に在り、土器の
遺物番号第17番とナンバリングされ、土器
溜りで出土した旨が、下段の注記で示されて
いる。スケッチ図との関係が、私には掴めて
い無いが「器台」とされているように取れる。

まきむく泰山金.gif

 上図のように、中央やや右に寄って台横に
漢字で「金」と書いて在るように見える模様
が特に目立つ。「奉山」は杯部分で、右縁に
近い部分に、縦書きに書いて在ると私見する。
 山での渡来人の鉱脈探索の狙いが、当然か
もしれないが、本来「金鉱脈目当て」だった
事が、良く判る遺物と私は思っている。大和
王権発祥と疑われてる本遺跡で、「黄金の国
ジパング」が示唆されていると、言えるので
は無いかと私は思う。(2024/08/30)

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奈良県桜井市吉備池遺跡で鎌倉期山泰墨書土器(長さん)

今回は、表題の奈良県桜井市の上代の寺跡と
言われる遺跡で、鎌倉時代の土師器小皿型出
土遺物土器に、漢字で「山奉」と書いて有る
ように見える模様が有るとの旨の紹介である。
中世に何か建物が建っていた場所で、或いは
祭祀が行われたのかもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に、登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
62708_1_国庫補助による発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
奈良県桜井市平成14年度国庫補助による
発掘調査報告書/2003.3.31、
奈良県桜井市教育委員会。
発掘報告書に、纒向(まきむく)遺跡、
吉備池遺跡、大藤原京、蓑倉山遺跡、谷遺跡
の各発掘調査報告が有り、以下に紹介する
遺物はこのうち、吉備池遺跡で出土した物品
のようである。
 発掘報告書本文末尾、写真図版直前に挿入
された抄録により遺跡の場所は奈良県桜井市
吉備47。遺物が出土したのは西暦2002
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は、発掘報告書第
34ページ付近によると、第1001番井戸
跡上層で出土したが、発掘報告書第37ペー
ジの記載から、鎌倉時代、13世紀後半の井
戸と考えられ、遺物もその頃のものと見られ
ているように、私には読取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第18:
”吉備池遺跡第13次調査(8)”の下カラ
ムの”土師器小皿”の右上に在り、遺物番号
吉備池遺跡第13次調査の第38番との旨、
ナンバリングされている。

吉備池山泰.gif

 上図のように、裏表が私には良く判らない
が、写真の少し右に寄って、縁部分に小さく
漢字で「山」その下に縦に「奉」と書いたよ
うに見える、暗い模様が有るようである。
 桜井市付近の山を奉じた、寺の山岳信仰の、
祭祀用土器では無いかと私は疑っている。
(2024/08/29)

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奈良県桜井市纒向遺跡で古墳期山泰墨書甕(長さん)

今回は、大和王権が成立した地と紹介されている、
奈良県桜井市の表題遺跡で、古墳前期4世紀頃の
ものと見られる、北陸ないし東海地方から搬入の
甕型土器に、漢字で「山奉」と書かれているよう
に見える墨書が有るとの旨の紹介である。

奈良県桜井市付近の山を奉じた、大規模祭祀用と
して使われたのであろう。

 遺物の写真は今回は、webでは無くて以下の
成書に載っている。
発掘された日本列島/2000、2000.11、
文化庁。
 遺跡と遺物の紹介は、前記成書の第38~39
ページ付近に在る。
 それによると遺跡の場所は、奈良県桜井市。
遺物が出土したのは、恐らくだが1990年代
である。
 遺物の成立年代は、繰り返すと遺跡自体が、
4世紀頃のものとされ、その頃成立とみられて
いる。なお遺跡名は纒向で、「まきむく」と読む。
 遺物の写真は、成書第39ページの中段の土器
集合写真:”(国内)外来系土器”の前列右から
3個目の茶色の甕型土器である。煤で覆われてい
るが、口下のクビレの部分に、煤の付いて居無い
隙間が有り、その部分に以下の漢字模様が有る。

まきむく山泰.gif

 上図の黄色で囲んだ部分のように、写真のやや
右に縦に、口とクビレの上部にかけて、漢字で、
「山奉」のように見える、煤模様が有るように
私見する。
 大和王権発祥の地とされるこの遺跡付近で、古
墳時代初の山岳信仰の祭祀用に、上記遺物は使用
されたのであろう。(2024/08/28)

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公益謳うなら将棋団体は8升目チェス盤業と提携すべき(長さん)

今回の記事内容は、将棋史に関連の本ブログ
の今までの記事の中に、いわゆる

それを行いさえすれば、将棋関連の各団体の
「公益性」を決定的に、今後今より格段に
上昇させる情報が含まれる

という、相当に重大な表明である。
 さきほど、ダイソー百金Spで以前販売さ
れていたが、今は余り見かけない広島県
東広島市賀茂工業団地内大創関連会社製造の、
日本将棋駒でチェックしてみたのだが。日本
トイザラス㈱取り扱いの通常サイズのチェス
盤で、やや将棋駒の方が大きめのようだが、
飛車・角行駒を抜けば、大型駒は王将/玉将
だけになる為、金が左に無い8×8升目32
枚制の、本ブログが原始平安小将棋と呼んで
いるゲームは、木製等の盤・駒で指せそうで
あった。(下図はガラス製の盤)

本ブログでは、この将棋の右銀を酔象に変え
たゲームが、中国雲南の大理国原始平安将棋
であり、輸入時に金1枚・銀2枚になった

と以前より見ている。

この将棋の意味を、小学校児童が学習するこ
とにより、高い公益性が生まれる

とみられる。

チェス原始平安小将棋.gif

 以下が重大だが。更にこの8升目型将棋は、
「戦争シミュレーション」というよりは、
中盤玉と成金だけ盤上に残るという性格から、

贅沢三昧を楽しむゲーム

であると少なくとも本ブログでは考えていた。
 藤原氏全盛時代の三条天皇から後一条天皇
期に、皇族遊戯用として、前記銀2枚型が
輸入成立したと見ているが。伝来させた中国
人輸入業者がこのゲームを、皇族子弟の遊戯
用にチョイスしたのは、

雲南の「さんずいに眞」、南詔、大理国の代々
皇室が、民の収奪に明け暮れ贅沢三昧にふけっ
ているのと、藤原道長時代の日本が類似とみ
てお似合い玩具だと感じたというのが経緯

と考えているのである。「さんずい眞(てん)
国」の皇族の民の収奪・贅沢三昧については、
漢王朝の国の地理誌にその旨記載されている
との内容も、以前本ブログでは紹介した。
 そこで、中学校初等までにする程度が良い
と思うが。8升目36枚制原始平安小将棋を
授業で指す実習をし、前記の事情を、生徒ら
に伝え、生徒が、自分が贅沢三昧王族にでも
なったつもりで学芸会の寸劇をイメージして
プレーするように、予め動機付けてすれば、

社会科学習に繋がるという点で公益性が有る

という事になる。つまり、贅沢三昧王族・同
貴族が生まれたのは、租税の使い道に民が
関心を持たずに勝手に使わせたからとも言え、

ナシオン主権では、国の有様が好ましくは無
い方向に、なってしまうという教えになる

という事である。
 ヒーローとしての多冠棋士を作り出して、
社会を明るくするとか。女性の地位を女性も
将棋を指して向上させるとか。大阪府島本町
付近に、関西本部を移転させて、将棋史への
関連性も深めるとか。そもそも昔からしてい
る文化を、単に伝承するというのも、公益性
では、確かにプラス方向なのであろうが。

ナシオン主権の弊害について全国民へ啓蒙・
学習させるという行為の方が、税金を真面目
に収めている、ほとんど全ての国民と係わる
という点で好効果が、ずば抜けて大きいので
はないか

と私は考える。
 以上の事から、8升目32枚制平安小将棋
を指す目的で、第一段として将棋の各団体は、
今後勤めて、日本のチェスの団体や、特に
8升目盤を、取り合えず簡単に確保し易いと
いう点で、

チェス盤業者との係わりを深くした方が良い

のではないかと、前記図を参照して頂きたい
が、私は思うようになった。
 なお中盤頃に、盤上玉+成金多数枚残りに
するような原始平安小将棋は、何局か指して
この将棋の棋力を上げ、互いに児童が悪手を
指さない程度に、この取り捨て将棋を練習さ
せる必要があるという点に注意が要る。
 つまり、未来に明るく生きてゆくべき若者
にとっては。ナシオン主権に陥らない事は、
健全な国の姿から見て跳び抜けて大事な事な
ので。出来れば、小学校高学年程度の、時間
に余裕のある時代の、社会科の授業で、

時間を有る程度取って、将棋を良く知る人間
の指導を有る程度受けながら、児童・生徒に
よくよく学習させると良いのではなかろうか

と私は思うのである。
 オトナの将棋に、伝来将棋を成長させよう
として発生したのかもしれない大将棋の普及
に比べても。今述べたような、児童が王族・
貴族になったという事にするという意味で、
いわゆる学芸会寸劇の一幕のような原始平安
小将棋の授業と、それをする為の助成には、
相当高い公益性が有る事だけは、本ブログに
とっては、多少残念だが、かなり確かなのか
もしれないと私は感じている。(2024/08/27)

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千葉県多古町志摩城跡で弥生中期泰山墨書土器(長さん)

今回は、千葉県北部の多古町の表題遺跡
で、中国前漢王朝時代、日本の弥生中期
の壷型土器に、漢字で奉山のように見え
る暗い模様の有る、出土遺物が有るとの
旨の紹介である。

 渡来人により該弥生土器が作成され、
先達の奥州山岳部での鉱物探査、鉄製品
の製造の功績を偲び、故人の墓の副葬品
として、祭祀用に使われたと疑われる。

 今回の遺物は、web上ではなく、次
の成書に写真が載っている。
 発掘された日本列島/2004、
2004年、文化庁。
 前記成書の第19ページ付近に遺跡と
遺物の説明が在る。
 それによると、遺跡の場所は千葉県
香取郡多古町島。独立台地のようである。
 遺物が出土したのは、西暦2000年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、弥生時代中期前半
の、紀元前200年前後の、中国の王朝
で前漢の初め頃ととれる旨の説明が、同
書第77ページ付近に在る。
 遺物の写真は、同書の第19ページの
中段左の集合写真の中の前列右側に在る。
第77ページ付近の、遺物の説明による
と、「胴部が張る壷型土器」との事であ
り「再墳墓で出土した」という事である。
なお、同書第77ページの第1番土器が、
同一物のようであるが、そちらの写真は、
裏側が撮影されているようである。

志摩城跡泰山.gif

 上図のように、やや下の方にベルト状
に煤模様が有るが、その写真で、やや右
側に漢字で「奉」のように見える模様が
有り、その右側の煤模様が「山」のよう
にも見える。
 海岸付近の小高い台地のようであるが。
山間部で鉱脈捜索か、鉄器の製造に携わっ
た渡来人の先人が亡くなり墓に埋葬する
ときに、容器壺として「奉山」と書かれ
た土器を埋めたのではないかと、私には
疑われる。(2024/08/26)

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群馬県藤岡市牛田廃寺跡で10C七星泰山墨書土器(長さん)

今回は、群馬県の表題遺跡で平安時代中期の
10世紀頃成立の杯型土器に、墨書で黒碁石
のような点が、多分だが7つと、その隣に、
奉山と書いてあるように見える、山岳信仰と、
星辰信仰がミックスしたように見える、遺物
が在るとの旨の話題である。古代に星宮等が、
発掘場所に存在したのかもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
140122_1_牛田廃寺跡E32a川除屋敷裏遺跡1区.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
群馬県藤岡市牛田廃寺跡、2024、群馬県
藤岡市教育委員会・群馬県西部農業事務所。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
群馬県藤岡市牛田字下毛田。遺物が出土した
のは西暦2018年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第1区第60A
住居跡で出土したが、発掘報告書本文第
118ページ付近の記載から、10世紀後半
の住居跡とみなされており、遺物もその頃の
ものと見られているようである。祭祀の盛ん
な集落内の、遺物と見られているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第54:
”第60A号住居跡(2)”の最上段左から
2番目に在り、遺物番号第10番との旨、
ナンバリングされている。台付き杯土器の
ように、私には見える。

牛田廃寺泰山七星.gif

 上図のように、右に明快に分離出来る、
黒碁石のような点が4点墨書されたように
見え、その左隣に分離は困難だが、3つの
黒い点が有り、全部で北斗七星を表している
ようにも見える。その左に接して漢字で「奉」
更に左に「山」と書いて、「北斗七星奉山」
の意図の、山岳信仰+星辰信仰の祭祀用土器
のようにも私には見える。藤岡市の現地から
は関東山地・秩父の山々が遠望出来る条件で
あり、廃寺跡自体に少なくとも一時期、星宮
等の信仰と関連する施設の機能が有った為、
祭祀用に古代、今回紹介した遺物が律令集落
内で、作成されたのかもしれないと私見する。
≪かりうち盤≫が描かれた土器を連想するが。
珍しい、星点の墨書らしきものがある遺物だ
と思う。(2024/08/25)

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北海道恵庭市西島松3/5遺跡で縄文晩始奔王・山奉(長さん)

本ブログでは既に、表題遺跡の擦文期の奉王、
奉山墨・刻書遺物、本州以南弥生期「馬奉山」
墨書遺物を紹介した。今回は、これらの遺物
よりも、更に時代が遡り北海道縄文時代後期
末から晩期初頭成立等とされる土器に「奉王」、
「山奉」と漢字で書かれたような煤模様が、
縄文・擦文の抜けた平らな部分に、見られる
という遺物が、別のweb上に公開された、
発掘報告書に載っているとの旨の紹介である。

擦文文化期に、縄文晩期初土器が掘り出され、
祭祀用に墨書されたのではないかと私は疑う。

 遺物の写真が繰返すとweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
71695_2_西島松3遺跡・西島松5遺跡5.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
北埋調報248/恵庭市/西島松3遣跡・
西島松5遺跡(5)、西暦2007年、
財団法人北海道埋蔵文化財センター。
 なお、西島松3遣跡と西島松5遺跡は、
隣接しており、西島松3遺跡が同5遺跡の
南側に続いている。性格は同様であるようだ。
 発掘報告書第2pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、北海道恵庭市西島松306・
501番地先河川敷地。遺物が出土したの
は、西暦2002年から西暦2007年の間
ないしその前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、奉王墨書遺物について
は、発掘報告書第1本文pdf、第72ペー
ジ付近によると、西島松5遺跡の包含層で
出土した、手稲式またはホッケマ式土器の
破片とされ、縄文時代後期中の紀元前15
世紀前後の成立と考えられているようである。
 また、山奉土器に関しては、同じく第1
本文pdfの第185ページにより、西島松
5遺跡の包含層で同じく出土した、三ツ谷式
ないし御殿山式の土器であり、本文pdf第
4ページにより、これらは北海道の縄文時代
晩期初頭の、紀元前数世紀ないしそれ以前と、
何れの遺物も

漢字そのものの未成立時期の疑いの有る

遺物と取れるように、私には認識される。
 遺物の写真は、奉王墨書土器に関しては、
第2写真図版pdfの、写真図版第76:
”土器(24)”の下から2段目右に有り、
遺物番号は土器の通し番号の第249番と
の旨、ナンバリングされている。下部に、
横筋縄文模様の入った土器の破片で、上部
は、たまたまだろうが平らである。

西島松奔王.gif

 上図のように、右上に擦れて「奉」、離れ
て右下に、漢字でかなりはっきり「王」の
ように見える煤模様が在り、2文字の間に
「工」の字の、下線が右に延びた模様の下に、
更に薄く、漢字で「奉」とあり、「奉奉王」
のようである。更に、王の右隣に「人一」
と書かれ、そのずっと左の、図内で中央やや
左下に「金」「全」「墓」等に読める模様が
有る。たぶん「墓」であろう。それらをまと
めると「奉奉人一王墓」の意図かもしれない。
擦文期に出土した縄文土器に墨書して、西洋
紀元7~8世紀頃に故人の墓に埋葬した遺物
が包含層に混じって、現代になり再出土した、
疑いも有ると私見する。
 次に、「山奉」土器については、第2写真
図版pdfの、写真図版第105:
”土器(53)”の、最上段左に在り、
遺物番号は土器の通し番号の第475番との
旨ナンバリングされている。椀のように、私
には見える土器である。発掘報告書第185
ページによると、鉢とされる。模様は無いよ
うである。

西島松山泰.gif

 上図のように、4文字中央上部に在るよう
に見え、右寄りの2文字の黒い模様が、縦に
2文字で「山奉」のように、私には見る。
またその左隣の残りの2文字は「山王」かも
しれない。右の2文字以外は、はっきりとは
してい無い。
 更に左下にも、何かイラストのような黒い
模様が在る。

帆柱が付いた、海を渡って来る、≪船の絵≫
かもしれない。

だとすれば、大発見だ。
 「山奉山王」とすれば北海道では縄文晩期
で本州以南の弥生中期の、渡来人の墨書かも
しれないが。前の「奉王」型墨書縄文土器の
例と同様、擦紋期に、現地の簡単な漢字記号
の書ける住人の掘り出して書いた、縄文晩期
土器を転用した祭祀用鉢型土器かもしれない。
 以上まとめると。少なくとも「奉王」土器
については、

たまたま掘り出して見つけた縄文土器を、
擦文期に、故人の墓に埋葬する遺物に、転用
した

のではないかと私は疑う。山奉土器について
は、墨書の成立年代の特定は困難だが。
 どちらも北海道石狩平野のこの遺跡と本州
以南とで、簡単な識字が出来る住人の質には、
さして差が無いとの心象を、本ブログ管理人
に与える史料だと考えている。(2024/08/24)
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北海道恵庭市西島松5遺跡で擦文期泰山刻書擦石(長さん)

今回は、以前に紹介した北海道札幌市南東
恵庭市の大規模遺跡で、擦文時代の山岳
信仰と疑われる、「奉山」と読める字が、
石器(擦り石)に刻書されているように見
える遺物が出土しているとの旨紹介である。
 なお、以前紹介した「馬奉山」墨書遺物
よりはずっと時代が下り、本州以南の古代
のカテゴリーに入る遺物である。大規模な
石狩平野の集落クラスともなると、

奉山程度の祭祀用の漢字の普及は、北海道
と本州以南とで、桁違いの成立年代の差は
無かった

のかもしれない。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
71680_4_西島松5遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
北埋調報178/恵庭市西島松5遺跡、
西暦2000~2002年、財団法人
北海道埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第1pdf(第1分冊本文)
末尾抄録により遺跡の場所は、北海道
恵庭市西島松545。遺物が出土したのは、
西暦2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdf第235ページ付近の記載から、共
出土した土器の形から、出土した第103
ピット(恐らく墓跡)自体が擦文時代、
本州以南の古代とみられているように、私
には読取れる。
 遺物の写真は発掘報告書、第4写真図版
pdfの写真図版第141:”遺構出土の
石器/土壙墓出土石器(6)”の一番下の
カラム”P103”の左端に在り、第
103ピット(恐らく墓穴)の第1番遺物
との旨、ナンバリングされていて、作業用
の台座と、研磨を兼ねる石のように私には
見える物品である。

西島松5石泰山.gif

 上図のように、最も擦り減った左側に縦
に漢字で、「奉山」と彫ったように私には
見える黒い模様が在る。なお、その左側に
小さく「杜」と書かれているかもしれ無い。
 故人の使用物であり擦石として使用した
後に山岳信仰用に転用したようにも見える。
北海道でも本州以南と恐らく同じパターン
の山岳信仰が、本州以南の古代に当たると
みられる擦文時代に、大規模遺跡では普通
に存在した事を示している疑いが有ると私
見される。(2024/08/23)

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北海道恵庭市西島松5遺跡で西洋紀元前馬泰山墨書(長さん)

今回は既に紹介した、擦文文化期の大規模墓地
の在る表題遺跡で、その後の発掘で、西洋紀元
より古いと見られている土器の破片に、漢字で
「馬奉山」のように見える暗い模様の有る物品
が出土しており、前漢時代に中国渡来人は、本
州や九州と同パターンで、北海道の石狩平野に、
船で到達可能であり、牧場を作り、特に軍馬を
飼っていた疑いが有るとの旨の紹介である。
 遺物写真が今回はweb上に紹介されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に、登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
24957_4_西島松5遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
北埋調報260/北海道恵庭市西島松5遺跡(6)、
西暦2008年、財団法人北海道埋蔵文化財センター。
 発掘報告書第1分冊/第1pdf末尾抄録に
より、遺跡の場所は、北海道恵庭市西島松
306・501番地先河川敷地。
 遺物が出土したのは、西暦2002年から
西暦2004年の間ないし、その前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、第1pdf第92ページ
付近の記載により墓跡と見られる第592ピッ
トから出土し、墓に埋葬された遺物土器とみら
れており、北海道の縄文時代後期終わり頃の、
紀元前3世紀から西洋紀元程度の成立と、私は
解釈している。今回のは古い物品であるようだ。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版の第4
分冊/第4pdfの、写真図版第179の左下
の遺物集合写真の、第3段の第592ピット
出土遺物の並びに在る、右端の土器の破片に私
には見える物品であり、遺物番号第592小
ピットの第5番との旨、ナンバリングされてい
る。はっきりした擦文とか縄文模様は、私には
発見出来無い。

西松5馬泰山.gif

 上図のように、一番下の破片に、左から右へ
「馬奉山」のようにも読める、暗い模様がある
ように見える。前漢時代の渡来中国人は、上陸
してから寒いのに気がついたのかもしれないが。
 船でやって来たとき、北海道島を、他の日本
列島とは特に差別せずに、川を遡って上陸し、
平地が開けていれば、鉱脈探査や金属製品鋳造
を試みたが、それが出来なくても、軍馬の放牧
をして牧場化を試みたのではないかと、私には
疑われる。(2024/08/22)

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