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北海道恵庭市西島松5遺跡で8C王奔墨書土器(長さん)

今回は、北海道の表題遺跡の大規模墓地
で、擦紋文化期の土器に、本州以南では、
古墳の王に奉じたときの墨書として本ブ
ログで再三紹介して来た、漢字で「王奉」
と、書かれているように見える煤模様が、

北海道の土器にも有るとの旨の、紹介

である。
 今回の遺物は、web上では無くて、
次の成書に写真が載っている。
 「発掘された日本列島/2004」、
2004年11月、文化庁。
 この成書の第31ページ付近と、第
87~88ページ付近に、遺跡と遺物の
紹介等が有る。
 遺跡の場所は、第88ページ付近の表
題から、北海道恵庭市西島松とみられる。
遺物が出土したのは、西暦2002年頃
ではないかと察せられる。
 遺物の成立年代は、第88ページの説
明部の冒頭から、8世紀中ばから後半に
掛けてと、考えられているように私には
読取れる。
 遺物の写真は、第88ページの右上の
遺物集合写真の中の右中段やや上に在る、
甕型土器のように私には見える出土遺物
である。

北海道西島松王奔.gif

 上図のように、元々薄くかつ、第2字
目は煤に埋もれているが画像処理により、
ほぼ中央に「奉」その直ぐ左上に、三本
の横線の間に煤が、まぶされていてやや
怪しいが、全体として「王」のようにも
見える模様が在る。
 8世紀に、本州の古墳文化に似た社会
が、後のアイヌ文化の中に溶け込んでお
り、墓の有力者を「王」と呼んで、その
ときまでに北海道石狩地方に伝来してい
た漢字を書いて奉じたのではないかと私
は疑っている。本州以南の古墳文化の影
響も在る、ウサクマイ墓地なのではなか
ろうか。(2024/08/21)

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大分県大分市大友府内町遺跡で16C泰山墨書土器(長さん)

今回は、成書「発掘された日本列島/2001」
に表題遺跡で、室町時代の奉山型墨書土器とい
う、成立年代が、比較的珍しい遺物が出土した
との旨の記事・写真が在るので紹介する。
 遺物の写真は繰り返すと、今回は、成書上に
ある。成書名は次の通り。
「発掘された日本列島/2001」、西暦
2001年11月、文化庁。
 この成書の第101ページ付近の左上に、
話題とする遺物が載っている。説明書きの分量
は多くは無い。
 遺跡の場所は大分県大分市元町か六坊南町と、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧の別の発掘報告書情報から私
には推定される。遺物が出土したのは、西暦
2000年前後の事であろうと見られる。
 遺物の成立年代は、同書第101ページ付近
の記載により、物品は種別が京都系土師器の類
とされ、その事から16世紀ないし、それより
少し以前とされているようである。
 遺物の写真は、説明書きのそのページの左上
最上部にある。コマ中に在る、5枚の土器のう
ち、左上の最も大きい、カワラケ土器である。

大友府内泰山.gif

 上図のように、右上の煤の中に埋もれた左端
の部分に「奉」と読めるような煤模様が在り、
それより円形器で角度で90位ズレて、左側に、
「山」と読めるような、別の煤模様が有る。
 5枚セットにして重ねて使うとの説明が有り、

残りの4枚のカワラケを下にややズラして置き、

それを重ねると、山のように見え、かつこの山
型の隙間に、「奉山」という文字が見えるよう
にした祭祀具なのではないかと、私は疑ってい
る。戦国期の特に山岳信仰用の、祭祀土器とい
う事なのであろう。(2024/08/20)

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長崎県松浦市鷹島海底遺跡で百戸墨書青磁(長さん)

今回は、鎌倉時代の蒙古来襲時の戦闘海域、
長崎県鷹島町の海底遺跡で、モンゴル軍の
土器に、荻生徂徠の広将棋の駒名の元と
みられる、中国流の軍団単位である「百戸」
に百戸の長の意味とも疑われる王を付けた、
「王百戸」と墨書されている遺物が今世紀
始めに、出土しているとの旨の紹介である。
 今回の遺物の写真は、以下の成書に載っ
た物品を紹介する。
 「発掘された日本列島/2004」、
2004年11月、文化庁。
 遺跡の説明は、該成書の第62ページ~
63ページ付近にある。
 遺跡の場所は第62ページ冒頭によると、
長崎県旧北松浦郡鷹島の、南沖合い7.5
キロ地点。遺物が出土したのは同ページに
より西暦1994年前後の事のようである。
なお現在鷹島は、長崎県松浦市である。
 遺物の成立年代は、13世紀の元寇時点
で存在した青磁で、モンゴル軍側の物品と
みられているようである。
 遺物の写真は、同成書第63ページ付近
の中段左に在り、「王百戸銘墨書青磁」と
付記されている。墨書は一目でそう読める。

鷹島百戸.gif

 同成書では、「王」は苗字と疑われてい
る。そうかもしれないが、「百戸隊隊長」
の意味にも取れると、私見だが疑われる。
中国では、当時「王」を、司令官の意味で
も使ったのだろう。
 なお「百戸」は江戸期に荻生徂徠のデザ
インと伝えられる「荻生徂徠の広将棋」の、
舎餘の成駒であり、大局将棋の横猪の動き
である。荻生徂徠は中国古文化の専門家で
あり兵法も熟知して、元王朝時代の兵制度
の「百戸」を、江戸時代に広将棋駒の一種
としたと解釈出来るだろう。(2024/08/19)

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将棋Ⅰの出土石版「三友象棋盤」は日本のどこかで所蔵(長さん)

以前紹介した、岡野伸氏が改定「中国象棋」で
写真収録した、増川宏一「将棋Ⅰ」に、漢代
3人将棋として写真が載っている遺物が、中国
では無くて、日本人の不明の者が保管している
との情報と見られる内容が、さいきんweb上
に出た。なお、前記成書「ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰ」で、三友象棋の写真が載って
いるのは、第54ページ付近である。
 紹介者は、中国の遊戯史の研究でも知られる
張超英で、web上のpdfファイル名は以下
の通りである。
202006_18.pdf
小論文になっており、ゲラ刷りを載せているの
か、コンテンツの書誌は不明だが、論文題名は
次の通り。
「日本将棋史著作所見中国象棋相伝述録」。
 なお、別の同氏が著作した成書を、びりたん
氏がブログで、2024年6月24日前後に紹
介している。(張超英著「古代中国象棋棋具」
(2003))
 前者の第19/26ページ付近に写真があり、
「在所不明であり日本国内に在る。漢代ではな
くて、清代のものである」等と私には取れる旨
が、第21/26ページ付近に載っているよう
である。私も所持しているので確認出来たが、
日本の美術第32号遊戯具、関忠六編集、西暦
1968年の第19ページ付近にも載っていて、
典拠は明らかでは無いものの、日本の何処かで
撮影されたものとの印象を、私も持った。
 漠然と、出土した中国の墓近くの博物館で、
所蔵していると思っていた私は、記載を読み、
うっかりとしていたと反省した。この遺物の現
所在地を今後は気にするようにしたい。(2024/08/18)

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奈良県奈良市菅原遺跡で古代王鬼刻・墨書瓦(長さん)

今回は、奈良県の供養堂跡と疑われている
表題遺跡で出土丸瓦に、漢字で王と鬼の字
がそれぞれ墨書、刻書されているように見
える物品が出土していて、鬼瓦を乗せる丸
瓦であるという目印ではないかと、私が疑っ
ている墨書/刻書出土瓦を以下に紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
140087_1_菅原遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
菅原遺跡、2023、公益財団法人
元興寺文化財研究所。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
奈良県奈良市疋田町4丁目143。遺物が
出土したのは、西暦2021年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、第160回廊跡で話
題とする瓦は出土し、遺跡が全体として、
8世紀の奈良時代成立とみられていると私
には、読取れるように思われる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
36の最上段に在り、遺物番号第12番と
ナンバリングされていて、左側の丸瓦の、
外側写真に墨/刻書が在る。

菅原王鬼.gif

 上図のように、中央やや上に破片の繋ぎ
目に跨いで、漢字で「鬼」と彫ったような
模様が目立ち、先の部分に先頭にはっきり
し無いが、ひょっとすると漢字で「奉」、
その左下に、傷が多いが漢字で「王」のよ
うに見える暗い模様、その右に漢字で「帝」
かもれない、模様が有るように本ブログで
は見る。
 奈良時代に朝廷が建設した行基の供養塔
がこの遺跡の地点に在り、鬼瓦をこの丸瓦
に乗せる目印とする為、奉帝・王鬼(瓦)
等の、墨書・刻書がされたのではと、私見
される。(2024/08/17)

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奈良県高取町越智遺跡で古~中世王将墨書土器(長さん)

今回は、奈良県の越智遺跡で、王将と読める
成立年代が完全には確定出来無い土器が出土
したが、「(自在)天王ひとつ成」等と付記
されているようにも読める模様も有り、摩訶
大大将棋/摩訶大将棋の自在天王成王将が、
中世までには成立していた事を示唆する

驚くべき内容の、墨書遺物が出土した

との旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に最近公開されて発
掘報告書に載っている。新公開発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
140086_1_越智遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
越智遺跡(西暦2021年度)、2023、
公益財団法人元興寺文化財研究所。
 発掘報告書末尾抄録により、遺跡の場所は、
奈良県高市郡高取町与楽1160番地。
遺物が出土したのは西暦2021年前後の事
のようである。
 遺物は、発掘報告書第12ページ前後に
説明のある第1「落ち込み」(SD001)
の第一下層で出土し、奈良時代から中世まで
の、かなり漠然とした成立年代の遺物が、複
数出土したとされている物品の一つである。
この層の成立年代は、正確には特定できず、
この遺物による、特定将棋種の成立年代の議
論は困難とみられる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第16
の第3段目左に在り、遺物番号第43との旨
ナンバリングされている。杯土器の破片のよ
うに、私には見える。

越智天王.gif

 いっけんして、中央上段やや左よりに漢字
で左から右へ「口(くち)王」のように見え
る暗い模様が目立つが、第1字目は口では無
くて、よく見ると「口カンムリに大」であり、
天の異字の意図ではないかと私には疑われる。

「天王」の意味ではないかと私は思う。

 そして良く見るとその直ぐ下に、左から右
へ、「一(ひとつ)成(意味:一例として、
『(自在)天王』にも成る)」と書かれてい
るように、私には見える。
 以下が大切だが、以上4文字の他に良く目
を凝らすと、更にその4文字の

右下に縦に「王将」と、薄く暗い模様が有る。

 「自在天王成り玉将」が、この遺物が成立
していた時代に、奈良の豪族の越智党には、
知られていたという例えば意味であり、現存
し無い、京都曼殊院将棋図の水無瀬兼成将棋
図で伝えられた、伝最終書写し期頃の

室町時代に摩訶大大将棋/摩訶大将棋が成立

していたと連想される、重大遺物の可能性が
有ると私見される。
 摩訶大大将棋/摩訶大将棋がかなり古いゲー
ムだとの証拠を与える遺物の発見のように私
は疑っている。(2024/08/16)

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岐阜県可児市大萱古窯跡で16C泰山墨書土器2(長さん)

既に、本ブログで表題の岐阜県可児市大萱
古窯跡遺跡群で17C成立の匣鉢蓋に泰山
と墨書された土器が、出土しているとの旨、
紹介している。個別の窯跡名で、弥七田
古窯跡の地点で、出土したとの事であった。
 が、その南側の隣の山の北側麓の、同じ
く個別の窯跡名で牟田洞古窯跡で、同じく
匣鉢蓋土器の側面に、やはり、漢字で
「奉山」のように見える煤模様の有る遺物
が出土しているとの旨の情報を得たので、
以下に紹介する。
 今度は遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
77605_1_大萱窯跡群牟田洞窯跡第1・2次
発掘調査概要報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
愛知学院大学考古学発掘調査報告22/
大萱窯跡群牟田洞窯跡、2016.3、
愛知学院大学文学部歴史学科。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
岐阜県可児市久々利柿下入会352番地。
遺物が出土したのは、西暦2013年~
西暦2014年ないし、その前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、安土桃山時代で、前
の弥七田古窯よりは少し古く、16世紀と
みられているように読取れる。窯の形が古
いようである。以前紹介した「発掘された
日本列島」/2016、42ページ~44
ページ付近に、この古窯跡の説明も有る。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
10:”第1次調査第6トレンチ出土遺物
(3)”の最下段右に在り、遺物番号第
93番との旨、ナンバリングされている。
 杯土器の形の陶器を伏せた物品に、私に
は見えるが、発掘報告書第20ページによ
りこれも匣鉢蓋と見られているようである。

牟田洞釜跡泰山.gif

 上図のように弥七田古窯跡の遺物と同様、
写真で左に寄って縁の所に、比較的大きく
漢字で「奉」、その右に「山」の字が添え
られているようにも見える。ただし、滲ん
でいて、さほど明確とは言えない。
 弥七田古窯跡の匣鉢蓋と、ほぼ同様の
意図であり、今度は隣の山の北の麓に、
牟田洞古窯跡が有るので、やはり山が奉じ
る習慣を兼ねた、「仕事がうまく行く」等
の呪い墨書を、作業用土器に書いたものな
のではないかと、私は疑っている。
(2024/08/15)

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岐阜県可児市大萱古窯跡で17C泰山墨書土器(長さん)

今回は、安土桃山時代から江戸初期に掛けて
成立した土器遺物で、匣鉢蓋と呼ばれる、
陶器の作成中に使用する物品に、窯記号が
「連山」の意味で、黒く目立つように墨書
されているが、その他に奉山、山等のよう
に見える模様も付いているとの旨の、紹介で
ある。
 土器・陶器が祭祀具として使用された
歴史が古く、器の陶磁器を作る窯元でも、
縁起担ぎに、古来の奉山の字が、近世に至る
まで、付けられたという事ではないかと私見
する。
 今回の遺物はweb上ではなくて、以下
の成書に写真が載っている。
「発掘された日本列島」/2016、
2016年6月、文化庁。
 解説と遺物の紹介は、42ページ~44
ページの付近に在る。複数窯跡が有るうちの、
弥七田古窯跡で出土したようである。
 遺跡の場所は、岐阜県可児市久々利253
-1。遺物が出土した時期は、私には良く
わからないが、恐らく2015年前後の事で
あろう。以上の場所と出土年の情報は、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧の以下のpdfにも記載
が有る。
90097_1_大萱窯跡群弥七田窯跡第1次
発掘調査概要報告書.pdf
 遺物の写真は、成書第44ページの左下
にある。製品に焼いた途中で、煤が掛から
無いようにする為の蓋であり、製造過程で
使用する物品との事である。

大萱泰山.gif

 上図のように、下に窯記号とされる、
「二山」の意図とみられるイラストが在る
が、その他に、上部中央よりやや左に漢字
で「奉」、その下に同じく漢字で薄く「山」。
奉の字の右に「山山山」と書いてあるように
も見える。
 祭祀用土器に「奉山」と書くのが定番で
あり、成書の第43ページの付近地図を見
ても、弥七田古窯跡は、山の南面の麓に在
るように記載され、窯記号も二つ山である
事から。祭祀用土器・陶器の「奉」や「奉
山」墨書に合わせて、近世17世紀にも、
土器備品に「奉山」と墨書する事があった
事を意味しているのではないかと私は疑う。
(2024/08/14)

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鳥羽離宮ウラ墨跡金将のウラ画像解析(長さん)

成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の第76
ページ付近に、裏表のスケッチ図と写真のコピー
が載っている、鎌倉・南北朝期成立の鳥羽離宮
出土駒のうち、前記成書の最上段右の、第59
次発掘時出土の金将駒のウラに墨跡があり、本
ブログで、以下の成書を参考に、「成」の草書
であると説明した事がある。

亀田秋陽著、「漢字・くずし字早わかり辞典」
(2013)、メトロポリタンプレス発行。

 この解釈は、現物に薄い水平な墨跡が中段や
や上に見られる事から、矛盾の無い解釈だと私
は今も考えている。
 だが、これを「小将棋だけに限定して金将駒
の裏に文字を書いた、その場所も使っていた、
後鳥羽上皇の時代に、鳥羽離宮で付けた習慣」
というふうに、経緯を解釈し、

だから後鳥羽上皇の所持していた仮説94枚制、
13×13升目の大将棋の駒の、ウラには全部
成りが無い

との根拠にするには、いかにも曖昧で、史料と
しては、問題が残るとは言える。
 その後、本ブログの管理人の画僧処理ソフト
使用のスキルも当時よりは向上したので、成書
「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」のその金将
のウラ面の画像処理を、試しにして見ようと私
は最近なった。
 今回は、その結果を紹介する。

「『田カンムリにπ』+将具」と3文字のよう
にも見え、任意性が大きい

と結論された。ただし、この解釈でも「後鳥羽
上皇所有の大将棋には、小将棋と違い成が無い」
とも解釈出来、仮説は、ソコソコ安定度が有る
のではないかと考えられた。熊澤良尊型改善
大将棋を、成り無しで米マイクロソフトの表計
算ソフト:オフィス/エクセルで指すという
アイディアに、今回のチェックは、悪影響を
与え無いようである。
 さて前記成書の将棋駒の画像のコントラスト
を補正し、横に1.5倍に広げると、墨が木目
に沿って

染み込んだ為に生じる、滲み模様が目立たなく
なる。


鳥羽離宮金裏.gif

その結果上図右のようになり、右上に『田カン
ムリにπ』の、『ヒ/あたえる(意味:たまう)』、
左上に『将』、下に『具』という漢字で3文字
書かれているようにも見える模様が浮び上がる。
 そして、その3文字の解釈として、

後鳥羽上皇が家来の武士に、小将棋は下げ渡し
て指させていたという状況が想定されてくる。

 つまり、皇族は大将棋。下々兵士は、成りの
存在する、標準型9升目36枚制平安小将棋を、
上皇の御前では指していたという意味である。

そう解釈すれば「成」の崩し字でも、「与える
+将具」でも、言いたい事は一緒

であり、13升目94枚制大将棋は、部下には
貴重品であるという理由で使わせないので、注
意書きも、成りの金の字も無しの無地にして、
大将棋の駒か小将棋の駒かを区別しているとも
取れる事になる。
 この出土駒の墨跡は、このように釈文に任意
性が、著しく大きそうだが。

普通唱導集が示唆するように「手柄を立てると
金将の位が授けられて喜ぶ」のは家来だけであ
るから、大将棋の銀将・銅将・鉄将・歩兵・・
の成りは、将棋具同士が混ざると不便だから、
後鳥羽上皇は、全部除いてしまったのだろう

という仮説を、一応サポートする史料しては、
依然として使えるのではないかと、私には結論
されたという事になったのである。
 なお、水無瀬兼成が「大将棋の成りを酔象・
麒麟・鳳凰の3枚だけ」としたのは、養子に入っ
たときに、先代から、武家としてのその家来か
らの言い伝えを、聞いたからであるというのが、
本ブログの見方。前記例外3枚駒は、仮説94
枚13升目後鳥羽上皇期大将棋には、まだ加わっ
てい無かったと、見ているのである。(2024/08/13)

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福島県南相馬市五畝田犬這遺跡で4C管玉泰山(長さん)

今回は、古墳期の甕土器に漢字で奉山と書
かれた奉山墨書型土器に、更に第1字目の
奉の字の中央に絵で、古墳副葬品の蛇紋岩
で作成する管玉ビーズの絵が、描かれてい
ると解釈できる出土遺物が、西暦2015
年前後に、出土したとの旨の紹介である。
 今回の遺物はweb上ではなくて、以下
の成書に写真が載っている。
「発掘された日本列島」/2017、
2017年6月、文化庁。
 この成書の第52ページに、遺跡と遺物
の紹介が有る。

古墳の副葬品が、集落跡からも出土すると
いう事が、注目された遺跡との事

である。
 遺跡の場所は、前記成書の第52ページ
付近の記載により、福島県南相馬市原町区
零五畝田135番地。
 繰り返すと遺物が出土したのは、西暦
2015年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺跡自体が古墳時代
前期の4世紀と見られているように、私に
は読み取れる。
 遺物の写真は、成書第52ページ下段の、
土器の集合写真の中に在り、最後列の左の、
写真で一番大きく撮影されている、甕型土
器とみられる物品である。

五畝田犬這泰山.gif

 上図のように、左端に縦に、漢字で本来
なら、単純に「奉山」と読んでしまいそう
な、暗い模様が有るのだが。

奉の字の中心に、古墳の副葬品の管玉と私
には解釈される絵が描かれて、奉の字の中
央部分が見えなくなっている。

 成書によると、同じ竪穴建物から、ズバ
リ、緑色蛇紋岩製の管玉と、紫色のガラス
小玉が出土していて、山から原石を採取し
て、加工して、桜井古墳等に収める作業が
された場所を示唆しているとの事である。
 それらを入れる、容器ではないかと私は
疑っている。上図写真の甕土器は、片手の
ひらいっぱいに、なんとか乗る程度の直径
15センチ位の、大きさらしいので私には、
大きさが手ごろで、尚更そう見える。
(2024/08/12)

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