千葉県白井市谷田木曽地遺跡で弥生山兵墨書土器(長さん)
今回は、千葉県白井市(当時印旛郡白井町)の
谷田木曽地遺跡で、弥生期とされる土器の破片
に、漢字で「山兵」と読める、不思議な模様の
有る遺物が出土しているとの旨の、紹介である。
山、兵という簡単に書ける漢字が、弥生期に存
在した事を示唆すると見られるが、詳細は謎
と見るべきだと考える。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
31726_1_千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
船尾町田遺跡・谷田木曽地遺跡・谷田神楽場遺跡、
1984年、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財
センター。
3つの遺跡のうち、今回紹介する遺物は、
真ん中の、谷田木曽地遺跡で出土したとの事の
ようである。
発掘報告書冒頭例言により、遺跡の場所は、
千葉県白井市谷田字木曽地827番。
遺物が出土したのは、発掘報告書第25ページ
から第26ページの「経過と組織」より西暦
1978年から西暦1982年、ないしその
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は発掘報告書第
220ページ付近に、第149スケッチ図の
第34番との旨記載された、弥生式土器に分類
される破片と紹介され、第26号住居跡で採取
されたと第222ページ前後に記載。発掘報告
書第271ページ付近の記載により、住居跡自
体が、弥生時代後期末の、3世紀頃の建物であ
ろうと解釈出来、その頃の物であるように、私
は読む。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第68の
下から2段目右に有る。遺物番号は前記の通り
第149スケッチ図の第34番。甕型土器の破
片のようだが、小粒過ぎて私には良く判らない。

上図のように、下の部分に、横に左から右へ、
漢字で「山兵」と読めるような黒い模様が在る。
「山」「兵」、或いは「丘」という字が、3
世紀の弥生末に日本で成立していた事を示唆し、
調査地点が微高地でかつ、南に河川がある事か
ら「丘山竜」等と書こうとしたとも推定される。
同時代の、龍神信仰遺物の類の疑いがあると私
見される。(2024/08/07)
谷田木曽地遺跡で、弥生期とされる土器の破片
に、漢字で「山兵」と読める、不思議な模様の
有る遺物が出土しているとの旨の、紹介である。
山、兵という簡単に書ける漢字が、弥生期に存
在した事を示唆すると見られるが、詳細は謎
と見るべきだと考える。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
31726_1_千葉ニュータウン埋蔵文化財調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
船尾町田遺跡・谷田木曽地遺跡・谷田神楽場遺跡、
1984年、千葉県企業庁・財団法人千葉県文化財
センター。
3つの遺跡のうち、今回紹介する遺物は、
真ん中の、谷田木曽地遺跡で出土したとの事の
ようである。
発掘報告書冒頭例言により、遺跡の場所は、
千葉県白井市谷田字木曽地827番。
遺物が出土したのは、発掘報告書第25ページ
から第26ページの「経過と組織」より西暦
1978年から西暦1982年、ないしその
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は発掘報告書第
220ページ付近に、第149スケッチ図の
第34番との旨記載された、弥生式土器に分類
される破片と紹介され、第26号住居跡で採取
されたと第222ページ前後に記載。発掘報告
書第271ページ付近の記載により、住居跡自
体が、弥生時代後期末の、3世紀頃の建物であ
ろうと解釈出来、その頃の物であるように、私
は読む。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第68の
下から2段目右に有る。遺物番号は前記の通り
第149スケッチ図の第34番。甕型土器の破
片のようだが、小粒過ぎて私には良く判らない。

上図のように、下の部分に、横に左から右へ、
漢字で「山兵」と読めるような黒い模様が在る。
「山」「兵」、或いは「丘」という字が、3
世紀の弥生末に日本で成立していた事を示唆し、
調査地点が微高地でかつ、南に河川がある事か
ら「丘山竜」等と書こうとしたとも推定される。
同時代の、龍神信仰遺物の類の疑いがあると私
見される。(2024/08/07)