茨城県常陸大宮市宿尻遺跡で弥生中期王泰山墨書(長さん)
今回は、以前に紹介した事のある、栃木県
東部から茨城県県に流れる、那珂川の中流
の茨城県常陸大宮市の遺跡で、同じ成書の
別のコマの写真に、紀元前3世紀成立弥生
土器の人骨壷とみられる土器に、以前と同
じパターンで今度は「王」が加わり、王奉・
山と漢字で書いたようにも見える、煤模様
が有るとの旨の紹介である。
今回の遺物の写真は繰り返すと以前と同
じ、以下の成書に載っている。
「発掘された日本列島」/2024、
2024年6月、文化庁。
今回紹介する遺物の内容は、以前のケー
スと同じであり以下の通り。
遺物が出土したのは、目次により茨城県
常陸大宮市。遺物が出土したのは第72
ページ付近の記載により、西暦2019年
前後の事のようである。現地は那珂川に
近い、回りになだらかな山地が広がる場所。
遺物の成立年代は、同成書72ページ
冒頭に、今から2300年前の弥生時代
中期とされているようである。
遺物の写真は第72ページの「出土状態
写真」の中に在り、環状の土器の埋設列の
うち、南側に転がっている土器である。第
74ページの集合写真の、手前から第2列
目の右側の土器と同じものであると見られ
るが、写真を撮影したときの、たまたま向
きが、前記出土状態写真と、74ページの
集合写真とでは違うようで、そちらには、
漢字の模様は無い。形は通常の口の大きさ
の壷で、人骨を入れて、埋葬する為のもの
との旨、説明がある土器の一つである。

上図のように、右の口の近くの上部に縦
に「王奉」、左で、やはり口の近くにやや
小さく、「山」と漢字で書いたように見え
る煤模様が有る。
弥生中期、中国の前漢王朝時代のもので
あり、日本に渡来した大陸人は、そのまま
船で日本列島の沿岸を回り、川が有れば、
可能なら遡って岸に到達。或る者は山間部
で鉱脈を捜索。また他の者は川で砂鉄を採
取し、製鉄して対匈奴用の武具を作成して、
前漢王朝に、敵に襲われることなく収める。
渡来した先達が亡くなれば、日本で子孫
は墓を作って、山の神人として故人を埋葬。
その際の骨壷は、祭祀にも用いたという事
情。以上、前にも述べたが、そのような経
緯であろう。その習慣/パターンが、弥生
時代中期に、多数の鉄を使う事などを特徴
とする渡来人の、北九州福岡と大阪難波を
基地とする「大来日時代」が到来すると、
瞬く間に、文化が日本全国に広がったうち
の、この遺跡付近がその一つなのであろう。
「王」の字が、信仰というより、中国前漢
の皇帝等を奉じている、故人を送る物品で
ある証拠だと私見する。(2024/08/09)
東部から茨城県県に流れる、那珂川の中流
の茨城県常陸大宮市の遺跡で、同じ成書の
別のコマの写真に、紀元前3世紀成立弥生
土器の人骨壷とみられる土器に、以前と同
じパターンで今度は「王」が加わり、王奉・
山と漢字で書いたようにも見える、煤模様
が有るとの旨の紹介である。
今回の遺物の写真は繰り返すと以前と同
じ、以下の成書に載っている。
「発掘された日本列島」/2024、
2024年6月、文化庁。
今回紹介する遺物の内容は、以前のケー
スと同じであり以下の通り。
遺物が出土したのは、目次により茨城県
常陸大宮市。遺物が出土したのは第72
ページ付近の記載により、西暦2019年
前後の事のようである。現地は那珂川に
近い、回りになだらかな山地が広がる場所。
遺物の成立年代は、同成書72ページ
冒頭に、今から2300年前の弥生時代
中期とされているようである。
遺物の写真は第72ページの「出土状態
写真」の中に在り、環状の土器の埋設列の
うち、南側に転がっている土器である。第
74ページの集合写真の、手前から第2列
目の右側の土器と同じものであると見られ
るが、写真を撮影したときの、たまたま向
きが、前記出土状態写真と、74ページの
集合写真とでは違うようで、そちらには、
漢字の模様は無い。形は通常の口の大きさ
の壷で、人骨を入れて、埋葬する為のもの
との旨、説明がある土器の一つである。

上図のように、右の口の近くの上部に縦
に「王奉」、左で、やはり口の近くにやや
小さく、「山」と漢字で書いたように見え
る煤模様が有る。
弥生中期、中国の前漢王朝時代のもので
あり、日本に渡来した大陸人は、そのまま
船で日本列島の沿岸を回り、川が有れば、
可能なら遡って岸に到達。或る者は山間部
で鉱脈を捜索。また他の者は川で砂鉄を採
取し、製鉄して対匈奴用の武具を作成して、
前漢王朝に、敵に襲われることなく収める。
渡来した先達が亡くなれば、日本で子孫
は墓を作って、山の神人として故人を埋葬。
その際の骨壷は、祭祀にも用いたという事
情。以上、前にも述べたが、そのような経
緯であろう。その習慣/パターンが、弥生
時代中期に、多数の鉄を使う事などを特徴
とする渡来人の、北九州福岡と大阪難波を
基地とする「大来日時代」が到来すると、
瞬く間に、文化が日本全国に広がったうち
の、この遺跡付近がその一つなのであろう。
「王」の字が、信仰というより、中国前漢
の皇帝等を奉じている、故人を送る物品で
ある証拠だと私見する。(2024/08/09)