長崎県松浦市鷹島海底遺跡で百戸墨書青磁(長さん)
今回は、鎌倉時代の蒙古来襲時の戦闘海域、
長崎県鷹島町の海底遺跡で、モンゴル軍の
土器に、荻生徂徠の広将棋の駒名の元と
みられる、中国流の軍団単位である「百戸」
に百戸の長の意味とも疑われる王を付けた、
「王百戸」と墨書されている遺物が今世紀
始めに、出土しているとの旨の紹介である。
今回の遺物の写真は、以下の成書に載っ
た物品を紹介する。
「発掘された日本列島/2004」、
2004年11月、文化庁。
遺跡の説明は、該成書の第62ページ~
63ページ付近にある。
遺跡の場所は第62ページ冒頭によると、
長崎県旧北松浦郡鷹島の、南沖合い7.5
キロ地点。遺物が出土したのは同ページに
より西暦1994年前後の事のようである。
なお現在鷹島は、長崎県松浦市である。
遺物の成立年代は、13世紀の元寇時点
で存在した青磁で、モンゴル軍側の物品と
みられているようである。
遺物の写真は、同成書第63ページ付近
の中段左に在り、「王百戸銘墨書青磁」と
付記されている。墨書は一目でそう読める。

同成書では、「王」は苗字と疑われてい
る。そうかもしれないが、「百戸隊隊長」
の意味にも取れると、私見だが疑われる。
中国では、当時「王」を、司令官の意味で
も使ったのだろう。
なお「百戸」は江戸期に荻生徂徠のデザ
インと伝えられる「荻生徂徠の広将棋」の、
舎餘の成駒であり、大局将棋の横猪の動き
である。荻生徂徠は中国古文化の専門家で
あり兵法も熟知して、元王朝時代の兵制度
の「百戸」を、江戸時代に広将棋駒の一種
としたと解釈出来るだろう。(2024/08/19)
長崎県鷹島町の海底遺跡で、モンゴル軍の
土器に、荻生徂徠の広将棋の駒名の元と
みられる、中国流の軍団単位である「百戸」
に百戸の長の意味とも疑われる王を付けた、
「王百戸」と墨書されている遺物が今世紀
始めに、出土しているとの旨の紹介である。
今回の遺物の写真は、以下の成書に載っ
た物品を紹介する。
「発掘された日本列島/2004」、
2004年11月、文化庁。
遺跡の説明は、該成書の第62ページ~
63ページ付近にある。
遺跡の場所は第62ページ冒頭によると、
長崎県旧北松浦郡鷹島の、南沖合い7.5
キロ地点。遺物が出土したのは同ページに
より西暦1994年前後の事のようである。
なお現在鷹島は、長崎県松浦市である。
遺物の成立年代は、13世紀の元寇時点
で存在した青磁で、モンゴル軍側の物品と
みられているようである。
遺物の写真は、同成書第63ページ付近
の中段左に在り、「王百戸銘墨書青磁」と
付記されている。墨書は一目でそう読める。

同成書では、「王」は苗字と疑われてい
る。そうかもしれないが、「百戸隊隊長」
の意味にも取れると、私見だが疑われる。
中国では、当時「王」を、司令官の意味で
も使ったのだろう。
なお「百戸」は江戸期に荻生徂徠のデザ
インと伝えられる「荻生徂徠の広将棋」の、
舎餘の成駒であり、大局将棋の横猪の動き
である。荻生徂徠は中国古文化の専門家で
あり兵法も熟知して、元王朝時代の兵制度
の「百戸」を、江戸時代に広将棋駒の一種
としたと解釈出来るだろう。(2024/08/19)