千葉県多古町志摩城跡で弥生中期泰山墨書土器(長さん)
今回は、千葉県北部の多古町の表題遺跡
で、中国前漢王朝時代、日本の弥生中期
の壷型土器に、漢字で奉山のように見え
る暗い模様の有る、出土遺物が有るとの
旨の紹介である。
渡来人により該弥生土器が作成され、
先達の奥州山岳部での鉱物探査、鉄製品
の製造の功績を偲び、故人の墓の副葬品
として、祭祀用に使われたと疑われる。
今回の遺物は、web上ではなく、次
の成書に写真が載っている。
発掘された日本列島/2004、
2004年、文化庁。
前記成書の第19ページ付近に遺跡と
遺物の説明が在る。
それによると、遺跡の場所は千葉県
香取郡多古町島。独立台地のようである。
遺物が出土したのは、西暦2000年
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、弥生時代中期前半
の、紀元前200年前後の、中国の王朝
で前漢の初め頃ととれる旨の説明が、同
書第77ページ付近に在る。
遺物の写真は、同書の第19ページの
中段左の集合写真の中の前列右側に在る。
第77ページ付近の、遺物の説明による
と、「胴部が張る壷型土器」との事であ
り「再墳墓で出土した」という事である。
なお、同書第77ページの第1番土器が、
同一物のようであるが、そちらの写真は、
裏側が撮影されているようである。

上図のように、やや下の方にベルト状
に煤模様が有るが、その写真で、やや右
側に漢字で「奉」のように見える模様が
有り、その右側の煤模様が「山」のよう
にも見える。
海岸付近の小高い台地のようであるが。
山間部で鉱脈捜索か、鉄器の製造に携わっ
た渡来人の先人が亡くなり墓に埋葬する
ときに、容器壺として「奉山」と書かれ
た土器を埋めたのではないかと、私には
疑われる。(2024/08/26)
で、中国前漢王朝時代、日本の弥生中期
の壷型土器に、漢字で奉山のように見え
る暗い模様の有る、出土遺物が有るとの
旨の紹介である。
渡来人により該弥生土器が作成され、
先達の奥州山岳部での鉱物探査、鉄製品
の製造の功績を偲び、故人の墓の副葬品
として、祭祀用に使われたと疑われる。
今回の遺物は、web上ではなく、次
の成書に写真が載っている。
発掘された日本列島/2004、
2004年、文化庁。
前記成書の第19ページ付近に遺跡と
遺物の説明が在る。
それによると、遺跡の場所は千葉県
香取郡多古町島。独立台地のようである。
遺物が出土したのは、西暦2000年
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、弥生時代中期前半
の、紀元前200年前後の、中国の王朝
で前漢の初め頃ととれる旨の説明が、同
書第77ページ付近に在る。
遺物の写真は、同書の第19ページの
中段左の集合写真の中の前列右側に在る。
第77ページ付近の、遺物の説明による
と、「胴部が張る壷型土器」との事であ
り「再墳墓で出土した」という事である。
なお、同書第77ページの第1番土器が、
同一物のようであるが、そちらの写真は、
裏側が撮影されているようである。

上図のように、やや下の方にベルト状
に煤模様が有るが、その写真で、やや右
側に漢字で「奉」のように見える模様が
有り、その右側の煤模様が「山」のよう
にも見える。
海岸付近の小高い台地のようであるが。
山間部で鉱脈捜索か、鉄器の製造に携わっ
た渡来人の先人が亡くなり墓に埋葬する
ときに、容器壺として「奉山」と書かれ
た土器を埋めたのではないかと、私には
疑われる。(2024/08/26)