CTE-X50に有り-X60に無いPM登録-X40には(長さん)
WACOMのペンタブレットの以下、
補助ボタン(ファンクションキー)の
機能を、パソコン/表計算カルク
ソフトの、成表現に使うという、以前
に述べた話題の続きである。
結論から言うと、上位バージョンの
60番代、70番代で、50番代に
存在した、複数の登録文字列のポップ
アップ選択機能は廃止して、使え無い
状況に四半世紀前になってしまったと
以前に述べたが、下位バージョンの
30番代、40番代時代には元々無く、
50番代の型番CTE-450、CTE
-650でだけ、使える機能であった
事が、ほぼ確定した。
さて本ブログでは、将棋用にオープン
オフィス/カルクか、ライブルオフィス/
カルクを使う際、WACOMペンタブ
レットの、CTE-450かCTE-
650に先手と後手用に、ポップアップ
メニュー機能で、不成りで移動か、
成りで移動かを、選択する目的で、
補助ボタン(=ファンクション・キー)
に、ポップアップメニュー登録を予め
行っておき、ボタンを押した後で更に、
マウスでクリック選択してその機能を
持たせる、ポップアップメニュー/
複数文字列そのものの、2ケース以上
の分岐選択機能である、「ポップアップ
メニュー選択機能」を使っている。
これは、駒の成りを意図したケースに
は、移動した駒が着手完了時に成り駒で
表示されて居無いといわゆる「着手完了
に関する加藤一二三反則」になるからで
ある。
よって、日本将棋の正式競技では、
少なくともペンタブレットの制御ソフト
ウェアの中に、タブレットの補助ボタン
(=ファンクションキー)にポップアッ
プメニュー選択の為の、複数の文字列毎
登録機能画面が無ければならない。
WACOMのペンタブレットの五十番
代である、CTE-450や、CTE-
650には少なくとも、その制御アプリ
ケーションソフトウェアーに、ポップ
アップメニュー選択複数文字列登録機能
が存在したが、六十番以上のバージョン
では、廃止されたというのが、管理人の
これまでの認識であった。
だが、下位バージョンの、
CTE-440、430に、その機能が
存在し無かったのかどうかについては、
調査不足で曖昧であった。なお本ブログ
には、メーカに直接問い合わせる人脈は
無い。
最近ディスカウントショップで運良く、
WACOMペンタブレット/WACOM
CTE-440が廉価で入手出来た。
元々同WACOM/CTE-430は
所持しており、補助ボタン(=ファンク
ションキー)そのものが見当たら無いの
で、ポップアップメニュー選択は出来無
いと見られる事は判っていた。
それに対して、WACOM社ペンタブ
レット、WACOM/CTE-440に
は、補助ボタン(=ファンクションキー)
が付いていたので、もしかするとCTE-
450の機能が有るかもしれないと、私
には思えたという経緯である。
以下に、CTE-450、
CTE-440、CTE-430を1台
ずつ、上から下へ並べた写真を示す。何
れの機種も白いが、同社は色だけ違い、
機能は同じな各色ペンタブレットを販売
している。
CTE-450には4つと回転ホイール
1つ、CTE-440には2つと回転ホ
イール同じくバーが中央に一つ、CTE-
430には補助ボタン等が無い事が判る。

制御ソフトは入手出来無かったので、
ソフトウェアーを起動して画面から確認
出来無かったが、運良く、web上に、
WACOM/CTE-440のマニュア
ルと、補助ボタン(=ファンクションキー)
登録に関する説明が書き部分の記載が、
発見出来、現物を見ながら状況確認した。

上記のように、WACOMペンタブレッ
トの40番代時代には、単純にキーへは、
単一特定文字列を登録出来ただけだった
事が、マニュアル記載から明らかなよう
である。
以上の事から、ポップアップメニュー
選択機能で、2個以上の文字列の複合を
登録して、キーを押してから、プルダウ
ン窓で、どの動作をさせるのかを選択す
る、文字列のポップアップメニューの
複数登録機能が使えたのは、同社のペン
タブレットでも、五十番代の短い期間の
バージョンの時代だけだったと見るのが、
どうやら益々本ブログ管理人には、確か
らしく思えるようになって来たところで
ある。(2024/09/30)
補助ボタン(ファンクションキー)の
機能を、パソコン/表計算カルク
ソフトの、成表現に使うという、以前
に述べた話題の続きである。
結論から言うと、上位バージョンの
60番代、70番代で、50番代に
存在した、複数の登録文字列のポップ
アップ選択機能は廃止して、使え無い
状況に四半世紀前になってしまったと
以前に述べたが、下位バージョンの
30番代、40番代時代には元々無く、
50番代の型番CTE-450、CTE
-650でだけ、使える機能であった
事が、ほぼ確定した。
さて本ブログでは、将棋用にオープン
オフィス/カルクか、ライブルオフィス/
カルクを使う際、WACOMペンタブ
レットの、CTE-450かCTE-
650に先手と後手用に、ポップアップ
メニュー機能で、不成りで移動か、
成りで移動かを、選択する目的で、
補助ボタン(=ファンクション・キー)
に、ポップアップメニュー登録を予め
行っておき、ボタンを押した後で更に、
マウスでクリック選択してその機能を
持たせる、ポップアップメニュー/
複数文字列そのものの、2ケース以上
の分岐選択機能である、「ポップアップ
メニュー選択機能」を使っている。
これは、駒の成りを意図したケースに
は、移動した駒が着手完了時に成り駒で
表示されて居無いといわゆる「着手完了
に関する加藤一二三反則」になるからで
ある。
よって、日本将棋の正式競技では、
少なくともペンタブレットの制御ソフト
ウェアの中に、タブレットの補助ボタン
(=ファンクションキー)にポップアッ
プメニュー選択の為の、複数の文字列毎
登録機能画面が無ければならない。
WACOMのペンタブレットの五十番
代である、CTE-450や、CTE-
650には少なくとも、その制御アプリ
ケーションソフトウェアーに、ポップ
アップメニュー選択複数文字列登録機能
が存在したが、六十番以上のバージョン
では、廃止されたというのが、管理人の
これまでの認識であった。
だが、下位バージョンの、
CTE-440、430に、その機能が
存在し無かったのかどうかについては、
調査不足で曖昧であった。なお本ブログ
には、メーカに直接問い合わせる人脈は
無い。
最近ディスカウントショップで運良く、
WACOMペンタブレット/WACOM
CTE-440が廉価で入手出来た。
元々同WACOM/CTE-430は
所持しており、補助ボタン(=ファンク
ションキー)そのものが見当たら無いの
で、ポップアップメニュー選択は出来無
いと見られる事は判っていた。
それに対して、WACOM社ペンタブ
レット、WACOM/CTE-440に
は、補助ボタン(=ファンクションキー)
が付いていたので、もしかするとCTE-
450の機能が有るかもしれないと、私
には思えたという経緯である。
以下に、CTE-450、
CTE-440、CTE-430を1台
ずつ、上から下へ並べた写真を示す。何
れの機種も白いが、同社は色だけ違い、
機能は同じな各色ペンタブレットを販売
している。
CTE-450には4つと回転ホイール
1つ、CTE-440には2つと回転ホ
イール同じくバーが中央に一つ、CTE-
430には補助ボタン等が無い事が判る。

制御ソフトは入手出来無かったので、
ソフトウェアーを起動して画面から確認
出来無かったが、運良く、web上に、
WACOM/CTE-440のマニュア
ルと、補助ボタン(=ファンクションキー)
登録に関する説明が書き部分の記載が、
発見出来、現物を見ながら状況確認した。

上記のように、WACOMペンタブレッ
トの40番代時代には、単純にキーへは、
単一特定文字列を登録出来ただけだった
事が、マニュアル記載から明らかなよう
である。
以上の事から、ポップアップメニュー
選択機能で、2個以上の文字列の複合を
登録して、キーを押してから、プルダウ
ン窓で、どの動作をさせるのかを選択す
る、文字列のポップアップメニューの
複数登録機能が使えたのは、同社のペン
タブレットでも、五十番代の短い期間の
バージョンの時代だけだったと見るのが、
どうやら益々本ブログ管理人には、確か
らしく思えるようになって来たところで
ある。(2024/09/30)
2017年型普通唱導集大将棋の不滅ルール成目的限定化(長さん)
本ブログ版、西暦2017年型普通唱導集大
将棋は、攻守のバランスが良く取れている
ように見えるが、成麒麟で終盤に、相手の
守り駒が払われる効果が効いている。
その為、終盤まで麒麟が残るように、指さ
なければならない。つまり、麒麟を集中攻撃
する着手が、有効でありすぎるという難点を
抱えているとも言える。軽微な弱点に見えた
が、西暦2020年代に入り、本ブログで、
麒麟に盤双六の、元戻しルールを採用して、
この問題の解決を試みてきた。
ここで西暦2017年版の普通唱導集(本
ブログ仮説)13升目108枚制将棋の初期
配列は、以下の通りである。

上図で駒の動きのルールは二中歴では無く、
将棋纂図部類抄の動きである。銅将は中将棋
の動き、鉄将は前方3升のみ。飛龍と猛牛は、
2升先まで動き(特別に隣接升目にも行く)、
跳ぶだけで無く、大阪電気通信大学のルール
で途中相手駒も取れ、踊る。猛虎は中将棋の
盲虎。酔象は隣接7升動き。麒麟や鳳凰も
中将棋の動き。方行は将棋纂図部類抄の斜め
前行き飛車。3段目以上の他の駒は、中将棋
の動きとした。横行も中将棋の動きである。
成りは、二中歴の大将棋の説明の最後と、
将棋纂図部類抄の仲人の成を、酔象にしてい
る部分とが同じで、水無瀬兼成は正しいルー
ルを、後鳥羽上皇型に敢えて変えていると、
本ブログでは解釈して、水無瀬兼成は不成と
しているが、人間駒と、前進しか出来ない
獣・悪行の駒と、後ろが閊えている前後動駒
は、金将成の「本来の姿」に変えた。配列の
外側の駒が飛車と玉・金を除いて金将に成る。
仲人と歩兵も金将(と金)成りである。なお
酔象・麒麟・鳳凰が将棋纂図部類抄の言うよ
うに、太子・獅子・奔王に成る。獅子は中将
棋の獅子としたが、獅子に関する特別な規則
は無い。このように、前に述べた、改善
熊澤良尊型大将棋とは、駒の動きがかなり違
う、近世型であるが、取り捨ての大将棋系で
ある点で、同類ゲームである。
また、麒麟に元戻りさせるルールは、従来
次のような内容であった。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。
つまり、2歩目から成るまで麒麟・鳳凰だ
けは、不死で、盤双六駒的ルールにするとい
うような内容である。
このルールは、
麒麟が、獅子に成り込む前に無くなると、
西暦2017年版普通唱導集大将棋(本ブロ
グ仮説)がゲームとして面白みが無くなる
という理由で、付加的に作成
したものである。
しかしながら、テストしてみると、
麒麟や鳳凰の、無理攻め手筋を誘発し易い
という、副作用の欠点が生じてしまう
のに、本ブログの管理人は気がついた。その
結果、麒麟と鳳凰だけ攻撃駒に使う傾向が、
強くなりすぎるという欠陥が現れる。
その欠陥は、無理攻めしても麒麟・鳳凰は
死なないので、成る為の移動では無くて、
主要な攻め駒として使う目的で、不死ルール
が作用するからである。
対策として、初期位置から2歩目と成りま
での間のケースで、初期位置が取られる方の
支配下状態の序・中盤局面であっても、
取ろうとしている麒麟ないし鳳凰が、取ろう
としている側のどれかの駒に、麒麟と鳳凰
のルールに則って、当たりになっている場合、
そのような犠牲となる可能性の、取るプレー
ヤの駒が一つでも有る場合は、盤双六のよう
に元位置に、戻さなくても良く、普通に取っ
ても元位置に戻してもどちらでも良いとする
という、改善ルールにする方法が比較的容易
に考えついた。
しかし、ルールが複雑化して、プレーヤが
感覚的にゲームを面白く感じ無くなるかどう
かが、心配という難点・問題点が有った。
そこで今回、この攻め用の麒麟・鳳凰の
繰り出しが明らかな場合の、不滅ルールの非
適用という、「不滅ルールの弱体化」の改良
を目的とした改善ルールの、実際のテストを
行ってみた。
以下は、その指し終わり「指了」図で、
後手がたまたまこの一局では麒麟の成り手順
の着手に失敗して、大差で先手に負けた局面
である。

指してみると、文書で書くと長くなるが、
戻すべきか、取れるかの判定は、さほど困難
では無く、この改善は有力
だと、私には結論された。無理攻めすると、
不滅が効かなくなり、将棋は、麒麟・鳳凰の
不滅ルールを取り入れなかったケースに近く
なって、かつ、不運な麒麟の消失は、ほぼ
防げるようである。
西暦2017年版普通唱導集本ブログ仮説
の13升目108枚制将棋の致命傷にならず
に、取りあえず、私はいまほっとした所だ。
そこで改善されたルールは、まとめると、
以下のようになる。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
ただし、取ろうとしている麒麟ないし鳳凰
が、取ろうとしている側のどれかの駒に、
麒麟と鳳凰のルールに則って、当たりになっ
ている場合、そのような犠牲となる可能性の、
取るプレーヤの駒が一つでも有る場合は、
以上の条件を満たしても、強制元戻しルール
は適用されず、前記で述べた例外の方に、
入れるものとする。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。(2024/09/29)
将棋は、攻守のバランスが良く取れている
ように見えるが、成麒麟で終盤に、相手の
守り駒が払われる効果が効いている。
その為、終盤まで麒麟が残るように、指さ
なければならない。つまり、麒麟を集中攻撃
する着手が、有効でありすぎるという難点を
抱えているとも言える。軽微な弱点に見えた
が、西暦2020年代に入り、本ブログで、
麒麟に盤双六の、元戻しルールを採用して、
この問題の解決を試みてきた。
ここで西暦2017年版の普通唱導集(本
ブログ仮説)13升目108枚制将棋の初期
配列は、以下の通りである。

上図で駒の動きのルールは二中歴では無く、
将棋纂図部類抄の動きである。銅将は中将棋
の動き、鉄将は前方3升のみ。飛龍と猛牛は、
2升先まで動き(特別に隣接升目にも行く)、
跳ぶだけで無く、大阪電気通信大学のルール
で途中相手駒も取れ、踊る。猛虎は中将棋の
盲虎。酔象は隣接7升動き。麒麟や鳳凰も
中将棋の動き。方行は将棋纂図部類抄の斜め
前行き飛車。3段目以上の他の駒は、中将棋
の動きとした。横行も中将棋の動きである。
成りは、二中歴の大将棋の説明の最後と、
将棋纂図部類抄の仲人の成を、酔象にしてい
る部分とが同じで、水無瀬兼成は正しいルー
ルを、後鳥羽上皇型に敢えて変えていると、
本ブログでは解釈して、水無瀬兼成は不成と
しているが、人間駒と、前進しか出来ない
獣・悪行の駒と、後ろが閊えている前後動駒
は、金将成の「本来の姿」に変えた。配列の
外側の駒が飛車と玉・金を除いて金将に成る。
仲人と歩兵も金将(と金)成りである。なお
酔象・麒麟・鳳凰が将棋纂図部類抄の言うよ
うに、太子・獅子・奔王に成る。獅子は中将
棋の獅子としたが、獅子に関する特別な規則
は無い。このように、前に述べた、改善
熊澤良尊型大将棋とは、駒の動きがかなり違
う、近世型であるが、取り捨ての大将棋系で
ある点で、同類ゲームである。
また、麒麟に元戻りさせるルールは、従来
次のような内容であった。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。
つまり、2歩目から成るまで麒麟・鳳凰だ
けは、不死で、盤双六駒的ルールにするとい
うような内容である。
このルールは、
麒麟が、獅子に成り込む前に無くなると、
西暦2017年版普通唱導集大将棋(本ブロ
グ仮説)がゲームとして面白みが無くなる
という理由で、付加的に作成
したものである。
しかしながら、テストしてみると、
麒麟や鳳凰の、無理攻め手筋を誘発し易い
という、副作用の欠点が生じてしまう
のに、本ブログの管理人は気がついた。その
結果、麒麟と鳳凰だけ攻撃駒に使う傾向が、
強くなりすぎるという欠陥が現れる。
その欠陥は、無理攻めしても麒麟・鳳凰は
死なないので、成る為の移動では無くて、
主要な攻め駒として使う目的で、不死ルール
が作用するからである。
対策として、初期位置から2歩目と成りま
での間のケースで、初期位置が取られる方の
支配下状態の序・中盤局面であっても、
取ろうとしている麒麟ないし鳳凰が、取ろう
としている側のどれかの駒に、麒麟と鳳凰
のルールに則って、当たりになっている場合、
そのような犠牲となる可能性の、取るプレー
ヤの駒が一つでも有る場合は、盤双六のよう
に元位置に、戻さなくても良く、普通に取っ
ても元位置に戻してもどちらでも良いとする
という、改善ルールにする方法が比較的容易
に考えついた。
しかし、ルールが複雑化して、プレーヤが
感覚的にゲームを面白く感じ無くなるかどう
かが、心配という難点・問題点が有った。
そこで今回、この攻め用の麒麟・鳳凰の
繰り出しが明らかな場合の、不滅ルールの非
適用という、「不滅ルールの弱体化」の改良
を目的とした改善ルールの、実際のテストを
行ってみた。
以下は、その指し終わり「指了」図で、
後手がたまたまこの一局では麒麟の成り手順
の着手に失敗して、大差で先手に負けた局面
である。

指してみると、文書で書くと長くなるが、
戻すべきか、取れるかの判定は、さほど困難
では無く、この改善は有力
だと、私には結論された。無理攻めすると、
不滅が効かなくなり、将棋は、麒麟・鳳凰の
不滅ルールを取り入れなかったケースに近く
なって、かつ、不運な麒麟の消失は、ほぼ
防げるようである。
西暦2017年版普通唱導集本ブログ仮説
の13升目108枚制将棋の致命傷にならず
に、取りあえず、私はいまほっとした所だ。
そこで改善されたルールは、まとめると、
以下のようになる。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
ただし、取ろうとしている麒麟ないし鳳凰
が、取ろうとしている側のどれかの駒に、
麒麟と鳳凰のルールに則って、当たりになっ
ている場合、そのような犠牲となる可能性の、
取るプレーヤの駒が一つでも有る場合は、
以上の条件を満たしても、強制元戻しルール
は適用されず、前記で述べた例外の方に、
入れるものとする。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。(2024/09/29)
鎌倉横小路流改善熊澤良尊後鳥羽上皇大将棋に五右衛門則(長さん)
今回は、改善熊澤良尊方式後鳥羽上皇期
大将棋に、二中歴の横行ルールで動く、
鎌倉市横小路遺跡出土の悪行を、旧横行
位置の、先手7十二、後手7二に入れて、
13升目96枚制にした大将棋に、従来
通り、どうぶつ将棋トライルールを悪行
に適応すると同時に、それだけで無くて、
2段目か初期位置の前升目以外で、かつ
初期位置に攻め側の駒が既に侵攻して占拠
してい無い場合は、悪行を取った時に、
取り捨てて排除しないで、元の相手の初期
マス目に戻さなければならず、よって歩兵・
仲人同様、悪行が不滅になるという、言わ
ば「石川五右衛門釜ゆでルール」ともいう
べき不滅ルールをも、二つ共に取り入れた
ら、攻撃が更に強くなり、該ゲームは出来
が、改善するのかどうかという話題である。
結果、意外にも逆効果で、石川五右衛門
釜ゆで時の言いぐさ(時世の句)のような
このルールは、普通唱導集大将棋の麒麟・
鳳凰ルールのようには、使わない方が良い
事が判った。
以前にも述べたが、鎌倉横小路流改善
熊澤良尊後鳥羽上皇期大将棋は、以下のよ
うな、13升目盤に、初期に将棋の駒を、
並べてプレーするゲームである。

このゲームは改善熊澤良尊後鳥羽上皇期
大将棋に、神奈川県鎌倉市横小路遺跡で
出土した、不成悪行駒を、二中歴から、
後鳥羽上皇期の大将棋で、袖に横行を移動
して隙間が出来た、穴埋めと解釈して玉将
の直ぐ前升目へ導入したものである。
この駒にも、どうぶつ将棋流のトライルー
ルを適用すれば、オフェンスが更に強化
され、バランスが改善してゲームの出来が
良くなるとみられたという訳である。
その後普通唱導集大将棋の麒麟・鳳凰の、
取られても盤雙六のように、元位置に戻す
不滅ルールが、本ブログにより提案された。
ので、悪行に、そのルールを適用したら、
更に攻め側有利に傾くのかどうかが、私の
興味の的となり、今回テストしたという経
緯となる。
そこで実際に一人指しでマイクロソフト/
エクセルでテストすると、指終わりが引き
分けで終わる、以下の局面に一例としてし
まった。

上図のように守り駒が大量に余っており、
意図せず、守り(ディフェンス)が返って、
強くなって、改悪となり失敗であった。
察するに、
悪行が元々「守備駒」だった為「自陣二段
位置と第3段目の直ぐ前升目以外では不滅」
の石川五右衛門釜ゆで時の辞世の句ルール
は、返って守りの強化に繋がった
のである。テストして見無ければ、ここま
で極端とは判らなかったのには感心させら
れたが。とにかくこの結果から、悪行に、
石川五右衛門の釜ゆで時の時世の句ルール
は導入せず、以前に本ブログで示した通り、
単にニ中歴時代の横行動きの後退出来無い
悪行を、二中歴の横行位置に入れて、
トライルールを兵駒に準じて適用しただけ
の方が良い
との結論に、今回チェックの結果終わって
しまったという次第という事になった訳で
ある。(2024/09/28)
大将棋に、二中歴の横行ルールで動く、
鎌倉市横小路遺跡出土の悪行を、旧横行
位置の、先手7十二、後手7二に入れて、
13升目96枚制にした大将棋に、従来
通り、どうぶつ将棋トライルールを悪行
に適応すると同時に、それだけで無くて、
2段目か初期位置の前升目以外で、かつ
初期位置に攻め側の駒が既に侵攻して占拠
してい無い場合は、悪行を取った時に、
取り捨てて排除しないで、元の相手の初期
マス目に戻さなければならず、よって歩兵・
仲人同様、悪行が不滅になるという、言わ
ば「石川五右衛門釜ゆでルール」ともいう
べき不滅ルールをも、二つ共に取り入れた
ら、攻撃が更に強くなり、該ゲームは出来
が、改善するのかどうかという話題である。
結果、意外にも逆効果で、石川五右衛門
釜ゆで時の言いぐさ(時世の句)のような
このルールは、普通唱導集大将棋の麒麟・
鳳凰ルールのようには、使わない方が良い
事が判った。
以前にも述べたが、鎌倉横小路流改善
熊澤良尊後鳥羽上皇期大将棋は、以下のよ
うな、13升目盤に、初期に将棋の駒を、
並べてプレーするゲームである。

このゲームは改善熊澤良尊後鳥羽上皇期
大将棋に、神奈川県鎌倉市横小路遺跡で
出土した、不成悪行駒を、二中歴から、
後鳥羽上皇期の大将棋で、袖に横行を移動
して隙間が出来た、穴埋めと解釈して玉将
の直ぐ前升目へ導入したものである。
この駒にも、どうぶつ将棋流のトライルー
ルを適用すれば、オフェンスが更に強化
され、バランスが改善してゲームの出来が
良くなるとみられたという訳である。
その後普通唱導集大将棋の麒麟・鳳凰の、
取られても盤雙六のように、元位置に戻す
不滅ルールが、本ブログにより提案された。
ので、悪行に、そのルールを適用したら、
更に攻め側有利に傾くのかどうかが、私の
興味の的となり、今回テストしたという経
緯となる。
そこで実際に一人指しでマイクロソフト/
エクセルでテストすると、指終わりが引き
分けで終わる、以下の局面に一例としてし
まった。

上図のように守り駒が大量に余っており、
意図せず、守り(ディフェンス)が返って、
強くなって、改悪となり失敗であった。
察するに、
悪行が元々「守備駒」だった為「自陣二段
位置と第3段目の直ぐ前升目以外では不滅」
の石川五右衛門釜ゆで時の辞世の句ルール
は、返って守りの強化に繋がった
のである。テストして見無ければ、ここま
で極端とは判らなかったのには感心させら
れたが。とにかくこの結果から、悪行に、
石川五右衛門の釜ゆで時の時世の句ルール
は導入せず、以前に本ブログで示した通り、
単にニ中歴時代の横行動きの後退出来無い
悪行を、二中歴の横行位置に入れて、
トライルールを兵駒に準じて適用しただけ
の方が良い
との結論に、今回チェックの結果終わって
しまったという次第という事になった訳で
ある。(2024/09/28)
富山県富山市水橋金広遺跡で中世泰山墨書陶器(長さん)
今回は、以前すごろく盤が出土したと紹介し
た表題遺跡の同発掘調査で、陶器茶碗の裏面
に、漢字で「泰山」と書いてあるように見え
る黒い模様が在るとの旨の紹介である。
湯のみ茶碗の意匠ではないかと私は疑う。
遺物の写真は繰返すとweb上に公開され、
以前紹介の発掘報告書に載っている。報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
以前にも示したがpdfファイル名は以下。
13696_2_富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
富山市埋蔵文化財調査報告113/
富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘報告書、
2001年、富山市教育委員会。
発掘報告書第2pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、富山県富山市水橋金広中馬場。
なお、水橋金広遺跡はこれより大きく、字
の中馬場地区をこの期間に、発掘調査したと
の意味のようである。
遺物が出土したのは西暦2000年前後の
事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第23ページ付近の説明により遺物
は、中世の瀬戸美濃の天目茶碗であり、戦国
時代の頃のものと見られているように、私に
は読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書、第2写真図版
pdfの写真図版第27の、越中瀬戸を集め
た集合写真最上段カラムの、最下段(3段目)
の左から3個目に在り、遺物番号瀬戸物の第
69番との旨、ナンバリングされているよう
である。

上図のように、破片の裏面の写真のようで
あり、左上に「泰」右下に、「山」のように
も見える、黒い模様が有る。側面に道教の
寺院のような絵が有り、底面に、そう書いて
あれば、ツジツマの合う字であるように、私
には解釈される。茶碗の意匠ではなかろうか。
(2024/09/27)
た表題遺跡の同発掘調査で、陶器茶碗の裏面
に、漢字で「泰山」と書いてあるように見え
る黒い模様が在るとの旨の紹介である。
湯のみ茶碗の意匠ではないかと私は疑う。
遺物の写真は繰返すとweb上に公開され、
以前紹介の発掘報告書に載っている。報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
以前にも示したがpdfファイル名は以下。
13696_2_富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
富山市埋蔵文化財調査報告113/
富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘報告書、
2001年、富山市教育委員会。
発掘報告書第2pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、富山県富山市水橋金広中馬場。
なお、水橋金広遺跡はこれより大きく、字
の中馬場地区をこの期間に、発掘調査したと
の意味のようである。
遺物が出土したのは西暦2000年前後の
事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第23ページ付近の説明により遺物
は、中世の瀬戸美濃の天目茶碗であり、戦国
時代の頃のものと見られているように、私に
は読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書、第2写真図版
pdfの写真図版第27の、越中瀬戸を集め
た集合写真最上段カラムの、最下段(3段目)
の左から3個目に在り、遺物番号瀬戸物の第
69番との旨、ナンバリングされているよう
である。

上図のように、破片の裏面の写真のようで
あり、左上に「泰」右下に、「山」のように
も見える、黒い模様が有る。側面に道教の
寺院のような絵が有り、底面に、そう書いて
あれば、ツジツマの合う字であるように、私
には解釈される。茶碗の意匠ではなかろうか。
(2024/09/27)
石川県津幡町加茂遺跡で古代西戎墨書杯土器(長さん)
今回は古代の、石川県の官衙跡とされ、
奈良時代から平安時代前期にかけての
墨書土器がかなりの数出土したと記録
された、石川県金沢市の近郊、本ブログ
が、不成龍馬墨書将棋駒が出土したと
認識する、堅田B遺跡の約十キロ北の
表題遺跡で、時代は中世と古代とで違う
が、漢字で西戎のようにも見える墨書
杯土器が出土したとの旨の紹介である。
地名の加茂の同意、「茂」と読まれ、
「西茂」と書かれているのかと思えるが、
濃く書かれているもののヨゴレが多く私
には、意図のはっきりし無い、古代墨書
土器と認識される物品である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
25282_2_津幡町加茂遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
津幡町加茂遺跡Ⅰ、2009、石川県
教育委員会・石川県埋蔵文化財センター。
発掘報告書第2pdf末尾抄録により、
遺跡の場所は、石川県河北郡津幡町舟橋
・加茂。
遺物が出土したのは、西暦1991年
から西暦1994年の間ないしその前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、同抄録要約により、
平安時代前期と考えられているように私
には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
084:”土器41”の下から2段目
左端に遺物の裏面とみられる写真が在り、
遺物番号、土器の第1736番との旨、
ナンバリングされている。発掘報告書第
301ページ土器観察表によれば、杯型
土器で「茂」と釈文されている。

上図のように、2文字のようでもあり、
一見すると、釈文「茂」を参照して「西
茂」かもしれないが。「西戎」のようで
もあり、はっきりし無いが、とにかく墨
書が有るのは、間違い無い事が判る。
地名とみられている発掘報告書の釈文
に「西」を付けたものとも、繰り返すと
思えるが、余分な線が複数有り、意図の
良く判らない遺物だと、私には困惑感の
みである。(2024/09/26)
奈良時代から平安時代前期にかけての
墨書土器がかなりの数出土したと記録
された、石川県金沢市の近郊、本ブログ
が、不成龍馬墨書将棋駒が出土したと
認識する、堅田B遺跡の約十キロ北の
表題遺跡で、時代は中世と古代とで違う
が、漢字で西戎のようにも見える墨書
杯土器が出土したとの旨の紹介である。
地名の加茂の同意、「茂」と読まれ、
「西茂」と書かれているのかと思えるが、
濃く書かれているもののヨゴレが多く私
には、意図のはっきりし無い、古代墨書
土器と認識される物品である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
25282_2_津幡町加茂遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
津幡町加茂遺跡Ⅰ、2009、石川県
教育委員会・石川県埋蔵文化財センター。
発掘報告書第2pdf末尾抄録により、
遺跡の場所は、石川県河北郡津幡町舟橋
・加茂。
遺物が出土したのは、西暦1991年
から西暦1994年の間ないしその前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、同抄録要約により、
平安時代前期と考えられているように私
には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
084:”土器41”の下から2段目
左端に遺物の裏面とみられる写真が在り、
遺物番号、土器の第1736番との旨、
ナンバリングされている。発掘報告書第
301ページ土器観察表によれば、杯型
土器で「茂」と釈文されている。

上図のように、2文字のようでもあり、
一見すると、釈文「茂」を参照して「西
茂」かもしれないが。「西戎」のようで
もあり、はっきりし無いが、とにかく墨
書が有るのは、間違い無い事が判る。
地名とみられている発掘報告書の釈文
に「西」を付けたものとも、繰り返すと
思えるが、余分な線が複数有り、意図の
良く判らない遺物だと、私には困惑感の
みである。(2024/09/26)
後鳥羽上皇期大将棋兵駒を飛将棋ルールでテスト(長さん)
今回は、結果から見ると、ルールが改悪に
なり、以下失敗した例の報告である。
将棋駒製作家で知られる、熊澤良尊氏が
前世紀に、平安大将棋の、二中歴に記載さ
れたルール解説の中で見られる銀ダブりと
桂馬落ちの混乱記載を、桂馬が2筋内側に
寄ると解釈して新説を発表した事から表題
のように、本ブログの管理人が命名した、
本ブログで、改善熊澤良尊型後鳥羽上皇期
大将棋と呼んでいる、13升目94枚制の
将棋では、オフェンス側強化にバランスを
シフトするよう、同じく本ブログの管理人
によって、歩兵と仲人のトライ勝ちルール
が提案されている。

このルールは、どうぶつ将棋でライオン
のトライの代わりに、15枚存在する、
歩兵+仲人(2枚)の何れか1枚でも、
どうぶつ将棋流に、相手側最下段でトライ
すれば、相手玉を詰まなくても勝ちとする
ものである。
なお、この初期配列は、上図のように
表現され、桂馬と飛龍が2筋内側に寄る点
が、成書、「ものと人間の文化史23-Ⅰ」、
増川宏一、将棋Ⅰ等と違うが、その他は
横行の無い二中歴大将棋が1~2段目に配
列される将棋で、全ての駒が不成ルールで
ある。駒は、二中歴の記載に準拠し、飛龍
は「隣升目で止まれない角行動き」との説
を取る。二中歴に記載の無い3・5段目駒
は横行を含めて中将棋の通りの動き。奔車
は、飛車が入ったとき、反車に名称変更し
ただろうと、本ブログで以前に述べた。
この歩兵仲人のトライルールは、飛将棋
のルールに類似な為、いっそ飛将棋並みに、
歩兵と仲人は、相アタリの状態からなら、
1枚ずつならば、相手の歩兵を自分の着手
で、取ってその升目に進むのでは無くて、
2歩前に跳び越して進むに変えても、サマ
になるようにも見える。
そこで今回、歩兵と仲人は、1歩進みで
は無くて、相手の歩兵か仲人に当たった
場合、相手の駒は取れず、その代わり飛び
越えて、2升目先に進む(ただし自駒や、
仲人を飛び越したときに、相手歩兵が居る
場合は飛び越せない。)に変えて、将棋
ゲームとして問題が生じ無いかどうか、
チェックした。
結果は、残念ながら、膠着局面を作る為、
歩兵等の飛び越えルールの導入は不可
であった。
以下に、問題の起こる局面例を示す。

この例では、後手がうっかりとして、
自陣の左飛車を端筋から、駒組のときに
退避し忘れて、先手から端攻めを喰らい、
第1筋(M筋)の飛車を1歩引いた局面で
ある。
この局面で、先手・後手共に、歩兵を
飛び越す「攻め手」は悪手になり、前記の
ような、飛び越えルールを導入すると局面
膠着状態に明らかに陥る。
仕掛を端から開始出来無いのは、明らか
に、大将棋系のゲームとしては不出来であ
ろう。一目見ただけで、この局面を見れば、
この将棋に、兵駒の飛び越えルールは駄目
だと判る。
以前に述べた通り、どうぶつ将棋型で、
ただし玉駒のライオンがトライ勝ちでは無
く、兵駒だけトライ勝ちルールにしておい
て、袖の銅将やニ中歴の悪狼動きの鉄将で、
ゴールキーパーの如くに、その歩兵の突入
を受ける大将棋としておいて今のところ、
やはり問題無いと、少なくとも棋力のそれ
ほど高くない私には、どうやら結論出来そ
うであった。(2024/09/25)
なり、以下失敗した例の報告である。
将棋駒製作家で知られる、熊澤良尊氏が
前世紀に、平安大将棋の、二中歴に記載さ
れたルール解説の中で見られる銀ダブりと
桂馬落ちの混乱記載を、桂馬が2筋内側に
寄ると解釈して新説を発表した事から表題
のように、本ブログの管理人が命名した、
本ブログで、改善熊澤良尊型後鳥羽上皇期
大将棋と呼んでいる、13升目94枚制の
将棋では、オフェンス側強化にバランスを
シフトするよう、同じく本ブログの管理人
によって、歩兵と仲人のトライ勝ちルール
が提案されている。

このルールは、どうぶつ将棋でライオン
のトライの代わりに、15枚存在する、
歩兵+仲人(2枚)の何れか1枚でも、
どうぶつ将棋流に、相手側最下段でトライ
すれば、相手玉を詰まなくても勝ちとする
ものである。
なお、この初期配列は、上図のように
表現され、桂馬と飛龍が2筋内側に寄る点
が、成書、「ものと人間の文化史23-Ⅰ」、
増川宏一、将棋Ⅰ等と違うが、その他は
横行の無い二中歴大将棋が1~2段目に配
列される将棋で、全ての駒が不成ルールで
ある。駒は、二中歴の記載に準拠し、飛龍
は「隣升目で止まれない角行動き」との説
を取る。二中歴に記載の無い3・5段目駒
は横行を含めて中将棋の通りの動き。奔車
は、飛車が入ったとき、反車に名称変更し
ただろうと、本ブログで以前に述べた。
この歩兵仲人のトライルールは、飛将棋
のルールに類似な為、いっそ飛将棋並みに、
歩兵と仲人は、相アタリの状態からなら、
1枚ずつならば、相手の歩兵を自分の着手
で、取ってその升目に進むのでは無くて、
2歩前に跳び越して進むに変えても、サマ
になるようにも見える。
そこで今回、歩兵と仲人は、1歩進みで
は無くて、相手の歩兵か仲人に当たった
場合、相手の駒は取れず、その代わり飛び
越えて、2升目先に進む(ただし自駒や、
仲人を飛び越したときに、相手歩兵が居る
場合は飛び越せない。)に変えて、将棋
ゲームとして問題が生じ無いかどうか、
チェックした。
結果は、残念ながら、膠着局面を作る為、
歩兵等の飛び越えルールの導入は不可
であった。
以下に、問題の起こる局面例を示す。

この例では、後手がうっかりとして、
自陣の左飛車を端筋から、駒組のときに
退避し忘れて、先手から端攻めを喰らい、
第1筋(M筋)の飛車を1歩引いた局面で
ある。
この局面で、先手・後手共に、歩兵を
飛び越す「攻め手」は悪手になり、前記の
ような、飛び越えルールを導入すると局面
膠着状態に明らかに陥る。
仕掛を端から開始出来無いのは、明らか
に、大将棋系のゲームとしては不出来であ
ろう。一目見ただけで、この局面を見れば、
この将棋に、兵駒の飛び越えルールは駄目
だと判る。
以前に述べた通り、どうぶつ将棋型で、
ただし玉駒のライオンがトライ勝ちでは無
く、兵駒だけトライ勝ちルールにしておい
て、袖の銅将やニ中歴の悪狼動きの鉄将で、
ゴールキーパーの如くに、その歩兵の突入
を受ける大将棋としておいて今のところ、
やはり問題無いと、少なくとも棋力のそれ
ほど高くない私には、どうやら結論出来そ
うであった。(2024/09/25)
鳥取県倉吉市大原廃寺跡で奈良時代王輝龍墨書瓦(長さん)
今回は瓦の溝模様のそれぞれの間に一文字ずつ、
漢字で主・輝(別字で火へんに黄)・龍または、
寵(ロウ/めぐむ)等と、書いてあるように
見える遺物が、鳥取県の表題寺跡遺跡で、出土
しているとの旨の紹介である。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
14156_1_史跡大原廃寺発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
鳥取県倉吉市文化財調査報告書/第100集/
史跡大原廃寺発掘調査報告書、西暦1998年、
鳥取県倉吉市教育委員会。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
鳥取県倉吉市大原字亀井谷口・寺ノ谷・大門
亀井。
遺物が出土したのは西暦1995年から西暦
1998年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は軒平瓦の第Ⅲ類に
形から発掘報告書内で分類され、発掘報告書の
第52ページ付近で、8世紀前半の奈良時代と
考えられているように、私には読取れる。寺の
創建は飛鳥時代の末期、7世紀末との事である。
寺の瓦として使われたものであろう。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第10の
上段右に在り、遺物番号第19番との旨ナンバ
リングされている。滑り止めのように溝の付い
た面の写真が、2コマ縦に並んだうちの、下に
在り、そちらのコマに模様が付いている。

上図のように、縦に溝を挟んで1字ずつ漢字で
主、輝(煌の別字。火へんに黄)、龍または寵
(ロウ/めぐむ)等と書いてあり、全体に大和
朝廷の威光で、規模の大きな寺が建造された事
を、祝しているように見える文字が、書いて有
るように私見する。将棋駒とは繋がらない内容
であり、寺が創建時に、相当な規模だった事を、
物語っているという事なのだろう。(2024/09/24)
漢字で主・輝(別字で火へんに黄)・龍または、
寵(ロウ/めぐむ)等と、書いてあるように
見える遺物が、鳥取県の表題寺跡遺跡で、出土
しているとの旨の紹介である。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
14156_1_史跡大原廃寺発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
鳥取県倉吉市文化財調査報告書/第100集/
史跡大原廃寺発掘調査報告書、西暦1998年、
鳥取県倉吉市教育委員会。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
鳥取県倉吉市大原字亀井谷口・寺ノ谷・大門
亀井。
遺物が出土したのは西暦1995年から西暦
1998年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は軒平瓦の第Ⅲ類に
形から発掘報告書内で分類され、発掘報告書の
第52ページ付近で、8世紀前半の奈良時代と
考えられているように、私には読取れる。寺の
創建は飛鳥時代の末期、7世紀末との事である。
寺の瓦として使われたものであろう。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第10の
上段右に在り、遺物番号第19番との旨ナンバ
リングされている。滑り止めのように溝の付い
た面の写真が、2コマ縦に並んだうちの、下に
在り、そちらのコマに模様が付いている。

上図のように、縦に溝を挟んで1字ずつ漢字で
主、輝(煌の別字。火へんに黄)、龍または寵
(ロウ/めぐむ)等と書いてあり、全体に大和
朝廷の威光で、規模の大きな寺が建造された事
を、祝しているように見える文字が、書いて有
るように私見する。将棋駒とは繋がらない内容
であり、寺が創建時に、相当な規模だった事を、
物語っているという事なのだろう。(2024/09/24)
鳥獣戯画の通説将棋図を画像処理(長さん)
鳥獣戯画丙巻の遊戯図で、布製のような
薄っぺらな盤で、稚児と丸顔坊主が対局
している遊戯は、将棋であるというのが
通説である。本ブログも増川宏一が論じ
る通り、9升目の平安小将棋では無くて、
7×7升目28枚制程度のより盤升目の
少ない、特殊な”小小将棋”を従来から
想定している。成立年代は、平安時代末
から遅くて鎌倉時代初と、現代では言わ
れるようになり、絵のゲームも、その頃
指されたものとされていると考えられる。
絵の盤は、絵描きが見る方向に準じて
平行四辺形に当然形を変形しているので、
今回マイクロソフトのペイントを普通に
使い、画像の平行四辺形変形をして、盤
がやや段方向に長い正方形に近い長方形
になるように試しに変えてみた。
以下に、その結果を示す。
以下の図は、成書、日本の美術第32
号/遊戯具、西暦1968年、東京国立
博物館・京都国立博物館・奈良国立博物
館の、第66ページ付近の下の方の図を
今回は使ってみたものである。比較的元々
の印刷状態が良い書籍の図と判断される。

上図のように、格段に人間の目で局面
が、理解出来るようになると私には見て
取れた。また、今回は将棋駒の描き方に
注視しズン胴型の将棋駒の時代であった
為、鈍角の先はデフォルメして、安直に
長方形で、ほぼ全ての将棋駒を表現して
いたと理解出来たと思う。字駒である事
を証明する中央墨線が所々、計3枚程度
の駒について有り、かつ墨書きが、何れ
の駒についても横長表現である事から、
2文字駒の将棋駒であると明らかに見て
取れる。全体としてこの絵が将棋の図と、
確定できるように思う。元々の、成書:
「日本の美術」の印刷状態が、良かった
のが、効いたようである。
将棋駒の分布から、以前に述べたが、
端筋が香車では無くて桂馬で終わる、
歩兵を2段目、自陣2段に初期配列する
ようなゲームであると、この画像処理に
より鮮明に人間に見えるようになると私
には見て取れた。このマイクロソフト/
ペイントによる、平行四辺形画像処理は、
充分に効果が有ったと今回評価出来た。
興福寺の、金将が多く香車が無い将棋
駒の出土状態等をも参考にすると、右銀
の位置に角行動きの酔象を入れる等して、
▲1五歩△1三歩▲1六酔象△7三歩
▲7五歩△7二酔象▲2五酔象△6三
酔象▲1四歩△同歩▲同酔象△2三歩・
等の出だしの将棋を、鳥獣戯画や興福寺
では、西暦1098年頃から、指す事が、
或いは有ったのかもしれない。「中央王
の奇数升の将棋を指さないのは、けしか
らん」と、白河法皇に窘められて桂馬相
アタリが無いように、9升目では無くて、
7升目将棋に興福寺等では、してみたの
という事かと解釈する。鳥獣戯画小将棋
は比較的、下々の間では指されたと、私
は、画像処理絵の鮮明さを見て、今回に
なって初めて疑い出した。(2024/09/23)
薄っぺらな盤で、稚児と丸顔坊主が対局
している遊戯は、将棋であるというのが
通説である。本ブログも増川宏一が論じ
る通り、9升目の平安小将棋では無くて、
7×7升目28枚制程度のより盤升目の
少ない、特殊な”小小将棋”を従来から
想定している。成立年代は、平安時代末
から遅くて鎌倉時代初と、現代では言わ
れるようになり、絵のゲームも、その頃
指されたものとされていると考えられる。
絵の盤は、絵描きが見る方向に準じて
平行四辺形に当然形を変形しているので、
今回マイクロソフトのペイントを普通に
使い、画像の平行四辺形変形をして、盤
がやや段方向に長い正方形に近い長方形
になるように試しに変えてみた。
以下に、その結果を示す。
以下の図は、成書、日本の美術第32
号/遊戯具、西暦1968年、東京国立
博物館・京都国立博物館・奈良国立博物
館の、第66ページ付近の下の方の図を
今回は使ってみたものである。比較的元々
の印刷状態が良い書籍の図と判断される。

上図のように、格段に人間の目で局面
が、理解出来るようになると私には見て
取れた。また、今回は将棋駒の描き方に
注視しズン胴型の将棋駒の時代であった
為、鈍角の先はデフォルメして、安直に
長方形で、ほぼ全ての将棋駒を表現して
いたと理解出来たと思う。字駒である事
を証明する中央墨線が所々、計3枚程度
の駒について有り、かつ墨書きが、何れ
の駒についても横長表現である事から、
2文字駒の将棋駒であると明らかに見て
取れる。全体としてこの絵が将棋の図と、
確定できるように思う。元々の、成書:
「日本の美術」の印刷状態が、良かった
のが、効いたようである。
将棋駒の分布から、以前に述べたが、
端筋が香車では無くて桂馬で終わる、
歩兵を2段目、自陣2段に初期配列する
ようなゲームであると、この画像処理に
より鮮明に人間に見えるようになると私
には見て取れた。このマイクロソフト/
ペイントによる、平行四辺形画像処理は、
充分に効果が有ったと今回評価出来た。
興福寺の、金将が多く香車が無い将棋
駒の出土状態等をも参考にすると、右銀
の位置に角行動きの酔象を入れる等して、
▲1五歩△1三歩▲1六酔象△7三歩
▲7五歩△7二酔象▲2五酔象△6三
酔象▲1四歩△同歩▲同酔象△2三歩・
等の出だしの将棋を、鳥獣戯画や興福寺
では、西暦1098年頃から、指す事が、
或いは有ったのかもしれない。「中央王
の奇数升の将棋を指さないのは、けしか
らん」と、白河法皇に窘められて桂馬相
アタリが無いように、9升目では無くて、
7升目将棋に興福寺等では、してみたの
という事かと解釈する。鳥獣戯画小将棋
は比較的、下々の間では指されたと、私
は、画像処理絵の鮮明さを見て、今回に
なって初めて疑い出した。(2024/09/23)
大阪府大阪市長原遺跡で古墳期泰山墨書土器(長さん)
今回は、以前に「龍鷹」と墨書が有ると疑わ
れる、鶏型の埴輪が出土したと本ブログで
紹介した表題遺跡で、別の発掘調査のときに、
奉山と書かれた墨書土器が2枚出土している
との旨の紹介である。
遺物の写真が今度はweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
4960_2_長原・瓜破遺跡発掘調査報告3.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
長原・瓜破遺跡発掘調査報告Ⅲ、1992.
3、財団法人大阪市文化財協会。
発掘報告書第1pdf例言により遺跡の場
所は、大阪府大阪市平野区長原西。
遺物が出土したのは、西暦1983年前後
の事のようである。
成立年代については以下のように幅がある。
即ち今回紹介する遺物は2個有り、取手付き
甕土器に関しては、図版の説明に鶏型埴輪と
同じく、古墳時代成立との旨の記載が有る。
他方、杯型土器の内面に模様の有る土器に
ついては、同じくその図版の説明に、平安
時代であるとの旨の説明が有る。
遺物の写真は、取手付き甕土器について、
発掘報告書第2pdfの写真図版第46の、
中段右側に有り、遺物番号で第181番との
旨、ナンバリングされている。第39土坑で
出土し、第39土坑は、長原遺跡の西地区に
在るとの事である。

上図のように、底で写真のやや右側に、
漢字で「奉」のよえに見える模様が有り、
左側は「三」、右上にやや薄く「山」のよう
にも見える模様が有って、「三奉山」と私見
だが読める。具体的に「三奉山」がどの山と、
どの山を指すのかは私には判らないが、その
通りの意味で、山岳信仰のように私見する。
他方、もう一個の遺物の写真は、発掘報告
書写真図版第56の下から2段目右に在り、
遺物番号第373番との旨ナンバリングされ
ていて、杯土器の内面の写真のように私には
見える。平安時代成立の、第03井戸跡から
出土したとの付記が、図版に在る。

上図のように、内面のほぼ中央に大きく、
漢字で「奉」その下にやや小さく「山」と私
には書かれているように見える。古代の山岳
信仰の祭祀用土器であり、長原遺跡の西地区
では、古墳時代から古代/平安時代まで、山
岳信仰が継続し、渡来人と日本人に「三奉山」
や「奉山」の漢字が土器に書かれていたと私
見する。識字層が大阪市の遺跡では継続して
存在し続けたという事であろう。(2024/09/22)
れる、鶏型の埴輪が出土したと本ブログで
紹介した表題遺跡で、別の発掘調査のときに、
奉山と書かれた墨書土器が2枚出土している
との旨の紹介である。
遺物の写真が今度はweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
4960_2_長原・瓜破遺跡発掘調査報告3.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
長原・瓜破遺跡発掘調査報告Ⅲ、1992.
3、財団法人大阪市文化財協会。
発掘報告書第1pdf例言により遺跡の場
所は、大阪府大阪市平野区長原西。
遺物が出土したのは、西暦1983年前後
の事のようである。
成立年代については以下のように幅がある。
即ち今回紹介する遺物は2個有り、取手付き
甕土器に関しては、図版の説明に鶏型埴輪と
同じく、古墳時代成立との旨の記載が有る。
他方、杯型土器の内面に模様の有る土器に
ついては、同じくその図版の説明に、平安
時代であるとの旨の説明が有る。
遺物の写真は、取手付き甕土器について、
発掘報告書第2pdfの写真図版第46の、
中段右側に有り、遺物番号で第181番との
旨、ナンバリングされている。第39土坑で
出土し、第39土坑は、長原遺跡の西地区に
在るとの事である。

上図のように、底で写真のやや右側に、
漢字で「奉」のよえに見える模様が有り、
左側は「三」、右上にやや薄く「山」のよう
にも見える模様が有って、「三奉山」と私見
だが読める。具体的に「三奉山」がどの山と、
どの山を指すのかは私には判らないが、その
通りの意味で、山岳信仰のように私見する。
他方、もう一個の遺物の写真は、発掘報告
書写真図版第56の下から2段目右に在り、
遺物番号第373番との旨ナンバリングされ
ていて、杯土器の内面の写真のように私には
見える。平安時代成立の、第03井戸跡から
出土したとの付記が、図版に在る。

上図のように、内面のほぼ中央に大きく、
漢字で「奉」その下にやや小さく「山」と私
には書かれているように見える。古代の山岳
信仰の祭祀用土器であり、長原遺跡の西地区
では、古墳時代から古代/平安時代まで、山
岳信仰が継続し、渡来人と日本人に「三奉山」
や「奉山」の漢字が土器に書かれていたと私
見する。識字層が大阪市の遺跡では継続して
存在し続けたという事であろう。(2024/09/22)
大阪府大阪市長原遺跡で古墳期龍鷹鶏埴輪(長さん)
今回は、大阪の古墳期の表題遺跡で副葬品の
形象埴輪の一種とされる鳥型埴輪の台部分に、
漢字で「龍鷹」と書いて在るような暗い煤模
様が有るとの旨の紹介である。
今回の遺物は、以下の成書に写真が在る。
発掘された日本列島/西暦2020年、
2020年6月、文化庁。
写真や説明がこの成書の第57ページ付近
に有る。
遺跡の場所は、多分大阪府大阪市平野区の
長吉長原。
遺物が出土したのは、恐らく西暦2010
年代であろう。
遺物の成立年代は、ページの左下に古墳時
代中期から後半の、紀元4世紀後半~6世紀
中ばに掛けてのとの旨、記載が在る。
遺物の写真は、第57ページの中段やや下
第3段目の、ページ右側に在る。長原第87
号墳で出土した、雄鶏の埴輪との旨、説明が
有る。32センチ程度の高さである。

上図のように、穴の有る、台の部分の写真で、
穴の右に、左から右へ、上部が煤で埋もれて
いるが、漢字で「龍鷹」のようにも見える、
煤と連続した模様が有ると私見する。
古墳時代には鶏も飼われていたが、鷹匠も
存在した事を示唆しているようにも私には見
える。鳥類で一くくりにして、鶏から鷹を連
想した表現のようにも、私は疑う。龍や鷹の
字は、古墳時代に大阪では、普通に書かれて
いたのでは無いかと私は疑う。(2024/09/21)
形象埴輪の一種とされる鳥型埴輪の台部分に、
漢字で「龍鷹」と書いて在るような暗い煤模
様が有るとの旨の紹介である。
今回の遺物は、以下の成書に写真が在る。
発掘された日本列島/西暦2020年、
2020年6月、文化庁。
写真や説明がこの成書の第57ページ付近
に有る。
遺跡の場所は、多分大阪府大阪市平野区の
長吉長原。
遺物が出土したのは、恐らく西暦2010
年代であろう。
遺物の成立年代は、ページの左下に古墳時
代中期から後半の、紀元4世紀後半~6世紀
中ばに掛けてのとの旨、記載が在る。
遺物の写真は、第57ページの中段やや下
第3段目の、ページ右側に在る。長原第87
号墳で出土した、雄鶏の埴輪との旨、説明が
有る。32センチ程度の高さである。

上図のように、穴の有る、台の部分の写真で、
穴の右に、左から右へ、上部が煤で埋もれて
いるが、漢字で「龍鷹」のようにも見える、
煤と連続した模様が有ると私見する。
古墳時代には鶏も飼われていたが、鷹匠も
存在した事を示唆しているようにも私には見
える。鳥類で一くくりにして、鶏から鷹を連
想した表現のようにも、私は疑う。龍や鷹の
字は、古墳時代に大阪では、普通に書かれて
いたのでは無いかと私は疑う。(2024/09/21)