福井市一乗谷朝倉氏遺跡第42次に角行駒1枚追加(長さん)
戦国時代の朝倉氏の遺跡であり、将棋駒が
過去大量に発掘された事で著名な表題遺跡に
ついては、将棋駒遺物カタログが、岩手県
天童市の天童市資料館2003年発行の、
「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」に記載さ
れている。が、幾らか記載漏れが有り、以前
第40次発掘調査で発見された金将が、1枚
漏れているとの旨を、本ブログで紹介した。
今回は別の例であり、将棋駒の出土例が
前記成書に私には見当たらない、同遺跡の
第42次の発掘調査で、彫り駒の成り龍馬と
みられる角行駒が1枚、漏れていて追加で
有るようだとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140486_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡
発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告22/第42
次調査、2024、福井県立一乗谷朝倉氏
遺跡博物館。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
福井県福井市城戸ノ内町字川久保・赤潟。
遺物が出土したのは、西暦1982年ないし
その前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第31
ページの記載から、戦国時代から江戸時代に
かけての何時かであるように私には読取れる。
かなり痛んでいるが、厚みは0.65センチ
で、比較的厚いと取れる旨が、第51ページ
付近の遺物観察表に在る。大量の戦国時代駒
とされる第9次発掘調査の出土駒群は、厚み
がその、半分程度のことが多いようである。
遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
(PL.)第28:”出土遺物F区”の、
第2段目のカラムの左に在り、遺物番号第5
番との旨、ナンバリングされている。報告書
に、「成り龍馬の角行駒である」との旨の
紹介が在る。
上図のように、痛んでいるが墨書では無く
彫られているので、成りが龍馬で、オモテが
角行であると、ほぼ判断が付くようである。
遺構が発見され無い為、掘り込んだ場所で、
湿っていた為、木が腐らずに将棋駒として
出土したらしい。その為、9次出土駒ほどは
素性が確定し無いが、この遺物将棋駒も、
戦国朝倉氏の時代の、飛車・角行の有る
小将棋の駒の可能性が、高いという事なので
あろう。(2024/10/20)
過去大量に発掘された事で著名な表題遺跡に
ついては、将棋駒遺物カタログが、岩手県
天童市の天童市資料館2003年発行の、
「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」に記載さ
れている。が、幾らか記載漏れが有り、以前
第40次発掘調査で発見された金将が、1枚
漏れているとの旨を、本ブログで紹介した。
今回は別の例であり、将棋駒の出土例が
前記成書に私には見当たらない、同遺跡の
第42次の発掘調査で、彫り駒の成り龍馬と
みられる角行駒が1枚、漏れていて追加で
有るようだとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140486_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡
発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告22/第42
次調査、2024、福井県立一乗谷朝倉氏
遺跡博物館。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
福井県福井市城戸ノ内町字川久保・赤潟。
遺物が出土したのは、西暦1982年ないし
その前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第31
ページの記載から、戦国時代から江戸時代に
かけての何時かであるように私には読取れる。
かなり痛んでいるが、厚みは0.65センチ
で、比較的厚いと取れる旨が、第51ページ
付近の遺物観察表に在る。大量の戦国時代駒
とされる第9次発掘調査の出土駒群は、厚み
がその、半分程度のことが多いようである。
遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
(PL.)第28:”出土遺物F区”の、
第2段目のカラムの左に在り、遺物番号第5
番との旨、ナンバリングされている。報告書
に、「成り龍馬の角行駒である」との旨の
紹介が在る。
上図のように、痛んでいるが墨書では無く
彫られているので、成りが龍馬で、オモテが
角行であると、ほぼ判断が付くようである。
遺構が発見され無い為、掘り込んだ場所で、
湿っていた為、木が腐らずに将棋駒として
出土したらしい。その為、9次出土駒ほどは
素性が確定し無いが、この遺物将棋駒も、
戦国朝倉氏の時代の、飛車・角行の有る
小将棋の駒の可能性が、高いという事なので
あろう。(2024/10/20)