何故本ブログは平安将棋wiki2型を取ら無い(長さん)
wikipediaの平安将棋の項には、
初期配置図として8×8升目の、本ブログ
が原始平安小将棋と呼んでいるタイプ、
縦8段横9筋の長方形盤タイプ、9×9
升目の本ブログが標準型平安小将棋と呼ん
でいるタイプの、3種類が載っている。
9×8升目を本ブログが議論し無かった
のは、
特に理由が無く、たまたまの落しに近い
というのが実態である。しかし、何故9筋
8段型に言及し無いのかと問われたときに、
強い理由付けは、現行本ブログの管理人
には不能で有るにしても、何らかの応答が
出来無いのは、まずいことだろうと、最近
思うようになった。
今回は9筋8段型が、仮に敬遠されたと
すれば、理由は何なのかを考えたので、結
果を以下に示す。
駒の動かし方のルールで角行型の原始的
な不成り酔象駒が、伝来元国に元々存在し
た事が、伝来してから比較的早期に知られ
ており、偶数×奇数盤だと袖の隅の升目に、
行ける段と行けない段が出来て、ゲームと
して、進行の調子が悪いと、当初から考え
られていたから
だと本ブログでは答える事にしたいと考え
る。しかも、原始的な角行動きの段階で、
その成らない酔象は、現行の西洋チェス等
とは違い、1枚しか無い事も示しているの
だろう。
本ブログでは、原始的に角行動きの酔象1
枚認知の状態を前提として論を進めている
為に、9×8升目型を、恐らく余り指され
ないと仮定していると答えるやり方は、私
は全体として、整合性が取れていると考え
ているとすれば良いという訳である。
初期配列で、相手の香車は酔象で取れる
のに、自分の香車升目へ行けなかったり、
その逆が起こったりという現象が存在する
のが、
特に不自然だったのだと考える
と、ツジツマは合っているのではないかと
いう意味でもある。
8×9升目平安小将棋は、時に指された
だろうし、酔象を入れたゲームも、ときに
行われたのだが。角行動きの酔象が酔互い
に筋違いになるので、攻めが空回りになり
座りが悪いとか、上記に述べた端筋へ行け
るかどうかの単一性の無さとの理由で違和
感が在るとして、どちらかと言うと次第に
敬遠されたと主張できるのではないか。
そして、そのように主張したとき完全否定
出来る、強い理由も実は無かろう。
要するに、酔象の存在が、世俗のプレー
ヤの間では、伝来元国にホントは存在した
という情報が、将棋が伝来して比較的早い
時代からバレていたのであろう。以上のよ
うな論は、興福寺出土駒のパターンと、現
実的に良く合っていると、主張出来ると私
は思う。
他方シャンチー類で9×10升目型が
普及したのは、角行型走り駒を、たまたま
1枚も入れ無かったからだとして、矛盾が
起こらないし、ドイツ/クーリエも、偶数×
偶数盤なので、
辛くも、言い逃れは出来ている。
以上のような事だろう。現実には占いの
九星図に類似だったので、8×8のグロー
バル型から、標準的な9×9升目の平安小
将棋に、荒く言えば、移っただけだろうと、
本ブログ管理人は、一応従来より推定は、
していたのではあるが。(2024/11/30)
初期配置図として8×8升目の、本ブログ
が原始平安小将棋と呼んでいるタイプ、
縦8段横9筋の長方形盤タイプ、9×9
升目の本ブログが標準型平安小将棋と呼ん
でいるタイプの、3種類が載っている。
9×8升目を本ブログが議論し無かった
のは、
特に理由が無く、たまたまの落しに近い
というのが実態である。しかし、何故9筋
8段型に言及し無いのかと問われたときに、
強い理由付けは、現行本ブログの管理人
には不能で有るにしても、何らかの応答が
出来無いのは、まずいことだろうと、最近
思うようになった。
今回は9筋8段型が、仮に敬遠されたと
すれば、理由は何なのかを考えたので、結
果を以下に示す。
駒の動かし方のルールで角行型の原始的
な不成り酔象駒が、伝来元国に元々存在し
た事が、伝来してから比較的早期に知られ
ており、偶数×奇数盤だと袖の隅の升目に、
行ける段と行けない段が出来て、ゲームと
して、進行の調子が悪いと、当初から考え
られていたから
だと本ブログでは答える事にしたいと考え
る。しかも、原始的な角行動きの段階で、
その成らない酔象は、現行の西洋チェス等
とは違い、1枚しか無い事も示しているの
だろう。
本ブログでは、原始的に角行動きの酔象1
枚認知の状態を前提として論を進めている
為に、9×8升目型を、恐らく余り指され
ないと仮定していると答えるやり方は、私
は全体として、整合性が取れていると考え
ているとすれば良いという訳である。
初期配列で、相手の香車は酔象で取れる
のに、自分の香車升目へ行けなかったり、
その逆が起こったりという現象が存在する
のが、
特に不自然だったのだと考える
と、ツジツマは合っているのではないかと
いう意味でもある。
8×9升目平安小将棋は、時に指された
だろうし、酔象を入れたゲームも、ときに
行われたのだが。角行動きの酔象が酔互い
に筋違いになるので、攻めが空回りになり
座りが悪いとか、上記に述べた端筋へ行け
るかどうかの単一性の無さとの理由で違和
感が在るとして、どちらかと言うと次第に
敬遠されたと主張できるのではないか。
そして、そのように主張したとき完全否定
出来る、強い理由も実は無かろう。
要するに、酔象の存在が、世俗のプレー
ヤの間では、伝来元国にホントは存在した
という情報が、将棋が伝来して比較的早い
時代からバレていたのであろう。以上のよ
うな論は、興福寺出土駒のパターンと、現
実的に良く合っていると、主張出来ると私
は思う。
他方シャンチー類で9×10升目型が
普及したのは、角行型走り駒を、たまたま
1枚も入れ無かったからだとして、矛盾が
起こらないし、ドイツ/クーリエも、偶数×
偶数盤なので、
辛くも、言い逃れは出来ている。
以上のような事だろう。現実には占いの
九星図に類似だったので、8×8のグロー
バル型から、標準的な9×9升目の平安小
将棋に、荒く言えば、移っただけだろうと、
本ブログ管理人は、一応従来より推定は、
していたのではあるが。(2024/11/30)
発掘報告書の兼六園遺跡桂馬写真の墨跡写らず(長さん)
今回は、以前に論じた将棋駒面の墨書画像
処理解析の話題の続きであり、可視光写真
では、炭化が進んだ将棋駒の駒名墨書き等の、
墨汁固形物の反射光反射率に関しては、散乱
の無い反射(鏡面反射光)の、木地と墨汁固
形物面の差を見ているに過ぎない
疑いが有るとの旨を、以下に述べる。
つまり、可視光写真は、目で見た通りに
写るのでは無くて、一眼レフカメラの、
ファインダー像で確認し、
撮影者が、目で見た通りに写るように、調整
によって、作っているだけ
であるという意味である。その工夫をしない
で、将棋駒の存在だけを、発掘報告書に示す
意図で、撮影しただけの写真によっては、
将棋駒名の墨が全く、木地と判別出来無い
像が撮影される事が有ると、以下に例を示し
て説明する。
今回、形式的に将棋駒像を示しただけの
写真を掲載したと疑われる、発掘報告書例と
して、以下のものを挙げる。
この写真はweb上に最近公開されて、
以下の発掘報告書に載っている。発掘報告書
が、奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開されて
いる。pdfファイル名は以下の通りである。
140638_1_特別名勝兼六園旧江戸町推定地発掘
調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
特別名勝兼六園(江戸町跡推定地)発掘調査
報告、1992年3月、石川県立埋蔵文化財
センター。
この報告書は、良く知られており、天童市
将棋資料館編集の、「天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒」でも、情報の出所であるとの旨、
示されている。
遺跡の場所は、金沢城と同一地点であり、
石川県金沢市兼六町。遺物が出土したのは、
西暦1989年前後。遺物の成立年代は、
第3遺構面で、城に接した町場とみられる地
点で出土し、17世紀初の江戸時代初期の
物品と考えられているように、私には読み取
れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第43
(PL43):”第3遺構面出土遺物(17)”
の、中段やや上、右に在り、スケッチ図第
35の遺物番号第15番との旨ナンバリング
されている。
この将棋駒は、天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒、西暦2003年、天童市将棋資料館
の第45ページ下、”44 金沢城兼六園
遺跡(石川県)”と同じものであり、上段に、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真、
下段に前記発掘報告書の写真を並べて示すと
以下のようになる。なお、発掘報告書の写真
は、本ブログの管理人が画像処理している。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真の
出所は前記発掘報告書と全く同じコンテンツ
が、天童市将棋資料館によって紹介されてい
るので、本ブログ管理人には
なぜ、これほど下の写真の墨跡が少ないのか、
良く判らない。
何れにしても、下の方の発掘報告書の写真に、
はっきりとした、成り金桂馬の墨跡が有ると
は言いがたい。
察するに、別のコマではないかと私は疑う。
なお、前記発掘報告書には、この出土将棋
駒は、成り一文字桂馬とはっきり特定されて
いると、私には取れる旨の記載が有る。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真にだけ
駒名が見えるのは、ファインダーで駒名が、
はっきり見えている写真を
撮影者がチェックした上で、シャッターを
切ったコマの印画紙を、別途将棋資料館が
入手して、成書に掲載しているから
だとしか、説明出来無いように、私は疑う。
しょせん、木地が炭化したものと駒名を書
いた墨汁は、木材の微量成分や不純物を別と
すれば、化学的に炭素である点で大差無く、
遺物は元々、
墨と木地で、色の三要素に差が無いほど、黒
いだけ
なのではないか。その状態で目で見て、駒名
が現実には読めるのは、表面の平滑性が違う
ので光源の、通常白色の蛍光灯光を、反射の
法則で等角度反射した、
直接的な反射光(鏡面反射光)の強度の差が
目に写るのを利用して、人間の頭で駒名を
認識
するからだと考える。目の位置を微妙に変え
ると、合計の反射率が、墨の方がやや低く
感じられる角度が有るのだろう。それを可視
光写真で撮ると、フィルムの表面で光が散乱
する性質から、写る色に差が出て境目が見え、
駒字が角度を選ぶと目で見たのと似た感じに
写るという手法が、たまたま功を奏している
のでは無いのだろうか。
逆に言うと、画像処理とは、とにかく写真
の色に関して数値差が多少でも有れば、目に
見えるように、拡大して見せるソフトウェアー
なだけであり、その程度のものであると言っ
てしまうとそうであると認識し、解析をすべ
きような性格のものなのかもしれないと、私
には今回、上記の例によって認識されたよう
にも思われる。(2024/11/29)
処理解析の話題の続きであり、可視光写真
では、炭化が進んだ将棋駒の駒名墨書き等の、
墨汁固形物の反射光反射率に関しては、散乱
の無い反射(鏡面反射光)の、木地と墨汁固
形物面の差を見ているに過ぎない
疑いが有るとの旨を、以下に述べる。
つまり、可視光写真は、目で見た通りに
写るのでは無くて、一眼レフカメラの、
ファインダー像で確認し、
撮影者が、目で見た通りに写るように、調整
によって、作っているだけ
であるという意味である。その工夫をしない
で、将棋駒の存在だけを、発掘報告書に示す
意図で、撮影しただけの写真によっては、
将棋駒名の墨が全く、木地と判別出来無い
像が撮影される事が有ると、以下に例を示し
て説明する。
今回、形式的に将棋駒像を示しただけの
写真を掲載したと疑われる、発掘報告書例と
して、以下のものを挙げる。
この写真はweb上に最近公開されて、
以下の発掘報告書に載っている。発掘報告書
が、奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開されて
いる。pdfファイル名は以下の通りである。
140638_1_特別名勝兼六園旧江戸町推定地発掘
調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
特別名勝兼六園(江戸町跡推定地)発掘調査
報告、1992年3月、石川県立埋蔵文化財
センター。
この報告書は、良く知られており、天童市
将棋資料館編集の、「天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒」でも、情報の出所であるとの旨、
示されている。
遺跡の場所は、金沢城と同一地点であり、
石川県金沢市兼六町。遺物が出土したのは、
西暦1989年前後。遺物の成立年代は、
第3遺構面で、城に接した町場とみられる地
点で出土し、17世紀初の江戸時代初期の
物品と考えられているように、私には読み取
れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第43
(PL43):”第3遺構面出土遺物(17)”
の、中段やや上、右に在り、スケッチ図第
35の遺物番号第15番との旨ナンバリング
されている。
この将棋駒は、天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒、西暦2003年、天童市将棋資料館
の第45ページ下、”44 金沢城兼六園
遺跡(石川県)”と同じものであり、上段に、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真、
下段に前記発掘報告書の写真を並べて示すと
以下のようになる。なお、発掘報告書の写真
は、本ブログの管理人が画像処理している。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真の
出所は前記発掘報告書と全く同じコンテンツ
が、天童市将棋資料館によって紹介されてい
るので、本ブログ管理人には
なぜ、これほど下の写真の墨跡が少ないのか、
良く判らない。
何れにしても、下の方の発掘報告書の写真に、
はっきりとした、成り金桂馬の墨跡が有ると
は言いがたい。
察するに、別のコマではないかと私は疑う。
なお、前記発掘報告書には、この出土将棋
駒は、成り一文字桂馬とはっきり特定されて
いると、私には取れる旨の記載が有る。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真にだけ
駒名が見えるのは、ファインダーで駒名が、
はっきり見えている写真を
撮影者がチェックした上で、シャッターを
切ったコマの印画紙を、別途将棋資料館が
入手して、成書に掲載しているから
だとしか、説明出来無いように、私は疑う。
しょせん、木地が炭化したものと駒名を書
いた墨汁は、木材の微量成分や不純物を別と
すれば、化学的に炭素である点で大差無く、
遺物は元々、
墨と木地で、色の三要素に差が無いほど、黒
いだけ
なのではないか。その状態で目で見て、駒名
が現実には読めるのは、表面の平滑性が違う
ので光源の、通常白色の蛍光灯光を、反射の
法則で等角度反射した、
直接的な反射光(鏡面反射光)の強度の差が
目に写るのを利用して、人間の頭で駒名を
認識
するからだと考える。目の位置を微妙に変え
ると、合計の反射率が、墨の方がやや低く
感じられる角度が有るのだろう。それを可視
光写真で撮ると、フィルムの表面で光が散乱
する性質から、写る色に差が出て境目が見え、
駒字が角度を選ぶと目で見たのと似た感じに
写るという手法が、たまたま功を奏している
のでは無いのだろうか。
逆に言うと、画像処理とは、とにかく写真
の色に関して数値差が多少でも有れば、目に
見えるように、拡大して見せるソフトウェアー
なだけであり、その程度のものであると言っ
てしまうとそうであると認識し、解析をすべ
きような性格のものなのかもしれないと、私
には今回、上記の例によって認識されたよう
にも思われる。(2024/11/29)
小山市神鳥谷曲輪角行の成りは「金金甬」か(長さん)
以前の結論では、表題の出土将棋駒は、戦国時代
のルールに準拠しており、成り一文字金角行駒で
あり、成り側の金の下の方のヨゴレは、解釈不能
との事であった。なお両面の上部に、それぞれ「
奉」とい字か、小さく添えられている疑いも在る。
しかるに、強画像処理の効果が大であるとの
認識で、この栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡で西暦
2007年に出土した将棋駒は、再度成り側の、
下部のヨゴレに集中して、今回画像処理を掛けて
みた。
なお、発掘報告書は現在紙媒体で配布され、そ
のコンテンツ名は、繰り返すと以下の通りである。
本ブログでは、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録されてい
た時代のpdf画像を、今回も以下の作業に使用
している。
小山市文化財調査報告書第83集/
神鳥谷曲輪跡Ⅰ(第2分冊)、西暦2011年、
栃木県小山市教育委員会。
その、写真図版第8の中段左に、可視光の遺物の
写真が在る。
強画像処理を、今回は特に充分渾身を込め掛け
てみた。第1字目の一番最後の画を除く「金」も、
上記画像では、これまでに比べて鮮明だし、第2
字目は、存在するとして、大きい釣鐘の意味の、
金へんの甬の「金甬」であり釣鐘の「しょう」と、
金将の「しょう」を引っ掛けて、「金金甬」
なのかもしれないと、かなり正確に解る。字の中
が潰れないように、濃度を薄くした結果である。
かなり以前に、本ブログで「也」と読んでいた
部分は、「用」の誤読だったと、変更されたこと
になる。
廃寺栃木県小山市の「青蓮寺」の幕末の、黒船
撃退の為の、銅鐘の拠出の妨害の伝説と関連する
ようであり、鐘は銅製だが、寺にとっては金の価
値が有ったとの意味かもしれない。
小山氏の乱の戦死者の魂が込められているよう
でもあり、また、寺の鐘は除夜の鐘としても使用
する事から、やはり出土駒の将棋が、108枚制
である事を、淡く示唆しているようでもある。
青蓮寺の近世幕末伝説が連想される事から。や
はり、この出土将棋駒が作成されたのは、実際に
は、江戸時代だった疑いが、少なくとも残ってい
るとは言えそうだ。(2024/11/28)
のルールに準拠しており、成り一文字金角行駒で
あり、成り側の金の下の方のヨゴレは、解釈不能
との事であった。なお両面の上部に、それぞれ「
奉」とい字か、小さく添えられている疑いも在る。
しかるに、強画像処理の効果が大であるとの
認識で、この栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡で西暦
2007年に出土した将棋駒は、再度成り側の、
下部のヨゴレに集中して、今回画像処理を掛けて
みた。
なお、発掘報告書は現在紙媒体で配布され、そ
のコンテンツ名は、繰り返すと以下の通りである。
本ブログでは、奈良文化財研究所の発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録されてい
た時代のpdf画像を、今回も以下の作業に使用
している。
小山市文化財調査報告書第83集/
神鳥谷曲輪跡Ⅰ(第2分冊)、西暦2011年、
栃木県小山市教育委員会。
その、写真図版第8の中段左に、可視光の遺物の
写真が在る。
強画像処理を、今回は特に充分渾身を込め掛け
てみた。第1字目の一番最後の画を除く「金」も、
上記画像では、これまでに比べて鮮明だし、第2
字目は、存在するとして、大きい釣鐘の意味の、
金へんの甬の「金甬」であり釣鐘の「しょう」と、
金将の「しょう」を引っ掛けて、「金金甬」
なのかもしれないと、かなり正確に解る。字の中
が潰れないように、濃度を薄くした結果である。
かなり以前に、本ブログで「也」と読んでいた
部分は、「用」の誤読だったと、変更されたこと
になる。
廃寺栃木県小山市の「青蓮寺」の幕末の、黒船
撃退の為の、銅鐘の拠出の妨害の伝説と関連する
ようであり、鐘は銅製だが、寺にとっては金の価
値が有ったとの意味かもしれない。
小山氏の乱の戦死者の魂が込められているよう
でもあり、また、寺の鐘は除夜の鐘としても使用
する事から、やはり出土駒の将棋が、108枚制
である事を、淡く示唆しているようでもある。
青蓮寺の近世幕末伝説が連想される事から。や
はり、この出土将棋駒が作成されたのは、実際に
は、江戸時代だった疑いが、少なくとも残ってい
るとは言えそうだ。(2024/11/28)
将棋駒生地の駒作成中ヨゴレを画像処理検知か(長さん)
以前、成書「都市平泉の遺産」の83ページ
の柳之御所、歩兵将棋駒の駒字の脇に、強い
画像処理で、ルール内容の加筆と疑われる漢
字模様が現れたとの旨、本ブログで紹介した。
だが、画像処理ソフトの何らかの機械的現
象に過ぎない疑いが有ると私は見ていたので、
何んでも良いのだろうが手元の適当な成書で、
将棋駒生地が撮影されている、増山雅人の「
将棋駒の世界」の画像で、木目が比較的淡い
将棋駒像に、私のいつもの手順で同様な画像
処理を加え、「単なる機械が作り出した偶然
模様」である疑いについて、テストしたので、
以下に例を挙げて、結果を紹介する。
百枚程度の画像で1枚程度の割合で、将棋駒
を作成した途中に付く、工程防忘の字が残る
事があるようである。つまり、
画像処理は、将棋史にとってすばらしく有用
である可能性が有るという意味である。
以下は、冒頭の増山雅人「将棋駒の世界」
第78ページの、近代制作で収集家が所持し
ている将棋の駒であり、自己のペンネームを
「静山」と名乗る、実際には豊島龍山と同一
人物によると、増山には疑われる駒師の、
「小野鵞堂の書体」駒のうち、左下の金の裏
面とみられる物品の、私のいつものやり方に
よる、強い画像処理結果である。
上図のように、三文字何か模様が浮かび、
中央の字は「金将」がダブって重なっており、
「◎金将」の意図のようでもある。
将棋駒製作中に、何の駒を作るのかを間違え
ないようにする為に置いた紙の墨が、金将駒
の裏面に残り、豊島龍山が、研磨したものの、
画像処理を強く掛けると痕跡が出る
ようにも、私には見える。画像処理ソフトを
疑うどころか、
将棋史の解明の為の、遺物に残る痕跡の検知
に、思いの他、私の日常している画像処理は
結構有用
なのでは無いかと、この結果を見て個人的に
疑い出したところである。(2024/11/27)
の柳之御所、歩兵将棋駒の駒字の脇に、強い
画像処理で、ルール内容の加筆と疑われる漢
字模様が現れたとの旨、本ブログで紹介した。
だが、画像処理ソフトの何らかの機械的現
象に過ぎない疑いが有ると私は見ていたので、
何んでも良いのだろうが手元の適当な成書で、
将棋駒生地が撮影されている、増山雅人の「
将棋駒の世界」の画像で、木目が比較的淡い
将棋駒像に、私のいつもの手順で同様な画像
処理を加え、「単なる機械が作り出した偶然
模様」である疑いについて、テストしたので、
以下に例を挙げて、結果を紹介する。
百枚程度の画像で1枚程度の割合で、将棋駒
を作成した途中に付く、工程防忘の字が残る
事があるようである。つまり、
画像処理は、将棋史にとってすばらしく有用
である可能性が有るという意味である。
以下は、冒頭の増山雅人「将棋駒の世界」
第78ページの、近代制作で収集家が所持し
ている将棋の駒であり、自己のペンネームを
「静山」と名乗る、実際には豊島龍山と同一
人物によると、増山には疑われる駒師の、
「小野鵞堂の書体」駒のうち、左下の金の裏
面とみられる物品の、私のいつものやり方に
よる、強い画像処理結果である。
上図のように、三文字何か模様が浮かび、
中央の字は「金将」がダブって重なっており、
「◎金将」の意図のようでもある。
将棋駒製作中に、何の駒を作るのかを間違え
ないようにする為に置いた紙の墨が、金将駒
の裏面に残り、豊島龍山が、研磨したものの、
画像処理を強く掛けると痕跡が出る
ようにも、私には見える。画像処理ソフトを
疑うどころか、
将棋史の解明の為の、遺物に残る痕跡の検知
に、思いの他、私の日常している画像処理は
結構有用
なのでは無いかと、この結果を見て個人的に
疑い出したところである。(2024/11/27)
摩訶大大/大将棋羅刹駒の動かし方の起源(長さん)
今回は、大阪電気通信大学摩訶大将棋(まか
おおしょうぎ)ルールでも同じと私には認識
する、羅刹駒の駒の動かし方ルールの、発生
起源を議論し、
夜叉とは全く違う理由なので、夜叉は泰将棋
のルールの転用は、し無い方が良い
のではないかと、以下述べる。
羅刹駒の駒の動かし方は、
能の鬼の面(般若の面)をイメージしたもの
ではないかと疑われる。
能の般若面は顔にぺっとりとは付けられず、
上下中央線で、内側に対称に内側に折れ、横
から紐を付けたり口に突起ないし紐を付けて、
顔に止める関係から、それを着けた役者の額
と頬が少し浮いて、上と左右下が顔と接して
い無い、浮いた格好になっていると私は認識
する。
つまり、接した面が斜め前、横、口元真後
ろな為、
能面の接触点に因んで羅刹は、金将の前に動
けないルールになっている
と私は考える。そして、鬼の面に準えられる
ので斜め前には
角が有るので、3升目先に踊りにした
のではと思う。少なくとも15世紀の段階で
曼殊院将棋図ルールでは、そのようにしたの
では無いのだろうか。
それに対して、水無瀬兼成将棋纂図部類抄、
水無瀬宮所蔵版の摩訶大大将棋図の、夜叉の
駒の動かし方ルールは、以前に本ブログでは
示唆したように、
夜叉の「叉」の字に因んだものだと考える。
つまり、線対称性からも、意味の類似性から
も、夜叉と羅刹は対になっており、同じく、
水無瀬兼成将棋纂図部類抄、水無瀬宮所蔵版
の泰将棋図では、羅刹の斜め前を夜叉の横に、
羅刹の横を、夜叉の斜め前にしたのであろう。
つまり羅刹の斜め前三踊りを夜叉の横にし
踊り3目の方向を取り替えたルールにすると、
将棋の初期配列と、ルールの絵図としては、
体裁上は、その方が見栄えがよい。しかし、
どちらにも元々の正当性は有るので、無理に、
そのように変えなければならないという強い
根拠が薄い
と私見される。
この記事が書かれた直前、YouTube
の動画に、摩訶大将棋(まかおおしょうぎ)
のルールに関する動画がアップロードされ、
大阪電気通信大学で、対局会が有ったとも私
は認識する。
西暦2014年前後に、高見研究室で発表
されたルールでは、夜叉は斜め2升目踊りの、
前1升目歩みで、水無瀬兼成将棋纂図部類抄、
水無瀬宮所蔵版、摩訶大大将棋の夜叉ルール
のままだったと記憶する。
古文献を復刻するという意味でも、この
夜叉ルールが、2025年11月の大会でも
採用されるべきではなかったかと、単に当方
の宅から、大阪が遠いので参加はし無かった
本ブログの管理人は、十年前の自分の記憶に
合わないという点に、釈然とし無いものを感
じる。
守備陣の守りが、いっそう堅くなりすぎる
し。角が、顔の横に付く般若の能面というの
は聞いた事が、私には無いので。
水無瀬兼成の泰将棋夜叉の駒の動かし方の
ルールは、それを描いた方が美術品としては、
摩訶大大将棋の「夜叉の駒動かし方打点模様」
に勝るのかもしれないが。水無瀬兼成将棋纂
図部類抄、水無瀬宮所蔵版の泰将棋の夜叉は、
まかおおしょうぎでは、真似無い方が良い
のではないかと、今でも私は疑っている。
(2024/11/26)
おおしょうぎ)ルールでも同じと私には認識
する、羅刹駒の駒の動かし方ルールの、発生
起源を議論し、
夜叉とは全く違う理由なので、夜叉は泰将棋
のルールの転用は、し無い方が良い
のではないかと、以下述べる。
羅刹駒の駒の動かし方は、
能の鬼の面(般若の面)をイメージしたもの
ではないかと疑われる。
能の般若面は顔にぺっとりとは付けられず、
上下中央線で、内側に対称に内側に折れ、横
から紐を付けたり口に突起ないし紐を付けて、
顔に止める関係から、それを着けた役者の額
と頬が少し浮いて、上と左右下が顔と接して
い無い、浮いた格好になっていると私は認識
する。
つまり、接した面が斜め前、横、口元真後
ろな為、
能面の接触点に因んで羅刹は、金将の前に動
けないルールになっている
と私は考える。そして、鬼の面に準えられる
ので斜め前には
角が有るので、3升目先に踊りにした
のではと思う。少なくとも15世紀の段階で
曼殊院将棋図ルールでは、そのようにしたの
では無いのだろうか。
それに対して、水無瀬兼成将棋纂図部類抄、
水無瀬宮所蔵版の摩訶大大将棋図の、夜叉の
駒の動かし方ルールは、以前に本ブログでは
示唆したように、
夜叉の「叉」の字に因んだものだと考える。
つまり、線対称性からも、意味の類似性から
も、夜叉と羅刹は対になっており、同じく、
水無瀬兼成将棋纂図部類抄、水無瀬宮所蔵版
の泰将棋図では、羅刹の斜め前を夜叉の横に、
羅刹の横を、夜叉の斜め前にしたのであろう。
つまり羅刹の斜め前三踊りを夜叉の横にし
踊り3目の方向を取り替えたルールにすると、
将棋の初期配列と、ルールの絵図としては、
体裁上は、その方が見栄えがよい。しかし、
どちらにも元々の正当性は有るので、無理に、
そのように変えなければならないという強い
根拠が薄い
と私見される。
この記事が書かれた直前、YouTube
の動画に、摩訶大将棋(まかおおしょうぎ)
のルールに関する動画がアップロードされ、
大阪電気通信大学で、対局会が有ったとも私
は認識する。
西暦2014年前後に、高見研究室で発表
されたルールでは、夜叉は斜め2升目踊りの、
前1升目歩みで、水無瀬兼成将棋纂図部類抄、
水無瀬宮所蔵版、摩訶大大将棋の夜叉ルール
のままだったと記憶する。
古文献を復刻するという意味でも、この
夜叉ルールが、2025年11月の大会でも
採用されるべきではなかったかと、単に当方
の宅から、大阪が遠いので参加はし無かった
本ブログの管理人は、十年前の自分の記憶に
合わないという点に、釈然とし無いものを感
じる。
守備陣の守りが、いっそう堅くなりすぎる
し。角が、顔の横に付く般若の能面というの
は聞いた事が、私には無いので。
水無瀬兼成の泰将棋夜叉の駒の動かし方の
ルールは、それを描いた方が美術品としては、
摩訶大大将棋の「夜叉の駒動かし方打点模様」
に勝るのかもしれないが。水無瀬兼成将棋纂
図部類抄、水無瀬宮所蔵版の泰将棋の夜叉は、
まかおおしょうぎでは、真似無い方が良い
のではないかと、今でも私は疑っている。
(2024/11/26)
鹿児島県鹿児島城二之丸跡から日本将棋の盤出土(長さん)
数日前にweb上にUPされた情報として、
鹿児島県の鹿児島城ニ之丸跡の西暦2023
年前後の発掘調査で、ほぼ完全な状態で近世
の日本将棋の将棋盤が、出土したとの事で
ある。場所は鹿児島県鹿児島市城山町付近の
ようだ。
記載されているweb上のサイトは以下の
通りである。
エイチティティピーエス://www.jomon-no-mori.jp/20241121/
上記は鹿児島県上野原縄文の森が、作成して
いるサイトのようである。本ブログの管理人
に、発掘報告書等のコンテンツは、未だ発見
は出来て居無い。
問題の将棋盤出土遺物は、以下のような物
品である。
すなわち縦横27センチで、上下段が腐敗
で1/3升目程度欠けているが、均等な欠け
方であり、ほぼ日本将棋用の9×9升目盤の
出土と見て、間違い無いようである、厚さは
1cm、将棋盤の脚部の一部も、共出土した
との旨の紹介もある。
発掘調査してのは鹿児島県の、埋蔵文化財
センターのようである。
東京都溜池遺跡、島根県出雲市の高浜Ⅰ遺跡、
高知城横の下屋敷跡、大阪府狭山市狭山藩
陣屋跡。以上の将棋盤の出土を過去本ブログ
で紹介するか、ないしは有名なものは当方が
把握しているが、大阪の狭山藩陣屋跡の石製
将棋盤が抜けている疑いが有り、前記web
サイトには、「日本で第4例目の出土将棋盤」
だとされているようである。
升目が墨書で無く彫ってあり、少なくとも、
将棋盤であると、直ちに判る形態の物品が、
幸運にも今回出土したようである。(2024/11/25)
鹿児島県の鹿児島城ニ之丸跡の西暦2023
年前後の発掘調査で、ほぼ完全な状態で近世
の日本将棋の将棋盤が、出土したとの事で
ある。場所は鹿児島県鹿児島市城山町付近の
ようだ。
記載されているweb上のサイトは以下の
通りである。
エイチティティピーエス://www.jomon-no-mori.jp/20241121/
上記は鹿児島県上野原縄文の森が、作成して
いるサイトのようである。本ブログの管理人
に、発掘報告書等のコンテンツは、未だ発見
は出来て居無い。
問題の将棋盤出土遺物は、以下のような物
品である。
すなわち縦横27センチで、上下段が腐敗
で1/3升目程度欠けているが、均等な欠け
方であり、ほぼ日本将棋用の9×9升目盤の
出土と見て、間違い無いようである、厚さは
1cm、将棋盤の脚部の一部も、共出土した
との旨の紹介もある。
発掘調査してのは鹿児島県の、埋蔵文化財
センターのようである。
東京都溜池遺跡、島根県出雲市の高浜Ⅰ遺跡、
高知城横の下屋敷跡、大阪府狭山市狭山藩
陣屋跡。以上の将棋盤の出土を過去本ブログ
で紹介するか、ないしは有名なものは当方が
把握しているが、大阪の狭山藩陣屋跡の石製
将棋盤が抜けている疑いが有り、前記web
サイトには、「日本で第4例目の出土将棋盤」
だとされているようである。
升目が墨書で無く彫ってあり、少なくとも、
将棋盤であると、直ちに判る形態の物品が、
幸運にも今回出土したようである。(2024/11/25)
原始平安小将棋は7枚ずつ玉金残る(長さん)
以前に述べたように、8×8升目32枚制で、
金将が片方に1枚しかなく、中間段が2段の、
wikipedia平安将棋の第1型は、本
ブログの言う、原始平安小将棋と同じもので
あり、もとは立体駒かつ、玉はホントの玉、
金と成金は同形、成でそのつど交換のホント
の金、銀はホントの銀製で、11世紀初頭に
後一条天皇だけ外来道具を持っていて、大鏡
に淡く、それを示唆する「天皇は、金銀財宝
の玩具を押し入れにしまい、藤原行成の献上
した、コマで遊んでいた」との旨、記録が
残っていたと本ブログでは論じている。
漢王朝期の雲南のテン国(テンは、サンズ
イに真)では「民が貧しいのに貴族は優雅だっ
た」というこの外国の有様が、11世紀藤原
摂関時代の日本と同じと、北宋王朝交易商人、
例を挙げれば周文裔に認識され、「それなら、
藤原道長等から『天皇へは玩具を』と頼まれ
ればそれを」という発想で、日本式将棋を、
豪華な玩具として伝来させたと、本ブログは
分析したのである。
であるから、中盤は早々に、玉と金と成金
だけになり、盤上、先手・後手それぞれに、
駒が7~8枚残って、局面硬直で、玉は安泰
であり続け、勝負がつかなくても良いゲーム
だったのだろうと、ここでは説明した。
今回は、この残りの駒が
7枚なのか8枚なのかを議論し「7枚残り説」
の方が、正しそうだと以下に述べる。
以前に述べたが、この将棋は日本将棋とは
異なり、出だしから着手が1本道であり、前
に述べたように以下の局面になると見られる。
すなわち、先手・後手共に、左桂馬は最初か
ら、守る気が無く、それよりも、左銀まで失
わない事に、注意が集中されるのである。
形として、ここからは、相手の左桂馬を、
成り桂馬で取るのであろう。すなわち、
▲3二桂成△6七桂成▲2一成桂△8七成桂
▲2三銀成△7六銀成▲3三成銀△6六成銀
と局面が進んで以下の局面になるとみられる。
ポイントは、先手の5六位値の歩兵と、後手
の4三位置の歩兵が、消失するかどうかで、
各々8枚ずつ駒残りか、7枚ずつ駒残りかが
決まるとみられる。
しかしながら私見では、この後先手の3筋、
後手の6筋の歩兵が進んで、これらの歩兵は、
と金に取られて無くなってしまうと私は思う。
すなわち以下の手順で進めるのが、比較的
良い手なのではないか。
▲4二成銀△5七成銀▲3四歩△6五歩
▲3三歩成△6六歩成▲4三と△5六と
▲3六銀△6三銀▲3一成桂
この局面から後手には、△6八成桂と
△6四金の2通りがあり、後者では点対称の
同形が崩れる可能性が有るが、何れにしても、
まだ成ってい無い駒を上げてゆけば、自然に
7枚ずつの玉・金・成金残りで硬直となる。
ポイントは、銀将一枚駒損なので、銀と、
端から3筋目で上がった、相手の成り歩兵の
と金との交換は避け、銀は中央近くの第4筋
目の歩兵を守っている働きを放棄してしまう
ので、と金は双方、2枚ずつしか出来無いと、
考えられるという点である。だから、と金で
相4筋目の歩兵は取られてしまい、8枚では
なくて、この将棋では、残りの駒は玉1、
金1、成銀2、成桂1、と金2の、合計7枚
になり、盤面玉2枚、金12枚の14枚で
硬直化して、局面が進まなくなってしまうと
考えられる。ルール上は、そこから、どちら
かが、他方の金駒6枚を全て取って、玉1枚
にすれば、玉を詰まなくても勝ちのゲームと
いうことに、なっていたようではあるのだが。
以上のように、私は予想するのである。以
前に述べたように、このゲームは教科の公民
教育への学習モチベーションを児童・生徒に
与えると言う点で、教育上すこぶる好ましい
ものであり、将棋愛好家の公益性の源となっ
ている。つまり通常の棋力を持つ将棋愛好家
は、この程度の指導ゲームを、例えば小学校
5年生程度の児童に対してする能力は、当然
持っているのが普通であろう。つまり、その
際の児童への指導者は今回後半で述べた、
「成銀を進めて3筋目の歩兵の進路を空けて
歩兵を進める」手筋を知っている程度で、
このゲームの指導は出来るレベルの疑いが、
濃いように思えると、依然として私には推定
されるのである。(2024/11/24)
金将が片方に1枚しかなく、中間段が2段の、
wikipedia平安将棋の第1型は、本
ブログの言う、原始平安小将棋と同じもので
あり、もとは立体駒かつ、玉はホントの玉、
金と成金は同形、成でそのつど交換のホント
の金、銀はホントの銀製で、11世紀初頭に
後一条天皇だけ外来道具を持っていて、大鏡
に淡く、それを示唆する「天皇は、金銀財宝
の玩具を押し入れにしまい、藤原行成の献上
した、コマで遊んでいた」との旨、記録が
残っていたと本ブログでは論じている。
漢王朝期の雲南のテン国(テンは、サンズ
イに真)では「民が貧しいのに貴族は優雅だっ
た」というこの外国の有様が、11世紀藤原
摂関時代の日本と同じと、北宋王朝交易商人、
例を挙げれば周文裔に認識され、「それなら、
藤原道長等から『天皇へは玩具を』と頼まれ
ればそれを」という発想で、日本式将棋を、
豪華な玩具として伝来させたと、本ブログは
分析したのである。
であるから、中盤は早々に、玉と金と成金
だけになり、盤上、先手・後手それぞれに、
駒が7~8枚残って、局面硬直で、玉は安泰
であり続け、勝負がつかなくても良いゲーム
だったのだろうと、ここでは説明した。
今回は、この残りの駒が
7枚なのか8枚なのかを議論し「7枚残り説」
の方が、正しそうだと以下に述べる。
以前に述べたが、この将棋は日本将棋とは
異なり、出だしから着手が1本道であり、前
に述べたように以下の局面になると見られる。
すなわち、先手・後手共に、左桂馬は最初か
ら、守る気が無く、それよりも、左銀まで失
わない事に、注意が集中されるのである。
形として、ここからは、相手の左桂馬を、
成り桂馬で取るのであろう。すなわち、
▲3二桂成△6七桂成▲2一成桂△8七成桂
▲2三銀成△7六銀成▲3三成銀△6六成銀
と局面が進んで以下の局面になるとみられる。
ポイントは、先手の5六位値の歩兵と、後手
の4三位置の歩兵が、消失するかどうかで、
各々8枚ずつ駒残りか、7枚ずつ駒残りかが
決まるとみられる。
しかしながら私見では、この後先手の3筋、
後手の6筋の歩兵が進んで、これらの歩兵は、
と金に取られて無くなってしまうと私は思う。
すなわち以下の手順で進めるのが、比較的
良い手なのではないか。
▲4二成銀△5七成銀▲3四歩△6五歩
▲3三歩成△6六歩成▲4三と△5六と
▲3六銀△6三銀▲3一成桂
この局面から後手には、△6八成桂と
△6四金の2通りがあり、後者では点対称の
同形が崩れる可能性が有るが、何れにしても、
まだ成ってい無い駒を上げてゆけば、自然に
7枚ずつの玉・金・成金残りで硬直となる。
ポイントは、銀将一枚駒損なので、銀と、
端から3筋目で上がった、相手の成り歩兵の
と金との交換は避け、銀は中央近くの第4筋
目の歩兵を守っている働きを放棄してしまう
ので、と金は双方、2枚ずつしか出来無いと、
考えられるという点である。だから、と金で
相4筋目の歩兵は取られてしまい、8枚では
なくて、この将棋では、残りの駒は玉1、
金1、成銀2、成桂1、と金2の、合計7枚
になり、盤面玉2枚、金12枚の14枚で
硬直化して、局面が進まなくなってしまうと
考えられる。ルール上は、そこから、どちら
かが、他方の金駒6枚を全て取って、玉1枚
にすれば、玉を詰まなくても勝ちのゲームと
いうことに、なっていたようではあるのだが。
以上のように、私は予想するのである。以
前に述べたように、このゲームは教科の公民
教育への学習モチベーションを児童・生徒に
与えると言う点で、教育上すこぶる好ましい
ものであり、将棋愛好家の公益性の源となっ
ている。つまり通常の棋力を持つ将棋愛好家
は、この程度の指導ゲームを、例えば小学校
5年生程度の児童に対してする能力は、当然
持っているのが普通であろう。つまり、その
際の児童への指導者は今回後半で述べた、
「成銀を進めて3筋目の歩兵の進路を空けて
歩兵を進める」手筋を知っている程度で、
このゲームの指導は出来るレベルの疑いが、
濃いように思えると、依然として私には推定
されるのである。(2024/11/24)
将棋纂図部類抄後期大将棋右仲人上猛豹博士は何者(長さん)
以下、論文の「摩訶大将棋の復刻」、高見友幸他
2名、雑誌名不明61ページ~78ページの情報
に関する、当方のコメントである。
この記載雑誌は、web上に公開されてて、論文
の表題で検索すると、現在hitするコンテンツ
である。私が調べてい無いので判らないこの冊子
の、第70ページ付近に、高見友幸氏筆と私には
見られる記載で、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄(
水無瀬宮蔵版)の、15升目130枚制大将棋の
図の第5筋、右仲人列の上方に、「猛豹博士跡二
方也 此本不審」と読んだ、高見研究室での読み
のうち、博士部分の説明書きが記載されている。
読みに関して、
本ブログの解釈と相違する
ので、以下に本ブログ管理人の「博士」に関する
解釈を示す。本ブログは、摩訶大大/大将棋が中
心で無く、大将棋のブログであるから、これまで
この、将棋纂図部類抄の大将棋の図への書き込み
に関し、何らの議論して来なかった点は、甚だ遺
憾であると、反省させられた。調査結果の結論を
述べれば、
博士は摶土(たんど)であり、特に第1字目は、
書き込み者の誤記
だと、ここでは見る。
高見友幸研究室の解釈によれば「陰陽寮の教官
の事」との旨論文の「注記」の中に在る。
本ブログでは、「猛豹摶土跡二方也 此本不審」
と書くつもりであったと解釈し、「摶土跡」とは、
「後ろの丸い土色の点」という意味であると、今
のところ考える。博では無く本当は摶であり、
手編を「十」に、誤ってしてしまったとの意味で
ある。
例えば諸橋徹次著の大漢和辞典(西暦1958
年発行)、第5巻、第371ページ、第2段目の
記載に、以下のような例がある。
この件は、マイクロソフトのimeパッドで、
チェックしていて漢字を見つけ、大漢和辞典で私
は、熟語を発見した。本ブログが、
大将棋のブログにしては発見が余りにも遅かった
と反省させられた。何れにしても「摩訶大将棋の
復刻」に関連して、最近の発見事項は複数存在す
るので。該表題の本文と同表題の書籍は、西暦
2019年以降の発見事項も加えて、増補して、
再度出版されるべきだと私は考える。(2024/11/23)
2名、雑誌名不明61ページ~78ページの情報
に関する、当方のコメントである。
この記載雑誌は、web上に公開されてて、論文
の表題で検索すると、現在hitするコンテンツ
である。私が調べてい無いので判らないこの冊子
の、第70ページ付近に、高見友幸氏筆と私には
見られる記載で、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄(
水無瀬宮蔵版)の、15升目130枚制大将棋の
図の第5筋、右仲人列の上方に、「猛豹博士跡二
方也 此本不審」と読んだ、高見研究室での読み
のうち、博士部分の説明書きが記載されている。
読みに関して、
本ブログの解釈と相違する
ので、以下に本ブログ管理人の「博士」に関する
解釈を示す。本ブログは、摩訶大大/大将棋が中
心で無く、大将棋のブログであるから、これまで
この、将棋纂図部類抄の大将棋の図への書き込み
に関し、何らの議論して来なかった点は、甚だ遺
憾であると、反省させられた。調査結果の結論を
述べれば、
博士は摶土(たんど)であり、特に第1字目は、
書き込み者の誤記
だと、ここでは見る。
高見友幸研究室の解釈によれば「陰陽寮の教官
の事」との旨論文の「注記」の中に在る。
本ブログでは、「猛豹摶土跡二方也 此本不審」
と書くつもりであったと解釈し、「摶土跡」とは、
「後ろの丸い土色の点」という意味であると、今
のところ考える。博では無く本当は摶であり、
手編を「十」に、誤ってしてしまったとの意味で
ある。
例えば諸橋徹次著の大漢和辞典(西暦1958
年発行)、第5巻、第371ページ、第2段目の
記載に、以下のような例がある。
この件は、マイクロソフトのimeパッドで、
チェックしていて漢字を見つけ、大漢和辞典で私
は、熟語を発見した。本ブログが、
大将棋のブログにしては発見が余りにも遅かった
と反省させられた。何れにしても「摩訶大将棋の
復刻」に関連して、最近の発見事項は複数存在す
るので。該表題の本文と同表題の書籍は、西暦
2019年以降の発見事項も加えて、増補して、
再度出版されるべきだと私は考える。(2024/11/23)
聆涛閣集古帖摩訶大将棋無しで摩訶大将棋正当性証明無理(長さん)
本ブログでは、何回か述べたが「摩訶大大/大将棋」
という形式の記載は、摩訶大大将棋と言う事もあれ
ば、摩訶大将棋と言う事もあるとの意味であるが、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と、吉田屋古文書の、
聆涛閣集古帖の「摩訶大将棋」の旨(漢字は変動)
での≪表題書き≫を、同等に見ているからである。
最近、本ブログの管理人は、大阪電気通信大学/
高見友幸氏著「摩訶大将棋(まかおおしょうぎ)の
復刻」、2019年という表題の成書で、大大を大
と書く正統性についての記載に接した。それによる
と、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の奥付の、水無瀬が
数え80歳のときに書いた、献上品品書き記載部分
の書き方が、唯一の根拠と私には読取れた。つまり、
聆涛閣集古帖に言及している箇所が、今の所発見さ
れてい無いという点で、本ブログの説明とは互いに
異なっている。
ここでは、該水無瀬兼成将棋纂図部類抄の
奥付の一文の大々の「々」の脱落は、誤記である疑
いがある
との点にいて、以下に説明する。
すなわちこの一文は、水無瀬兼成の別著作、
「将棋馬日記」の、最終ページパターンのコピーで
ある。将棋馬日記の最終ページには、次のように
書かれているとの旨、解釈出来る。
「泰将棋駒数354枚、摩訶大大将棋駒数192枚、
大大将棋駒数192枚、大将棋駒数130枚、四種
で駒数合計868枚。」
この記載から、駒数の記載を全部抜き、同様の
順番で並べ、中将棋もあるので追加すると、奥付の
豊臣秀次への献上品リストと同じ書き方である。
つまり、いつものパターンで文書を書いたときに、
水無瀬兼成が、間違えて「摩訶大将棋」の旨の部分
で「大々」の「々」を脱落して書いた
と見る見方を、否定できるような中身が無いと私は
解釈する。
私が正しいとすれば、「摩訶大将棋」だという
には、聆涛閣集古帖などの、将棋纂図部類抄とは別
の文献を、本ブログの如くに高見氏は挙げるべきだ
ということになってしまうと思う。
そもそもこの、将棋纂図部類抄の完成後1年後の
水無瀬兼成付け加えの一文に関しては、泰将棋と、
大将棋の字体が、全く区別されて居無い。つまり、
六将棋から将棋を抜いて、残りの5つの将棋を言う
ときに、水無瀬が何気なしに何時もの調子で記すと
きに書く形式を、ただ並べているだけに過ぎないと
いうだけのことである。相手に、内容確認をする為
に、正確を期して居無い。将棋纂図部類抄の奥付け
ラスト文で相手に、献上した品の内容確認を催促
するために、水無瀬兼成が豊臣秀次に、文面を提出
するスタンスで書いて居無いというのは、目下であ
るから当然かもしれ無いが、明らかである。つまり、
この一文で正確なゲーム名は、判断出来ないと思う。
この成書は、根幹になる部分が、このように淡白な
ので、大阪商業大学から著者に、増補版を出すよう
に、お願いした方が良い
と私は感じる。
以上の事から、摩訶大大/大将棋と表記するとき
に、吉田屋文書の聆涛閣集古帖の摩訶大将棋の図の
旨の絵図を根拠に置いていた本ブログの方がやはり、
高見友幸氏の手回しよりは、少なくとも安全性が高
かったというのは確かなように、将棋纂図部類抄の
奥付ラストを読み直して、最近私は感じたのである。
(2024/11/22)
という形式の記載は、摩訶大大将棋と言う事もあれ
ば、摩訶大将棋と言う事もあるとの意味であるが、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄と、吉田屋古文書の、
聆涛閣集古帖の「摩訶大将棋」の旨(漢字は変動)
での≪表題書き≫を、同等に見ているからである。
最近、本ブログの管理人は、大阪電気通信大学/
高見友幸氏著「摩訶大将棋(まかおおしょうぎ)の
復刻」、2019年という表題の成書で、大大を大
と書く正統性についての記載に接した。それによる
と、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の奥付の、水無瀬が
数え80歳のときに書いた、献上品品書き記載部分
の書き方が、唯一の根拠と私には読取れた。つまり、
聆涛閣集古帖に言及している箇所が、今の所発見さ
れてい無いという点で、本ブログの説明とは互いに
異なっている。
ここでは、該水無瀬兼成将棋纂図部類抄の
奥付の一文の大々の「々」の脱落は、誤記である疑
いがある
との点にいて、以下に説明する。
すなわちこの一文は、水無瀬兼成の別著作、
「将棋馬日記」の、最終ページパターンのコピーで
ある。将棋馬日記の最終ページには、次のように
書かれているとの旨、解釈出来る。
「泰将棋駒数354枚、摩訶大大将棋駒数192枚、
大大将棋駒数192枚、大将棋駒数130枚、四種
で駒数合計868枚。」
この記載から、駒数の記載を全部抜き、同様の
順番で並べ、中将棋もあるので追加すると、奥付の
豊臣秀次への献上品リストと同じ書き方である。
つまり、いつものパターンで文書を書いたときに、
水無瀬兼成が、間違えて「摩訶大将棋」の旨の部分
で「大々」の「々」を脱落して書いた
と見る見方を、否定できるような中身が無いと私は
解釈する。
私が正しいとすれば、「摩訶大将棋」だという
には、聆涛閣集古帖などの、将棋纂図部類抄とは別
の文献を、本ブログの如くに高見氏は挙げるべきだ
ということになってしまうと思う。
そもそもこの、将棋纂図部類抄の完成後1年後の
水無瀬兼成付け加えの一文に関しては、泰将棋と、
大将棋の字体が、全く区別されて居無い。つまり、
六将棋から将棋を抜いて、残りの5つの将棋を言う
ときに、水無瀬が何気なしに何時もの調子で記すと
きに書く形式を、ただ並べているだけに過ぎないと
いうだけのことである。相手に、内容確認をする為
に、正確を期して居無い。将棋纂図部類抄の奥付け
ラスト文で相手に、献上した品の内容確認を催促
するために、水無瀬兼成が豊臣秀次に、文面を提出
するスタンスで書いて居無いというのは、目下であ
るから当然かもしれ無いが、明らかである。つまり、
この一文で正確なゲーム名は、判断出来ないと思う。
この成書は、根幹になる部分が、このように淡白な
ので、大阪商業大学から著者に、増補版を出すよう
に、お願いした方が良い
と私は感じる。
以上の事から、摩訶大大/大将棋と表記するとき
に、吉田屋文書の聆涛閣集古帖の摩訶大将棋の図の
旨の絵図を根拠に置いていた本ブログの方がやはり、
高見友幸氏の手回しよりは、少なくとも安全性が高
かったというのは確かなように、将棋纂図部類抄の
奥付ラストを読み直して、最近私は感じたのである。
(2024/11/22)
教育用の8×8布製升目盤の例(長さん)
以前に紹介したが、8×8升目32枚
制の原始平安小将棋を小学生の適齢では
ないかとみられる、11歳5年生に教育
する事は、千年前の日本の有様を、具体
的に教え込み、社会科に興味を持たせる
手段として有用だとみられる。
具体的に使用する道具として、通常の
百均将棋駒と、チェス盤の組み合わせを
以前に紹介した。その欠点は、チェス盤
の格子の升目が、やや狭い事だった。
日本将棋の将棋盤が、通常の百均将棋
具では、紙盤として添付されているが、
言うまでも無く9×9升目盤であって、
8×8升目では無い。盤の端を示す太線
が、そのままでは表現し辛いので、挟み
で切断して作っても良いが、かなり不恰
好である。
どのような物品でも、替わりになれば、
何でも良いとは言えるのだが。例として、
格子柄タオルふきんという物品がある
ようである。大阪府泉佐野市にある、
大阪タオル工業組合が、以前からその系
統の製品を出していて、その柄を真似て
作った、ノーブランド品が、今述べた、
検索キーワードで「格子柄タオルフキン」
と入力すると、web上に、ディスカウ
ント価格で10枚1000円前後で、
紹介されているようである。
だいぶん前に、私は埼玉のディスカウ
ントショップチェーン店の、オフハウス
で、1枚、店頭前投げ売りコーナー棚の
中で50円で購入していたが。元々の、
オリジナルが泉州タオル(せんしゅう
たおる)類の系統と判らず、web上で
検索キーワードが設定できずに、謎の物
品と化して、自分のブログでの紹介を、
しばらく断念していた。
小学校の1クラスで15枚使うのなら、
タオルフキンを備品にするのが、ボード・
ゲーム盤を15買うのよりは安いと思う
ので、学習用にはこのパターンで揃える
のが、チェス盤を用意するよりは巧みな
やり方であるように思っている。紙盤よ
りは確かに高価だが。経年耐久性はどう
見ても、紙より高いであろう。(2024/11/21)
制の原始平安小将棋を小学生の適齢では
ないかとみられる、11歳5年生に教育
する事は、千年前の日本の有様を、具体
的に教え込み、社会科に興味を持たせる
手段として有用だとみられる。
具体的に使用する道具として、通常の
百均将棋駒と、チェス盤の組み合わせを
以前に紹介した。その欠点は、チェス盤
の格子の升目が、やや狭い事だった。
日本将棋の将棋盤が、通常の百均将棋
具では、紙盤として添付されているが、
言うまでも無く9×9升目盤であって、
8×8升目では無い。盤の端を示す太線
が、そのままでは表現し辛いので、挟み
で切断して作っても良いが、かなり不恰
好である。
どのような物品でも、替わりになれば、
何でも良いとは言えるのだが。例として、
格子柄タオルふきんという物品がある
ようである。大阪府泉佐野市にある、
大阪タオル工業組合が、以前からその系
統の製品を出していて、その柄を真似て
作った、ノーブランド品が、今述べた、
検索キーワードで「格子柄タオルフキン」
と入力すると、web上に、ディスカウ
ント価格で10枚1000円前後で、
紹介されているようである。
だいぶん前に、私は埼玉のディスカウ
ントショップチェーン店の、オフハウス
で、1枚、店頭前投げ売りコーナー棚の
中で50円で購入していたが。元々の、
オリジナルが泉州タオル(せんしゅう
たおる)類の系統と判らず、web上で
検索キーワードが設定できずに、謎の物
品と化して、自分のブログでの紹介を、
しばらく断念していた。
小学校の1クラスで15枚使うのなら、
タオルフキンを備品にするのが、ボード・
ゲーム盤を15買うのよりは安いと思う
ので、学習用にはこのパターンで揃える
のが、チェス盤を用意するよりは巧みな
やり方であるように思っている。紙盤よ
りは確かに高価だが。経年耐久性はどう
見ても、紙より高いであろう。(2024/11/21)