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京都府鳥羽離宮77次の成り「と」歩兵駒は王将(長さん)

既に本ブログで述べたように歩兵成り「と
金」は中尊寺金剛院遺跡成立時代には存在
し無かった疑いが有る。しかし、平安時代
最末期に「と金」が無かったというのには、
未だ京都府の鳥羽離宮出土の、「と金成り
歩兵駒」の存在が、反例として残されてい
るように見える。そこで今回は、その将棋
駒遺物についても画像処理を試みた。
 方法はこれまで本ブログ内で述べてきた
ように、成書の画像を普通にPCに取り込
んで、PCの画像処理ソフトで画像処理す
るという方法である。
 成書は、中尊寺金剛院遺跡の紹介図書と
同じく、山形県天童市の天童将棋資料館が
西暦2003年頃出版した、「天童の将棋
駒と全国遺跡出土駒」の、このケースは、
第76ページの中段に在る、”63 鳥羽
離宮(77次)遺跡(京都府)”の、左側
の写真を使用した。平安時代末と考えられ
ているように、同成書から私には読取れる
ような気がするが、形からズバリ後鳥羽
上皇滞在期のものだった疑いもある。

鳥羽離宮歩兵.gif

 上図で右面に漢字で「と」と書かれてい
るとされていると、同成書でも紹介されて
いる。出土時に、そのように解析されたの
であろう。
 しかしながら、同成書の写真を、画像が
薄くなるように、PCの画像処理ソフトで
普通に処理すると、上図のように、

「と」とされる黒い模様の左側は木目に滲
んで進入した黒墨を見ている

ようである。かなりはっきり、中央横棒が
やや上型の、ヒンの良い「王将」という
文字が、成書の写真の画像処理から浮かび
上がって来ると私見する。

「と」は誤読の疑いがあり、この時代に、
「と」で歩兵の成り金を表す習慣は無い

と疑われると結論される。やはり、鎌倉市
鶴岡八幡宮遺跡出土の14世紀早々の歩兵
駒が、成りがはっきり「と」と書かれた
歩兵駒の、初出なのでは無いだろうか。
 今回は、主題は以上としたい。
 以下はまだかなり怪しいところの残る私
的な解析である。
 まず上記写真だが、「『歩兵』と書いて
ある」が通説の、以上の説明で「成り王将」
のはずの左面には「#」の呪術模様が全面
描いてあると、私は解釈する。なぜ書いた
のかだが、本ブログが以前に説明したよう
に、後鳥羽上皇所持の大将棋の玉将駒に
価値があり、家来は使えず、持ち出しや、
ましては盗難も避けられており、対処とし
て鳥羽離宮の無地であるべき小将棋駒には、

必ず裏面に、何か書く習慣が有ったから

だと私は考えている。何でも良いので呪術
記号を書いたのではないかという事である。
 この場合呪術記号は「天界」、「天子」
をイメージさせる神様でありアラヒトガミ
としての皇族が、王将である事を、さすが
に本拠地であった為に、指し示している疑
いが濃いと私は考える。#は、全天恒星図
の赤経・赤緯線の象徴との旨、従来から本
ブログでは主張している。囲碁盤の19×
19路は、10°刻みのときに、赤経、
赤緯の総数が、37本(ただし0°線と、
360°線は大差無しとみれば36本)と、
19本(中国°では、土90°は、小丸)
で、赤経は緯度が低ければ、約半分見えて
いるとして19本と考え、その線に因んで
いると私は見ている。ので、将棋と囲碁と
が、極東の為政者の間では、国籍によらず
に抱き合わせで、保護されたと、本ブログ
では疑っている点と、たぶんだが、関連
しているように、思えるということである。
 次に、この成書でもうひとつ”63 
鳥羽離宮(77次)遺跡(京都府)”出土
駒画像として載っている、こんどは右側の
将棋駒遺物の写真を画像処理してみる。

鳥羽離宮不明.gif

 前記成書では、左側に「小」にも見える、
薄い墨跡があるだけだとされている。
 上図を見ると、以下私見だが、左側面に、

「小将其」と書いてある疑いがある

と思う。そして、右側は無地では無くて、

金将のようでもある。

ただし、将の字の中央縦に、太くヨゴレが
あると、その場合は画像処理した像を解釈
する事になる。そうだとすれば、この金将
は、後鳥羽上皇所持の大将棋駒セットでは
無くて、家来の使う小将棋の駒だという事
を、前者の管理上の都合から、書くように
なったとの旨の

冒頭に述べた本ブログの主張そのもの

だ。ただし元々劣化が激しく、確定的と言
うには後者の遺物については、ほど遠いだ
ろう。京都府の鳥羽離宮遺跡が、興福寺、
平泉、鎌倉に並んで、中世前期の将棋の歴
史を探るうえで、最重要遺跡である事を、
はっきり示している事だけは、確かと言え
るのではないかと、私は思うのではあるが。
(2024/11/04)

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