発掘報告書の兼六園遺跡桂馬写真の墨跡写らず(長さん)
今回は、以前に論じた将棋駒面の墨書画像
処理解析の話題の続きであり、可視光写真
では、炭化が進んだ将棋駒の駒名墨書き等の、
墨汁固形物の反射光反射率に関しては、散乱
の無い反射(鏡面反射光)の、木地と墨汁固
形物面の差を見ているに過ぎない
疑いが有るとの旨を、以下に述べる。
つまり、可視光写真は、目で見た通りに
写るのでは無くて、一眼レフカメラの、
ファインダー像で確認し、
撮影者が、目で見た通りに写るように、調整
によって、作っているだけ
であるという意味である。その工夫をしない
で、将棋駒の存在だけを、発掘報告書に示す
意図で、撮影しただけの写真によっては、
将棋駒名の墨が全く、木地と判別出来無い
像が撮影される事が有ると、以下に例を示し
て説明する。
今回、形式的に将棋駒像を示しただけの
写真を掲載したと疑われる、発掘報告書例と
して、以下のものを挙げる。
この写真はweb上に最近公開されて、
以下の発掘報告書に載っている。発掘報告書
が、奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開されて
いる。pdfファイル名は以下の通りである。
140638_1_特別名勝兼六園旧江戸町推定地発掘
調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
特別名勝兼六園(江戸町跡推定地)発掘調査
報告、1992年3月、石川県立埋蔵文化財
センター。
この報告書は、良く知られており、天童市
将棋資料館編集の、「天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒」でも、情報の出所であるとの旨、
示されている。
遺跡の場所は、金沢城と同一地点であり、
石川県金沢市兼六町。遺物が出土したのは、
西暦1989年前後。遺物の成立年代は、
第3遺構面で、城に接した町場とみられる地
点で出土し、17世紀初の江戸時代初期の
物品と考えられているように、私には読み取
れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第43
(PL43):”第3遺構面出土遺物(17)”
の、中段やや上、右に在り、スケッチ図第
35の遺物番号第15番との旨ナンバリング
されている。
この将棋駒は、天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒、西暦2003年、天童市将棋資料館
の第45ページ下、”44 金沢城兼六園
遺跡(石川県)”と同じものであり、上段に、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真、
下段に前記発掘報告書の写真を並べて示すと
以下のようになる。なお、発掘報告書の写真
は、本ブログの管理人が画像処理している。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真の
出所は前記発掘報告書と全く同じコンテンツ
が、天童市将棋資料館によって紹介されてい
るので、本ブログ管理人には
なぜ、これほど下の写真の墨跡が少ないのか、
良く判らない。
何れにしても、下の方の発掘報告書の写真に、
はっきりとした、成り金桂馬の墨跡が有ると
は言いがたい。
察するに、別のコマではないかと私は疑う。
なお、前記発掘報告書には、この出土将棋
駒は、成り一文字桂馬とはっきり特定されて
いると、私には取れる旨の記載が有る。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真にだけ
駒名が見えるのは、ファインダーで駒名が、
はっきり見えている写真を
撮影者がチェックした上で、シャッターを
切ったコマの印画紙を、別途将棋資料館が
入手して、成書に掲載しているから
だとしか、説明出来無いように、私は疑う。
しょせん、木地が炭化したものと駒名を書
いた墨汁は、木材の微量成分や不純物を別と
すれば、化学的に炭素である点で大差無く、
遺物は元々、
墨と木地で、色の三要素に差が無いほど、黒
いだけ
なのではないか。その状態で目で見て、駒名
が現実には読めるのは、表面の平滑性が違う
ので光源の、通常白色の蛍光灯光を、反射の
法則で等角度反射した、
直接的な反射光(鏡面反射光)の強度の差が
目に写るのを利用して、人間の頭で駒名を
認識
するからだと考える。目の位置を微妙に変え
ると、合計の反射率が、墨の方がやや低く
感じられる角度が有るのだろう。それを可視
光写真で撮ると、フィルムの表面で光が散乱
する性質から、写る色に差が出て境目が見え、
駒字が角度を選ぶと目で見たのと似た感じに
写るという手法が、たまたま功を奏している
のでは無いのだろうか。
逆に言うと、画像処理とは、とにかく写真
の色に関して数値差が多少でも有れば、目に
見えるように、拡大して見せるソフトウェアー
なだけであり、その程度のものであると言っ
てしまうとそうであると認識し、解析をすべ
きような性格のものなのかもしれないと、私
には今回、上記の例によって認識されたよう
にも思われる。(2024/11/29)
処理解析の話題の続きであり、可視光写真
では、炭化が進んだ将棋駒の駒名墨書き等の、
墨汁固形物の反射光反射率に関しては、散乱
の無い反射(鏡面反射光)の、木地と墨汁固
形物面の差を見ているに過ぎない
疑いが有るとの旨を、以下に述べる。
つまり、可視光写真は、目で見た通りに
写るのでは無くて、一眼レフカメラの、
ファインダー像で確認し、
撮影者が、目で見た通りに写るように、調整
によって、作っているだけ
であるという意味である。その工夫をしない
で、将棋駒の存在だけを、発掘報告書に示す
意図で、撮影しただけの写真によっては、
将棋駒名の墨が全く、木地と判別出来無い
像が撮影される事が有ると、以下に例を示し
て説明する。
今回、形式的に将棋駒像を示しただけの
写真を掲載したと疑われる、発掘報告書例と
して、以下のものを挙げる。
この写真はweb上に最近公開されて、
以下の発掘報告書に載っている。発掘報告書
が、奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開されて
いる。pdfファイル名は以下の通りである。
140638_1_特別名勝兼六園旧江戸町推定地発掘
調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
特別名勝兼六園(江戸町跡推定地)発掘調査
報告、1992年3月、石川県立埋蔵文化財
センター。
この報告書は、良く知られており、天童市
将棋資料館編集の、「天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒」でも、情報の出所であるとの旨、
示されている。
遺跡の場所は、金沢城と同一地点であり、
石川県金沢市兼六町。遺物が出土したのは、
西暦1989年前後。遺物の成立年代は、
第3遺構面で、城に接した町場とみられる地
点で出土し、17世紀初の江戸時代初期の
物品と考えられているように、私には読み取
れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第43
(PL43):”第3遺構面出土遺物(17)”
の、中段やや上、右に在り、スケッチ図第
35の遺物番号第15番との旨ナンバリング
されている。
この将棋駒は、天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒、西暦2003年、天童市将棋資料館
の第45ページ下、”44 金沢城兼六園
遺跡(石川県)”と同じものであり、上段に、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真、
下段に前記発掘報告書の写真を並べて示すと
以下のようになる。なお、発掘報告書の写真
は、本ブログの管理人が画像処理している。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真の
出所は前記発掘報告書と全く同じコンテンツ
が、天童市将棋資料館によって紹介されてい
るので、本ブログ管理人には
なぜ、これほど下の写真の墨跡が少ないのか、
良く判らない。
何れにしても、下の方の発掘報告書の写真に、
はっきりとした、成り金桂馬の墨跡が有ると
は言いがたい。
察するに、別のコマではないかと私は疑う。
なお、前記発掘報告書には、この出土将棋
駒は、成り一文字桂馬とはっきり特定されて
いると、私には取れる旨の記載が有る。
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真にだけ
駒名が見えるのは、ファインダーで駒名が、
はっきり見えている写真を
撮影者がチェックした上で、シャッターを
切ったコマの印画紙を、別途将棋資料館が
入手して、成書に掲載しているから
だとしか、説明出来無いように、私は疑う。
しょせん、木地が炭化したものと駒名を書
いた墨汁は、木材の微量成分や不純物を別と
すれば、化学的に炭素である点で大差無く、
遺物は元々、
墨と木地で、色の三要素に差が無いほど、黒
いだけ
なのではないか。その状態で目で見て、駒名
が現実には読めるのは、表面の平滑性が違う
ので光源の、通常白色の蛍光灯光を、反射の
法則で等角度反射した、
直接的な反射光(鏡面反射光)の強度の差が
目に写るのを利用して、人間の頭で駒名を
認識
するからだと考える。目の位置を微妙に変え
ると、合計の反射率が、墨の方がやや低く
感じられる角度が有るのだろう。それを可視
光写真で撮ると、フィルムの表面で光が散乱
する性質から、写る色に差が出て境目が見え、
駒字が角度を選ぶと目で見たのと似た感じに
写るという手法が、たまたま功を奏している
のでは無いのだろうか。
逆に言うと、画像処理とは、とにかく写真
の色に関して数値差が多少でも有れば、目に
見えるように、拡大して見せるソフトウェアー
なだけであり、その程度のものであると言っ
てしまうとそうであると認識し、解析をすべ
きような性格のものなのかもしれないと、私
には今回、上記の例によって認識されたよう
にも思われる。(2024/11/29)