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岩手県平泉町柳之御所平安末銀将成ケ金左は「し用」(長さん)

今回は、以前の本ブログ管理人の釈文の誤り
に関する報告である。誠に申し訳ないところ
である。
 西暦2022年前後に柳之御所遺跡で銀将
将棋駒が出土し、成が普通の「ケ金」で「ケ」
の左に「金」と、薄く書かれていると報告し
たが、この付記された文字に関して

「金」では無くて、「し用(『将』の意図)」
である

ようだ。遺物の写真の載っているweb上、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録のpdfファィル名
等は、繰り返すと以下である。
pdfファイル名は以下の通りである。
138852_1_平泉遺跡群発掘調査報告書柳之御所遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化財調査報告書第168集柳之御所
遺跡、西暦2024年、岩手県教育委員会。
遺跡の場所は、岩手県西磐井郡平泉町平泉
柳御所。遺物が出土したのは西暦2022年
前後。
 遺物は遺溝第10で出土し、発掘報告書第
17ページによると平安末期の12世紀成立。
遺物の写真は、、発掘報告書写真図版第68
の下から2段目。
 今回は、その裏側に「金」と薄く付記され
ているとみられる部分が強調されるように、
強く画像処理した。以前に、成書の平泉町の
同柳之御所遺跡で出土した歩兵の写真の右に、
「右八ケ歩」の字が見えて、大発見となった
教訓が、私には思い出された為である。
 結論を先に書くと、案の定「誤読」だった
が、平安時代には、将棋駒の成りを「金将」
と読みたいという感覚が強く、「ケ」では
無く、ケに「し+用」を薄く付記し、

「ケ(=金)し用」→「金将」と表そう

としたという解釈が、成り立った。
 ちなみに問題の、薄い「ケ」の左側の書き
込みは、「赤外線写真」では、薄まる。

墨が少量だと、染み込みが無いから

である。よって画像処理は、鎌倉市の木札の
例を引いて前に述べたが、左側のコマの可視
光写真に対して以下のように、行った。

柳之御所銀将処理.gif

 上図のように、「田」のような字が浮かび、
良く見ると下線が無い。漢字で「円」か「用」
のようであるが、後者だと見られる。その字
を左に抱え込むように、ひらがなで「し」と
書かれているように、私には見える。

「し」へんの「用」という漢字が連想され、
「将」と読ませようとしている

ようである。成りの「金」に「し」や「・」
を付けて、将を略して、将棋の駒のウラであ
り、元駒の「金将」と区別しようとしたが、
無生物金属の「金」では無くて、軍の階級の
金将を表現しようとしたという発想だと私に
は解釈される。平安時代の将棋駒に、特有で
ある。
 「用」が出てきたのは、柳之御所遺跡で、
将棋が行われていた時代には、朝鮮半島から、
チャンギの「象」駒の情報も入っており、
「用」の字動きをする駒の日本の将棋駒が、
「銀将」にあたると認識して、それにひっ掛
けたようにも、私には見える。
 ともあれ画像処理をすると、金の「ハ」の
字が全く出無いのを見て、自身の誤読を悟り、
読者の皆さんにはには、

誠に申し訳なかったと心からお詫び致したい

と思っている。(2024/12/31)

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一乗谷朝倉氏第9次遺跡天童将棋資料館本160歩兵成疑(長さん)

今回も、pdfファィル名:
140807_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称:「特別史跡一乗谷
朝倉氏遺跡発掘調杏報告Ⅰ、1979年、
福井県教育委員会。」のコンテンツ内で、
web上に写真が、最近に公開された
遺物の、

墨書の鮮明化の話題である。

題材は表題のように、「天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒」、2003、山形県
天童市将棋資料館という成書本の、第
60ページ付近に、やや鮮明度の低い
写真とスケッチ図の載っている、
「第160番の歩兵駒」の、成りが、
しばしば耳にするように「『登』」の
崩し字」に、発掘報告書の写真では、私
には見え無いという以下紹介内容である。

「ケ」と「と」を重複して書いた

ように私には見える。
 遺跡の場所と、問題の将棋駒の出土期
を繰り返すと、以下の通り。
遺跡の場所は、福井県福井市城戸ノ内町
22番18。遺物が出土したのは第9次
調査時で、西暦1973年前後の事。
なお、このときの発掘で、将棋駒が多数
出土している。
 遺物の成立年代は、一乗谷で朝倉氏が
活動した戦国期の将棋駒遺物の一枚とし
て、遊戯史では著名である。
 前記発掘報告書内では、話題とする
遺物は、発掘報告書写真図版(PL.)
37:”将棋の駒(2)”下から2段目
の左端にあり、遺物番号第160番と、
ナンバリングされている。天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒、第60ページ、46/
一乗谷朝倉氏(第9次)遺跡(福井県)
の第160番の歩兵駒の番号も第160
番であり、これは、発掘報告書内の番号
の写しである事が判る。報告書で、成り
は「登」または「金」と観察され、
「と金の『と』は、『登』であり(増川
宏一氏の主張する『今』は疑問)」と私
には受け取れる旨の、説明がある。

一乗谷歩兵160.gif

 上図のように写真図版の写真を見ると、

《ケ金》のケと細い線で書いた「と」の
字が恐らく巧に一筆で重ねて書いてある

だけであり本ブログの管理人は、

「登」で無く「と今」と書いてある

と、私的に釈文する。
 「と」と「ケ」を、「と金」と読むつ
もりで、重ねて書いただけでは無いのだ
ろうか。
 よって、と金の「と」の元が何の字な
のかという論争については、増川宏一の

「今」説が正しいと私は思う

と、結論される。
 スケッチを取るときに、上図で赤い
矢印で示した部分を、良く確認し無いで
書いたために、間違った説が発生したと、
現時点で私が、疑い出しているという
意味である。(2024/12/30)

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一乗谷朝倉氏遺跡出土将棋駒絵付き墨書木札釈文作成(長さん)

以前に、かるたの一種、あるいは北周の武帝の
臣僚のユ信による、武帝完成の象経に対する賦:
「陰翻れば即ち顧兎先ず出て、陽変ずれば則ち
霊鳥独り明らかなり」を図示したものと、本
ブログで解釈した、表題の福井県福井市一乗谷
朝倉氏遺跡出土の「将棋駒絵付き墨書木札」の
写真が、最近奈良文化財研究所発掘報告書デー
タベース、全国遺跡報告総覧に登録された発掘
報告書の中でweb上に公開された。ので今回、
本ブログなりに、発掘報告書の内容を踏まえて、
カラスとネズミは絵で書いたとして、それらを、
「カラ」、「チュウ」と読んだ上で、釈文例を
作成してみたので、以下に結果を紹介する。

「カラガラカンと宙返ろう!」

と、気勢を揚げている手締言葉が書かれたと私
は考える。戦国時代に現地で、不利な、厳しい
イクサが行われたのであろう。
 写真の載った発掘報告書は、繰り返すと奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録され、現在公開されている。
 pdfファィル名は、以下の通りである
140807_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調杏報告Ⅰ、
1979年、福井県教育委員会。
 発掘報告書第1ページ付近の「序言」により
遺跡の場所は、福井県福井市城戸ノ内町22番
18。遺物が出土したのは、第9次調査時で、
西暦1973年前後の事のようである。なお、
このときの発掘で、将棋駒が多数出土している。
 遺物の成立年代は、戦国期の一乗谷朝倉氏の
活動末期だとされている。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版(PL.)
第35:”墨書木製品(2)・札”の右側端中
段に在り、遺物番号、第51番との旨ナンバリ
ングされ、発掘報告書内で「呪術札」と見なさ
れた「玉将」駒の白黒反転画の有る絵札である。

がらがらかん宙返ろう.gif

 スケッチ図から、本ブログでは従来内容を
解釈しようとしていたが、写真がwebにも公
開され、格段に解釈が容易になった。
 スケッチ図の印象と違うのは、右側の面の上
段の動物は、

長い耳では無くて、首下に長い毛並みのある
ネズミという事

である。「陰翻れ」て出てきたのは、「顧兎」
では無くて「太った王将」とは対照的な「小さ
な鼠」である。陽から陰に代わり、大爬虫類か
ら、小哺乳類へ、主役か移ったようなイメージ
とも取れる。だから、兎でなく鼠でも、良いと
は言えるので、将棋と北周の武帝との関係は、
踏まえていると言えば、そうも言えるのではな
いかと私は依然として考える。シリトリで「兎」→
「玉将」は出来るが、「鼠」→「玉将」や、
「王将」は駄目だから、以前の本ブログの

シリトリ札説は、取り下げる事にしたい。

また、ウラとオモテ解釈は逆で、釈文はカラス
の書いてある面から始める。
 発掘報告書によると、その面の最上段の絵は、
カラス、その下は漢字であるとされ、「魚」、
「則」と読んでいる。画像を見れば一目だが、

第2字目とされるものは「゛」、「烏(の異字)」
の2つに分かれている

と本ブログでは解釈。又下段字は「則」で無く、

「肝」の略字で、音読みして「カン」

と読み、最初にカラスの書いてある面は擬音で、

「カラガラカン」と本来カタカナ書きする内容

だと、私は考える。「心躍らせて」の意味と見
られる。
 次に、最上段が兎とされた面は、第1絵を
「チュー」と読み「宙」の引っ掛けと釈す。
 次に、第2字目だが発掘報告書はヒキガエル
の絵と解釈しているとの旨の記載が、第69
ページ付近にあるが、「替える」を表す記号だ
と、本ブログでは見る。以前は「石」かとも私
は思ったと述べたと記憶するが、第2字目に見
えるものは実は記号であり、

陰陽の変化、「替える」を運転免許の若葉マー
ク型で表現

している事は、写真からは明らかで、今回私に
は、初めて理解出来た。
 一番下の玉将駒は「おう」と読み、「替える」
と「おう」で、「返るおう」→「返ろう」と読
むとみる。
 結局鼠の絵の「チュウ」「宙」から続けると、

「宙返えろう!」と釈文される

と思う。オモテ面と繋げると、結局

「カラガラカンと宙返えろう!」となり、戦の
前の勝ちを祈念した気勢を表した、ポジティブ
な呪術札

という事になる。肝をカラガラと奮闘させて、
不利なイクサを乗り切ろうという、怒号という
意味である。
 将棋も、そのような「運気」に乗れば勝てる
と、牛僧孺の玄怪録「岑順」にも出ている為、
将棋駒も、入っているのである。だから冒頭で
述べたように、この札を作成した人物が、
「象経」に関連して臣僚のユ信が著作した、
武帝に対する賦を理解している可能性は私には、
充分に有るのではないかと依然として疑われる。
今のところ、発掘報告書に載った該遺物の写真
に基づいて、本ブログでは、以上のような釈文
案を、今の時点で提示しておくことに致したい。
(2024/12/29)

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埼玉県熊谷市上江袋古墳群で6C前奔王墨書埴輪(長さん)

今回は、埼玉県熊谷市の6世紀前半
成立とみられる、古墳に納める弓道具
の埴輪、鞆形埴輪に、弓で得た獲物を
領主に奉じる等との意味とみられる、
漢字で「奉王」のように私には見える
模様が有るとの旨の紹介である。在郷
の識字層が、埼玉県熊谷市上江袋付近
に6世紀前半に居していて、古墳に埋
葬等された事を示しているのであろう。
 今回の遺物は近隣、埼玉県行田市の、
行田市郷土博物館で西暦2002年
前後に行われた、河川流域の古墳展
との内容の「テーマ展」で発行した、
パンフレットに載っている。web上
には、今のところ、私は未発見である。
 パンフレットの書誌は、次の通りで
ある。
埼玉県行田市在の行田市郷土博物館/
第13回テーマ展「利根・荒川流域の
古墳群」、西暦2002年、埼玉県
行田市郷土博物館。
 遺跡の場所は、埼玉県熊谷市上江袋
付近と見られる。遺物が出土した時期
は、私には判らない。なお、この遺跡
からは、西暦1959年頃から埴輪が
発掘されているという事である。
 遺物の成立年代は、写真図版の在る
第7ページ付近によると、6世紀前半
とみられている。古墳から出土した
埴輪で、「弓をひくとき、左腕に巻く
道具」との旨の説明が同じく、パンフ
レットの第7ページに有る。目で見て
目標の左側に、弓を射る時、射手に、
その墨書が見えるのではないかと、私
は認識する。

上江袋奔王.gif

 上図の青い矢印のそれぞれ先に、
やや互いに距離が有るが、漢字で、私
には「奉王」のように見える模様が縦
に書かれているような気がする。
 矢を放つときに、領主を奉じて射手
が景気をつけるような意味のように私
には思える。
 古墳に埋葬された豪族である6世紀
前半の当時の射手には、かなり時代が
下るので。当然漢字が読めた事を示し
ているのであろうと私は疑う。
(2024/12/28)

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埼玉県比企郡鳩山町柳原A遺跡で古代泰山甕土器(長さん)

今回は、以前に埼玉県比企郡鳩山町窯跡遺跡の
奈良期山奉墨書土器を紹介した、近傍の窯跡群
で、もう少し大型の甕型土器に、類似の漢字で
「奉山」と書かれているような模様が有るとの
旨の、追加紹介である。
 東武東上線高坂駅の同じく近傍のところから、
関東山地、秩父の堂平山等を奉じ、山を清める
為の水を入れた、類似の時代の祭祀用と、私は、
この遺物も疑う。
 今回の情報は、埼玉県立博物館で編集した、
展示会「比企」のパンフレットに載っており、
紙媒体の情報でありweb上ではまだ、私には
発見されてい無い。
 パンフレットの書誌は、以下の通りである。
「特別展 比企-丘陵に生きた人々の暮らしと
文化-」/第55ページ・埼玉県比企郡鳩山
窯跡群柳原A遺跡、1989、鳩山窯跡群遺跡
調査会/編集:埼玉県立博物館。
 遺跡の場所は、以前の墨書台付き杯と同様、
埼玉県比企郡鳩山町付近と見られる。遺物が出
土したのは、西暦1980年代の事であろう。
 遺物の成立年代は、パンフレットの同じく、
第55ページ付近の記載により、9世紀よりは
前の、古代と取れるように思われる。奈良時代
前後では無かろうか。
 遺物の写真は、パンフレットの第55ページ
の写真図版の、上段にあり、第15番遺跡=
鳩山町柳原A遺跡の、パンフレット内番号1と
ナンバリングされ、須恵器の甕土器とされてい
るようである。

比企鳩山泰山.gif

 上図のように、写真で右下に漢字で「山」の
ようにも見える暗い模様が在り、その上に煤に
埋もれながら「奉」のようにも見える模様が私
には在るように見える。甕の中には水を入れた
と推定されている旨、パンフレットに記載が
あり、本ブログで何回か紹介した「山自体を清
める水」を入れる、神社の拝殿に置かれた甕の
ような用途の物品のように私にはに見える。
いうまでも無く冒頭に述べたように、 東武
東上線高坂駅の近傍の発掘された遺跡付近より、
関東山地、秩父堂平山等を奉じる祭祀用と、私
は、この遺物も疑って見ている。(2024/12/27)

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石川県鹿島町徳前C遺跡で4C山泰墨書土器(長さん)

今回は、石川県鹿島町の徳前C遺跡から、
古墳期前期、4世紀頃成立とみられる、
甕型土器に、漢字で山奉と書いてある
ように私には見える、煤模様が有るとの
旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140797_1_鹿島町徳前C遺跡調査報告Ⅳ.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
鹿島町徳前C遺跡発掘報告(Ⅳ)、
1983、石川県埋蔵文化財センター。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
石川県鹿島郡鹿島町徳前。遺物が出土し
たのは、西暦1981年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、写真図版に弥生期
~古墳期前期と記載され、本文第141
ページの記載から、4世紀頃のものとさ
れているような印象を私は受ける。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
29の最上段左側に在り、遺物番号で、
スケッチ図第62の第12番との旨、
ナンバリングされている。甕型土器と
見られているようである。

石川県山泰.gif

 上図のように、山奉のように私には読
めるような漢字の模様が、煤に埋もれな
がら、有るようにも見える。
 遺跡の南側に低山帯があり、弥生時代
末から古墳時代の初にかけ、渡来人の山
岳信仰が存在したのかもしれないと、私
見する。(2024/12/26)

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飛鷲・角鷹の完全成立は15世紀末か(長さん)

最近出版された、ものと人間の文化史/191
「鷹」の第58ページ付近の記載は、中将棋の
成駒の、飛鷲、角鷹の成立時期に関連する、
鷹狩りの歴史に関し、鎌倉北条執権得宗期から、
室町時代初期かけての、朝廷貴族の鷹狩空白期
に関して、判り易い要約が書かれていて、大い
に参考になる文献のようである。成書の書誌は
以下の通り。

ものと人間の文化史/191「鷹」、根崎光男、
法政大学出版局、西暦2024年12月。

その第58ページ付近に、少なくとも史料とし
ては、中先代の乱や、モンゴル帝国来襲に関す
る神託で有名な、

諏訪神社の神事としての鷹狩り以外、日本では
中将棋成立期に鷹狩りは衰微

としており、室町時代の15世紀末に細川政元
が、軍事目的で鷹狩りを復興したのが、近世盛
んになる、近世大名鷹狩りの走りとの旨がある。
 つまり、中将棋で安定して

龍王と龍馬の成りが、鷹狩り文化を明確に連想
させる、飛鷲、角鷹になったのは、15世紀末

の応仁の乱より少し後と示唆しているという事
である。その際、中将棋が大将棋の系統であり、
鎌倉末に神奈川県鎌倉市でも盛んであり、北条
氏や、モンゴル来襲祈祷や神託で関連性の高い、

諏訪神社に対する敬意が、15世紀の龍王、
龍馬の成りの確立にはその根底に有る事を示唆

していると取れるという事である。思えば、龍
自体が、モンゴル帝国来襲より日本を守る為の
守護神と諏訪神社ではされた訳であるから、
諏訪神社が龍駒の絡んでいるというのは、当た
り前だったという事かもしれない。
 鷹狩りに関して、専門家以外にも、鎌倉時代
には禁止の傾向の有った

頼朝伝説より少し後に始まる、空白期の動きに
関して、判り易い図書が出版された事に対して
感謝すべきだろう

と、私には当然だが感じられた。
 以上のように、この図書の、将棋史に興味を
持つ者の、空白期論議に対する記載の平易さに
接して、私は直近大いに慶んだのであった。
(2024/12/25)

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大分県大分市大友府内町遺跡16C泰山染付文字椀(長さん)

今回は、以前に将棋飛車駒が出土したと本ブログ
で紹介した、同じ大分県の遺跡でかつ、同じ時の
発掘調査時に、戦国時代の染付け椀(饅頭心椀)
に、報告書では、釈文で「大明」となっているが、
「泰山」のようにも見える、椀底の染付け文字が
あるとの旨の紹介である。
 はっきりし無いが、他に「大明奉造」等に私に
は見える遺物が出土しているので、発掘報告書の
主張が、恐らく正しいのではないかと見られる。
 遺物の写真がweb上に公開され、発掘報告書
に載っている。発掘報告書が奈良文化財研究所の
発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧に
登録公開されている。pdfファイル等は、飛車
将棋駒と同じであり、成立年代も、ほぼ同じもの
と見られる。
78299_1_豊後府内.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大分県教育庁埋蔵文化財センター調査報告書/第
33集、豊後府内8、2008年、大分県教育庁
埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾抄録により、遺跡の場所と、遺
物の出土年は以下の通り。大分県大分市六坊北町。
出土したのは西暦2003年前後。同じく末尾抄
録により、繰り返すと、遺物の成立年代は、16
世紀の戦国末から、安土桃山時代初のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の第28ページ付近
の第2-22図SD066出土遺物実測図2
(1/3)との表題のある、スケッチ図の中に、
混在する形で挿入され、下から2段目の右に在り、
瀬戸物の意の第21番との旨とみられる、ナンバ
リングがある物品である。
 前後の本文第26ページ付近の説明により、
「大明年造と、底に染付けの銘のある、饅頭心椀
の類」とのことである。

大友府内泰山2.gif

 上図のように、第2字目が消えかかっており、
「明」のよでもあるし、私には「山」のようにも
見える。第1字目は、幾分マシだが「大」かもし
れないし、「泰」のようでもある。他に「大明
奉造」のようにも私には見える、同じ類の椀が、
出土している。ので、発掘報告書の読みの可能性
も高いが、文字が劣化し、遺物も元々破片な為、
明確では無いと私は思う。(2024/12/24)

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滋賀県米原市狐塚遺跡で5C末着物に将棋駒模様埴輪(長さん)

今回は、埼玉県さいたま市の埼玉県立
博物館で、西暦2008年に行われた
展示イベント「女性はにわ、その装いと
しぐさ」の展示録に載っている人物埴輪
の着物の左肩部分に、ひらがなで「も」
と書かれた、将棋駒型の模様が有ると
の旨の話題である。
 腕輪に五角形模様の飾りを付けた
ような模様が、元々はにわの女性の衣服
の部分に、墨で絵画的に表現されていて、
その飾りの部分が将棋駒型であり、「毛」
と書かれているが、私には崩し字のよう
に見えるとの事のようである。
 カタログの説明に有るように、僻者役
の儀式の登場人物を、猛(発音の毛)者
として表現したものなのではないかと私
は疑う。

5世紀末には「毛」から「も」の
ひらがなの字が、さほど困難無く出来掛
けていた事を示している

のかもしれない。
 特別展用の有料カタログ名は、以下の
通りである。
特別展示録「女性はにわ~
その装いとしぐさ」、西暦2008年、
埼玉県立博物館。
 遺跡の場所と出土日時はパンフレット
には記載が無い。人物(女性)埴輪であ
り、成立年代は5世紀末、古墳時代中期
との旨、同じくパンフレットの第74
ページ付近に説明がある。
 邪気を祓う為に、武器を手にした女性
と私には取れる説明も有る。
 写真は、その第40ページ付近の左側
に有り「人物埴輪袈裟状の衣を着け弓を
持つ女子(滋賀県狐塚5号墳)滋賀県
坂田郡近江町教育委員会(現:米原市)」
との旨、付記されている。

滋賀埴輪も駒.gif

 上図のように、埴輪の女性の衣服の、
左肩付近に、白抜きで五角形の、将棋駒
型のように、私には見える模様が有り、
その中に、何か絵か字が有るようでも
あり、ひらがなで黒線枠で「も」とも、
読めるように私は疑う。
 音で「猛者」の意図かもしれず、
五角形には、古墳時代から、武力との
イメージが我が国にあった事を、ひょっ
とすると示すのかもしれない、重要史料
のように私見する。言わば「猛将」駒か。
 また「毛」という字は、当初から「も」
と略記される傾向が、ひょっとして、
有ったのではなかろうか。(2024/12/23)

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大分県大分市大友府内町遺跡16C飛車将棋駒(長さん)

既に述べたように、大分県大分市元町か六坊町の、
大友府内町遺跡で将棋駒が、実は西暦2003
年に出土し、その後の本ブログの調査で、私の
発掘報告書データベースの見落としが、未紹介の
原因である事が判った。有力な将棋駒史料の見落
としであり、遺憾である。発掘調査も通常のパター
ンで行われたものであり、大分県の埋蔵文化財
センターの展示室、Bungo大友資料館に展示
され、将棋の日のイベントの記念行事用に使われ
たとの紹介の記事が、web上に開示されている
事が判明した。発掘調査報告書の画像から、

出土将棋駒は、成龍王飛車駒で確定している。

データベースの調査に、大穴が有った事が判明し、
返す返すも、誠に申し訳無いところである。
 この将棋駒遺物の写真はweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報
告総覧に登録公開されている。pdfファイルは、
78299_1_豊後府内.pdf
であり、発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大分県教育庁埋蔵文化財センター調査報告書/第
33集、豊後府内8、2008年、大分県教育庁
埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾抄録により、遺跡の場所と、遺
物の出土年は以下の通り。大分県大分市六坊北町。
出土したのは西暦2003年前後。同じく末尾抄
録により、繰り返すと、遺物の成立年代は、16
世紀の戦国末から、安土桃山時代初のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の冒頭カラーページ
の巻頭図版第3の左下にあり、遺物は土抗第66
で出土し、2-36の第195番との旨ナンバリ
ングされていて、戦国時代末から安土桃山時代の
頃の、成りが龍王の飛車駒である。

大友府内飛車報告.gif

 以前紹介した写真で、厚みが不明瞭だったが、
先が0.5cm程度、根元が1.2cm程度との
旨の説明が、発掘報告書の第42ページ付近の、
やや上段に有る。通常の将棋駒の厚さである。
中央が凹んだ、変形五角形駒で、一乗谷朝倉氏
遺跡で類似の形のものが有ったかもしれないと私
は記憶する。たまたまの意匠であろう。
 戦国期の町場で、町人大衆に遊ばれたものだと
みられているようである。(2024/12/22)

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