埼玉県さいたま市黒谷田端前遺跡で縄文晩奔王墨書土器(長さん)
今回は、紀元前縄文晩期成立とされる加曾利B式
系統の、さいたま市南方、浦和美園駅付近の標題
遺跡で出土した土器に、漢字で「泰王」と書いて
あるような、綱代模様とされる暗部が有るとの
紹介である。関東平野の河川部で、紀元前2世紀
頃渡来人が来て砂金を採掘し、前漢王朝時代の
中国へ、送っていた跡かもしれないと、私は疑う。
今回の画像は、発掘報告書として紙媒体で存在
し、報告書の表題は、次の通りである。
平成15年度埼玉県さいたま市岩槻区(岩槻市:
当時)内遺跡発掘調査報告書、西暦2004年、
(埼玉県)岩槻市教育委員会(当時)。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は埼玉県
さいたま市岩槻区黒谷1700番地(推定)付近。
遺物が出土したのは、西暦2002年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、表層から出土した縄文晩期
の加曾利B式土器の破片とされるがごく小さく私
には、詳細理解不能である。西暦紀元前2世紀程
度と、ここでは仮にしておく。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第5の集合
写真の、中段のコマの最上段の右に在り、遺物
番号は、多分土器の第36番と説明された物品と
同じものである。
以下、強く画像処理し、模様の見える下面部分
だけを示している。

上図のように、左右の模様がはっきり判読出来
無いが中央に、右から左に横に「泰王」と書かれ
ているように私には見える、発掘報告書の言う「
綱代模様」があり、黒く浮き出て見える。紀元前
2世紀の前漢の武帝を指すようにも見え、古い当
時の荒川で砂金を採り、船舶で中国へ送っていた
跡のようにも、私には想定される。(2024/12/18)
系統の、さいたま市南方、浦和美園駅付近の標題
遺跡で出土した土器に、漢字で「泰王」と書いて
あるような、綱代模様とされる暗部が有るとの
紹介である。関東平野の河川部で、紀元前2世紀
頃渡来人が来て砂金を採掘し、前漢王朝時代の
中国へ、送っていた跡かもしれないと、私は疑う。
今回の画像は、発掘報告書として紙媒体で存在
し、報告書の表題は、次の通りである。
平成15年度埼玉県さいたま市岩槻区(岩槻市:
当時)内遺跡発掘調査報告書、西暦2004年、
(埼玉県)岩槻市教育委員会(当時)。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は埼玉県
さいたま市岩槻区黒谷1700番地(推定)付近。
遺物が出土したのは、西暦2002年前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、表層から出土した縄文晩期
の加曾利B式土器の破片とされるがごく小さく私
には、詳細理解不能である。西暦紀元前2世紀程
度と、ここでは仮にしておく。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第5の集合
写真の、中段のコマの最上段の右に在り、遺物
番号は、多分土器の第36番と説明された物品と
同じものである。
以下、強く画像処理し、模様の見える下面部分
だけを示している。

上図のように、左右の模様がはっきり判読出来
無いが中央に、右から左に横に「泰王」と書かれ
ているように私には見える、発掘報告書の言う「
綱代模様」があり、黒く浮き出て見える。紀元前
2世紀の前漢の武帝を指すようにも見え、古い当
時の荒川で砂金を採り、船舶で中国へ送っていた
跡のようにも、私には想定される。(2024/12/18)