大分県大分市大友府内町遺跡16C飛車将棋駒(長さん)
既に述べたように、大分県大分市元町か六坊町の、
大友府内町遺跡で将棋駒が、実は西暦2003
年に出土し、その後の本ブログの調査で、私の
発掘報告書データベースの見落としが、未紹介の
原因である事が判った。有力な将棋駒史料の見落
としであり、遺憾である。発掘調査も通常のパター
ンで行われたものであり、大分県の埋蔵文化財
センターの展示室、Bungo大友資料館に展示
され、将棋の日のイベントの記念行事用に使われ
たとの紹介の記事が、web上に開示されている
事が判明した。発掘調査報告書の画像から、
出土将棋駒は、成龍王飛車駒で確定している。
データベースの調査に、大穴が有った事が判明し、
返す返すも、誠に申し訳無いところである。
この将棋駒遺物の写真はweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報
告総覧に登録公開されている。pdfファイルは、
78299_1_豊後府内.pdf
であり、発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大分県教育庁埋蔵文化財センター調査報告書/第
33集、豊後府内8、2008年、大分県教育庁
埋蔵文化財センター。
発掘報告書末尾抄録により、遺跡の場所と、遺
物の出土年は以下の通り。大分県大分市六坊北町。
出土したのは西暦2003年前後。同じく末尾抄
録により、繰り返すと、遺物の成立年代は、16
世紀の戦国末から、安土桃山時代初のようである。
遺物の写真は、発掘報告書の冒頭カラーページ
の巻頭図版第3の左下にあり、遺物は土抗第66
で出土し、2-36の第195番との旨ナンバリ
ングされていて、戦国時代末から安土桃山時代の
頃の、成りが龍王の飛車駒である。

以前紹介した写真で、厚みが不明瞭だったが、
先が0.5cm程度、根元が1.2cm程度との
旨の説明が、発掘報告書の第42ページ付近の、
やや上段に有る。通常の将棋駒の厚さである。
中央が凹んだ、変形五角形駒で、一乗谷朝倉氏
遺跡で類似の形のものが有ったかもしれないと私
は記憶する。たまたまの意匠であろう。
戦国期の町場で、町人大衆に遊ばれたものだと
みられているようである。(2024/12/22)
大友府内町遺跡で将棋駒が、実は西暦2003
年に出土し、その後の本ブログの調査で、私の
発掘報告書データベースの見落としが、未紹介の
原因である事が判った。有力な将棋駒史料の見落
としであり、遺憾である。発掘調査も通常のパター
ンで行われたものであり、大分県の埋蔵文化財
センターの展示室、Bungo大友資料館に展示
され、将棋の日のイベントの記念行事用に使われ
たとの紹介の記事が、web上に開示されている
事が判明した。発掘調査報告書の画像から、
出土将棋駒は、成龍王飛車駒で確定している。
データベースの調査に、大穴が有った事が判明し、
返す返すも、誠に申し訳無いところである。
この将棋駒遺物の写真はweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化
財研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報
告総覧に登録公開されている。pdfファイルは、
78299_1_豊後府内.pdf
であり、発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大分県教育庁埋蔵文化財センター調査報告書/第
33集、豊後府内8、2008年、大分県教育庁
埋蔵文化財センター。
発掘報告書末尾抄録により、遺跡の場所と、遺
物の出土年は以下の通り。大分県大分市六坊北町。
出土したのは西暦2003年前後。同じく末尾抄
録により、繰り返すと、遺物の成立年代は、16
世紀の戦国末から、安土桃山時代初のようである。
遺物の写真は、発掘報告書の冒頭カラーページ
の巻頭図版第3の左下にあり、遺物は土抗第66
で出土し、2-36の第195番との旨ナンバリ
ングされていて、戦国時代末から安土桃山時代の
頃の、成りが龍王の飛車駒である。

以前紹介した写真で、厚みが不明瞭だったが、
先が0.5cm程度、根元が1.2cm程度との
旨の説明が、発掘報告書の第42ページ付近の、
やや上段に有る。通常の将棋駒の厚さである。
中央が凹んだ、変形五角形駒で、一乗谷朝倉氏
遺跡で類似の形のものが有ったかもしれないと私
は記憶する。たまたまの意匠であろう。
戦国期の町場で、町人大衆に遊ばれたものだと
みられているようである。(2024/12/22)