15×15升目後期大将棋駒数130枚の解明Ⅱ(長さん)
この文は2025年1月元旦に作成した。
年の初めにふさわしく、前に考察したこの
代表的な大将棋の問題について、6年強後
の現時点の見解を書く。
朝鮮広将棋が、鎌倉時代末に成立
しており片方の駒の数が43枚だったので、
6543の65枚にして優越感を出す
意味だったとみる。総数86枚に対抗して
総数130枚である。なお、本ブログでは、
15×15升目後期大将棋の作者は曼殊院
関係者であり、15世紀の初頭に成立した
とみる。
そもそも将棋の盤が15×15升目なの
も、朝鮮広将棋の15×14路を1つ越え
ようとしたものであり、更には、
新安沖出土将棋盤は、東福寺難破船船内で、
朝鮮広将棋の将棋駒を、升目に置いて指す
余興をする為のものである
と見る。14升目×15升目しか残存し無
いのは、並べたときに既に1段多すぎたの
に気がついたから、その場で削ったのかも
しれない。また5の5や5の4に星が来る
のも、朝鮮広将棋の配列からみて、中軍の
段が境で三将型であるから、ざっと見て、
星の付け方も、25升目を単位に分割すれ
ば、朝鮮広将棋用にはほど良い形であると
将棋盤の作者は、見たのではないか。
朝鮮広将棋は、元王朝時代/鎌倉時代末
に国内に伝来していて、日本の盤上ゲーム
デザイナーには、ある程度認知されていた
のだろう。江戸時代になって、今述べた
関連性から、「大将棋と広将棋は同一」と
いう記載も、発生したものと見られる。
さて、この130枚の謎については、
大阪電気通信大学高見友幸氏の、先行研究
がある。以前にも紹介したが、”摩訶大大
/大将棋の192枚から62を引いて後期
大将棋の130枚、また62を引いて平安
大将棋が68枚”というものである。
また、以前に本ブログで主張した説は、
12×12升目92枚制の中将棋と、
19×19升目192枚制の摩訶大大/
大将棋の、升目と駒の数を、単純に直線
に当てはめて15×15升目なら、計算上
129.327枚となり、2で割り切れる
130枚にしたというものである。
高見氏の説では62の出所がはっきり
し無いし、本ブログの従来説は、その
直線が、原点を通る訳でも無いという
不自然さがある。
だが、日本と朝鮮半島の元に支配された
高麗の間で、高麗側が日本の平安大将棋に
対抗して、チャンギは既に出来が良いのに、
無理やり14世紀に、朝鮮広将棋を、13×
13を見て15×14路として作り、それ
を見て大陸に負けてはと、今度は日本側の
特に京都の朝廷関係者が感じて、結果
曼殊院が、15×15升目に大将棋をした
としたら、この謎は一ぺんに解決するのに、
最近私は気がついた。情報交換が起こって、
他を超えるという優劣の競い合いが起こり、
15×15升目の大将棋は、小、中、大の
等差数列的なバランス、9升、12升、
15升も有って、中将棋に平安大将棋系が
取って代わられると同時に、15升目の
大将棋が、朝鮮広将棋の15×14を辛く
も超えるという理屈が有って、発生したの
では無いか。
そもそも、曼殊院は、中国広将棋にも
対抗して、囲碁升目、19×19の摩訶
大大/大将棋を作成し、その際大まかな
数字で片方49枚前後の、中国広将棋を
ターゲットにして、その倍で24節気+
72候、片側96枚制の摩訶大大/大将棋
をデザインしたという経緯だった。であろ
うから、15×15升目制の後期大将棋を、
朝鮮広将棋に対抗して作成するときに、今
度は、朝鮮広将棋をターゲットにして、
6543で、数字の大きい片方65枚の
将棋を、相手の43枚駒に対抗して割り当
てても、さした不思議も無いようにも私に
は思える。ちなみに、朝鮮広将棋の駒の数
総数86枚は、二中歴平安大将棋の駒の数
総数68枚の6と8のひっくり返しだろう。
恐らく、中国の元王朝末から明王朝初の、
日本の鎌倉時代末から室町時代初にかけて
は、京都の寺院のチャーター船による交易
の結果、情報の大陸日本間、大交換時代が
存在したので、以上のようなピンポン型の、
新型ゲームが相互に発生したのでは無いか。
以上のような説を、今年2025年初か
ら、本ブログでは取りたいと考えている。
(2025/01/01)
年の初めにふさわしく、前に考察したこの
代表的な大将棋の問題について、6年強後
の現時点の見解を書く。
朝鮮広将棋が、鎌倉時代末に成立
しており片方の駒の数が43枚だったので、
6543の65枚にして優越感を出す
意味だったとみる。総数86枚に対抗して
総数130枚である。なお、本ブログでは、
15×15升目後期大将棋の作者は曼殊院
関係者であり、15世紀の初頭に成立した
とみる。
そもそも将棋の盤が15×15升目なの
も、朝鮮広将棋の15×14路を1つ越え
ようとしたものであり、更には、
新安沖出土将棋盤は、東福寺難破船船内で、
朝鮮広将棋の将棋駒を、升目に置いて指す
余興をする為のものである
と見る。14升目×15升目しか残存し無
いのは、並べたときに既に1段多すぎたの
に気がついたから、その場で削ったのかも
しれない。また5の5や5の4に星が来る
のも、朝鮮広将棋の配列からみて、中軍の
段が境で三将型であるから、ざっと見て、
星の付け方も、25升目を単位に分割すれ
ば、朝鮮広将棋用にはほど良い形であると
将棋盤の作者は、見たのではないか。
朝鮮広将棋は、元王朝時代/鎌倉時代末
に国内に伝来していて、日本の盤上ゲーム
デザイナーには、ある程度認知されていた
のだろう。江戸時代になって、今述べた
関連性から、「大将棋と広将棋は同一」と
いう記載も、発生したものと見られる。
さて、この130枚の謎については、
大阪電気通信大学高見友幸氏の、先行研究
がある。以前にも紹介したが、”摩訶大大
/大将棋の192枚から62を引いて後期
大将棋の130枚、また62を引いて平安
大将棋が68枚”というものである。
また、以前に本ブログで主張した説は、
12×12升目92枚制の中将棋と、
19×19升目192枚制の摩訶大大/
大将棋の、升目と駒の数を、単純に直線
に当てはめて15×15升目なら、計算上
129.327枚となり、2で割り切れる
130枚にしたというものである。
高見氏の説では62の出所がはっきり
し無いし、本ブログの従来説は、その
直線が、原点を通る訳でも無いという
不自然さがある。
だが、日本と朝鮮半島の元に支配された
高麗の間で、高麗側が日本の平安大将棋に
対抗して、チャンギは既に出来が良いのに、
無理やり14世紀に、朝鮮広将棋を、13×
13を見て15×14路として作り、それ
を見て大陸に負けてはと、今度は日本側の
特に京都の朝廷関係者が感じて、結果
曼殊院が、15×15升目に大将棋をした
としたら、この謎は一ぺんに解決するのに、
最近私は気がついた。情報交換が起こって、
他を超えるという優劣の競い合いが起こり、
15×15升目の大将棋は、小、中、大の
等差数列的なバランス、9升、12升、
15升も有って、中将棋に平安大将棋系が
取って代わられると同時に、15升目の
大将棋が、朝鮮広将棋の15×14を辛く
も超えるという理屈が有って、発生したの
では無いか。
そもそも、曼殊院は、中国広将棋にも
対抗して、囲碁升目、19×19の摩訶
大大/大将棋を作成し、その際大まかな
数字で片方49枚前後の、中国広将棋を
ターゲットにして、その倍で24節気+
72候、片側96枚制の摩訶大大/大将棋
をデザインしたという経緯だった。であろ
うから、15×15升目制の後期大将棋を、
朝鮮広将棋に対抗して作成するときに、今
度は、朝鮮広将棋をターゲットにして、
6543で、数字の大きい片方65枚の
将棋を、相手の43枚駒に対抗して割り当
てても、さした不思議も無いようにも私に
は思える。ちなみに、朝鮮広将棋の駒の数
総数86枚は、二中歴平安大将棋の駒の数
総数68枚の6と8のひっくり返しだろう。
恐らく、中国の元王朝末から明王朝初の、
日本の鎌倉時代末から室町時代初にかけて
は、京都の寺院のチャーター船による交易
の結果、情報の大陸日本間、大交換時代が
存在したので、以上のようなピンポン型の、
新型ゲームが相互に発生したのでは無いか。
以上のような説を、今年2025年初か
ら、本ブログでは取りたいと考えている。
(2025/01/01)