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曼殊院将棋図に日本将棋は記載無い説を提示(長さん)

今回は、木村義徳氏の持駒使用の謎で著名な論、
「水無瀬兼成将棋纂図部類抄に日本将棋が図示
されているので、西暦1443年成立の、
曼殊院将棋図にも記載され、日本将棋の成立は
15世紀以前」説についての、本ブログの見解
を述べる。
 少なくとも、曼殊院将棋図にも

日本将棋の図を小将棋図として記載し無ければ
なら無い動機は、西暦1443年頃には無い

と本ブログでは考える。
 既に示唆したが、本ブログは曼殊院将棋図は、
中国明王朝・李氏朝鮮へ出しておかしくないよ
うに作成するという意図が存在したと見ている。

9×9升目36枚制平安小将棋が、小将棋とし
て該将棋図に提示されていて見栄えは悪くない

と本ブログでは考える。中国シャンチー・朝鮮
チャンギは9×10路32枚制なので、9×9
升目36枚制の9升目型、平安小将棋でほぼ同
等としてつりあうからである。またシャンチー、
チャンギ共、第2段目が空いているから、飛車・
角行が無くても、外国ゲームに比較して劣るよ
うには、特に見えないと思う。
 仮に、木村氏が主張するように既に飛車・
角行入り40枚制将棋が、西暦1443年に
日本に、存在したとしても、出土駒に成り竜王・
竜馬の角行・飛車が見当たらない程度の普及度
の時代に日本将棋を、15世紀初頭の小将棋と
認識し、なければなら無いという積極的理由は、
特に無いのではないか。何を書くかは自由であ
り、曼殊院将棋図、そのものが実際には現存し
無い以上、何んとも言えないが。西暦1443
年板を水無瀬兼成が写したとされる、曼殊院
将棋図に、木村義徳氏の言うような、日本将棋
を書かなければなら無い、対外国との関係上等
積極的理由は、無いのではないかと、私はみる。
 ちなみに、少し前、本ブログでは、摩訶大大
将棋、後期大将棋、中将棋が、駒総数をX、
盤升目の数をYとしたときに、
Y=2.17X-56.5
に近くなるように、後期大将棋のX値を調節し
たとの

説を否定した。

だが検算の為、あるいは李氏朝鮮の人間にしつ
こく問い詰められたときの、体裁の良い回答と
して、

表向きの言い訳位には、この「数式法」を使っ
たかもしれないと、私は思い直した。

 そうすると、7×7升目のゲームで、X=Y=
49。日本将棋でX=63程度になってしまう
のだが。

日本風土記にあるように「小将棋は持駒ルール
なので、駒の枚数は、他の取り捨て日本将棋と、
将棋駒の総数の数字の挙動は違う」

と説明すればよいだけだ。なので曼殊院関係者
は、将棋図の後期大将棋の駒数総数謎を、李氏
朝鮮の人間に問い詰められて、困る事は、特に
無いと思う。逆に言うと、西暦1320年代成
立とされている、新安沖出土駒のバラバラな大
きさからも、増川宏一の説は否定されて、西暦
1443年には、9升目36枚制平安小将棋は、
持駒ルールとなるのだが。曼殊院の将棋図に、
摩訶大大将棋という、水無瀬兼成が、将棋纂図
部類抄の序文で強調する「項目の存在」から
予想されるように、小将棋と大将棋の項目が、
曼殊院将棋図にも存在しそうだとという論から、
小将棋の記載が曼殊院将棋図に有りそうな事で、

淡く「持駒ルール、中期的出現説(普通唱導集
将棋時代説)」が、示唆出来る事になるとも私
見する。

 なお、中将棋以上に持駒ルールを入れると、
終盤の段階で、局地的打ち駒合戦になって、
ゲームの出来が劣化するので、中将棋以上の、
持駒ルール将棋が無いのも、西暦1443年
時点でプレーヤーが多ければ、当たり前と認識
されたであろう。
 水無瀬兼成は、当たり前のつもりで曼殊院
将棋図に飛車・角行を加えたというのが、繰り
返すと、本ブログの見解だが。元々曼殊院将棋
図には、9升目36枚制の、標準平安小将棋を
書いても、他の史料と矛盾する事も、対李氏
朝鮮王朝時代の外国人等への情宣活動等の宣伝
用として、マズイという事も、特に無い事だけ
は、確かなのではないかと私は思う。
 西暦1443年程度成立の、成龍王飛車駒か、
成龍馬角行駒の出土が無いと、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄から推定で、曼殊院将棋図を幾
ら議論しても、少なくともこの問題に関しては、
結論は出にくいのではないかと、私は予想して
いる。(2025/01/03)

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