新潟県五泉市旧陸軍関連施設跡で戦時中泰山茶碗(長さん)
今回は、新潟県五泉市石曽根の新潟大学農学部
施設敷地内の、太平洋戦争中に旧陸軍の飛行場等
の軍施設が存在したとされる近くのゴミ廃棄場跡
で西暦1940年代の瀬戸の茶碗の底面に、銘が
有るが、漢字で「奉山」と読めると記録された
遺物が出土しているとの旨の紹介である。
神社の湯飲みが、たまたま使用されていたのか
もしれない。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
90375_1_西三川砂金山跡測量・発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
新潟大学考古学研究質調査研究報告20、
2021、新潟大学人文学部。
なお、第1章の遺跡がpdfファイル名になって
いるが、以下紹介する遺物の遺跡は、全く違う
場所のようである。以下の発掘報告書の第2章の
表題が、内容把握するには的確である。
第2章表題は以下。
第2章:新潟県五泉市新潟大学農学部附属フィー
ルド科学教育研究センター村松ステーション
旧陸軍関連施設跡/第1次・第2次発掘調査報告。
発掘報告書末尾抄録により、遺物が出土した
遺跡の場所は、新潟県五泉市石曽根6934。
遺物が出土したのは、西暦2019年~20年
ないし、その前後の事のようである。
遺物の成立年代は、太平洋戦争中の陸軍施設
内のゴミ捨て場であり、西暦1940年代ないし
その前後の昭和時代とみられているようである。
遺物の写真は、発掘報告書巻末図版第9:
”村松ステーション旧陸軍関連施設跡(5)”の
最上段中央に在り、第2遺物集積地点の遺物番号
第11番との旨、ナンバリングされている。
瀬戸物の湯飲み茶碗のように、私には見える。

上図のように、底面に漢字で銘のようなものが
染色され、「奉山」と釈文されるとの旨が報告書
に在るようである。
たまたま近くに神社がその当時あり、湯飲み
茶碗として遺跡付近で使われ、廃棄されたとの
経緯ではないかと、私には疑われる。神社で使用
する物品には、時にこのような銘の在る簡易茶器
が、戦時中に市中に在ったのかとも疑う。
(2025/02/28)
施設敷地内の、太平洋戦争中に旧陸軍の飛行場等
の軍施設が存在したとされる近くのゴミ廃棄場跡
で西暦1940年代の瀬戸の茶碗の底面に、銘が
有るが、漢字で「奉山」と読めると記録された
遺物が出土しているとの旨の紹介である。
神社の湯飲みが、たまたま使用されていたのか
もしれない。
遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
90375_1_西三川砂金山跡測量・発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
新潟大学考古学研究質調査研究報告20、
2021、新潟大学人文学部。
なお、第1章の遺跡がpdfファイル名になって
いるが、以下紹介する遺物の遺跡は、全く違う
場所のようである。以下の発掘報告書の第2章の
表題が、内容把握するには的確である。
第2章表題は以下。
第2章:新潟県五泉市新潟大学農学部附属フィー
ルド科学教育研究センター村松ステーション
旧陸軍関連施設跡/第1次・第2次発掘調査報告。
発掘報告書末尾抄録により、遺物が出土した
遺跡の場所は、新潟県五泉市石曽根6934。
遺物が出土したのは、西暦2019年~20年
ないし、その前後の事のようである。
遺物の成立年代は、太平洋戦争中の陸軍施設
内のゴミ捨て場であり、西暦1940年代ないし
その前後の昭和時代とみられているようである。
遺物の写真は、発掘報告書巻末図版第9:
”村松ステーション旧陸軍関連施設跡(5)”の
最上段中央に在り、第2遺物集積地点の遺物番号
第11番との旨、ナンバリングされている。
瀬戸物の湯飲み茶碗のように、私には見える。

上図のように、底面に漢字で銘のようなものが
染色され、「奉山」と釈文されるとの旨が報告書
に在るようである。
たまたま近くに神社がその当時あり、湯飲み
茶碗として遺跡付近で使われ、廃棄されたとの
経緯ではないかと、私には疑われる。神社で使用
する物品には、時にこのような銘の在る簡易茶器
が、戦時中に市中に在ったのかとも疑う。
(2025/02/28)
埼玉県熊谷市諏訪木遺跡で元禄期奔龍墨書陶器(長さん)
今回は、江戸時代の16世紀末から17世紀
初の元禄期のものと見られる陶器の擂鉢破片
の一つの内面に、漢字で奉白龍と書いたよう
な、字模様が有るとの旨の紹介である。
漢方薬の調製作業に使う際、材料を特定の
物に限る為の、
作業用の識字
なのかもしれない。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録/公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141588_1_諏訪木遺跡Ⅷ.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県熊谷市埋蔵文化財調査報告書第47集/
諏訪木遺跡Ⅷ、2024、(埼玉県)熊谷市
教育委員会。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
埼玉県熊谷市上之1969番地3、1971
番地1。遺物が出土したのは、西暦2011
年から西暦2013年ないし、その前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第78ペー
ジ付近の記載により、遺物は第5号井戸跡
から出土した、瀬戸美濃系の陶器擂鉢で、
16世紀末から17世紀の、江戸元禄期頃の
ものと見られているようである。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第51
の下のコマの、陶器のカケラの集合写真の右
上に有る2つの破片の右側に、暗い模様が
在る。2つのカケラは、割れる前は同一の陶
器だったと見られているようである。

上図のように、右の破片の右側に上から縦
に、漢字で「奉龍」とか「走龍」とか書かれ
ているようにも見える模様が有り、龍の字の
左に「白」とも読めるような模様が有って、
「奉白龍」のようでもある。
しかしながら、「奉」とか「走」とか上で
読んだ「第1字目」は、左側の破片の様子
から見て、単なる陶器釉の筋模様であり、
「白龍」と書かれているだけの疑いが濃い。
漢方薬をすりおろすときに、混ざらないよ
うに擂鉢に、すりおろす材料の種類を書いた
のかもしれないと、疑えると私は思う。
(2025/02/27)
初の元禄期のものと見られる陶器の擂鉢破片
の一つの内面に、漢字で奉白龍と書いたよう
な、字模様が有るとの旨の紹介である。
漢方薬の調製作業に使う際、材料を特定の
物に限る為の、
作業用の識字
なのかもしれない。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録/公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141588_1_諏訪木遺跡Ⅷ.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県熊谷市埋蔵文化財調査報告書第47集/
諏訪木遺跡Ⅷ、2024、(埼玉県)熊谷市
教育委員会。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
埼玉県熊谷市上之1969番地3、1971
番地1。遺物が出土したのは、西暦2011
年から西暦2013年ないし、その前後の事
のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第78ペー
ジ付近の記載により、遺物は第5号井戸跡
から出土した、瀬戸美濃系の陶器擂鉢で、
16世紀末から17世紀の、江戸元禄期頃の
ものと見られているようである。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第51
の下のコマの、陶器のカケラの集合写真の右
上に有る2つの破片の右側に、暗い模様が
在る。2つのカケラは、割れる前は同一の陶
器だったと見られているようである。

上図のように、右の破片の右側に上から縦
に、漢字で「奉龍」とか「走龍」とか書かれ
ているようにも見える模様が有り、龍の字の
左に「白」とも読めるような模様が有って、
「奉白龍」のようでもある。
しかしながら、「奉」とか「走」とか上で
読んだ「第1字目」は、左側の破片の様子
から見て、単なる陶器釉の筋模様であり、
「白龍」と書かれているだけの疑いが濃い。
漢方薬をすりおろすときに、混ざらないよ
うに擂鉢に、すりおろす材料の種類を書いた
のかもしれないと、疑えると私は思う。
(2025/02/27)
埼玉県羽生市屋敷裏遺跡で4C泰山墨書土器2(長さん)
今回は、以前紹介した遺物よりも時代が下っ
て9世紀末の平安時代前期に成立したとされ
る土器破片に、山の絵の下に漢字で2文字
「奉山」と書いたような、遺物が出土して
いたとの旨の紹介である。
以前に、情報源については紹介している。
即ち遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
遺物の説明の在るpdfファイル名は、
以下の通りである。
9744_1_屋敷裏遺跡.pdf
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第1分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお、第1分冊に古代までの遺構・遺物の
記載が有る。
同じく下記コンテンツに遺物の写真が在る。
141582_4_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第2分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
発掘報告書の名称は、第2分冊が第1分冊
であるという事だけ違う。
なお第1分冊は、同データベースに、かな
り以前に、登録されていることが判明した。
以下、既に述べたのと同じ。
発掘報告書前記番号のpdfの第4分冊の
末尾抄録により遺跡の場所は埼玉県羽生市名
789-1。
遺物が出土したのは、この遺物については、
西暦2011年ないし、その前後の事のよう
である。
遺物の成立年代は、前記の発掘報告書の第
1分冊の、第395ページ付近の記載により、
第51号竪穴住居跡で出土したが、9世紀末
の、繰り返すと平安時代の初期のものと、考
えられているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書第4pdfの、
写真図版第164の、左下に在る拡大写真で
あり、”第51号住居跡(スケッチ図:第
327の遺物番号第4番)”との旨、図版の
写真の下に、まとめて付記されている。
スケッチ図から杯土器のように、私には見
えるが、発掘報告書では「高台付椀」となっ
ているようである。発掘報告書で墨書土器と
され、「金」と釈文されている。

上図のように、なだらかな丘のような山の
絵の下に、漢字で2文字「奉山」と読める
ような字が有るようにも見える。一文字「金」
の可能性も、否定は困難だろう。
この遺跡の遺物に関しては、「金」という
字も加えた、「山金奉」と書いて有るような、
時代が全く違うが、古墳時代の土器も以前に
紹介した。
発掘担当者に「金」墨書土器と認識されてい
る遺物が存在するとは、本ブログの管理人は、
その時点で気がついておらず、驚かされた。
発掘担当者にも、山から流れてくる「砂金」
採取に関連したような遺跡との何らかの感触
が、この遺跡に関して有るのかもしれない。
この遺跡の付近の様子は、川の堤防付近の
景色という現代の姿とは全く違う、古利根川
のかなり大きな集落の様子を、古墳時代から
古代にかけ呈していたのかもしれないと、私
は疑う。(2025/02/26)
て9世紀末の平安時代前期に成立したとされ
る土器破片に、山の絵の下に漢字で2文字
「奉山」と書いたような、遺物が出土して
いたとの旨の紹介である。
以前に、情報源については紹介している。
即ち遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
遺物の説明の在るpdfファイル名は、
以下の通りである。
9744_1_屋敷裏遺跡.pdf
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第1分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお、第1分冊に古代までの遺構・遺物の
記載が有る。
同じく下記コンテンツに遺物の写真が在る。
141582_4_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第2分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
発掘報告書の名称は、第2分冊が第1分冊
であるという事だけ違う。
なお第1分冊は、同データベースに、かな
り以前に、登録されていることが判明した。
以下、既に述べたのと同じ。
発掘報告書前記番号のpdfの第4分冊の
末尾抄録により遺跡の場所は埼玉県羽生市名
789-1。
遺物が出土したのは、この遺物については、
西暦2011年ないし、その前後の事のよう
である。
遺物の成立年代は、前記の発掘報告書の第
1分冊の、第395ページ付近の記載により、
第51号竪穴住居跡で出土したが、9世紀末
の、繰り返すと平安時代の初期のものと、考
えられているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書第4pdfの、
写真図版第164の、左下に在る拡大写真で
あり、”第51号住居跡(スケッチ図:第
327の遺物番号第4番)”との旨、図版の
写真の下に、まとめて付記されている。
スケッチ図から杯土器のように、私には見
えるが、発掘報告書では「高台付椀」となっ
ているようである。発掘報告書で墨書土器と
され、「金」と釈文されている。

上図のように、なだらかな丘のような山の
絵の下に、漢字で2文字「奉山」と読める
ような字が有るようにも見える。一文字「金」
の可能性も、否定は困難だろう。
この遺跡の遺物に関しては、「金」という
字も加えた、「山金奉」と書いて有るような、
時代が全く違うが、古墳時代の土器も以前に
紹介した。
発掘担当者に「金」墨書土器と認識されてい
る遺物が存在するとは、本ブログの管理人は、
その時点で気がついておらず、驚かされた。
発掘担当者にも、山から流れてくる「砂金」
採取に関連したような遺跡との何らかの感触
が、この遺跡に関して有るのかもしれない。
この遺跡の付近の様子は、川の堤防付近の
景色という現代の姿とは全く違う、古利根川
のかなり大きな集落の様子を、古墳時代から
古代にかけ呈していたのかもしれないと、私
は疑う。(2025/02/26)
埼玉県さいたま市緑区で昭和期泰山道真絵馬(長さん)
今回は、埼玉県さいたま市の岩槻区に近い、
現在緑区寺町に存すると見られる天満宮
(天神社)の社殿に、菅原道真とその背景に
富士山に見える絵の絵馬が、西暦1950~
1960年代に奉納され、「納」の字も付記
されているが「奉」の左下やや下に、「山」
とも書いてあり「奉山納」と読めるような遺
物が、昭和期のそのときに採集されていると
の旨の紹介である。知的技能を所持した山岳
部の千数百年前の鉱山開発者に関する記憶が、
昭和期の増大した情報の中でも、淡く残存し
たように私には見え、興味深いと考える。
今回の遺物は、以下の成書に写真が在る。
埼玉の絵馬、島田桂一郎、西暦1969年、
埼玉新聞出版局。
その第24ページ付近の、口絵ページに、
絵馬の写真が在る。
遺物が採集された所は、少なくとも、西暦
1960年代にも天満宮が存在したと見られ
る、埼玉県さいたま市緑区寺山との旨、前記
成書第113ページ付近に記載がある。寺山
1112番地付近の、天満宮を指すかもしれ
ない。採集は出版年の1960年代であろう。
絵馬が作成されたのは、それ以前であり私
には、西暦1950~1960年代の昭和期
の物品に見えるが、詳しくは判らない。
遺物の写真が第24ページにあり、人物の
横に「堤氏」と書かれ、その背景に富士山の
在る絵馬のようである。明治時代の華族が、
昭和期の神主と、繋がっていたのかもしれな
いが、署名の意味は私には判らない。

上図は、絵馬の右上の部分で、水色のなだ
らかなスロープが、雪山裾野であって私には、
富士山のように見える。また、左の結い髪の
一部が、菅原道真と説明されている人物の、
後頭部である。
赤い背景に緑のやや潰れた玉が4つ書かれ
ているが、「玉」は富士山に隠れたもう2つ
を加えると「菅原氏の梅鉢紋を象っている」
との旨、第113ページの説明から読取れる
ようである。
その中に、上図の如くに墨で「奉」と書か
れ、梅蜂紋の中央の玉から発せられる上向き
の「後光」が「山」のようにも見える。
上図で示さなかったが、ずっと左の方に、
漢字で「納」の字も有る。絵馬に書かれる字
は、「奉納」か「奉献」のように、私は認識
するので。「奉山納」は、絵と合っているが、
珍しいような気がする。
学問に深い造詣の有る人物は、山に宿ると
いう信仰が、少なくとも西暦1960年代の
頃までは、大量の昭和時代の情報流通の中で
も、微か、或いは辛くも生き残ってしたよう
である。その点で、この史料は興味深いと私
は個人的に感じた。(2025/02/25)
現在緑区寺町に存すると見られる天満宮
(天神社)の社殿に、菅原道真とその背景に
富士山に見える絵の絵馬が、西暦1950~
1960年代に奉納され、「納」の字も付記
されているが「奉」の左下やや下に、「山」
とも書いてあり「奉山納」と読めるような遺
物が、昭和期のそのときに採集されていると
の旨の紹介である。知的技能を所持した山岳
部の千数百年前の鉱山開発者に関する記憶が、
昭和期の増大した情報の中でも、淡く残存し
たように私には見え、興味深いと考える。
今回の遺物は、以下の成書に写真が在る。
埼玉の絵馬、島田桂一郎、西暦1969年、
埼玉新聞出版局。
その第24ページ付近の、口絵ページに、
絵馬の写真が在る。
遺物が採集された所は、少なくとも、西暦
1960年代にも天満宮が存在したと見られ
る、埼玉県さいたま市緑区寺山との旨、前記
成書第113ページ付近に記載がある。寺山
1112番地付近の、天満宮を指すかもしれ
ない。採集は出版年の1960年代であろう。
絵馬が作成されたのは、それ以前であり私
には、西暦1950~1960年代の昭和期
の物品に見えるが、詳しくは判らない。
遺物の写真が第24ページにあり、人物の
横に「堤氏」と書かれ、その背景に富士山の
在る絵馬のようである。明治時代の華族が、
昭和期の神主と、繋がっていたのかもしれな
いが、署名の意味は私には判らない。

上図は、絵馬の右上の部分で、水色のなだ
らかなスロープが、雪山裾野であって私には、
富士山のように見える。また、左の結い髪の
一部が、菅原道真と説明されている人物の、
後頭部である。
赤い背景に緑のやや潰れた玉が4つ書かれ
ているが、「玉」は富士山に隠れたもう2つ
を加えると「菅原氏の梅鉢紋を象っている」
との旨、第113ページの説明から読取れる
ようである。
その中に、上図の如くに墨で「奉」と書か
れ、梅蜂紋の中央の玉から発せられる上向き
の「後光」が「山」のようにも見える。
上図で示さなかったが、ずっと左の方に、
漢字で「納」の字も有る。絵馬に書かれる字
は、「奉納」か「奉献」のように、私は認識
するので。「奉山納」は、絵と合っているが、
珍しいような気がする。
学問に深い造詣の有る人物は、山に宿ると
いう信仰が、少なくとも西暦1960年代の
頃までは、大量の昭和時代の情報流通の中で
も、微か、或いは辛くも生き残ってしたよう
である。その点で、この史料は興味深いと私
は個人的に感じた。(2025/02/25)
埼玉県羽生市屋敷裏遺跡で4C山金泰墨書土器も(長さん)
今回は、古墳時代前期の台付杯とみられる
土器破片に、漢字で3文字「山金奉」と書い
たような、遺物が出土していたとの旨の紹介
である。
遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141582_4_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第2分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお第1分冊は、同データベースに、かな
り以前に、登録されていることが判明した。
79744_1_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、第2分冊が第1分冊
であるという事だけ違う。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第1分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお、第1分冊に古代までの遺構・遺物の
記載が有る。
前記の方の第3pdfの遺物を既に、本
ブログで紹介しているが、今回は同じレコー
ド番号のpdfの第4に載っている遺物で
ある。「古墳時代前期」とされており3世紀
末と、少し前回よりも、成立年代はやや早い。
が同じ系統の古墳時代の、台付杯土器である。
以下、既に述べたのと同じ。
発掘報告書前記番号のpdfの第4分冊に
より遺跡の場所は埼玉県羽生市名789-1。
遺物が出土したのは、この遺物については、
第2次調査が行われた西暦2013年ないし、
その前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第2分冊の
第448ページ付近の記載により、第2次
調査時の土器包含層(グリッド)で出土した
が、繰り返すと古墳時代の早期で報告書では、
3世紀末程度のものと、考えられているよう
に、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書第4pdfの、
写真図版第207の、上から3段目左に在り、
”2次グリッド(スケッチ図第387の遺物
番号第25番)”との旨写真図版に付記され
ている。
台付き杯土器のように、私には見える。
発掘報告書では、「器台」と第465ページ
付近に、表現されている。

上図のように、写真で接して左の方に、
「毅」の左側のような汚れが有るが、それを
除いて、右側を縦に見ると小さく漢字で、
「山金奉」と書いて有るようにも見える、
ベンガラ色模様が有ると私見する。金の字が、
やや小さい。
本ブログでは過去多数の、古墳期「山奉」/
「奉山」土器を紹介したが、その類であるが、
「金」という文字が入っている点に、豊かさ
が感じられると私は思う。
以下、以前にも述べた事であるが。
この遺跡の発掘で、土器の数は破格に大量と
報告書に書かれており、古墳時代としては大
きな集落かつ、経済的に豊かで、各地の土器
を収集可能なな住人の居所かもしれないと私
は疑う。発掘報告書が出揃い、漢字のように
見える土器は、これで計2個となった。
(2025/02/24)
土器破片に、漢字で3文字「山金奉」と書い
たような、遺物が出土していたとの旨の紹介
である。
遺物の写真がweb上に公開されており、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141582_4_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第2分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお第1分冊は、同データベースに、かな
り以前に、登録されていることが判明した。
79744_1_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、第2分冊が第1分冊
であるという事だけ違う。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第1分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお、第1分冊に古代までの遺構・遺物の
記載が有る。
前記の方の第3pdfの遺物を既に、本
ブログで紹介しているが、今回は同じレコー
ド番号のpdfの第4に載っている遺物で
ある。「古墳時代前期」とされており3世紀
末と、少し前回よりも、成立年代はやや早い。
が同じ系統の古墳時代の、台付杯土器である。
以下、既に述べたのと同じ。
発掘報告書前記番号のpdfの第4分冊に
より遺跡の場所は埼玉県羽生市名789-1。
遺物が出土したのは、この遺物については、
第2次調査が行われた西暦2013年ないし、
その前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第2分冊の
第448ページ付近の記載により、第2次
調査時の土器包含層(グリッド)で出土した
が、繰り返すと古墳時代の早期で報告書では、
3世紀末程度のものと、考えられているよう
に、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書第4pdfの、
写真図版第207の、上から3段目左に在り、
”2次グリッド(スケッチ図第387の遺物
番号第25番)”との旨写真図版に付記され
ている。
台付き杯土器のように、私には見える。
発掘報告書では、「器台」と第465ページ
付近に、表現されている。

上図のように、写真で接して左の方に、
「毅」の左側のような汚れが有るが、それを
除いて、右側を縦に見ると小さく漢字で、
「山金奉」と書いて有るようにも見える、
ベンガラ色模様が有ると私見する。金の字が、
やや小さい。
本ブログでは過去多数の、古墳期「山奉」/
「奉山」土器を紹介したが、その類であるが、
「金」という文字が入っている点に、豊かさ
が感じられると私は思う。
以下、以前にも述べた事であるが。
この遺跡の発掘で、土器の数は破格に大量と
報告書に書かれており、古墳時代としては大
きな集落かつ、経済的に豊かで、各地の土器
を収集可能なな住人の居所かもしれないと私
は疑う。発掘報告書が出揃い、漢字のように
見える土器は、これで計2個となった。
(2025/02/24)
埼玉県羽生市屋敷裏遺跡で4C山泰刻書土器(長さん)
今回は、古墳時代前期の土師器とみられる
土器破片に、近世の陶器のように指で山奉と
漢字型の溝を入れたような、技巧的な遺物が
出土していたとの旨の話題である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141582_3_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第2分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお、第1分冊に古代までの遺構・遺物の
記載が有ると見られるが、2025年2月
22日現在、全国遺跡報告総覧に、登録され
ているコンテンツを、本ブログ管理人が発見
してい無い。
発掘報告書前記番号のpdfの第4分冊に
より遺跡の場所は埼玉県羽生市名789-1。
現在、利根川の河川敷となっている地点の
ようである。
遺物が出土したのは西暦2011~西暦
2013年ないしその前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第2分冊の
第512ページから513ページ付近の記載
により、第24号竪穴住居跡で出土したが、
古墳時代の前期の4世紀初から中ばのものと
されているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書第3pdfの、
写真図版第148の、上から3段目左に在り、
第24号竪穴住居跡出土土器のスケッチ図、
第151の遺物番号第123番との旨、
ナンバリングされていて、広口の小型の瓶の
ような形で、手で整形した土器のように、私
には見える。発掘報告書の第1分冊の説明を
見て居無いので、私には確定出来無いが、
土師器の類ではなかろうかと、写真を見て考
えた。

上図のように、写真で左の方に縦かつ手前
に捻った方向に、漢字で「山奉」と、指で
なぞって書いた模様が有るのではないかと私
は疑っている。
近世の陶器の手法のようであり4世紀の物
品だとしたら、驚きだと私は思った。今回の
この遺跡の発掘で、土器の数は破格に大量と
報告書に書かれており、古墳時代としては大
きな集落かつ、経済的に豊かで、各地の土器
を収集可能なな住人の居所かもしれないと私
は思う。発掘報告書のコンテンツが部分的な
収集状態な為、この遺跡のこの発掘について
は、更に情報収集を続ける、私は予定でいる。
(2025/02/23)
土器破片に、近世の陶器のように指で山奉と
漢字型の溝を入れたような、技巧的な遺物が
出土していたとの旨の話題である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141582_3_屋敷裏遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第422集/
羽生市屋敷裏遺跡(第2分冊)、2016年、
国土交通省関東地方整備局・
公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
なお、第1分冊に古代までの遺構・遺物の
記載が有ると見られるが、2025年2月
22日現在、全国遺跡報告総覧に、登録され
ているコンテンツを、本ブログ管理人が発見
してい無い。
発掘報告書前記番号のpdfの第4分冊に
より遺跡の場所は埼玉県羽生市名789-1。
現在、利根川の河川敷となっている地点の
ようである。
遺物が出土したのは西暦2011~西暦
2013年ないしその前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第2分冊の
第512ページから513ページ付近の記載
により、第24号竪穴住居跡で出土したが、
古墳時代の前期の4世紀初から中ばのものと
されているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書第3pdfの、
写真図版第148の、上から3段目左に在り、
第24号竪穴住居跡出土土器のスケッチ図、
第151の遺物番号第123番との旨、
ナンバリングされていて、広口の小型の瓶の
ような形で、手で整形した土器のように、私
には見える。発掘報告書の第1分冊の説明を
見て居無いので、私には確定出来無いが、
土師器の類ではなかろうかと、写真を見て考
えた。

上図のように、写真で左の方に縦かつ手前
に捻った方向に、漢字で「山奉」と、指で
なぞって書いた模様が有るのではないかと私
は疑っている。
近世の陶器の手法のようであり4世紀の物
品だとしたら、驚きだと私は思った。今回の
この遺跡の発掘で、土器の数は破格に大量と
報告書に書かれており、古墳時代としては大
きな集落かつ、経済的に豊かで、各地の土器
を収集可能なな住人の居所かもしれないと私
は思う。発掘報告書のコンテンツが部分的な
収集状態な為、この遺跡のこの発掘について
は、更に情報収集を続ける、私は予定でいる。
(2025/02/23)
埼玉県飯能市白子窯跡で明治初奔竜墨書陶器(長さん)
今回は、陶器徳利の破片とみられる、明治
時代の窯跡の遺物に、漢字で「奉竜」と書い
たような煤模様があり、埼玉県秩父、東吾野
付近の高麗川に棲む主(ヌシ)竜を明治初期
にも、作成した陶器の一部で、祀るという旨
の祭祀が、行われていた疑いもあるとの紹介
である。
今回紹介する遺物は、地元の歴史館の
イベントで作成した、「特別展図録」に在る。
書誌は以下の通り。
西暦2004年特別展図録「幕末・明治の
幻陶器飯能焼」、西暦2004年3月、埼玉
県飯能市郷土館。
遺物は、その第119ページ付近の「白子
窯跡採集資料(1)」に在る。
遺跡の場所は、埼玉県飯能市白子で、白子
は、東吾野駅付近の武蔵横手駅寄りの手前の、
山間部の谷間の地点のようである。
遺物が出土ないし採集されたのは、西暦
2004年より以前とみられるが、私には、
良く判って居無い。
遺物の成立年代は、現地は当時の状況が、
複数の文書に記録として残っている窯跡で
あり、持ち主に関する公記録や社寺の記録
から、明治時代初期で、一桁年号の時代と
見られているようである。
遺物の写真は、繰り返すと、該成書の第
119ページ付近の上カラム「白子窯跡採集
資料(1)」にあり、ほかのベージの同様の
色調の遺物から、徳利の破片のようであり、
中段右に破片の写真が有る。

上図のように、胴の外側とみられる、破片
の中央上に、漢字の中心部が擦れているが、
「奉」、その左に、上、左にダイヤ型、下に
ひらがなで「ん」のように見える、汚れが有
るので、読むのに邪魔だが、それらを除くと、
漢字で「竜」のようにも見える、滲んだ煤
模様が有り、合わせて「奉竜」と模様を入れ
たようにも見えなくも無い煤模様が有ると私
見する。
遺跡付近は、両側に山が迫る高麗川の谷で
あり、破片しか無い為、これ以上は何んとも
言えないが。明治時代初期でも、埼玉県の
秩父山間部ではその時点でなお、龍神信仰を
行う為の、祭祀陶器が焼かれる事が、或いは
有ったのかもしれないと、私は疑っている。
(2025/02/22)
時代の窯跡の遺物に、漢字で「奉竜」と書い
たような煤模様があり、埼玉県秩父、東吾野
付近の高麗川に棲む主(ヌシ)竜を明治初期
にも、作成した陶器の一部で、祀るという旨
の祭祀が、行われていた疑いもあるとの紹介
である。
今回紹介する遺物は、地元の歴史館の
イベントで作成した、「特別展図録」に在る。
書誌は以下の通り。
西暦2004年特別展図録「幕末・明治の
幻陶器飯能焼」、西暦2004年3月、埼玉
県飯能市郷土館。
遺物は、その第119ページ付近の「白子
窯跡採集資料(1)」に在る。
遺跡の場所は、埼玉県飯能市白子で、白子
は、東吾野駅付近の武蔵横手駅寄りの手前の、
山間部の谷間の地点のようである。
遺物が出土ないし採集されたのは、西暦
2004年より以前とみられるが、私には、
良く判って居無い。
遺物の成立年代は、現地は当時の状況が、
複数の文書に記録として残っている窯跡で
あり、持ち主に関する公記録や社寺の記録
から、明治時代初期で、一桁年号の時代と
見られているようである。
遺物の写真は、繰り返すと、該成書の第
119ページ付近の上カラム「白子窯跡採集
資料(1)」にあり、ほかのベージの同様の
色調の遺物から、徳利の破片のようであり、
中段右に破片の写真が有る。

上図のように、胴の外側とみられる、破片
の中央上に、漢字の中心部が擦れているが、
「奉」、その左に、上、左にダイヤ型、下に
ひらがなで「ん」のように見える、汚れが有
るので、読むのに邪魔だが、それらを除くと、
漢字で「竜」のようにも見える、滲んだ煤
模様が有り、合わせて「奉竜」と模様を入れ
たようにも見えなくも無い煤模様が有ると私
見する。
遺跡付近は、両側に山が迫る高麗川の谷で
あり、破片しか無い為、これ以上は何んとも
言えないが。明治時代初期でも、埼玉県の
秩父山間部ではその時点でなお、龍神信仰を
行う為の、祭祀陶器が焼かれる事が、或いは
有ったのかもしれないと、私は疑っている。
(2025/02/22)
長野県佐久市宮の上遺跡で10C前泰山墨書土器(長さん)
今回は、長野県佐久市の表題遺跡で、平安中
期とみられる、10世紀前半成立とされる
土師器の甕に、漢字で奉山のように見える、
煤模様があるとの旨の紹介である。
第4号竪穴住居址から出土したが、明らかな
墨書土器が、同じ住居跡で共出土していて、
奉山墨書の信憑性が高い
と、私見される。
今回の遺物はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141573_1_宮の上遺跡Ⅷ.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第308集/
宮の上遺跡Ⅷ、2024年3月、(長野県)
佐久市教育委員会。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
長野県佐久市根々井210-1・211。
遺物が出土したのは、西暦2023年前後の
事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は第4号竪穴住居
址で出土し、遺物の形から、10世紀前半、
平安時代中期と見られているように、同発掘
報告書第8ページ付近の記載から、読取れる
ように思われる。
遺物の写真は、発掘報告書の第17ページ:
”H4号住居址出土遺物”の、第4段目中央
付近にあり、遺物番号第20番との旨、ナン
バリングされている。甕型土器の破片に私に
は見える。

上図のように、中央下の三角形の破片の、
上の方の中央に、左から右下へ、私には奉山
のように見える、煤模様があるように思う。
同ページの第4竪穴住居跡で同じく出土した
土器破片第4番と5番に、川の水面のような
絵に漢字で「川条」と書いたような、墨書
土器が出土している。自然崇拝をする習慣の
有る、識字層が平安時代中期に、この遺跡付
近に住んでいた疑いが濃いとも見えるように
思え、この煤模様は漢字の疑いが濃い事を、
示しているように、私には思える。
(2025/02/21)
期とみられる、10世紀前半成立とされる
土師器の甕に、漢字で奉山のように見える、
煤模様があるとの旨の紹介である。
第4号竪穴住居址から出土したが、明らかな
墨書土器が、同じ住居跡で共出土していて、
奉山墨書の信憑性が高い
と、私見される。
今回の遺物はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
141573_1_宮の上遺跡Ⅷ.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第308集/
宮の上遺跡Ⅷ、2024年3月、(長野県)
佐久市教育委員会。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
長野県佐久市根々井210-1・211。
遺物が出土したのは、西暦2023年前後の
事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は第4号竪穴住居
址で出土し、遺物の形から、10世紀前半、
平安時代中期と見られているように、同発掘
報告書第8ページ付近の記載から、読取れる
ように思われる。
遺物の写真は、発掘報告書の第17ページ:
”H4号住居址出土遺物”の、第4段目中央
付近にあり、遺物番号第20番との旨、ナン
バリングされている。甕型土器の破片に私に
は見える。

上図のように、中央下の三角形の破片の、
上の方の中央に、左から右下へ、私には奉山
のように見える、煤模様があるように思う。
同ページの第4竪穴住居跡で同じく出土した
土器破片第4番と5番に、川の水面のような
絵に漢字で「川条」と書いたような、墨書
土器が出土している。自然崇拝をする習慣の
有る、識字層が平安時代中期に、この遺跡付
近に住んでいた疑いが濃いとも見えるように
思え、この煤模様は漢字の疑いが濃い事を、
示しているように、私には思える。
(2025/02/21)
ミクロネシアで江戸期ハンネラに山竜(長さん)
今回は、成書に「南洋諸島の産物」との旨記載
された土器で、日本で「ハンネラ」と証する、
江戸時代の輸入陶器に漢字で「山竜」のように
も見える、淡い濃淡模様が有るとの旨の紹介で
ある。中華文化圏産である事を、示しているの
では無かろうか。
遺物を紹介しているのは、今回は以下の陶器
類に関する、西暦1970年代の紙媒体の辞書
形式の成書である。
「原色陶器大辞典」、加藤唐九郎、西暦
1972年、㈱淡交社(印刷:日本写真印刷㈱)。
遺物の写真と説明は該成書の第807ページ
付近にあるようである。
「産地不明。江戸時代日本に輸入された幼稚
な土器」との旨が記載され、「『ハンネラ』と
いう名称自体も、仔細不明」と取れる旨、前記
辞書型の成書に有る。「茶の世界で『ハンネラ』
は、タイ産の土鍋を指す言葉と共通」と取れる
記載も有る。
写真は、同807ページ付近の左上にあり、
第1カラムの左端となっており、「ハンネラ、
共蓋水指」との旨、付記されている。タイの仏
塔風の曲線壷のような形であると私は認識する。

上図のように、淡くだが写真の中央に、右上
から左下へ、漢字で「山竜」のようにも見える、
淡い濃淡模様が有るように、私は見る。
ミクロネシア方面産であるとの話が正しいに
しても、中華文化圏で漢字を用いる陶芸家によ
る、日本での近世の作の物品なのではと、私は
疑う。そこにも、龍が伝来していたのであろう。
(2025/02/20)
された土器で、日本で「ハンネラ」と証する、
江戸時代の輸入陶器に漢字で「山竜」のように
も見える、淡い濃淡模様が有るとの旨の紹介で
ある。中華文化圏産である事を、示しているの
では無かろうか。
遺物を紹介しているのは、今回は以下の陶器
類に関する、西暦1970年代の紙媒体の辞書
形式の成書である。
「原色陶器大辞典」、加藤唐九郎、西暦
1972年、㈱淡交社(印刷:日本写真印刷㈱)。
遺物の写真と説明は該成書の第807ページ
付近にあるようである。
「産地不明。江戸時代日本に輸入された幼稚
な土器」との旨が記載され、「『ハンネラ』と
いう名称自体も、仔細不明」と取れる旨、前記
辞書型の成書に有る。「茶の世界で『ハンネラ』
は、タイ産の土鍋を指す言葉と共通」と取れる
記載も有る。
写真は、同807ページ付近の左上にあり、
第1カラムの左端となっており、「ハンネラ、
共蓋水指」との旨、付記されている。タイの仏
塔風の曲線壷のような形であると私は認識する。

上図のように、淡くだが写真の中央に、右上
から左下へ、漢字で「山竜」のようにも見える、
淡い濃淡模様が有るように、私は見る。
ミクロネシア方面産であるとの話が正しいに
しても、中華文化圏で漢字を用いる陶芸家によ
る、日本での近世の作の物品なのではと、私は
疑う。そこにも、龍が伝来していたのであろう。
(2025/02/20)
大阪電気通信大学高見研究室で原摩訶大将棋(長さん)
本ブログの管理人が知る限り、2025年3月
が初見だと思うが、大阪電気通信大学の
高見友幸研究室で、摩訶大大/大将棋の原始形
との意図とみられる、駒数多数型の将棋種が発
表され、「原摩訶大将棋」と、表記されている
ようである。
web上では以下のurlに一例記載が有る。
エイチティティピーエス:/2024.nawaten.online/project/4072
詳しいルールを、当方は未チェック。以下の
ような初期配列に見える画像が公開されている。

17×17升目の為、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の、初期配列柱書きの摩訶大大将棋や、
同webページに紹介されている、大阪電気
通信大学盤升目の19×16升目のゲームより、
将棋駒が混んでいる。
見間違いが無いとすると、前記水無瀬兼成の、
将棋纂図部類抄の柱書摩訶大大将棋に無いのは、
左将、右将のようである。提婆、無明の代わり
に入っている。その他は摩訶大大将棋と個々の
将棋駒の名称は、字体を気にし無ければ、多分
同じなようだ。私はそれ以上は理解して居無い。
左車、右車のルールが、左が右斜め走り、右
が左斜め走りだとしたら、右将が相手の鉤行を
睨んでいるのが特徴的で、初手の指し方として
要対応必要なので、そこからの手入れという作
戦が有効な、将棋類なのかもしれない。
なぜ摩訶大将棋の他に、原摩訶大将棋なのか
も現時点私には判っていない。19升目の将棋
は囲碁路型と考えた上で、将棋の場合に17升
が先行するのは、中国の六朝時代に碁盤自体が
17路だったと見られる為と、本ブログではみ
なしている。そして、日本では古墳時代以前に、
こぐま座アルファ星が、漢代からの伝統的中国
角度で、赤緯が+85°未満だったので端線不
要になるからであるとするのが、過去に遡ると
17路になるという理由に関し本ブログで過去
複数回表明した見解である。
が、今回話題にした話題にしている将棋種に
関して、将棋盤の升目の数が19×16の前が
17×17であるように命名してある経緯は、
webを見ただけでは、理由が未だ、私には特
に発見出来て居無い状況である。(2025/02/19)
が初見だと思うが、大阪電気通信大学の
高見友幸研究室で、摩訶大大/大将棋の原始形
との意図とみられる、駒数多数型の将棋種が発
表され、「原摩訶大将棋」と、表記されている
ようである。
web上では以下のurlに一例記載が有る。
エイチティティピーエス:/2024.nawaten.online/project/4072
詳しいルールを、当方は未チェック。以下の
ような初期配列に見える画像が公開されている。

17×17升目の為、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の、初期配列柱書きの摩訶大大将棋や、
同webページに紹介されている、大阪電気
通信大学盤升目の19×16升目のゲームより、
将棋駒が混んでいる。
見間違いが無いとすると、前記水無瀬兼成の、
将棋纂図部類抄の柱書摩訶大大将棋に無いのは、
左将、右将のようである。提婆、無明の代わり
に入っている。その他は摩訶大大将棋と個々の
将棋駒の名称は、字体を気にし無ければ、多分
同じなようだ。私はそれ以上は理解して居無い。
左車、右車のルールが、左が右斜め走り、右
が左斜め走りだとしたら、右将が相手の鉤行を
睨んでいるのが特徴的で、初手の指し方として
要対応必要なので、そこからの手入れという作
戦が有効な、将棋類なのかもしれない。
なぜ摩訶大将棋の他に、原摩訶大将棋なのか
も現時点私には判っていない。19升目の将棋
は囲碁路型と考えた上で、将棋の場合に17升
が先行するのは、中国の六朝時代に碁盤自体が
17路だったと見られる為と、本ブログではみ
なしている。そして、日本では古墳時代以前に、
こぐま座アルファ星が、漢代からの伝統的中国
角度で、赤緯が+85°未満だったので端線不
要になるからであるとするのが、過去に遡ると
17路になるという理由に関し本ブログで過去
複数回表明した見解である。
が、今回話題にした話題にしている将棋種に
関して、将棋盤の升目の数が19×16の前が
17×17であるように命名してある経緯は、
webを見ただけでは、理由が未だ、私には特
に発見出来て居無い状況である。(2025/02/19)