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なぜ1672年成立摩訶大将棊の図は京都条坊準拠(長さん)

今回は、以前に述べた西暦1672年成立の
”摩訶大将棊の図”に関して述べる。
以前述べたが、この図で盤線が19×17段路
に対応する、19×17段升目の、升目置き将
棋と表現されているのは、京都条坊が根拠との
見方を、本ブログも取る。以下は、

京都条坊を模した盤升目の駒数多数升目将棋が
何故有るのか

を議論している。回答から書く。

長安、藤原京、平城京、平安京の中で、道路の
走り(条坊)が、19路の碁盤に似ているのは
平安京なのは、平安時代から江戸の元禄時代ま
で有名だったから

と本ブログではみる。
 では、以下に議論を開始する。
 平安京は、私の認識によれば、その設計段階
で、南北37路×東西33路の碁盤升目状の
条坊を市中に形成した町と見られる。一本づつ、
道路線を間引きすると、

19路×17路(東西)になるから、囲碁盤の
19路×19路に、長安、藤原京、平城京、
平安京の中では一番近い。

赤緯±90°線を取り除いた、1/2天恒星図
を、まるで地上に投影させている、かのようで
ある。

わざと、そうした

と当然私は考える。それは私の手元に有るのは、
webの情報程度だが、9路×9路を基本とし
て都の条坊を形成するものという、中国文献を

忠実になぞったものだからだ

と聞いている。長安にしても藤原京にしても、
平城京にしても、古来の方式は取り入れたが、

これほど囲碁盤そのものに、近くはしなかった

と私は認識する。藤原京と平城京については、
web上いろいろな所に、設計された街の道路
図が載っている。そしてそれらは、碁盤の目の
条房の有る街であるが、囲碁盤そのものの路数
に関連しない。更に、長安については、次のペー
ジのが判りやすい。

コトバンクの中のサブディレクトリ
旺文社世界史事典 三訂版
https://kotobank.jp/dictionary/obunshasekaishi/59/
ディレクトリ表示:
コトバンク>辞書一覧>旺文社世界史事典 三訂版

上記のページの下の方に出てくる一覧の中に、
唐代の都長安の街路図が有る。
 たとえば長安の都は、道路は碁盤の目だが、

囲碁盤と縦横の路数を、きっちりと合わせよう
とした形跡は無い。18×17(東西)のよう
にも見え、19路にきっちりとなっていない。

だいたいは古事に因んだが、都合で、道路を調
整して通しているだけである。
 それに対して京都は、1つ置きに道路を間引
きさせると、ほぼ几帳面に新旧囲碁盤である。
つまり世界の都の中で、条坊が

碁盤に最も似ている都は京都だと、日本では昔
からよく知られていて当然だったのではないか

と私は疑う。
 本ブログでは、17升目から19升目の駒数
多数将棋は、盤の外見に関して囲碁を模したも
のの一族だと見ている。だから、17升目から
19升目盤の駒数多数将棋はデザイナーにとり

成立が何時であろうと、京都の条坊に、より酷
似させるように調整してみるのも、自然の行為

であると考える。つまり、京都の街の条坊は、
碁盤に合わせたものであるから、碁盤型の遊戯
盤で行う駒数多数の将棋の一種族については、
京都の街の条坊に合わせて作成された遊戯盤で、
行えるように、

微調整しても良い物

と、ゲームデザイナーには容易に認識可能な物
だという意味である。
 よって、議論している西暦1672年成立の
”摩訶大将棊の図”の摩訶大将棋ないし
摩訶大大将棋自体が、

平安の都成立の時代から元禄時代の間のどこで
成立したとしても、平安京の道路条坊が、囲碁
盤に特に合わせたものであるという認識が不変
なら、何時の時代に成立していても同じ事

なのではないか。以上のように、本ブログでは
見ているのである。(2020/10/06)

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