東京都千代田・中央・渋谷各区で将棋柄鉛製泥メンコ(長さん)
この情報は、場所が埼玉県で大きく違うが、埼玉県
久喜市の栗橋付近の遺跡を論じた論文に
リファレンス情報として
載っている。
蛇足になるが埼玉の遺跡については、既に本当の、
将棋駒も出土したとの旨、以前に紹介している。
文献は冊子であり、埼玉県埋蔵文化財調査事業団の
「研究紀要第38号の第11番目の論文である。
遺物の拓本はweb上に公開されていて、冊子で
情報が載っている。冊子の内容が奈良文化財研究所
発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧に登録・
公開されている。pdfファイルは、繰り返すと第
11番目の論文であるため、以下のように、”11”
の枝番が付いているものである。
139223_11_研究紀要第38号.pdf
枝番の別々なものに、将棋駒とは繋がらない別の
論文が、全国遺跡報告総覧に登録されている。
研究紀要の表題と目次は、各枝番号pdfに重複
して記載されている。表題は次の通りである。
ISSN0289-4130/研究紀要第38号、
2024、公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
リファレンス情報なので出土時期が良く判らない。
遺跡の位置は、鉛製泥メンコ各々により別々であり、
東京都23区内であるが、次の通りである。
千代田区産:東京都千代田区外神田四丁目。
中央区産:東京都中央区日本橋一丁目。
渋谷区産:東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目。
遺物の成立年代は、前記冊子第214~216
ページの第2表により、次の通りである。
千代田区産:明治期ないし大正期。
中央区産:幕末ないし明治初期(19世紀後半)
渋谷区産:明治初期(西暦1870年代)
前記、埼玉県久喜市栗橋の遺跡では、将棋駒模様
型泥メンコや、鉛製泥メンコは出土してい無い。
が、栗橋の遺跡で出土した、メンコでは無くて本
当の将棋駒遺物の成立年代は、幕末の西暦1860~
1870年代と、中央区産メンコ程度である。栗橋
の遺跡の場所と出土時期は以前紹介した発掘報告書
により、次の通りである。
遺跡の場所は次の通り。
埼玉県久喜市栗橋北二丁目3422-2。出土した
のは、西暦2019年前後の事のようである。
発掘報告書は以下の通り。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第468集
北2丁目陣屋跡、2021年、国土交通省
関東地方整備局・公益財団法人埼玉県埋蔵文化財
調査事業団。
pdfファイルは、複数在るが、前記場所/出土時
期情報は次のものである。
132733_2_北2丁目陣屋跡.pdf
発掘報告書によると、成立年代が幕末頃である、
その栗橋将棋駒は、銀将×2と角行1枚であった。
元に戻すと、都内の3個の遺物の拓本は、前記
「紀要第38号」冊子の第213ページに在る。
千代田区産:東京都千代田区外神田四丁目。遅。
中央区産:東京都中央区日本橋一丁目。早。
渋谷区産:東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目。中。
表現する内容は、ほぼ一緒であり、将棋の流行に、
「明治維新」が強い影響を与えて居無いとの印象
を、明確に与える内容のように、私には思える。
(2024/05/31)
久喜市の栗橋付近の遺跡を論じた論文に
リファレンス情報として
載っている。
蛇足になるが埼玉の遺跡については、既に本当の、
将棋駒も出土したとの旨、以前に紹介している。
文献は冊子であり、埼玉県埋蔵文化財調査事業団の
「研究紀要第38号の第11番目の論文である。
遺物の拓本はweb上に公開されていて、冊子で
情報が載っている。冊子の内容が奈良文化財研究所
発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧に登録・
公開されている。pdfファイルは、繰り返すと第
11番目の論文であるため、以下のように、”11”
の枝番が付いているものである。
139223_11_研究紀要第38号.pdf
枝番の別々なものに、将棋駒とは繋がらない別の
論文が、全国遺跡報告総覧に登録されている。
研究紀要の表題と目次は、各枝番号pdfに重複
して記載されている。表題は次の通りである。
ISSN0289-4130/研究紀要第38号、
2024、公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団。
リファレンス情報なので出土時期が良く判らない。
遺跡の位置は、鉛製泥メンコ各々により別々であり、
東京都23区内であるが、次の通りである。
千代田区産:東京都千代田区外神田四丁目。
中央区産:東京都中央区日本橋一丁目。
渋谷区産:東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目。
遺物の成立年代は、前記冊子第214~216
ページの第2表により、次の通りである。
千代田区産:明治期ないし大正期。
中央区産:幕末ないし明治初期(19世紀後半)
渋谷区産:明治初期(西暦1870年代)
前記、埼玉県久喜市栗橋の遺跡では、将棋駒模様
型泥メンコや、鉛製泥メンコは出土してい無い。
が、栗橋の遺跡で出土した、メンコでは無くて本
当の将棋駒遺物の成立年代は、幕末の西暦1860~
1870年代と、中央区産メンコ程度である。栗橋
の遺跡の場所と出土時期は以前紹介した発掘報告書
により、次の通りである。
遺跡の場所は次の通り。
埼玉県久喜市栗橋北二丁目3422-2。出土した
のは、西暦2019年前後の事のようである。
発掘報告書は以下の通り。
埼玉県埋蔵文化財調査事業団報告書第468集
北2丁目陣屋跡、2021年、国土交通省
関東地方整備局・公益財団法人埼玉県埋蔵文化財
調査事業団。
pdfファイルは、複数在るが、前記場所/出土時
期情報は次のものである。
132733_2_北2丁目陣屋跡.pdf
発掘報告書によると、成立年代が幕末頃である、
その栗橋将棋駒は、銀将×2と角行1枚であった。
元に戻すと、都内の3個の遺物の拓本は、前記
「紀要第38号」冊子の第213ページに在る。
千代田区産:東京都千代田区外神田四丁目。遅。
中央区産:東京都中央区日本橋一丁目。早。
渋谷区産:東京都渋谷区千駄ヶ谷五丁目。中。
表現する内容は、ほぼ一緒であり、将棋の流行に、
「明治維新」が強い影響を与えて居無いとの印象
を、明確に与える内容のように、私には思える。
(2024/05/31)
奈良県平城京左京三条一坊で近代飛車陶器駒(長さん)
今回は、古墳時代の遺物が大量に出土した
表題遺跡の包含層で、混入の形で、近代作の
焼成コバルト顔料を用いた陶器製の、成り
龍王飛車将棋が出土したとの旨の紹介である。
遺物はスケッチ図のみweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
138817_1_平城京左京三条一坊一・二・八坪発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
奈良文化財研究所学報第103冊/
平城京左京三条一坊一・二・八坪発掘調査報告、
2024、独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所。
発掘報告書冒頭「調査地の変遷」により遺跡
の場所は奈良県奈良市三条大路一丁目の平城京
左京三条一坊。遺物が出土したのは、発掘報告
書冒頭第1ページの「調査経緯」により、西暦
2010年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第99ページ
付近の記載により、近代の陶器製の将棋駒では
ないかとの事であり、スケッチ図はそのページ
に有る。混入物と解釈され、写真は上記の発掘
報告書中には、本ブログ管理人に発見され無い。
遺物のスケッチ図の書体から、大坂城の出土
飛車駒に似ており、関西で作られたものであろ
うとも私には想像される。残念ながら、私には
それ以上、判断出来無い。書体も現実の出土品
の写真の方が確かであろう。
色材以外では、西暦1600~2000年の、
何処かであるという以上の成立年代絞込みは私
には、困難だと見る。(2024/05/30)
表題遺跡の包含層で、混入の形で、近代作の
焼成コバルト顔料を用いた陶器製の、成り
龍王飛車将棋が出土したとの旨の紹介である。
遺物はスケッチ図のみweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
138817_1_平城京左京三条一坊一・二・八坪発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
奈良文化財研究所学報第103冊/
平城京左京三条一坊一・二・八坪発掘調査報告、
2024、独立行政法人 国立文化財機構
奈良文化財研究所。
発掘報告書冒頭「調査地の変遷」により遺跡
の場所は奈良県奈良市三条大路一丁目の平城京
左京三条一坊。遺物が出土したのは、発掘報告
書冒頭第1ページの「調査経緯」により、西暦
2010年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第99ページ
付近の記載により、近代の陶器製の将棋駒では
ないかとの事であり、スケッチ図はそのページ
に有る。混入物と解釈され、写真は上記の発掘
報告書中には、本ブログ管理人に発見され無い。
遺物のスケッチ図の書体から、大坂城の出土
飛車駒に似ており、関西で作られたものであろ
うとも私には想像される。残念ながら、私には
それ以上、判断出来無い。書体も現実の出土品
の写真の方が確かであろう。
色材以外では、西暦1600~2000年の、
何処かであるという以上の成立年代絞込みは私
には、困難だと見る。(2024/05/30)
Linux将棋でノートPC型外付キーボード(長さん)
LinuxUBUNTUでの日本の将棋は表計算
ソフト指しとしたときに独ドキュメントファウン
デーション社のライブルオフィス/カルクが必然
であり、セルの移動で右方向選択→左方向選択を、
「Ctrl+マウス左クリック」を特定1セルの
選択をする目的で使用することに、不快感が在る
とした場合には、キーボード特殊キー登録機能で、
Alt+X、Alt+Zへ登録して置かなければ
ならない。そして、ノートPCのディスプレーを
逆見している後手側については、今までの説明だ
とその登録をした上で、ゲーミング用片手外付け
キーボードに、
将棋の天童スタンプ将棋駒の歩兵を、Alt、X、
Zの3つのキーに、跨ぐように貼り付けることに
よって、Altキーがこの中では幾分早く、押さ
れる、特殊キー押し動作として実現させる
という事になっていた。ここでゲーミング用片手
キーボードとして一例で「自由狼」の例を挙げた。
ちなみに、先手についてこの問題が発生し無い
のは、ゲーミングマウスのロジティックロジクー
ルGマウスに、Linuxパソコンでは無くて、
Windows10パソコンを用いて、中央
ホイール(第3ボタン)押しで、Alt+X→
Alt+Z機能をハード登録しておき、マウスを
外してLinuxパソコンに繋げば、マウスの
ボタン押しで、右方向選択→左方向選択で、
「特定1セルに移動を選択」が出来るからである。
Linuxで、後手だけ出来無いのは、アプリ
ケーションソフトウェアーの「さかさマウス」が、
WindowsPCでしか使えないのでアップル
PCの、マイティマウスの逆手持ちで、後手だけ
ディスプレーのカーソルを動かさなければならな
いので、ロジティク/ロジクールGマウスを、
マウスとして使え無いからであった。
ところで、先手がノートパソコンの内蔵キー
ボードで、ファンクションキーを使って、
LinuxPCでライブルオフィス/カルクの
日本将棋を指している場合、後手もゲーミング
片手キーボードの一例自由狼では無くて、ノー
トパソコンの内蔵キーボードと似た形の、横巾
の狭い外付けキーボードを使った方が、ゲーミ
ング用片手キーボードよりも
公平で良いという主張が出てくる恐れがある。
後手と先手で、着手時のPCの使用法に違いが
あると、どちらかに有利/不利が偏っているの
ではないかという疑念が、湧く可能性もあると
考えられるからである。
実際、ノートパソコンの内蔵キーボードに似た
外付けUSB接続キーボードも、探せば有る
ようで、以下のような写真のように、キー配列
されている、横幅の狭い物品も存在する。
ただし、ノートパソコンの内蔵キーボードは、
上記写真のように、Zキーが、Windows
キーの上方に、
偏っているという点で、冒頭の歩兵貼り付け法
は、ゲーミング用片手キーボードに比べて不利
である。更に、テンキーまで在る、昔のディスク
トップ型パソコンの内蔵キーボードに似た、外付
キーボードも近年は、安価に販売されていて、
そのZキーは、ゲーミング片手キーボードと同様
なものも多い。なおノートパソコンキーボード型
外付けキーボードのZキーが左に寄っているのは、
全体として横にキーの数密度を上げて、詰め込も
うとした為だとみられる。
それで無理して、ディスクトップパソコン型、
横長キーボードを、ノートパソコンの後手専用
外付けキーボードに採用するのが、ゲーミング用
片手キーボードが使用出来にくい場合の次善手か
というと、
それは間違い
だ。何故なら、1ボタン逆さ持ちマイティマウス
の操作スペースが狭くなると、後手は着手がやり
難くなる為である。
では、先に写真に示したような、ノートパソコ
ン型外付けキーボードで、Zキーが左過ぎるのを
どう解決するのかだが。
現実として実際にやってみると、上記の写真の
程度の配列である場合、
天童歩兵将棋駒を少し、反時計回りに回転して貼
り付ければ動作に、ほぼ問題無い事が今回判った。
Zキーは、右側偏り押しでも、Alt+Z機能
に、極端に問題が発生し無いと私は、気がついた
からである。
よって、Linuxのライブルオフィス/カル
クの日本将棋で、ゲーミング用片手外付けUSB
キーボードを、後手用に使う事に違和感が主張さ
れたケースには、Zキーの位置は良いものの、
横長キーボードを無理に使うのでは無くて、
Zキーの位置に難は有るものの、ノートPC型の
横巾の狭い外付けキーボードをやや無理目に使っ
た方が、どうやら問題が少ないらしい。
以上のように、今回の検討で私には、結論出来
るようになって来た。なお、PCのキーボードの
細かいキー位置に、厳密な規格は無いようなので、
外付けキーボードを購入の際には、注意が必要で
ある。上の写真は、少し前の日本電気ノートPC
型であり、他社品には違うものも有る。(2024/05/29)
ソフト指しとしたときに独ドキュメントファウン
デーション社のライブルオフィス/カルクが必然
であり、セルの移動で右方向選択→左方向選択を、
「Ctrl+マウス左クリック」を特定1セルの
選択をする目的で使用することに、不快感が在る
とした場合には、キーボード特殊キー登録機能で、
Alt+X、Alt+Zへ登録して置かなければ
ならない。そして、ノートPCのディスプレーを
逆見している後手側については、今までの説明だ
とその登録をした上で、ゲーミング用片手外付け
キーボードに、
将棋の天童スタンプ将棋駒の歩兵を、Alt、X、
Zの3つのキーに、跨ぐように貼り付けることに
よって、Altキーがこの中では幾分早く、押さ
れる、特殊キー押し動作として実現させる
という事になっていた。ここでゲーミング用片手
キーボードとして一例で「自由狼」の例を挙げた。
ちなみに、先手についてこの問題が発生し無い
のは、ゲーミングマウスのロジティックロジクー
ルGマウスに、Linuxパソコンでは無くて、
Windows10パソコンを用いて、中央
ホイール(第3ボタン)押しで、Alt+X→
Alt+Z機能をハード登録しておき、マウスを
外してLinuxパソコンに繋げば、マウスの
ボタン押しで、右方向選択→左方向選択で、
「特定1セルに移動を選択」が出来るからである。
Linuxで、後手だけ出来無いのは、アプリ
ケーションソフトウェアーの「さかさマウス」が、
WindowsPCでしか使えないのでアップル
PCの、マイティマウスの逆手持ちで、後手だけ
ディスプレーのカーソルを動かさなければならな
いので、ロジティク/ロジクールGマウスを、
マウスとして使え無いからであった。
ところで、先手がノートパソコンの内蔵キー
ボードで、ファンクションキーを使って、
LinuxPCでライブルオフィス/カルクの
日本将棋を指している場合、後手もゲーミング
片手キーボードの一例自由狼では無くて、ノー
トパソコンの内蔵キーボードと似た形の、横巾
の狭い外付けキーボードを使った方が、ゲーミ
ング用片手キーボードよりも
公平で良いという主張が出てくる恐れがある。
後手と先手で、着手時のPCの使用法に違いが
あると、どちらかに有利/不利が偏っているの
ではないかという疑念が、湧く可能性もあると
考えられるからである。
実際、ノートパソコンの内蔵キーボードに似た
外付けUSB接続キーボードも、探せば有る
ようで、以下のような写真のように、キー配列
されている、横幅の狭い物品も存在する。
ただし、ノートパソコンの内蔵キーボードは、
上記写真のように、Zキーが、Windows
キーの上方に、
偏っているという点で、冒頭の歩兵貼り付け法
は、ゲーミング用片手キーボードに比べて不利
である。更に、テンキーまで在る、昔のディスク
トップ型パソコンの内蔵キーボードに似た、外付
キーボードも近年は、安価に販売されていて、
そのZキーは、ゲーミング片手キーボードと同様
なものも多い。なおノートパソコンキーボード型
外付けキーボードのZキーが左に寄っているのは、
全体として横にキーの数密度を上げて、詰め込も
うとした為だとみられる。
それで無理して、ディスクトップパソコン型、
横長キーボードを、ノートパソコンの後手専用
外付けキーボードに採用するのが、ゲーミング用
片手キーボードが使用出来にくい場合の次善手か
というと、
それは間違い
だ。何故なら、1ボタン逆さ持ちマイティマウス
の操作スペースが狭くなると、後手は着手がやり
難くなる為である。
では、先に写真に示したような、ノートパソコ
ン型外付けキーボードで、Zキーが左過ぎるのを
どう解決するのかだが。
現実として実際にやってみると、上記の写真の
程度の配列である場合、
天童歩兵将棋駒を少し、反時計回りに回転して貼
り付ければ動作に、ほぼ問題無い事が今回判った。
Zキーは、右側偏り押しでも、Alt+Z機能
に、極端に問題が発生し無いと私は、気がついた
からである。
よって、Linuxのライブルオフィス/カル
クの日本将棋で、ゲーミング用片手外付けUSB
キーボードを、後手用に使う事に違和感が主張さ
れたケースには、Zキーの位置は良いものの、
横長キーボードを無理に使うのでは無くて、
Zキーの位置に難は有るものの、ノートPC型の
横巾の狭い外付けキーボードをやや無理目に使っ
た方が、どうやら問題が少ないらしい。
以上のように、今回の検討で私には、結論出来
るようになって来た。なお、PCのキーボードの
細かいキー位置に、厳密な規格は無いようなので、
外付けキーボードを購入の際には、注意が必要で
ある。上の写真は、少し前の日本電気ノートPC
型であり、他社品には違うものも有る。(2024/05/29)
樗蒲遺物確認状況から見る鎌倉期大将棋遺物数推定(長さん)
本ブログの管理人はこれまで捜索の中心に関し、
西暦1300年頃の普通唱導集大将棋のルール
に直接結び付く史料を探すべく、奈良文化財
研究所発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧の発掘報告書をチェックして来た。簡単に
文字検索すれば確認出来る、平泉町祇園Ⅰ遺跡
の兵+奔王土器は別として、会津若松市鶴沼B
遺跡の、鎌倉前期大将棋の、2段目の空いた
中央配列遺物とみられる土器破片が、鎌倉時代
の大将棋の初期配列に関して、このブログでは
これまで発見された、直接史料として事実上唯
一であった。
では、実際にこれまで報告された発掘報告書
に、鎌倉時代の大将棋の、初期配列を示唆する
遺物は、幾つ記載されていて、その数-1が私
の、捜索力の無さから見逃されているのであろ
うかというのが、今回の論題である。
その私に知られてい無い、鎌倉時代の大将棋
の発掘史料数の推定は、これまで私の力で捜索
出来た「樗蒲」記載主に土器数と、奈良文化財
研究所で、彼らが総力を挙げて捜索した、全国
の発掘報告書の中の、樗蒲史料発表数の件数と
の比較から可能であろうと、私には考えられる。
0から7程度の間であり、今までの捜索での
見逃しが1程度、pdfで文献自体がweb上
に公開されてい無い為に、私には確認出来無い
史料が2つ程度有るというのが、最も可能性が
高い、確率的「期待値」とみられる。
さて今の時点私が自力で確認し、将棋の歴史
とは関係が無いので、ここで紹介してい無い、
樗蒲遺物史料は、三重県斎宮跡SK5343
出土土師器の一つだけだと認識している。
ところで以下の文献には、平城京で出土して、
最初から樗蒲遺物史料として有名な史料以外に、
次の4史料が紹介されている。
その文献のpdfファイル名は、以下の通りで
ある。
16618_1_古代の盤上遊戯樗蒲かりうちの復元.pdf
パンフレット形式のものであり、その表題は
以下の通り。
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所
古代の盤上遊戯樗蒲(かりうち)の復元、西暦
2016年。
樗蒲(かりうち)の出土史料は、その文献で
は以下の通りのものが載っている。
1.新潟県八幡林遺跡出土木皿。
2.三重県斎宮跡SK5343出土土師器杯蓋。
3.秋田城跡政庁北東建物出土碑。
4.岩手県柳之御所遺跡出土折敷裏。
「新潟県八幡林遺跡出土木皿」は私の見逃しで
確認出来てい無いと認識されるし「秋田城跡
政庁北東建物出土碑」と「岩手県柳之御所遺跡
出土折敷裏」は、記載された発掘報告書自体が、
pdfでは存在し無いように、物品のカテゴリー
から私には推定される。
冒頭で述べた、見逃しの「推定期待値」は、
以上のようにして求める事が出来るように思う。
何れにしても本ブログ管理人の、全発掘報告書
に対する情報収集確率は、現状1/4(25%)
程度だろう。この「実力」では、本当は8つ、
鎌倉期の大将棋の、初期配列推定史料が在って
も、最悪は1つしか見つから無い事も有り得る
だろうし、実際には会津若松鶴沼B遺跡の1つ
だけしか、元々無く、たまたま運悪く、全部
見つかってしまっていて、他には無いという可
能性も、
確率揺らぎの範囲では、起こり得る
ようにも思える。前記、判りにくい表現だった
が「0から7の間」というのは、こうして出し
ている。
ただし、最適期待値から見ると、全国遺跡
報告総覧に、たまたまpdfファィルが無く、
今後五年~十年で、電子データがもたらされて、
その結果普通唱導集大将棋の初期配列や盤駒数
は、既存史料から確定されてしまうという事が、
将来起こる可能性が、最も高いように思える。
つまりは、私が自分で方々発掘作業をして、
自力で史料を見つけてしまうという
「神の手パターン」は、リクレーションとして
私にとっては面白いが、余り可能性として無く。
このまま今のweb上の全国遺跡報告総覧の捜
索という手法で、このブログで紹介をし続けて、
遂には発掘報告書から、それを発見するかどう
かは、私が元気で居続けて本ブログが続くのか
どうかという点で、現時点ては、何とも言え無
いが。とにかく、
奈良文化財研究所様々で、将棋史が進む可能性
が、最も高いというのが、今のところの予想
ではないかというのが、かなりの確率で確かだ。
以上が今回、樗蒲(かりうち)の発見史料に
関して冒頭で紹介した前記パンフレットから私
が受けた、現実的に起こりうる事態の感触とい
う事になると、今のところ自分では見ていると
いうわけである。(2024/05/28)
西暦1300年頃の普通唱導集大将棋のルール
に直接結び付く史料を探すべく、奈良文化財
研究所発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧の発掘報告書をチェックして来た。簡単に
文字検索すれば確認出来る、平泉町祇園Ⅰ遺跡
の兵+奔王土器は別として、会津若松市鶴沼B
遺跡の、鎌倉前期大将棋の、2段目の空いた
中央配列遺物とみられる土器破片が、鎌倉時代
の大将棋の初期配列に関して、このブログでは
これまで発見された、直接史料として事実上唯
一であった。
では、実際にこれまで報告された発掘報告書
に、鎌倉時代の大将棋の、初期配列を示唆する
遺物は、幾つ記載されていて、その数-1が私
の、捜索力の無さから見逃されているのであろ
うかというのが、今回の論題である。
その私に知られてい無い、鎌倉時代の大将棋
の発掘史料数の推定は、これまで私の力で捜索
出来た「樗蒲」記載主に土器数と、奈良文化財
研究所で、彼らが総力を挙げて捜索した、全国
の発掘報告書の中の、樗蒲史料発表数の件数と
の比較から可能であろうと、私には考えられる。
0から7程度の間であり、今までの捜索での
見逃しが1程度、pdfで文献自体がweb上
に公開されてい無い為に、私には確認出来無い
史料が2つ程度有るというのが、最も可能性が
高い、確率的「期待値」とみられる。
さて今の時点私が自力で確認し、将棋の歴史
とは関係が無いので、ここで紹介してい無い、
樗蒲遺物史料は、三重県斎宮跡SK5343
出土土師器の一つだけだと認識している。
ところで以下の文献には、平城京で出土して、
最初から樗蒲遺物史料として有名な史料以外に、
次の4史料が紹介されている。
その文献のpdfファイル名は、以下の通りで
ある。
16618_1_古代の盤上遊戯樗蒲かりうちの復元.pdf
パンフレット形式のものであり、その表題は
以下の通り。
独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所
古代の盤上遊戯樗蒲(かりうち)の復元、西暦
2016年。
樗蒲(かりうち)の出土史料は、その文献で
は以下の通りのものが載っている。
1.新潟県八幡林遺跡出土木皿。
2.三重県斎宮跡SK5343出土土師器杯蓋。
3.秋田城跡政庁北東建物出土碑。
4.岩手県柳之御所遺跡出土折敷裏。
「新潟県八幡林遺跡出土木皿」は私の見逃しで
確認出来てい無いと認識されるし「秋田城跡
政庁北東建物出土碑」と「岩手県柳之御所遺跡
出土折敷裏」は、記載された発掘報告書自体が、
pdfでは存在し無いように、物品のカテゴリー
から私には推定される。
冒頭で述べた、見逃しの「推定期待値」は、
以上のようにして求める事が出来るように思う。
何れにしても本ブログ管理人の、全発掘報告書
に対する情報収集確率は、現状1/4(25%)
程度だろう。この「実力」では、本当は8つ、
鎌倉期の大将棋の、初期配列推定史料が在って
も、最悪は1つしか見つから無い事も有り得る
だろうし、実際には会津若松鶴沼B遺跡の1つ
だけしか、元々無く、たまたま運悪く、全部
見つかってしまっていて、他には無いという可
能性も、
確率揺らぎの範囲では、起こり得る
ようにも思える。前記、判りにくい表現だった
が「0から7の間」というのは、こうして出し
ている。
ただし、最適期待値から見ると、全国遺跡
報告総覧に、たまたまpdfファィルが無く、
今後五年~十年で、電子データがもたらされて、
その結果普通唱導集大将棋の初期配列や盤駒数
は、既存史料から確定されてしまうという事が、
将来起こる可能性が、最も高いように思える。
つまりは、私が自分で方々発掘作業をして、
自力で史料を見つけてしまうという
「神の手パターン」は、リクレーションとして
私にとっては面白いが、余り可能性として無く。
このまま今のweb上の全国遺跡報告総覧の捜
索という手法で、このブログで紹介をし続けて、
遂には発掘報告書から、それを発見するかどう
かは、私が元気で居続けて本ブログが続くのか
どうかという点で、現時点ては、何とも言え無
いが。とにかく、
奈良文化財研究所様々で、将棋史が進む可能性
が、最も高いというのが、今のところの予想
ではないかというのが、かなりの確率で確かだ。
以上が今回、樗蒲(かりうち)の発見史料に
関して冒頭で紹介した前記パンフレットから私
が受けた、現実的に起こりうる事態の感触とい
う事になると、今のところ自分では見ていると
いうわけである。(2024/05/28)
奈良県橿原市十市蔵場遺跡で古墳期泰山墨書土器(長さん)
今回は、奈良県橿原市の表題の遺跡で広口壷の
ような形の土器に、奉山奉と書かれているよう
に見える、祭祀用を連想させる土器遺物が出土
しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
139503_1_十市蔵場遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
橿原市埋蔵文化財調査報告第21冊/十市蔵場
遺跡、西暦2024年3月、奈良県橿原市。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
奈良県橿原市十市町。遺物が出土したのは、
西暦2023年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は2023年の
第2次調査の折出土し、第20河川跡の下層か
ら出土したが、発掘報告書第89ページの記載
により、古墳時代後期の6世紀から7世紀初程
度の遺物と見られているように私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第40:
”橿文2023―2次調査/出土遺物②”の
最上段左に在り第267番との旨ナンバリング
されている。発掘報告書第73ページの記載に
より、壷では無く「甕」に分類されている。
上図のように、やや欠けた写真の右側端の中
央から下に向かって縦に、奉山奉と読める漢字
のようにも見える、煤模様がある。
飛鳥時代早期の山信仰用の祭祀用土器が疑わ
れると私見される。なお、遺跡の名前の十市氏
に関連する遺物は、この回の発掘では、明快な
物品は、出土し無かったとの事である。奈良県
にも古墳時代に、山岳信仰に厚い住民の集落が、
国内他所同様、存在したという事であろう。
(2024/05/27)
ような形の土器に、奉山奉と書かれているよう
に見える、祭祀用を連想させる土器遺物が出土
しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
139503_1_十市蔵場遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
橿原市埋蔵文化財調査報告第21冊/十市蔵場
遺跡、西暦2024年3月、奈良県橿原市。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
奈良県橿原市十市町。遺物が出土したのは、
西暦2023年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は2023年の
第2次調査の折出土し、第20河川跡の下層か
ら出土したが、発掘報告書第89ページの記載
により、古墳時代後期の6世紀から7世紀初程
度の遺物と見られているように私には読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第40:
”橿文2023―2次調査/出土遺物②”の
最上段左に在り第267番との旨ナンバリング
されている。発掘報告書第73ページの記載に
より、壷では無く「甕」に分類されている。
上図のように、やや欠けた写真の右側端の中
央から下に向かって縦に、奉山奉と読める漢字
のようにも見える、煤模様がある。
飛鳥時代早期の山信仰用の祭祀用土器が疑わ
れると私見される。なお、遺跡の名前の十市氏
に関連する遺物は、この回の発掘では、明快な
物品は、出土し無かったとの事である。奈良県
にも古墳時代に、山岳信仰に厚い住民の集落が、
国内他所同様、存在したという事であろう。
(2024/05/27)
新潟県新潟市道正遺跡で龍王墨書土器(長さん)
今回は、以前紹介した新潟市の岡崎遺跡の百メー
トル程度の場所に位置する道正遺跡で、縄文土器
に分類されている物品に漢字で、「龍王」と書か
れているように見える、黒い模様があるとの旨の
紹介である。
以前述べた発掘報告書に写真が記載されていて、
web上に公開されているので、やはり、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録・公開された情報である。
繰り返すとpdfファイル名は以下。
139487_2_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
本文pdfは、以下。
139374_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
スケッチ図は以下。
139487_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
上記のうち2番目の本文pdfの冒頭により、
発掘報告書の名称は以下。
道正遺跡第2・3・4次調査・岡崎遺跡第4・5
次調査、2024、新潟市教育委員会。
発掘報告書本文pdf冒頭の例言により遺跡の
場所は新潟県新潟市市江南区割野字道正2868。
遺物が出土したのは西暦2020年前後の事。
繰り返すと、道正遺跡と岡崎遺跡は100メート
ル程度の距離で、間に谷が有る。
遺物の成立年代は、発掘報告書第205ページ
付近の記載により、縄文晩期の中ば、紀元前7~
8世紀位とみられているように読取れる。漢字が
伝来したとみられる時期よりは、相当に早い。
また遺跡の性格は、発掘報告書第4ページ付近の
記載により縄文時代も交易場だったのではないか
とされているようである。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版編である、
第1番目のpdfの、写真図版第102”道正
遺跡、縄文土器6”のの第3段目右に有り、遺物
番号第139番と、ナンバリングされている。
甕のような形の土器のように、私には見える。
上図のように、写真の左下の、土器でたまたま
平らになっているように見える部分に縦に「龍王」
と漢字で書かれているようにも見える、黒い煤模
様がある。
私見だが、古墳時代の遺物も出土しており、そ
の頃に、河川の氾濫等で露出した該物品が拾われ、
4世紀頃に、龍神信仰が水場に関連して存在して、
祭祀用に加筆された
のではないかと、私は疑っている。岡崎遺跡とは
近接していて、墨書土器だと発掘報告書で指摘さ
れた遺物も存在する。が、その墨書土器類よりも、
時代は少なくとも前の、物品が以上のように更に
在るようである。(2024/05/26)
トル程度の場所に位置する道正遺跡で、縄文土器
に分類されている物品に漢字で、「龍王」と書か
れているように見える、黒い模様があるとの旨の
紹介である。
以前述べた発掘報告書に写真が記載されていて、
web上に公開されているので、やはり、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に登録・公開された情報である。
繰り返すとpdfファイル名は以下。
139487_2_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
本文pdfは、以下。
139374_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
スケッチ図は以下。
139487_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
上記のうち2番目の本文pdfの冒頭により、
発掘報告書の名称は以下。
道正遺跡第2・3・4次調査・岡崎遺跡第4・5
次調査、2024、新潟市教育委員会。
発掘報告書本文pdf冒頭の例言により遺跡の
場所は新潟県新潟市市江南区割野字道正2868。
遺物が出土したのは西暦2020年前後の事。
繰り返すと、道正遺跡と岡崎遺跡は100メート
ル程度の距離で、間に谷が有る。
遺物の成立年代は、発掘報告書第205ページ
付近の記載により、縄文晩期の中ば、紀元前7~
8世紀位とみられているように読取れる。漢字が
伝来したとみられる時期よりは、相当に早い。
また遺跡の性格は、発掘報告書第4ページ付近の
記載により縄文時代も交易場だったのではないか
とされているようである。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版編である、
第1番目のpdfの、写真図版第102”道正
遺跡、縄文土器6”のの第3段目右に有り、遺物
番号第139番と、ナンバリングされている。
甕のような形の土器のように、私には見える。
上図のように、写真の左下の、土器でたまたま
平らになっているように見える部分に縦に「龍王」
と漢字で書かれているようにも見える、黒い煤模
様がある。
私見だが、古墳時代の遺物も出土しており、そ
の頃に、河川の氾濫等で露出した該物品が拾われ、
4世紀頃に、龍神信仰が水場に関連して存在して、
祭祀用に加筆された
のではないかと、私は疑っている。岡崎遺跡とは
近接していて、墨書土器だと発掘報告書で指摘さ
れた遺物も存在する。が、その墨書土器類よりも、
時代は少なくとも前の、物品が以上のように更に
在るようである。(2024/05/26)
新潟県新潟市岡崎遺跡で横兵・鬼林墨書土器(長さん)
今回は、新潟市の平安時代の表題遺跡で、椀型の
杯土器の側面と底面に天竺大将棋の「横兵」、
大局将棋の「林鬼」をひっくり返した「鬼林」と
書かれているように見える、9世紀後半成立の
墨書土器が出土しているとの旨の紹介である。
発掘報告書では、前者が判読不明で私が字と見て
いる部分は自然模様、後者が「林」と釈文されて
いるようである。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139487_2_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
なお本文pdfは、全国遺跡報告総覧のデータ
ベース上、離れた位置に別れ別れに置かれている。
pdfファイル名は以下の通りだが、先頭の番号
に注意が必要だ。
139374_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
なお蛇足だが、以下のpdfファイルはスケッチ
図が載っている。
139487_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
上記のうち2番目の本文pdfの冒頭により、
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
道正遺跡第2・3・4次調査・岡崎遺跡第4・5
次調査、2024、新潟市教育委員会。
発掘報告書本文pdf冒頭の例言により遺跡の
場所は新潟県新潟市市江南区割野字岡崎3875。
遺物が出土したのは西暦2020年前後の事の
ようである。なお、道正遺跡と岡崎遺跡は100
メートル程度の距離で、間に谷が有るという事で
ある。
遺物の成立年代は、発掘報告書第199ページ
付近の記載により、9世紀後半、平安時代前期と
みられている。また遺跡の性格は、発掘報告書第
4ページ付近の記載により古代の物流中間集積所
で当時は河口付近に位置し、海運基地だったと私
には受け取れる。
遺物の写真は、最初の「横兵」については、
発掘報告書写真図版編である、最初に紹介した方
のpdfの、写真図版第141の第2段目右に有
り、遺物番号第115番と、ナンバリングされて
いる、杯型の土器の側面の写真である。
上図のように、3列に1~2文字ずつ並び、左
から、横兵、兵、兵と書いてあるように私見され
る。将棋の配列図だとすれば、9世紀の物品なら
驚くべき事であるが、一巡して元に戻ってしまう
為、7行「兵」の入った文字を書いて、北斗七星
を、市場を守る兵に見立てたのかもしれないと私
見する。海賊退散の呪いかとも疑う。
もうひとつは、同じく写真図版pdfの写真
図版第137の下から2段目右に在り、遺物番号
第63番とのナンバリングが在る。杯型土器の今
度は底面のようである。
発掘報告書では一字「林」と読まれているよう
に読取れる。が、林に重なって右上に「鬼」のよ
うに、私には見える模様がある。やはり海賊の出
現に関連しその注意や、対抗心を起こさせる事を
狙った、呪い用に使った物品かもしれないと、私
見する。
交易される物流がよほど豊富で、内外の海賊に
9世紀の後半狙われていて、柵も作られ、識字層
も滞在したので、かなりの数出土した墨書遺物の
うちに、今回紹介したようなものも出土している
のであろうと私は推定する。珍しい遺跡である。
(2024/05/25)
杯土器の側面と底面に天竺大将棋の「横兵」、
大局将棋の「林鬼」をひっくり返した「鬼林」と
書かれているように見える、9世紀後半成立の
墨書土器が出土しているとの旨の紹介である。
発掘報告書では、前者が判読不明で私が字と見て
いる部分は自然模様、後者が「林」と釈文されて
いるようである。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139487_2_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
なお本文pdfは、全国遺跡報告総覧のデータ
ベース上、離れた位置に別れ別れに置かれている。
pdfファイル名は以下の通りだが、先頭の番号
に注意が必要だ。
139374_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
なお蛇足だが、以下のpdfファイルはスケッチ
図が載っている。
139487_1_道正遺跡第2・3・4次調査岡崎遺跡第4・5次調査.pdf
上記のうち2番目の本文pdfの冒頭により、
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
道正遺跡第2・3・4次調査・岡崎遺跡第4・5
次調査、2024、新潟市教育委員会。
発掘報告書本文pdf冒頭の例言により遺跡の
場所は新潟県新潟市市江南区割野字岡崎3875。
遺物が出土したのは西暦2020年前後の事の
ようである。なお、道正遺跡と岡崎遺跡は100
メートル程度の距離で、間に谷が有るという事で
ある。
遺物の成立年代は、発掘報告書第199ページ
付近の記載により、9世紀後半、平安時代前期と
みられている。また遺跡の性格は、発掘報告書第
4ページ付近の記載により古代の物流中間集積所
で当時は河口付近に位置し、海運基地だったと私
には受け取れる。
遺物の写真は、最初の「横兵」については、
発掘報告書写真図版編である、最初に紹介した方
のpdfの、写真図版第141の第2段目右に有
り、遺物番号第115番と、ナンバリングされて
いる、杯型の土器の側面の写真である。
上図のように、3列に1~2文字ずつ並び、左
から、横兵、兵、兵と書いてあるように私見され
る。将棋の配列図だとすれば、9世紀の物品なら
驚くべき事であるが、一巡して元に戻ってしまう
為、7行「兵」の入った文字を書いて、北斗七星
を、市場を守る兵に見立てたのかもしれないと私
見する。海賊退散の呪いかとも疑う。
もうひとつは、同じく写真図版pdfの写真
図版第137の下から2段目右に在り、遺物番号
第63番とのナンバリングが在る。杯型土器の今
度は底面のようである。
発掘報告書では一字「林」と読まれているよう
に読取れる。が、林に重なって右上に「鬼」のよ
うに、私には見える模様がある。やはり海賊の出
現に関連しその注意や、対抗心を起こさせる事を
狙った、呪い用に使った物品かもしれないと、私
見する。
交易される物流がよほど豊富で、内外の海賊に
9世紀の後半狙われていて、柵も作られ、識字層
も滞在したので、かなりの数出土した墨書遺物の
うちに、今回紹介したようなものも出土している
のであろうと私は推定する。珍しい遺跡である。
(2024/05/25)
山梨市西田遺跡・栗原氏屋敷跡で中世泰山墨書土器(長さん)
今回は、山梨県山梨市の表題の中世武士屋敷跡
で、耳付き土器の破片の内側と見られている物
品に、「宮」「揚物」「奉山」等にも読める、
煤模様があるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139461_1_西田遺跡・栗原氏屋敷跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
山梨市文化財調査報告書第32集/西田遺跡・
栗原氏屋敷跡、西暦2019年、山梨県峡東農務
事務所・山梨市教育委員会・昭和測量株式会社。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
山梨県山梨市上栗原字西田11番5号。遺物が
出土したのは、西暦2017年前後の事のよう
である。
遺物の成立年代は、発掘報告書第11ページ
付近によると、遺物は第3区の中世遺物中心区
から出土し、同発掘報告書第2ページ/歴史的
環境により、中世・甲斐武田氏関連の14世紀
から16世紀にかけての日本の中世、栗原氏の
館跡に関連し、よって南北朝耳朶から戦国時代
程度のもののように見られていると、私には、
読取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第15の、
上から2段目の左側カラムの集合写真の、耳付
土器とされる破片のうち、右上に在る大きな物
であり、遺物番号第37番との旨ナンバリング
されている。
上図のように、やや左に寄って中段に「宮」
のように私には見える、濃い煤模様が有り、
その下は、はっきりとはし無いが、「揚物」
と、書かれているかもしれないと私見する。
揚物模様の右に薄く「山」のように見える、
淡い模様がある。
そして、良く注意するとその左方に、煤に
埋もれて、反時計回りに回転しているが、
淡く「奉山」と書かれ、供え物を置く台として、
割れた器を廃物利用した
ようにも見える。奉山模様の下の「樗」のよう
な模様があるが、私には何なのか良く判らない。
その他にも判別出来無い煤に見える模様が有る。
戦国時代頃に、栗原氏に属する者が、簡素な
祭祀用に使用した、廃物利用の山の神に捧げる
食物を置く台のようにも、私には見える。
(2024/05/24)
で、耳付き土器の破片の内側と見られている物
品に、「宮」「揚物」「奉山」等にも読める、
煤模様があるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
139461_1_西田遺跡・栗原氏屋敷跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
山梨市文化財調査報告書第32集/西田遺跡・
栗原氏屋敷跡、西暦2019年、山梨県峡東農務
事務所・山梨市教育委員会・昭和測量株式会社。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
山梨県山梨市上栗原字西田11番5号。遺物が
出土したのは、西暦2017年前後の事のよう
である。
遺物の成立年代は、発掘報告書第11ページ
付近によると、遺物は第3区の中世遺物中心区
から出土し、同発掘報告書第2ページ/歴史的
環境により、中世・甲斐武田氏関連の14世紀
から16世紀にかけての日本の中世、栗原氏の
館跡に関連し、よって南北朝耳朶から戦国時代
程度のもののように見られていると、私には、
読取れる。
遺物の写真は発掘報告書写真図版第15の、
上から2段目の左側カラムの集合写真の、耳付
土器とされる破片のうち、右上に在る大きな物
であり、遺物番号第37番との旨ナンバリング
されている。
上図のように、やや左に寄って中段に「宮」
のように私には見える、濃い煤模様が有り、
その下は、はっきりとはし無いが、「揚物」
と、書かれているかもしれないと私見する。
揚物模様の右に薄く「山」のように見える、
淡い模様がある。
そして、良く注意するとその左方に、煤に
埋もれて、反時計回りに回転しているが、
淡く「奉山」と書かれ、供え物を置く台として、
割れた器を廃物利用した
ようにも見える。奉山模様の下の「樗」のよう
な模様があるが、私には何なのか良く判らない。
その他にも判別出来無い煤に見える模様が有る。
戦国時代頃に、栗原氏に属する者が、簡素な
祭祀用に使用した、廃物利用の山の神に捧げる
食物を置く台のようにも、私には見える。
(2024/05/24)
山梨県甲府市甲府城下町遺跡で江戸前期桂馬駒(長さん)
今回は、近世将棋駒が過去複数回発掘されている
表題の遺跡のうち、中央四丁目付近で、10年程度
前に、江戸初期の桂馬駒が、更に1枚出土して
いるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
139445_1_甲府城下町遺跡XⅢ中央4丁目144他.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
甲府市文化財調査報告74/甲府城下町遺跡ⅩⅢ
中央4丁目144、西暦2015年、山梨県
中北建設事務所・甲府市教育委員会・昭和測量株式会社。
発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所は山梨県
甲府市中央4丁目144。遺物が出土したのは、
西暦2013年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第6ページ「層序」
の説明によると、遺物は第4面で出土したが、その
層は江戸前期、17~18世紀頃のものと見られ、
遺物もその時代のものとされているように、私には
読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第20の上か
ら2段目右に在り遺物番号第202とナンバリング
されている。桂馬駒で、左右にオモテ面と裏面の紹
介が前記発掘報告書に在り、裏が桂馬の成の崩し方
である一文字「金」の桂馬である。
上図のように、馬の下の4点が下タワミに並んで
いて、地元で、将棋駒の作れる将棋駒専門とまでは
行かない細工師に作らせた駒という、この城下町の
出土駒、独特の物品である。
さぞや元禄期前後の頃、将棋が盛んに指されたの
であろうと、この物品を見て私も感心させられる。
(2024/05/23)
表題の遺跡のうち、中央四丁目付近で、10年程度
前に、江戸初期の桂馬駒が、更に1枚出土して
いるとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
139445_1_甲府城下町遺跡XⅢ中央4丁目144他.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
甲府市文化財調査報告74/甲府城下町遺跡ⅩⅢ
中央4丁目144、西暦2015年、山梨県
中北建設事務所・甲府市教育委員会・昭和測量株式会社。
発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所は山梨県
甲府市中央4丁目144。遺物が出土したのは、
西暦2013年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第6ページ「層序」
の説明によると、遺物は第4面で出土したが、その
層は江戸前期、17~18世紀頃のものと見られ、
遺物もその時代のものとされているように、私には
読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書写真図版第20の上か
ら2段目右に在り遺物番号第202とナンバリング
されている。桂馬駒で、左右にオモテ面と裏面の紹
介が前記発掘報告書に在り、裏が桂馬の成の崩し方
である一文字「金」の桂馬である。
上図のように、馬の下の4点が下タワミに並んで
いて、地元で、将棋駒の作れる将棋駒専門とまでは
行かない細工師に作らせた駒という、この城下町の
出土駒、独特の物品である。
さぞや元禄期前後の頃、将棋が盛んに指されたの
であろうと、この物品を見て私も感心させられる。
(2024/05/23)
WACOM/BAMBOO/CTH-460は470同(長さん)
以前に、表題のペンタブレットに、ポップアップメニュー
登録機能が無いと、マニュアルから推定したが、その
話題の以下は続きである。某ディスカウントショップで、
表題のWACOM/BAMBOOの型番十番代が六十の
ペンタブレットの
現物を入手したので、実際にドライバ/ユーティリティ
ソフトを動作させて、補助キーに、ポップアップメニュー
登録機能は無い事を確定
させた。
「WACOM/BAMBOO/CTH-460は、
WACOM/BAMBOO/CTH-470と外見が
ほぼいっしょだし、ユーティリティアプリケーション
ソフトウェアーは、470と460とで、ほぼいっしょ
の形式のユーティリティアプリケーションソフトウェアー
が、立ち上がるようだ」と以前に説明したが、ずばり
その通りであった。
なお、ユーティリティアプリケーションソフトウェアー
は、PenTablet_5.3.5-3.exeが、32bit/wIn-
dows7PCで、いっしょに使える。450や470
と、共存させると、例によって誤動作するようであり、
別型番を複数混在させて、使わ無い方が良さそうだ。
なお、別のディスカウントショップが閉店した際に、
今回購入したディスカウントショップが、在庫品を大量
に、肩代わりしたという事が、入荷したばかりの大量の
物品に混じって、このタブレットがホヤホヤで置かれて
いる状態を見て私が、2024年の5月中ばに買ったと
いう事情な為、その物品の履歴も、私には明快に判った。
使わないでほったらかしにして置かれた物が、処分に困っ
て、ゴミ同然で売られたような状態と価格
であった。ドライバCD等が付属しているので。ペンタ
ブレット本体の購入価格としては、私に関しては「二桁
台円」と、過去最低線を記録した。PCとの間のケーブ
ルコードは、ミニやマイクロC端子の無い専用コードだ
が、死蔵品を私が買っただけなので、接触不良という状
況でも特に無く、通電正常であった。そこで少なくとも
前記のように、ペンタブレットの補助ボタンへの登録機
能をチェックする為、CTH-460のユーティリティ
アプリケーションソフトウェアーが、動作させた時に、
正常に呼び出されて来るのかどうかという点には、特に
問題は起こらなかった。ボタンを押したら、雑コマンド
を拾うという事が起こら無いかどうかは、確認し無かっ
た。値段が値段だけに、そのような物品の可能性が有る。
ともあれテストして、使え無い事が判ったが。上記
テストが予想通りで、私にとっては、お詫び文を、この
ブログの記事として書く必要が無いという事になったと
いうわけであり正直ほっとさせられた。そこでテスト後
に飲んだ、それより高価な、コンビニのワンドリンク
カップのコーヒーは、私は今回、とても美味く味わえた
のであった。(2024/05/22)
登録機能が無いと、マニュアルから推定したが、その
話題の以下は続きである。某ディスカウントショップで、
表題のWACOM/BAMBOOの型番十番代が六十の
ペンタブレットの
現物を入手したので、実際にドライバ/ユーティリティ
ソフトを動作させて、補助キーに、ポップアップメニュー
登録機能は無い事を確定
させた。
「WACOM/BAMBOO/CTH-460は、
WACOM/BAMBOO/CTH-470と外見が
ほぼいっしょだし、ユーティリティアプリケーション
ソフトウェアーは、470と460とで、ほぼいっしょ
の形式のユーティリティアプリケーションソフトウェアー
が、立ち上がるようだ」と以前に説明したが、ずばり
その通りであった。
なお、ユーティリティアプリケーションソフトウェアー
は、PenTablet_5.3.5-3.exeが、32bit/wIn-
dows7PCで、いっしょに使える。450や470
と、共存させると、例によって誤動作するようであり、
別型番を複数混在させて、使わ無い方が良さそうだ。
なお、別のディスカウントショップが閉店した際に、
今回購入したディスカウントショップが、在庫品を大量
に、肩代わりしたという事が、入荷したばかりの大量の
物品に混じって、このタブレットがホヤホヤで置かれて
いる状態を見て私が、2024年の5月中ばに買ったと
いう事情な為、その物品の履歴も、私には明快に判った。
使わないでほったらかしにして置かれた物が、処分に困っ
て、ゴミ同然で売られたような状態と価格
であった。ドライバCD等が付属しているので。ペンタ
ブレット本体の購入価格としては、私に関しては「二桁
台円」と、過去最低線を記録した。PCとの間のケーブ
ルコードは、ミニやマイクロC端子の無い専用コードだ
が、死蔵品を私が買っただけなので、接触不良という状
況でも特に無く、通電正常であった。そこで少なくとも
前記のように、ペンタブレットの補助ボタンへの登録機
能をチェックする為、CTH-460のユーティリティ
アプリケーションソフトウェアーが、動作させた時に、
正常に呼び出されて来るのかどうかという点には、特に
問題は起こらなかった。ボタンを押したら、雑コマンド
を拾うという事が起こら無いかどうかは、確認し無かっ
た。値段が値段だけに、そのような物品の可能性が有る。
ともあれテストして、使え無い事が判ったが。上記
テストが予想通りで、私にとっては、お詫び文を、この
ブログの記事として書く必要が無いという事になったと
いうわけであり正直ほっとさせられた。そこでテスト後
に飲んだ、それより高価な、コンビニのワンドリンク
カップのコーヒーは、私は今回、とても美味く味わえた
のであった。(2024/05/22)