熊澤良尊配列108枚大将棋は十二支方位天地逆か(長さん)
今回は、十干十二支という中国伝来文化を
取り入れた、西暦1300年前後の108
枚制の本ブログ版仮説普通唱導集大将棋で、
第2段目猛虎からの袖配列を、熊澤良尊型
二中歴大将棋風に変更すると、天を象徴す
る鳳凰駒と、地を象徴する麒麟駒の関係が、
アベコベになってしまうという、風水学的
問題について一考する。
「観測者」を駒を並べた自分では無くて、
対局する相手の棋士だと考えれば、矛盾が
一応回避できる。
何を言っているのかを、以下に説明する。
本ブログでは従来、オモテ駒の配列が以下
のような108枚制13升目大将棋が、
普通唱導集の大将棋であると主張している。
駒名を書いただけでは内容が無いので、
以下に主題とは直接関連が無いが補足する。
一段目銅将と鉄将は既に、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄のルールになっている。
鉄将は横へは行けなくなってしまった。
2段目中央酔象は「大阪電気通信大学高見
研究室の飛龍のルールだが跳べない+1動
でも良い」である。太子に成る。つまり、
生駒は今で言う、飛龍だったと考えられる。
2段目麒麟は、前後左右には跳ぶと認識さ
れず、猫叉の動き2回の踊りである。王将
2回繰り返し動きの、古風な獅子に成る。
2段目鳳凰は、中将棋の鳳凰である。奔王
に成る。
猛虎は、現在の猫叉動きである。以下紛れ
ないように、中将棋の動きになった時点で、
「盲虎」と簡略的に表記する。
猛牛は「大阪電気通信大学ルールの猛牛だ
が跳べない+1動でも良い」であるものと、
以下仮定して議論する。
猛牛についてだけ、今回は注意すればよい。
嗔猪は後退できる。銅将が進化したので、
それで問題は無い。
飛龍は、角行の動きに類似で、隣には止ま
れない。塞象眼有のシャンチー象類似。
横行は後退できる。
奔王・龍王・龍馬・酔象・麒麟・鳳凰・
王将・玉将・金将以外は、麒麟抄成立直後
の混乱期であり、成りはローカルルール
乱立。飛車は金将に成る可能性もあり。
仲人は成るとすれば、金将成のケースだけ。
いわゆる酔象の動きと、盲虎の動きを、上
記の普通唱導集大将棋はせず、それらは、
中将棋が成立で調整整備されたとみられる。
まだ問題が有るかもしれないが書いてい
ると本題に入れないので以上程度で止める。
なお、普通唱導集の大将棋の項の内容が、
上記のように認識すると、上手い戦法とい
う意味に、ピタリとハマるというのが本
ブログで、上記のルールで提案している根
拠。だが冒頭で述べた注記群は幸いほぼ影
響が無い。龍馬、角行、仲人、嗔猪、桂馬、
飛車、反車、香車、そして恐らく奔王が、
現代でも知られたルールと、大差無ければ、
この配列で、普通唱導集大将棋の唱導内容
と合致すると、私は見ているからである。
これについては現在では、普通唱導集の
大将棋の解釈に関する、本ブログの内容を
サポートする別の出土史料が在る。すなわ
ち、鎌倉考古学研究所の河野真知郎氏らに
より発掘され、集成鎌倉の墨書でも紹介さ
れている、鎌倉駅駅前のロータリーで現在、
駐輪所の有るというあたりで西暦1984
年前後に出土した、反対開き防止ストッパー
付きの、飾り扇子の破片かもしれない、裏
に奇妙な筋突起の有るという出土木製品に、
墨書が有ると検知しスケッチされ、「搦・
・・王馬馬仲」と墨書と発表の物品の事で
有る。これは普通唱導集内容の更に前段の
指し方記載ではないかと、本ブログ管理人
に疑われている。補うと「搦角行角行奔王
馬馬仲人横行」になるからである。なお仮
に、盛り場のある種の商業店舗を、遊び人
の客が訪れた事を、歓迎し配布した、飾り
扇子置物の破片であるとして、そうした
来訪記念物品を顧客に配布していたのは、
西暦1300年前後の神奈川県鎌倉市の、
現在の駅近くに存在した、高級風俗営業店
の類ではないかと、同様に本ブログ管理人
は、共墨書出土品墨書内容から疑っている。
なおこの時代、将棋・囲碁に対しては賭博
目的とされ、表向き禁止の流れが強かった
と取れる話を私は聞き、穏当なカテゴリー
内容の墨書と、個人的には解釈している。
さてそこで、この配列を熊沢良尊型に
したとすれば、以下のようになる。
ここで重要なのは従来、2段目途中の、
猛虎から反車よりも一つ前まのでの両袖に
ついての4枚駒組の配列を、
天球を下から覗いている場合と、地図を空
から見ている場合の十二支方位順に並べた
順番に並んでいるのだろうと、本ブログで
見ている
点である。かつて西暦2017年春将棋プ
ロの佐藤天彦が、栃木県日光市の東照宮で
コンピュータ将棋ソフトポナンザに敗れた
ほんの少し前に、虫食いパズル問題の最後
の空白が「猛牛」駒であると見破れたのは、
今述べた規則に、本ブログの管理人が気が
ついたからであった。
その為、熊沢良尊変更をすると、並びは
以上のように入れ替わると見るのが、妥当
だとみられる。
そこでやっと本題になるのだが、
そうすると両袖共に、左右向きが逆転して、
鳳凰列の右が天を、麒麟列の左が地を表し
ているという事には、いっけんすると、
なら無くなってしまう
のである。前記の注意点に示したように、
横行に猛牛の紐が付くのは熊澤良尊型の
良い所なのであるが・・
しかしよく考えてみると、
配列は敵から見て向きがどうなっているか
だったと考えれば、今度は元の普通唱導集
配列が逆と見なせてしまうのであるが、
熊澤良尊配列が正しい事になる。
つまり駒を並べた味方の人間は、天球儀や
プラネタリウムの投影機の外から天の方位、
地の底から上を見上げて地図を見ているの
であり、観測者は相手の棋士だという意味
である。
現代で、ゲームをするのに以上のような
風水学的な整合性は、特に問題にする事は
稀なのであろうが。以上のように考えれば、
108枚制13升目の本ブログで仮定した、
普通唱導集時代の大将棋の、生の駒の初期
配列を熊澤良尊型にいじっても、屁理屈を
こねれば、風水方位学的意味との間に、
致命的な、おかしさが生じないようには
できるのに、ごく最近私が気が付いたとい
う次第である。(2023/06/30)
取り入れた、西暦1300年前後の108
枚制の本ブログ版仮説普通唱導集大将棋で、
第2段目猛虎からの袖配列を、熊澤良尊型
二中歴大将棋風に変更すると、天を象徴す
る鳳凰駒と、地を象徴する麒麟駒の関係が、
アベコベになってしまうという、風水学的
問題について一考する。
「観測者」を駒を並べた自分では無くて、
対局する相手の棋士だと考えれば、矛盾が
一応回避できる。
何を言っているのかを、以下に説明する。
本ブログでは従来、オモテ駒の配列が以下
のような108枚制13升目大将棋が、
普通唱導集の大将棋であると主張している。
駒名を書いただけでは内容が無いので、
以下に主題とは直接関連が無いが補足する。
一段目銅将と鉄将は既に、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄のルールになっている。
鉄将は横へは行けなくなってしまった。
2段目中央酔象は「大阪電気通信大学高見
研究室の飛龍のルールだが跳べない+1動
でも良い」である。太子に成る。つまり、
生駒は今で言う、飛龍だったと考えられる。
2段目麒麟は、前後左右には跳ぶと認識さ
れず、猫叉の動き2回の踊りである。王将
2回繰り返し動きの、古風な獅子に成る。
2段目鳳凰は、中将棋の鳳凰である。奔王
に成る。
猛虎は、現在の猫叉動きである。以下紛れ
ないように、中将棋の動きになった時点で、
「盲虎」と簡略的に表記する。
猛牛は「大阪電気通信大学ルールの猛牛だ
が跳べない+1動でも良い」であるものと、
以下仮定して議論する。
猛牛についてだけ、今回は注意すればよい。
嗔猪は後退できる。銅将が進化したので、
それで問題は無い。
飛龍は、角行の動きに類似で、隣には止ま
れない。塞象眼有のシャンチー象類似。
横行は後退できる。
奔王・龍王・龍馬・酔象・麒麟・鳳凰・
王将・玉将・金将以外は、麒麟抄成立直後
の混乱期であり、成りはローカルルール
乱立。飛車は金将に成る可能性もあり。
仲人は成るとすれば、金将成のケースだけ。
いわゆる酔象の動きと、盲虎の動きを、上
記の普通唱導集大将棋はせず、それらは、
中将棋が成立で調整整備されたとみられる。
まだ問題が有るかもしれないが書いてい
ると本題に入れないので以上程度で止める。
なお、普通唱導集の大将棋の項の内容が、
上記のように認識すると、上手い戦法とい
う意味に、ピタリとハマるというのが本
ブログで、上記のルールで提案している根
拠。だが冒頭で述べた注記群は幸いほぼ影
響が無い。龍馬、角行、仲人、嗔猪、桂馬、
飛車、反車、香車、そして恐らく奔王が、
現代でも知られたルールと、大差無ければ、
この配列で、普通唱導集大将棋の唱導内容
と合致すると、私は見ているからである。
これについては現在では、普通唱導集の
大将棋の解釈に関する、本ブログの内容を
サポートする別の出土史料が在る。すなわ
ち、鎌倉考古学研究所の河野真知郎氏らに
より発掘され、集成鎌倉の墨書でも紹介さ
れている、鎌倉駅駅前のロータリーで現在、
駐輪所の有るというあたりで西暦1984
年前後に出土した、反対開き防止ストッパー
付きの、飾り扇子の破片かもしれない、裏
に奇妙な筋突起の有るという出土木製品に、
墨書が有ると検知しスケッチされ、「搦・
・・王馬馬仲」と墨書と発表の物品の事で
有る。これは普通唱導集内容の更に前段の
指し方記載ではないかと、本ブログ管理人
に疑われている。補うと「搦角行角行奔王
馬馬仲人横行」になるからである。なお仮
に、盛り場のある種の商業店舗を、遊び人
の客が訪れた事を、歓迎し配布した、飾り
扇子置物の破片であるとして、そうした
来訪記念物品を顧客に配布していたのは、
西暦1300年前後の神奈川県鎌倉市の、
現在の駅近くに存在した、高級風俗営業店
の類ではないかと、同様に本ブログ管理人
は、共墨書出土品墨書内容から疑っている。
なおこの時代、将棋・囲碁に対しては賭博
目的とされ、表向き禁止の流れが強かった
と取れる話を私は聞き、穏当なカテゴリー
内容の墨書と、個人的には解釈している。
さてそこで、この配列を熊沢良尊型に
したとすれば、以下のようになる。
ここで重要なのは従来、2段目途中の、
猛虎から反車よりも一つ前まのでの両袖に
ついての4枚駒組の配列を、
天球を下から覗いている場合と、地図を空
から見ている場合の十二支方位順に並べた
順番に並んでいるのだろうと、本ブログで
見ている
点である。かつて西暦2017年春将棋プ
ロの佐藤天彦が、栃木県日光市の東照宮で
コンピュータ将棋ソフトポナンザに敗れた
ほんの少し前に、虫食いパズル問題の最後
の空白が「猛牛」駒であると見破れたのは、
今述べた規則に、本ブログの管理人が気が
ついたからであった。
その為、熊沢良尊変更をすると、並びは
以上のように入れ替わると見るのが、妥当
だとみられる。
そこでやっと本題になるのだが、
そうすると両袖共に、左右向きが逆転して、
鳳凰列の右が天を、麒麟列の左が地を表し
ているという事には、いっけんすると、
なら無くなってしまう
のである。前記の注意点に示したように、
横行に猛牛の紐が付くのは熊澤良尊型の
良い所なのであるが・・
しかしよく考えてみると、
配列は敵から見て向きがどうなっているか
だったと考えれば、今度は元の普通唱導集
配列が逆と見なせてしまうのであるが、
熊澤良尊配列が正しい事になる。
つまり駒を並べた味方の人間は、天球儀や
プラネタリウムの投影機の外から天の方位、
地の底から上を見上げて地図を見ているの
であり、観測者は相手の棋士だという意味
である。
現代で、ゲームをするのに以上のような
風水学的な整合性は、特に問題にする事は
稀なのであろうが。以上のように考えれば、
108枚制13升目の本ブログで仮定した、
普通唱導集時代の大将棋の、生の駒の初期
配列を熊澤良尊型にいじっても、屁理屈を
こねれば、風水方位学的意味との間に、
致命的な、おかしさが生じないようには
できるのに、ごく最近私が気が付いたとい
う次第である。(2023/06/30)
改善熊澤良尊型大将棋にトライ可能な悪行追加(長さん)
今回は、現代版大将棋のゲームデザインの話題
である。
本ブログでは、後鳥羽上皇が配流された時代頃、
平安大将棋の2段目と旧3段目の間に、新たに
飛車・横行・竪行・角行・龍馬・龍王・奔王・
龍王・龍馬・角行・竪行・横行・飛車の列が挿入
され、中央旧横行が消えて、角行頭歩兵に、仲人
が2枚追加、注人が消えたと仮定している。
大将棋が鎌倉時代に、徐々に移り変わったという、
溝口和彦流の立場に、元々管理人が立っていたの
が原因だが、今では福島県会津若松市鶴沼B遺跡
の墨書土器の様子等も根拠にしている。
そして、神奈川県鎌倉市横小路遺跡の不成悪行
駒の存在を根拠に、24節気+72候の96枚
に合わせるため、ローカルルールとして旧横行の
位置に、恐らく平安大将棋旧横行と同じ駒の使い
方ルールの、「悪行」を入れ、無理やり94枚制
を96枚制にすることもあったとみている。
平安大将棋は、二中歴に初期配列が記載され、
将棋駒の製作家として著名な熊澤良尊氏が前世紀
に、袖第2列を第4列に移動し、旧袖4列3列目
を、新3列2列に外出しする配列を二中歴の記載
の曖昧性が原因で提案している。この配列は、
新94~96枚制自陣4段大将棋の新横行が下段
に下ろせる為に、序盤に斜め走り駒でそれが集中
攻撃を受けた後に、袖を突破される
余りに自明な戦法が回避できるという長所を持つ。
ので、本ブログでは現代版大将棋として採用して
いる。その為に、表題のようなゲーム名になって
いるのである。
その「自明な戦法」は94~96枚制では無く
て108枚制と見られる為、嗔猪という今紹介し
ている改善熊澤良尊型大将棋には、無い駒が入っ
ているのだが。普通唱導集の大将棋の唱導内容が、
史料のようになっている、実は根本原因でもある
と本ブログでは見ている。脱線し、ごちゃごちゃ
書いて恐縮だが盲虎・猛牛・嗔猪・飛龍配列より、
盲虎・飛龍・嗔猪・猛牛配列の方が、横行下の斜
め効きの飛龍の位置に、前後効きの猛牛がシフト
した配列になる為、問題を回避し易いという事が、
同様に有るのである。
結局、改善熊澤良尊型大将棋は以下のように
初期配列して、1~2段目は平安大将棋の駒の
使い方ルールで、3~5段目は130枚制大将棋
の駒の使い方ルールで遊ぶ、折衷方式を取るとい
うのが基本である。
なお、奔車は飛車と意味が紛らわしいので反車
に名称変更し、飛龍の「超越」は、「角行と類似
だが、シャンチーやチャンギの塞象眼付の2升目
以上の遠くでしか停止出来ない、斜め走り駒」と、
好ましく無い陣形組み換えを、事前防止する為、
そう変える。
さて、今回の鎌倉市横小路遺跡悪行付き96升
目型改善熊澤良尊型大将棋は、結局以下の初期
配列になる。
悪行は後退できないだけが違うだけで、横行に
近く守り駒であり、単に入れれば、元々やや守り
の堅すぎる、後鳥羽上皇時代の本ブログが推定し
た94枚制大将棋系列では、益々欠点が目立つ。
そのため、
攻撃優勢になるように、悪行も歩兵と仲人同様、
玉を詰まなくてもトライ勝ちになる駒の類に加え、
トライ勝ち駒種を元々の2種から3種に増やす
という事を、試しにしてみたという訳である。
そこで、実際に、マイクロソフトのエクセル
シートで、セルの上部をマウスで左クリックして
移動上書きしてゲームを進行させるという、以前
示した、このゲームの遊び方によりチェックした
所、一例では途中経過として次のような局面にな
る事もあった。
上記局面では、先手が有利で、L4位置の先手
歩兵がトライを狙っている上に、先手が7六角行
と指して、後手トライ防止の守りの切り札L1
位置の鉄将取りを掛けている。ので逆に言うと、
後手がかなり苦しい局面である。
しかしながら、更に局面が進んで指し終わりの
段階では、以下のようになる。
すなわち意外にも後手が、1手差で逆転勝利した。
この将棋では、玉将詰めよりもトライ勝ちの方
が出現頻度がかなり高くなるという点で日本将棋
の習慣からみて違和感が若干有る。しかしながら、
ゲームの出来としては、94枚制の冒頭述べた、
悪行無しの場合に比べて、攻撃側優勢にバランス
が少し移動した分、ゲームの出来がより改善され
ているとの印象を私は受けた。
そこで「鎌倉横小路型改善熊澤良尊大将棋」と
でも称して、遊んではどうだろうかと、今回私は
結論したという次第である。(2023/06/29)
である。
本ブログでは、後鳥羽上皇が配流された時代頃、
平安大将棋の2段目と旧3段目の間に、新たに
飛車・横行・竪行・角行・龍馬・龍王・奔王・
龍王・龍馬・角行・竪行・横行・飛車の列が挿入
され、中央旧横行が消えて、角行頭歩兵に、仲人
が2枚追加、注人が消えたと仮定している。
大将棋が鎌倉時代に、徐々に移り変わったという、
溝口和彦流の立場に、元々管理人が立っていたの
が原因だが、今では福島県会津若松市鶴沼B遺跡
の墨書土器の様子等も根拠にしている。
そして、神奈川県鎌倉市横小路遺跡の不成悪行
駒の存在を根拠に、24節気+72候の96枚
に合わせるため、ローカルルールとして旧横行の
位置に、恐らく平安大将棋旧横行と同じ駒の使い
方ルールの、「悪行」を入れ、無理やり94枚制
を96枚制にすることもあったとみている。
平安大将棋は、二中歴に初期配列が記載され、
将棋駒の製作家として著名な熊澤良尊氏が前世紀
に、袖第2列を第4列に移動し、旧袖4列3列目
を、新3列2列に外出しする配列を二中歴の記載
の曖昧性が原因で提案している。この配列は、
新94~96枚制自陣4段大将棋の新横行が下段
に下ろせる為に、序盤に斜め走り駒でそれが集中
攻撃を受けた後に、袖を突破される
余りに自明な戦法が回避できるという長所を持つ。
ので、本ブログでは現代版大将棋として採用して
いる。その為に、表題のようなゲーム名になって
いるのである。
その「自明な戦法」は94~96枚制では無く
て108枚制と見られる為、嗔猪という今紹介し
ている改善熊澤良尊型大将棋には、無い駒が入っ
ているのだが。普通唱導集の大将棋の唱導内容が、
史料のようになっている、実は根本原因でもある
と本ブログでは見ている。脱線し、ごちゃごちゃ
書いて恐縮だが盲虎・猛牛・嗔猪・飛龍配列より、
盲虎・飛龍・嗔猪・猛牛配列の方が、横行下の斜
め効きの飛龍の位置に、前後効きの猛牛がシフト
した配列になる為、問題を回避し易いという事が、
同様に有るのである。
結局、改善熊澤良尊型大将棋は以下のように
初期配列して、1~2段目は平安大将棋の駒の
使い方ルールで、3~5段目は130枚制大将棋
の駒の使い方ルールで遊ぶ、折衷方式を取るとい
うのが基本である。
なお、奔車は飛車と意味が紛らわしいので反車
に名称変更し、飛龍の「超越」は、「角行と類似
だが、シャンチーやチャンギの塞象眼付の2升目
以上の遠くでしか停止出来ない、斜め走り駒」と、
好ましく無い陣形組み換えを、事前防止する為、
そう変える。
さて、今回の鎌倉市横小路遺跡悪行付き96升
目型改善熊澤良尊型大将棋は、結局以下の初期
配列になる。
悪行は後退できないだけが違うだけで、横行に
近く守り駒であり、単に入れれば、元々やや守り
の堅すぎる、後鳥羽上皇時代の本ブログが推定し
た94枚制大将棋系列では、益々欠点が目立つ。
そのため、
攻撃優勢になるように、悪行も歩兵と仲人同様、
玉を詰まなくてもトライ勝ちになる駒の類に加え、
トライ勝ち駒種を元々の2種から3種に増やす
という事を、試しにしてみたという訳である。
そこで、実際に、マイクロソフトのエクセル
シートで、セルの上部をマウスで左クリックして
移動上書きしてゲームを進行させるという、以前
示した、このゲームの遊び方によりチェックした
所、一例では途中経過として次のような局面にな
る事もあった。
上記局面では、先手が有利で、L4位置の先手
歩兵がトライを狙っている上に、先手が7六角行
と指して、後手トライ防止の守りの切り札L1
位置の鉄将取りを掛けている。ので逆に言うと、
後手がかなり苦しい局面である。
しかしながら、更に局面が進んで指し終わりの
段階では、以下のようになる。
すなわち意外にも後手が、1手差で逆転勝利した。
この将棋では、玉将詰めよりもトライ勝ちの方
が出現頻度がかなり高くなるという点で日本将棋
の習慣からみて違和感が若干有る。しかしながら、
ゲームの出来としては、94枚制の冒頭述べた、
悪行無しの場合に比べて、攻撃側優勢にバランス
が少し移動した分、ゲームの出来がより改善され
ているとの印象を私は受けた。
そこで「鎌倉横小路型改善熊澤良尊大将棋」と
でも称して、遊んではどうだろうかと、今回私は
結論したという次第である。(2023/06/29)
金沢文庫の中に新たな将棋関連史料は無い模様(長さん)
今回は、2023年6月20日付けで山川
出版社から新しく出版された成書、「将棋
の日本史」の内容から、神奈川県横浜市の
金沢文庫には残念ながら、将棋史史料が眠っ
ていなかったようだと、本ブログ管理人が、
察したと述べる。
新刊「将棋の日本史」は奥付け第000
ページによると、神奈川県立金沢文庫の学
芸員を歴任された、関東学院大学の永井晋
氏が著者である。
少なくとも本書の第181ページないし
それ以降の「あとがき」に「紙面の都合で
紹介できなかった史料が存在する」と取れ
る表現は、管理人に今のところ発見出来て
いない。そして管理人が見た事の無い史料
が、少なくとも図で本書の何処かに存在し
ているとの感触が、新刊書「将棋の歴史」
で、今のところ私には得られてい無い。
金沢文庫に、本ブログ管理人が知らない
文献が有るので、本書が出版されたのであ
ろうと正直に言うと、事前に勘ぐっていた
ので、私の落胆は相当に大きかった。
将棋史史料が、飛び抜けて希少であると
いう現実を、逆に実証したという結果と
なったように、今のところ私は考えている。
(2023/06/28)
出版社から新しく出版された成書、「将棋
の日本史」の内容から、神奈川県横浜市の
金沢文庫には残念ながら、将棋史史料が眠っ
ていなかったようだと、本ブログ管理人が、
察したと述べる。
新刊「将棋の日本史」は奥付け第000
ページによると、神奈川県立金沢文庫の学
芸員を歴任された、関東学院大学の永井晋
氏が著者である。
少なくとも本書の第181ページないし
それ以降の「あとがき」に「紙面の都合で
紹介できなかった史料が存在する」と取れ
る表現は、管理人に今のところ発見出来て
いない。そして管理人が見た事の無い史料
が、少なくとも図で本書の何処かに存在し
ているとの感触が、新刊書「将棋の歴史」
で、今のところ私には得られてい無い。
金沢文庫に、本ブログ管理人が知らない
文献が有るので、本書が出版されたのであ
ろうと正直に言うと、事前に勘ぐっていた
ので、私の落胆は相当に大きかった。
将棋史史料が、飛び抜けて希少であると
いう現実を、逆に実証したという結果と
なったように、今のところ私は考えている。
(2023/06/28)
直近電機店でMSオフィス・ライセンス入カード販売始まる(長さん)
本ブログでは西暦1230~40年代頃、大将棋に
成りはほぼ無く、その為現代的にはマイクロソフト
のエクセルに、オモテ駒名をセル入力して、マウス
でセルの左上を引っ張り上げて移動させれば、子供
の悪戯遊びのレベルで、94枚制の大将棋が遊べる
と指摘している。それに対する阻害要因はエクセル
を含むマイクロソフトのアプリケーションが高価で、
エクセルが「無い」という新品のパソコン商品が、
個人向け大型電機機器量販店には、すこし前まで
並んでいたという事実がある。
しかしながらごく最近の事だと思うが。量販店は
オプションで追加料金を出せば、マイクロソフト・
オフィスを含む、比較的ポピュラーなパソコンで使
用するアプリケーションソフトのライセンスが得ら
れるように、販売システムを変えるところが出てき
たようである。「エクセルやワードが購入したパソ
コンでは使え無いのか」等と、客に質問される事が
多くなった為なのであろう。
私は埼玉県のヤマダデンキで直近、以上の事を確
認した。ソフトはハードディスク上やSSD上に、
既にインストールはされているが、ライセンスが無
いと、エクセル等のオフィスソフトが使用出来ない
ようになっている状態で、恐らく購入したカード等
に記載されている、プロダクトキーないし、パス
ワードの類を入力して、鍵を外して客がソフトを使
えるようにするという手法なのであろう。
マイクロソフトのエクセルや、中国キングソフト
の表計算ソフトで、後鳥羽上皇時代の94枚制の
大将棋を、歩兵と仲人トライルール有りで指そうと
主張してきた本ブログにとっては、表計算ソフトが、
西暦2020年代になって手に入り辛いという事が
ネックと見えただけに、安堵といったところである。
なお、中古品のディスカウントショップでも、
中古PCを買うと同時に、MSオフィスの今述べた
ライセンス・カードを、PCの15%程度の価格で
購入すると、同様にMSオフィスのライセンスが
付与されるシステムを採用している店が有るのを私
は、ほぼ同時期に見かけている。(2023/06/27)
成りはほぼ無く、その為現代的にはマイクロソフト
のエクセルに、オモテ駒名をセル入力して、マウス
でセルの左上を引っ張り上げて移動させれば、子供
の悪戯遊びのレベルで、94枚制の大将棋が遊べる
と指摘している。それに対する阻害要因はエクセル
を含むマイクロソフトのアプリケーションが高価で、
エクセルが「無い」という新品のパソコン商品が、
個人向け大型電機機器量販店には、すこし前まで
並んでいたという事実がある。
しかしながらごく最近の事だと思うが。量販店は
オプションで追加料金を出せば、マイクロソフト・
オフィスを含む、比較的ポピュラーなパソコンで使
用するアプリケーションソフトのライセンスが得ら
れるように、販売システムを変えるところが出てき
たようである。「エクセルやワードが購入したパソ
コンでは使え無いのか」等と、客に質問される事が
多くなった為なのであろう。
私は埼玉県のヤマダデンキで直近、以上の事を確
認した。ソフトはハードディスク上やSSD上に、
既にインストールはされているが、ライセンスが無
いと、エクセル等のオフィスソフトが使用出来ない
ようになっている状態で、恐らく購入したカード等
に記載されている、プロダクトキーないし、パス
ワードの類を入力して、鍵を外して客がソフトを使
えるようにするという手法なのであろう。
マイクロソフトのエクセルや、中国キングソフト
の表計算ソフトで、後鳥羽上皇時代の94枚制の
大将棋を、歩兵と仲人トライルール有りで指そうと
主張してきた本ブログにとっては、表計算ソフトが、
西暦2020年代になって手に入り辛いという事が
ネックと見えただけに、安堵といったところである。
なお、中古品のディスカウントショップでも、
中古PCを買うと同時に、MSオフィスの今述べた
ライセンス・カードを、PCの15%程度の価格で
購入すると、同様にMSオフィスのライセンスが
付与されるシステムを採用している店が有るのを私
は、ほぼ同時期に見かけている。(2023/06/27)
荻生徂徠広将棋の象。角行動の源はチェスの僧侶(長さん)
6年近く前の事であるが、本ブログで表題件の出所
に対する問題提起を行い、4年程度前に、朝鮮半島
経由で、古代インドのチャトランガ情報が清王朝時
代の将棋史本を通じて、徂徠の時代に伝来している
と回答している。今回は、以上は不自然であり、
西洋チェスのビジョップを、徂徠が知っていただけ
なのではないかと、説自体を変えたと表明する。
中国の将棋史本起源説の根拠になったのは、再掲
すると、象が弩、砲、弓と同じ段に並べられていて
おり、弩、砲、弓は、七国将棋騎、チャンギ象、
シャンチー・チャンギ馬系統の動きをしているとい
う点であった。
しかしこれだけからでは例えば「イスラムシャト
ランジの象が、より古い時代にインドで角行動きで
ある」と、清王朝、徂徠の生きた時代の中国将棋史
本に書いてあるという証拠としては弱い。
中国将棋史本にはむしろイスラムシャトランジ時代
の象は、西洋では今では角行動きのビショップだと、
17世紀には書いてある可能性の方が高い
のではないか。それを、荻生徂徠は読んで、広将棋
の象を角行動きにした可能性の方が、有り得るよう
に直近、私には思えてきた。
江戸時代のチェスといえば、漂流して「知っては
いけない西洋情報を知ってしまった」ために軟禁さ
れた大黒屋光太夫のチェス情報に関する、ものと
人間の文化史110、チェス、増川宏一(2003)
234ページ付近の記載が印象的でほとんどチェス
のルール中身は、日本では算用数字の如くに極秘情
報扱いで、普及してい無いという空気が濃いのだが。
江戸時代の将棋型ゲーム創作家、荻生徂徠クラスと
もなれば、中国文献経由で、中身が察知しようと思
えば出来る程度に、西洋チェス情報の入手は江戸時
代でも出来たのかもしれないのではないかと今では
疑っている。なお、増川宏一は、「指されなかった
が、江戸時代にチェスは存在した」と同著書で、記
している。(2023/06/26)
に対する問題提起を行い、4年程度前に、朝鮮半島
経由で、古代インドのチャトランガ情報が清王朝時
代の将棋史本を通じて、徂徠の時代に伝来している
と回答している。今回は、以上は不自然であり、
西洋チェスのビジョップを、徂徠が知っていただけ
なのではないかと、説自体を変えたと表明する。
中国の将棋史本起源説の根拠になったのは、再掲
すると、象が弩、砲、弓と同じ段に並べられていて
おり、弩、砲、弓は、七国将棋騎、チャンギ象、
シャンチー・チャンギ馬系統の動きをしているとい
う点であった。
しかしこれだけからでは例えば「イスラムシャト
ランジの象が、より古い時代にインドで角行動きで
ある」と、清王朝、徂徠の生きた時代の中国将棋史
本に書いてあるという証拠としては弱い。
中国将棋史本にはむしろイスラムシャトランジ時代
の象は、西洋では今では角行動きのビショップだと、
17世紀には書いてある可能性の方が高い
のではないか。それを、荻生徂徠は読んで、広将棋
の象を角行動きにした可能性の方が、有り得るよう
に直近、私には思えてきた。
江戸時代のチェスといえば、漂流して「知っては
いけない西洋情報を知ってしまった」ために軟禁さ
れた大黒屋光太夫のチェス情報に関する、ものと
人間の文化史110、チェス、増川宏一(2003)
234ページ付近の記載が印象的でほとんどチェス
のルール中身は、日本では算用数字の如くに極秘情
報扱いで、普及してい無いという空気が濃いのだが。
江戸時代の将棋型ゲーム創作家、荻生徂徠クラスと
もなれば、中国文献経由で、中身が察知しようと思
えば出来る程度に、西洋チェス情報の入手は江戸時
代でも出来たのかもしれないのではないかと今では
疑っている。なお、増川宏一は、「指されなかった
が、江戸時代にチェスは存在した」と同著書で、記
している。(2023/06/26)
鳥取県倉吉市小鴨道祖神遺跡で古代泰山土器(長さん)
今回は鳥取県の大山の北東方倉吉市の、
表題小鴨川沿いの遺跡で、平安初期成立
と見られる土器の破片に、大山等を奉じ
たと疑われる、「奉山」と刻書ないし、
墨書のような模様のある土器のカケラが、
比較的最近に出土しているとの旨の紹介
である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
131734_1_小鴨道祖神遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
鳥取県教育文化財団調査報告書121小鴨道祖神遺跡、
2020年、公益財団法人鳥取県教育文化財団。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は、鳥取県倉吉市小鴨字道祖神、及び、
北野字天神野。発掘報告書末尾抄録によ
り遺物が出土したのは、西暦2019年
前後の最近のようである。なお付近では、
花崗岩質の土壌に含まれる鉄分を採取し、
すなわち地元の原料を使って古くから、
タタラ製鉄が行われている事で知られて
いるとの事である。
遺物の成立年代は、ここで紹介する
遺物は、第3区の第736番土坑で出土
したが、発掘報告書第157ページ付近
の記載により、8世紀末から9世紀前半
の平安時代初と考えられているように、
私には読み取れる。
遺物の写真は写真図版第96の最下段
右端に在り、土器類の遺物番号第105
番(Po105)との旨、ナンバリング
されている。何らかの土器の破片のよう
である。
上図のように、図の右下に刻書ないし
墨書で細く漢字で「山」と書かれたよう
な模様が有り、その左上に恐らく「奉」
の字に私には見える、やや不明確な暗い
模様が有るように私には見える。
古代に南西側に見える大山等の山々を、
鉱物資源等を産する自然の恵みとして奉
じて、識字層が作成した、文字を書いた
または彫った土器の一部が発掘されたの
ではないかと私は疑う。(2023/06/25)
表題小鴨川沿いの遺跡で、平安初期成立
と見られる土器の破片に、大山等を奉じ
たと疑われる、「奉山」と刻書ないし、
墨書のような模様のある土器のカケラが、
比較的最近に出土しているとの旨の紹介
である。
遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
131734_1_小鴨道祖神遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
鳥取県教育文化財団調査報告書121小鴨道祖神遺跡、
2020年、公益財団法人鳥取県教育文化財団。
発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は、鳥取県倉吉市小鴨字道祖神、及び、
北野字天神野。発掘報告書末尾抄録によ
り遺物が出土したのは、西暦2019年
前後の最近のようである。なお付近では、
花崗岩質の土壌に含まれる鉄分を採取し、
すなわち地元の原料を使って古くから、
タタラ製鉄が行われている事で知られて
いるとの事である。
遺物の成立年代は、ここで紹介する
遺物は、第3区の第736番土坑で出土
したが、発掘報告書第157ページ付近
の記載により、8世紀末から9世紀前半
の平安時代初と考えられているように、
私には読み取れる。
遺物の写真は写真図版第96の最下段
右端に在り、土器類の遺物番号第105
番(Po105)との旨、ナンバリング
されている。何らかの土器の破片のよう
である。
上図のように、図の右下に刻書ないし
墨書で細く漢字で「山」と書かれたよう
な模様が有り、その左上に恐らく「奉」
の字に私には見える、やや不明確な暗い
模様が有るように私には見える。
古代に南西側に見える大山等の山々を、
鉱物資源等を産する自然の恵みとして奉
じて、識字層が作成した、文字を書いた
または彫った土器の一部が発掘されたの
ではないかと私は疑う。(2023/06/25)
仲房、将棋其法度皆忘でなく将棋其馬行方皆忘は何故(長さん)
本ブログでは従来、児教訓を新しい方の極限と
して普通唱導集頃に、小将棋の持ち駒ルールが
開始されたとみている。では、その時代に持ち
駒ルールは無いという、古い方の極限は何時ご
ろかを問題にする。そして藤原定家の明月記の
西暦1213年、四位仲房、此間聊病気・・の
記載が、日本の将棋に持ち駒ルールが、ほぼ無
かった古いほうの極限、年数の数値が小さいと
いう限界、下限値であるとの旨今回は指摘する。
なお、少なくとも発掘報告書全般の記載を見る
限り、歴史学会では、年代の上限・下限の用法
が、本ブログ管理人の言い回しと、慣用的に逆
である。西暦を慣用しないので、困らないから
なのかもしれない。
さて藤原定家の明月記(西暦1213年
(建暦3年)宣明暦4月27日)の記述は、
以前にも紹介したが以下のようになっている。
「四位仲房、此間聊病気、昨日自云、心神已不
弁前後太惘然、是已及死期、試差将棋、即與侍
男始将棋、其馬行方皆忘、不終一盤云、已以爲
覚悟、是即死期也、太心細、慾見家中懸、侍男
巡見家中了、安坐念佛二百反、即終命、不幸短
命太可悲」
表題に書いたように、将棋其馬行方皆忘が、
将棋其法度皆忘になっておらず、二歩は駄目、
打ち歩詰めは駄目といった、将棋駒の動かし方
というカテゴリー以外の、将棋類のゲームの
ルールに関する
他のカテゴリーを問題にしてい無いのが特徴
である。
つまり、西暦1213年時点で複数の将棋種
が仮に有るとして、将棋駒の動かし方ルールと
いうカテゴリーの事項を、同じパターンで機械
的に記憶していれば、ほぼ全部の将棋種が指せ
るという性質であったと見られるという点で、
ルールブックのコンテンツがそれなりの字数に
なる、小将棋の持ち駒ルール等、他のカテゴリー
の形式の将棋ルール族は、ほぼ存在し無い
と見た方が、尤もらしいという事である。だか
ら、取り捨て将棋しか存在し無いという事にな
るのである。
更に補足しよう。天皇付では無いが少なくと
も正四位か従四位の葉室仲房は、成りのルール
は「駒が人間である場合は玉将以外は金将成り
であり、前進しか出来ない駒ないし、盤の自陣
同一筋後方に、前進しか出来ない自駒が有って、
その駒自身が前進または後退しか出来ない駒は、
人間で無くても金将に成る」と覚えて、この時
点で1本で済ませていた疑いが濃いと、私は考
える。
つまり二中歴の「如是一方如此行方准之」は、
(注人者)如是一方如此成方准之(歩兵)であ
り、「盤の自陣同一筋後方に、前進しか出来な
い自駒が有って、その駒自身が前進または後退
しか出来ない駒は、人間で無くても金将に成る」
の一例であると葉室仲房が見ていたと本ブログ
では解釈するという意味である。なお何度か繰
り返す事になってしまったが、本ブログでは、
(注人者)如是一方如此行方准之(歩兵)は、
仲人(または注人)不行傍。立聖目内成酔象
(後者は金将)と同じ「心」であると見ている。
そして
本ブログでは、配流の頃の後鳥羽上皇時代後期
に大将棋が、天皇所持の将棋道具が窃盗に逢わ
ないようにするという、主として管理目的の為、
ゲームの出来とは余り関係なく、小将棋と区別
されて全不成になった
とも考えているのである。それまでは葉室仲房
式将棋ルールの記憶パターンで良かったという
意味である。なお晩年の藤原定家は当然、将棋
ルールの鎌倉時代の急速な変動は、熟知してい
たに違いないと考える。また管理目的で、双玉
にもしただろう。後鳥羽小将棋は双王と考える。
後にそれが豊臣秀次の切腹を恐らく招いたのだ。
以上の事から、西暦1213年(建暦3年)
宣明暦4月27日時点では、将棋にかなり詳し
いとみられる葉室仲房や、復唱した藤原定家が
知らない程度しか、持ち駒ルールは普及してい
無かった。以上のように見るというのが、本ブ
ログの見方という事になる。(2023/06/24)
して普通唱導集頃に、小将棋の持ち駒ルールが
開始されたとみている。では、その時代に持ち
駒ルールは無いという、古い方の極限は何時ご
ろかを問題にする。そして藤原定家の明月記の
西暦1213年、四位仲房、此間聊病気・・の
記載が、日本の将棋に持ち駒ルールが、ほぼ無
かった古いほうの極限、年数の数値が小さいと
いう限界、下限値であるとの旨今回は指摘する。
なお、少なくとも発掘報告書全般の記載を見る
限り、歴史学会では、年代の上限・下限の用法
が、本ブログ管理人の言い回しと、慣用的に逆
である。西暦を慣用しないので、困らないから
なのかもしれない。
さて藤原定家の明月記(西暦1213年
(建暦3年)宣明暦4月27日)の記述は、
以前にも紹介したが以下のようになっている。
「四位仲房、此間聊病気、昨日自云、心神已不
弁前後太惘然、是已及死期、試差将棋、即與侍
男始将棋、其馬行方皆忘、不終一盤云、已以爲
覚悟、是即死期也、太心細、慾見家中懸、侍男
巡見家中了、安坐念佛二百反、即終命、不幸短
命太可悲」
表題に書いたように、将棋其馬行方皆忘が、
将棋其法度皆忘になっておらず、二歩は駄目、
打ち歩詰めは駄目といった、将棋駒の動かし方
というカテゴリー以外の、将棋類のゲームの
ルールに関する
他のカテゴリーを問題にしてい無いのが特徴
である。
つまり、西暦1213年時点で複数の将棋種
が仮に有るとして、将棋駒の動かし方ルールと
いうカテゴリーの事項を、同じパターンで機械
的に記憶していれば、ほぼ全部の将棋種が指せ
るという性質であったと見られるという点で、
ルールブックのコンテンツがそれなりの字数に
なる、小将棋の持ち駒ルール等、他のカテゴリー
の形式の将棋ルール族は、ほぼ存在し無い
と見た方が、尤もらしいという事である。だか
ら、取り捨て将棋しか存在し無いという事にな
るのである。
更に補足しよう。天皇付では無いが少なくと
も正四位か従四位の葉室仲房は、成りのルール
は「駒が人間である場合は玉将以外は金将成り
であり、前進しか出来ない駒ないし、盤の自陣
同一筋後方に、前進しか出来ない自駒が有って、
その駒自身が前進または後退しか出来ない駒は、
人間で無くても金将に成る」と覚えて、この時
点で1本で済ませていた疑いが濃いと、私は考
える。
つまり二中歴の「如是一方如此行方准之」は、
(注人者)如是一方如此成方准之(歩兵)であ
り、「盤の自陣同一筋後方に、前進しか出来な
い自駒が有って、その駒自身が前進または後退
しか出来ない駒は、人間で無くても金将に成る」
の一例であると葉室仲房が見ていたと本ブログ
では解釈するという意味である。なお何度か繰
り返す事になってしまったが、本ブログでは、
(注人者)如是一方如此行方准之(歩兵)は、
仲人(または注人)不行傍。立聖目内成酔象
(後者は金将)と同じ「心」であると見ている。
そして
本ブログでは、配流の頃の後鳥羽上皇時代後期
に大将棋が、天皇所持の将棋道具が窃盗に逢わ
ないようにするという、主として管理目的の為、
ゲームの出来とは余り関係なく、小将棋と区別
されて全不成になった
とも考えているのである。それまでは葉室仲房
式将棋ルールの記憶パターンで良かったという
意味である。なお晩年の藤原定家は当然、将棋
ルールの鎌倉時代の急速な変動は、熟知してい
たに違いないと考える。また管理目的で、双玉
にもしただろう。後鳥羽小将棋は双王と考える。
後にそれが豊臣秀次の切腹を恐らく招いたのだ。
以上の事から、西暦1213年(建暦3年)
宣明暦4月27日時点では、将棋にかなり詳し
いとみられる葉室仲房や、復唱した藤原定家が
知らない程度しか、持ち駒ルールは普及してい
無かった。以上のように見るというのが、本ブ
ログの見方という事になる。(2023/06/24)
福島県会津若松市上吉田遺跡で古代奔人墨書土器(長さん)
今回は、「歩立馬奔王(空白)玉」墨書土器
片が出土した会津若松市高野町鶴沼B遺跡の
南1キロ圏内の上吉田遺跡で、秦人と読める
墨書遺物が出土しているとの旨の紹介である。
平安時代後期の秦氏に関連した武士団また
は豪族の居住を示唆しているのかもしれない。
遺物はスケッチ図だけweb上に公開され、
遺跡研究紀要に載っている。その研究冊子が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
研究紀要のpdfファイル名は以下である。
86293_1_福島県文化財センター白河館研究紀要.pdf
研究紀要の名称は、以下の通りである。
福島県文化財センター白河館研究紀要、2017、
公益財団法人福島県文化振興財団
福島県文化財センター白河館。
遺跡の場所は、以下のpdfの別の文献に
載っている。
86298_1_福島県内遺跡分布調査報告.pdf
後者の報告の名称は以下の通り。
福島県文化財調査報告書第521集
福島県内遺跡分布調査報告24、西暦2017年、
福島県教育委員会。
後者の第36ページ付近により遺跡の場所
は福島県会津若松市会高野町上高野字村北。
遺物が出土したのは、先の白河館研究紀要
文献の第105ページにより概ね1980年
代の後半程度のように推定される。なぜなら
上吉田遺跡自体の発掘報告書が西暦1991
年前後に発行されていると、注記されている
からである。
遺物の成立年代は、後者福島県内遺跡分布
調査報告の、第31ページ付近の表により、
遺跡自体が、ほぼ鶴沼B遺跡と同じで、古代
が中心であると見られているように読み取れ
る。遺物により判断されるが秦氏が渡来した
古代であると仮定して、以下議論する。
遺物のスケッチ図は白河館研究紀要文献の
第106ページ付近の図で上カラムの第1図
”会津地方における墨書土器”の中段中央に
あり、その図の第5番で上吉田遺跡で出土し
た旨が、右下に付記されている。
もとの発掘報告書が、奈良文化財研究所の
データベースの全国遺跡報告総覧等で見つか
らないため、写真でどのように見えるのか、
今のところ私にはわからない。紀要のように
「秦人」と読める可能性も高く、遺跡の場所
に、一例では平安時代後期に豪族が元々居て、
少しずつ豪族か武士団化していたとも考えら
れる。そして武士団は、祖先が渡来人の秦氏
であると名乗っていて、使用者の名前を表現
のつもりで「秦人」と墨書きしたようにも私
には見える。律令集落があり、平安時代には
識字層も居住しているという環境が、鶴沼B
遺跡や上吉田遺跡の周辺に、広がっていたの
かもしれないと私は考える。(2023/06/23)
片が出土した会津若松市高野町鶴沼B遺跡の
南1キロ圏内の上吉田遺跡で、秦人と読める
墨書遺物が出土しているとの旨の紹介である。
平安時代後期の秦氏に関連した武士団また
は豪族の居住を示唆しているのかもしれない。
遺物はスケッチ図だけweb上に公開され、
遺跡研究紀要に載っている。その研究冊子が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
研究紀要のpdfファイル名は以下である。
86293_1_福島県文化財センター白河館研究紀要.pdf
研究紀要の名称は、以下の通りである。
福島県文化財センター白河館研究紀要、2017、
公益財団法人福島県文化振興財団
福島県文化財センター白河館。
遺跡の場所は、以下のpdfの別の文献に
載っている。
86298_1_福島県内遺跡分布調査報告.pdf
後者の報告の名称は以下の通り。
福島県文化財調査報告書第521集
福島県内遺跡分布調査報告24、西暦2017年、
福島県教育委員会。
後者の第36ページ付近により遺跡の場所
は福島県会津若松市会高野町上高野字村北。
遺物が出土したのは、先の白河館研究紀要
文献の第105ページにより概ね1980年
代の後半程度のように推定される。なぜなら
上吉田遺跡自体の発掘報告書が西暦1991
年前後に発行されていると、注記されている
からである。
遺物の成立年代は、後者福島県内遺跡分布
調査報告の、第31ページ付近の表により、
遺跡自体が、ほぼ鶴沼B遺跡と同じで、古代
が中心であると見られているように読み取れ
る。遺物により判断されるが秦氏が渡来した
古代であると仮定して、以下議論する。
遺物のスケッチ図は白河館研究紀要文献の
第106ページ付近の図で上カラムの第1図
”会津地方における墨書土器”の中段中央に
あり、その図の第5番で上吉田遺跡で出土し
た旨が、右下に付記されている。
もとの発掘報告書が、奈良文化財研究所の
データベースの全国遺跡報告総覧等で見つか
らないため、写真でどのように見えるのか、
今のところ私にはわからない。紀要のように
「秦人」と読める可能性も高く、遺跡の場所
に、一例では平安時代後期に豪族が元々居て、
少しずつ豪族か武士団化していたとも考えら
れる。そして武士団は、祖先が渡来人の秦氏
であると名乗っていて、使用者の名前を表現
のつもりで「秦人」と墨書きしたようにも私
には見える。律令集落があり、平安時代には
識字層も居住しているという環境が、鶴沼B
遺跡や上吉田遺跡の周辺に、広がっていたの
かもしれないと私は考える。(2023/06/23)
藤原定家は13世紀初水無瀬離宮の後鳥羽上皇将棋言及(長さん)
今回は明月記で「かに星雲超新星」への興味
や、藤原定家の将棋好きは又聞きしていたも
のの、実際に本ブログの管理人が明月記を、
通読・調査したことが皆無だったことから来
る、将棋関連情報収集の手落ちという初歩的
失敗談の紹介である。
和歌だけでなく、将棋グループとしても、
藤原定家は後鳥羽天皇~上皇と繋がっている
証拠となる記載が、明月記にあったとの事で
ある。
情報を発見した文献はweb上に公開され、
実は発掘報告書を集めたデータベースに登録
されていた。大阪府三島郡島本町の発行した
文献で、奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧にも、登録公開され
ていたのである。
文献のpdfファイル名は以下の通り。
129400_1_島本町文化財調査報告書.pdf
文献名は以下の通りである。
発行日西暦2004年3月、大阪府三島郡
島本町教育委員会、島本町文化財調杏報告書第6集、
「詩歌としまもと」。
島本町水無瀬に、西暦1200年前後に
水無瀬離宮が造営され、後鳥羽上皇を中心に
そこで将棋が指された事を、他の文献ばかり
ではなくて、将棋を嗜む事が天体の超新星の
興味や和歌に関する熟達だけでなくて著名な
貴族、藤原定家が記しているとの内容である。
なお、後鳥羽天皇が上皇になり院政を始めた
のが、その2年位前ではないかと、私は承知
している。
文献の27ページ付近には、具体的に以下
のように記されている。”水無瀬離宮の行幸
にしばしば供奉した藤原定家は、自身の日記
『明月記』の中で、院が贅を尽くした離宮に
家臣ならびに遊女を集め、花実、紅葉狩りに
囲碁や将棋、歌舞に乗馬と遊びに明け暮れて
いたと記している。”ということである。
角川日本史辞典で藤原定家を説明する部分
で、和歌での後鳥羽上皇との関連が記載され
る点から見ても、①和歌での同天皇との関係
が定家の代表的な活動成果である事。また、
増川宏一の「将棋の歴史」の中で第43ペー
ジ付近で、②摂政殿下九条兼実の将棋サロン
に藤原定家が出入りしている点、後鳥羽上皇
関連で、大日本史料を元史料として③上皇家
臣が将棋を指している様子を配流先で、
後鳥羽上皇が眺めていた一件の記載ば在り、
以上の3点は、従来より本ブログの管理人も
情報の存在を承知していた。しかしながら、
将棋分野で後鳥羽天皇~上皇サロンと将棋を
するという意味での藤原定家のつながりが、
明月記に示唆されているとして紹介されたと
いう情報は、増川宏一の将棋Ⅱが未チェック
だったせいがあったのかもしれないが、私に
とっては初耳の情報収集の大穴であった。
葉室仲房の「将棋駒使い方に関するルール
忘れ」に出てくる将棋種も、鳥羽離宮出土駒
で「小将棋だけ成りが有るので成成り金将駒」
を意味する出土駒のの出土例から、大将棋と
小将棋を網羅して、全てを指すのがこれで
ほぼ自明になったし、後鳥羽上皇グループが
指したと私の見る、後鳥羽期94枚制自陣
4段型大将棋を、藤原定家とその仲間が西暦
1200年代初の時点で、68枚制自陣3段
型二中歴大将棋と、改善動機から共存して
指していただろうとの以前に表明した仮説も、
ほぼ確実になったのではないかと私には認識
できる、大きな情報収集の成果となった。
よって島本町が水無瀬離宮を説明した下り
の前述発行文献の記載は重大である。上記の
ように認識出来ると私は考える。(2023/06/22)
や、藤原定家の将棋好きは又聞きしていたも
のの、実際に本ブログの管理人が明月記を、
通読・調査したことが皆無だったことから来
る、将棋関連情報収集の手落ちという初歩的
失敗談の紹介である。
和歌だけでなく、将棋グループとしても、
藤原定家は後鳥羽天皇~上皇と繋がっている
証拠となる記載が、明月記にあったとの事で
ある。
情報を発見した文献はweb上に公開され、
実は発掘報告書を集めたデータベースに登録
されていた。大阪府三島郡島本町の発行した
文献で、奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧にも、登録公開され
ていたのである。
文献のpdfファイル名は以下の通り。
129400_1_島本町文化財調査報告書.pdf
文献名は以下の通りである。
発行日西暦2004年3月、大阪府三島郡
島本町教育委員会、島本町文化財調杏報告書第6集、
「詩歌としまもと」。
島本町水無瀬に、西暦1200年前後に
水無瀬離宮が造営され、後鳥羽上皇を中心に
そこで将棋が指された事を、他の文献ばかり
ではなくて、将棋を嗜む事が天体の超新星の
興味や和歌に関する熟達だけでなくて著名な
貴族、藤原定家が記しているとの内容である。
なお、後鳥羽天皇が上皇になり院政を始めた
のが、その2年位前ではないかと、私は承知
している。
文献の27ページ付近には、具体的に以下
のように記されている。”水無瀬離宮の行幸
にしばしば供奉した藤原定家は、自身の日記
『明月記』の中で、院が贅を尽くした離宮に
家臣ならびに遊女を集め、花実、紅葉狩りに
囲碁や将棋、歌舞に乗馬と遊びに明け暮れて
いたと記している。”ということである。
角川日本史辞典で藤原定家を説明する部分
で、和歌での後鳥羽上皇との関連が記載され
る点から見ても、①和歌での同天皇との関係
が定家の代表的な活動成果である事。また、
増川宏一の「将棋の歴史」の中で第43ペー
ジ付近で、②摂政殿下九条兼実の将棋サロン
に藤原定家が出入りしている点、後鳥羽上皇
関連で、大日本史料を元史料として③上皇家
臣が将棋を指している様子を配流先で、
後鳥羽上皇が眺めていた一件の記載ば在り、
以上の3点は、従来より本ブログの管理人も
情報の存在を承知していた。しかしながら、
将棋分野で後鳥羽天皇~上皇サロンと将棋を
するという意味での藤原定家のつながりが、
明月記に示唆されているとして紹介されたと
いう情報は、増川宏一の将棋Ⅱが未チェック
だったせいがあったのかもしれないが、私に
とっては初耳の情報収集の大穴であった。
葉室仲房の「将棋駒使い方に関するルール
忘れ」に出てくる将棋種も、鳥羽離宮出土駒
で「小将棋だけ成りが有るので成成り金将駒」
を意味する出土駒のの出土例から、大将棋と
小将棋を網羅して、全てを指すのがこれで
ほぼ自明になったし、後鳥羽上皇グループが
指したと私の見る、後鳥羽期94枚制自陣
4段型大将棋を、藤原定家とその仲間が西暦
1200年代初の時点で、68枚制自陣3段
型二中歴大将棋と、改善動機から共存して
指していただろうとの以前に表明した仮説も、
ほぼ確実になったのではないかと私には認識
できる、大きな情報収集の成果となった。
よって島本町が水無瀬離宮を説明した下り
の前述発行文献の記載は重大である。上記の
ように認識出来ると私は考える。(2023/06/22)
神奈川県鎌倉市由比ガ浜墓跡で鎌倉後木奔カワラケ(長さん)
今回は、成書「集成鎌倉の墨書」のスケッチ
図の中に、「木奉宅急」あるいは「木奉令急」
のように書かれたカワラケが載っているとの
旨の紹介である。よく読めば「禾奉令急」と
書かれ、僧侶かもしれない後玄という人物が、
神棚へ収穫物を、急いで奉納したという意味
かもしれないと私見する。
遺物写真が成書鎌倉考古学研究所2017
年2月出版の「集成鎌倉の墨書」に載ってい
て、鎌倉市教育委員会が西暦1993年3月
に発行した「鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告
書9」(第1分冊)のスケッチ図と同じとい
うことである。奈良文化財研究所発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧には書誌情
報しか無くpdfファイルは登録されてない。
なお蛇足だが、2023年6月20/21日
の深夜にメインテナンスが有ったか。サイト
がダウンしていて私には確認出来ず、web
上の公開状況は、後に確認した。
さて遺跡は神奈川県鎌倉市由比ガ浜二丁目
1034番1にあり遺跡の名称は「由比ガ浜
中世集団墓地遺跡」との事である。出土した
のは、西暦1990年前後の事であろうと私
は、全国遺跡報告総覧の書誌から推測する。
遺物の成立年代は、成書「集成鎌倉の墨書」
の、第40ページの最上段”かわらけ・
白かわらけのスケッチ図”番号第217の下
ラベル表示により、遺物は層序で中世上層に
分類した所で検出された、竪穴建物跡(方形)
第133号で出土したが、13世紀後半から
14世紀前半の、鎌倉期後期の成立であると
考えられているようである。なお同地層で、
文永9年記載の出土物があったとの事である。
遺物のスケッチ図は繰り返すと前記成書の
第40ページ筆頭にある。発掘担当者は、
明らかに墨書があると見て、全部で内面反時
計回り横倒し4文字、外側に天地逆に後玄と
いう僧侶名かと本ブログの管理人が見た文字
をスケッチしている。
横倒し4文字に着目すると「禾奉宅急」と
か「禾奉令急」をスケッチしたようにも私見
され、「宅急」が鎌倉時代にどのような意味
なのか、私には不明である。が、令急なら
「急々如律令」の意味で、副詞句「瞬く間に」
だろうと解釈出来るように思う。寺の畑で秋
収穫した作物を、神仏習合の由比ガ浜の寺院
で後玄という僧侶が、早々に神棚に奉納した
とカワラケに書き、その作物をその上に乗せ、
鎌倉時代後半西暦1272年前後に、収穫祭
をしたといった状態が、私には目に浮かぶよ
うな気がする。(2023/06/21)
図の中に、「木奉宅急」あるいは「木奉令急」
のように書かれたカワラケが載っているとの
旨の紹介である。よく読めば「禾奉令急」と
書かれ、僧侶かもしれない後玄という人物が、
神棚へ収穫物を、急いで奉納したという意味
かもしれないと私見する。
遺物写真が成書鎌倉考古学研究所2017
年2月出版の「集成鎌倉の墨書」に載ってい
て、鎌倉市教育委員会が西暦1993年3月
に発行した「鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告
書9」(第1分冊)のスケッチ図と同じとい
うことである。奈良文化財研究所発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧には書誌情
報しか無くpdfファイルは登録されてない。
なお蛇足だが、2023年6月20/21日
の深夜にメインテナンスが有ったか。サイト
がダウンしていて私には確認出来ず、web
上の公開状況は、後に確認した。
さて遺跡は神奈川県鎌倉市由比ガ浜二丁目
1034番1にあり遺跡の名称は「由比ガ浜
中世集団墓地遺跡」との事である。出土した
のは、西暦1990年前後の事であろうと私
は、全国遺跡報告総覧の書誌から推測する。
遺物の成立年代は、成書「集成鎌倉の墨書」
の、第40ページの最上段”かわらけ・
白かわらけのスケッチ図”番号第217の下
ラベル表示により、遺物は層序で中世上層に
分類した所で検出された、竪穴建物跡(方形)
第133号で出土したが、13世紀後半から
14世紀前半の、鎌倉期後期の成立であると
考えられているようである。なお同地層で、
文永9年記載の出土物があったとの事である。
遺物のスケッチ図は繰り返すと前記成書の
第40ページ筆頭にある。発掘担当者は、
明らかに墨書があると見て、全部で内面反時
計回り横倒し4文字、外側に天地逆に後玄と
いう僧侶名かと本ブログの管理人が見た文字
をスケッチしている。
横倒し4文字に着目すると「禾奉宅急」と
か「禾奉令急」をスケッチしたようにも私見
され、「宅急」が鎌倉時代にどのような意味
なのか、私には不明である。が、令急なら
「急々如律令」の意味で、副詞句「瞬く間に」
だろうと解釈出来るように思う。寺の畑で秋
収穫した作物を、神仏習合の由比ガ浜の寺院
で後玄という僧侶が、早々に神棚に奉納した
とカワラケに書き、その作物をその上に乗せ、
鎌倉時代後半西暦1272年前後に、収穫祭
をしたといった状態が、私には目に浮かぶよ
うな気がする。(2023/06/21)