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埼玉県志木市城山遺跡で7C奔神戦王墨書土器(長さん)

今回は埼玉県志木市城山遺跡で古墳時代
末期、7世紀成立と見られる、骨壷用に
見える長い甕型土器に、有力者を奉じる
という意味の「奉神戦王(?)」と漢字
で書かれたような模様が有るとの旨の、
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
130151_1_城山遺跡第96地点埋蔵文化財発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
志木市の文化財第78集、城山遺跡第96地点
埋蔵文化財発掘調査報告書、2021年、
埼玉県志木市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、埼玉県志木市柏町3丁目1139番
3・4。遺物が出土したのは、西暦
2019年前後の事のようである。
 ここで話題とする遺物は、第304号
住居跡で出土したが、発掘報告書第
135ページ付近の記載により遺物の形
等からとみられるが、古墳時代末の7
世紀頃成立と見られているように、私に
は読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
67:”第304号住居跡出土遺物(2)”
の最上段左に在り、第304号住居跡出
土遺物の第15番との旨、ナンバリング
されている、長い甕型土器で、骨壷とし
ても使用されると、私には認識される形
のかなり大きな土器である。

城山奔神戦王.gif

 上図のように、写真の中央に縦に漢字
で3文字「神朝王」か「神戦王」のよう
に、第2字目がはっきりしないが書いて
有るようにも見え、第2字目と第3字目
の間の右に「奉」のように見える模様が
ある。朝鮮半島から渡来した王が「神朝」
か「神戦」かの名前であるような印象を
受け、有力者の骨壷を入れる容器が連想
される。古墳時代末から古代にかけ埼玉
県志木市には、渡来系の豪族が居してい
た事を示している疑いが、有るように私
見される。(2023/06/20)

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群馬県松井田工業団地で中世竜泰山墨書土器(長さん)

 今回は、安土桃山時代の茶の道具のように
も私には見える須恵器の蓋の裏に、竜奉山と
墨書したような模様のある遺物が、群馬県の
松井田町の表題遺跡で出土しているとの旨の
紹介である。常陸国に関連の一族、人見氏の
舘跡があるという場所に近い所らしい。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
130236_3_松井田工業団地遺跡.pdf
 なお、本文と遺構説明が第2pdf、
遺物のスケッチ図は第1pdfにある。
2→1→3の順番だと見られる。
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
松井田工業団地遺跡、1990年、
松井田町教育委員会・群馬県企業局。
 発掘報告書第2遺構編冒頭例言により遺跡
の場所は、群馬県碓氷郡松井田町大字人見
字大宮1番。遺物出土は西暦1985年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第E区第117
番住居跡で出土したが、第2pdf遺構編の
第272ページ付近の記載により、古代~
中世の間のツマミの付いた須恵器の蓋である
と私には認識される。中世の遺物として以下
議論する。
 遺物の写真は発掘報告書第3写真図版
pdfの写真図版第130の最下段右端に
在り、第E区第117号住居跡の遺物番号
第6番との旨、ナンバリングされている。
繰り返すと容器のツマミのついた蓋の内面を
見ているように、私には見える。

松井田竜泰山.gif

 上図のように絵のような字のような明確で
無い模様が、蓋の内側中央に書いてあるよう
に私見する。真ん中に縦に奉山と書いてあり、
右上隅に「竜」と、添えられているようにも
見える。「竜奉山」のようでもある。中木川
等清流の源となる松井田町の地元の山を中世、
山伏または、地元の山岳武士団が奉じて、
その文字を書いて付けた、茶の湯用の道具か
もしれないと私は疑う。(2023/06/19)

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栃木県益子町カスガ入窯跡遺跡で古代山泰墨書土器(長さん)

 今回は、栃木県益子市の表題遺跡で、古
代成立と見られる、「山奉」墨書土器が出
土したとの旨の紹介である。栃木の低山を、
奉じた平安時代の祭祀用土器ではないかと
疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
130316_1_谷津入窯跡群・カスガ入窯跡群・西山窯跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
谷津入窯跡群・カスガ入窯跡群・西山窯跡、
2022.1、栃木県教育委員会・公益財団法人
とちぎ未来づくり財団。
遺物はこのうち2番目の、カスガ入窯跡で
出土したとの事のようである。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
栃木県芳賀郡益子町本沼・長堤。遺物が
出土したのは西暦2020年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、遺物はカスガ入窯跡
の東溝で出土したが、発掘報告書第47
ページ付近の記載により、この遺物自体が、
平安時代の物であると見られているよう私
には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第19
の下から2段目左に在り、カスガ入窯跡群
の東溝の第77番との旨、ナンバリングさ
れている。瓶型土器の割れ欠けのように見
られているようである。

春日入窯跡山泰.gif

 上図のように、写真の中央に反時計回り
に40°前後回転して、漢字で「山奉」の
ように読める模様が在ると私見する。
 芳賀郡益子町周辺の栃木の低山を、奉じ
た平安時代の祭祀用土器ではないかと私見
する。(2023/06/18)

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群馬県高崎市本郷上ノ台遺跡で平安初浅行墨書土器(長さん)

今回は発掘報告書で「法師」と釈文した
墨書土器が、「浅行」等にも見えるという
意の話題である。「法行(者)」、つまり
”僧侶用”との意味ではないかと結論する。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
131442_4_本郷上ノ台遺跡・本郷満行原遺跡・本郷広神遺跡・
本郷西谷津遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
本郷上ノ台遺跡・本郷満行原遺跡・本郷広神遺跡・
本郷西谷津遺跡・本郷大カサ遺跡・本郷鶴窪遺跡・
本郷菅原遺跡・本郷嶋上遺跡、2023年、
群馬県高崎市土木工事事務所・公益財団法人
群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 今回紹介する遺物はこのうち本郷上ノ台
遺跡で出土したようである。本郷上ノ台
遺跡は、本郷満行原遺跡とこの回の調査で
は外したが本郷鶴楽遺跡の中間の領域であ
り、上記の遺跡は道路建設に伴っていて、
西から順に並んでいる。本郷満行原遺跡に、
廃寺跡があり、本郷上ノ台遺跡と本郷
満行原遺跡とは、明らかに平安時代初成立
の関連遺跡同士である。
 発掘報告書第2本文後半pdfの末尾抄
録により遺跡の場所は、群馬県高崎市本郷
町818-1。遺物が出土したのは西暦
2018年前後の事のようである。
 また発掘報告書第34ページ付近の記載
により遺物の成立年代は、この遺物が本郷
上ノ台遺跡の第42号竪穴建物跡で出土し
たが、遺構面の深さと遺物から、9世紀の
平安時代初成立と見られており、遺物も、
そのころの物品と解釈されているように、
私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書第4写真図版
pdfの写真図版(PL.)第284の
最下段左から3番目にあり、第42竪穴
建物跡の第3番との旨ナンバリングされて
いる。杯型土器のようであり土師器である
との事である。また発掘報告書の、第43
ページ付近により、墨書土器とみなされて
おり「法師」と釈文されているように、私
には読み取れる。

本郷上ノ台浅行.gif

 上図のように明快に漢字で2文字書かれ
ているようであるが、第1字目は崩してあ
り、「法」のようでもあるが「浅」のよう
でもある。第2字目はヘンもツクリ共
カスレていて、発掘報告書では「師」と読
んでいるが「行」のようでもある。
 公平に見て「法行」のようであり、使用
する僧侶が、謙遜して仏法の行を行う者の
意味で「法師」が順当だが「法行」と平安
初期に使用者名を書いたようにも、私には
見える。よって冒頭のように結論する。
(2023/06/17)

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長野県佐久市藤ケ城跡遺跡で奈良期山泰等墨書甕(長さん)

 今回は長野県佐久市小海線沿いの山の
景色が良い表題遺跡で、古墳時代より、
継続して有力豪族の首領等が王等と崇め
られ、更に山の信仰とも結びついていた
ようにも見える、奉王・山夲の同時墨書
遺物出土例を紹介する。
 なおこの回の発掘で古代に成立のこの
遺跡では、その他に墨書土器が複数出土
しているとの旨、発掘報告書には記載さ
れているように本ブログの管理人は読む。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
131477_1_藤ケ城跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
長野県佐久市埋蔵文化財調査報告書第293集
藤ケ城遺跡、2023.3、佐久市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、長野県佐久市岩和田字上ノ城
2041-2。遺物が出土したのは西暦
2015年前後の事のようである。
 遺物は2個ある。順に成立年代は以下
の通りとみられる。
 奉王と読める遺物は竪穴住居跡第2号
で出土したが、発掘報告書第15ページ
付近の記載により、住居跡自体が共出土
遺物から8世紀後半の奈良時代後期と
見られているように私には読み取れる。
 それに対して山本と読める遺物は、
竪穴住居跡第42号で出土し発掘報告書
第85ページ付近の記載から住居跡自体
が出土遺物から8世紀の奈良時代成立と
みられているようである。両遺物とも、
以下同じ奈良時代成立として議論する。
 奉王墨書土器は発掘報告書の写真図版
第82の左から2列目の第4段目に在り、
竪穴住居跡第2号の遺物番号第13番と
の旨ナンバリングされている瓶型土器の
ように、私には見える物品である。小型
甕のようである。

藤ケ城奔王.gif

 上図のようにカスレている上に反時計
回りに寝ているが、漢字で「奉王」と読
めるように見える、薄い模様が有るよう
に私見する。
 山本墨書土器は発掘報告書の写真図版
第105の中央列最下段に在って、第
42号竪穴住居跡の第4番との旨ナンバ
リングされている甕型土器のように、私
には見える物品である。

藤ケ城山泰.gif

 上図のように今度は濃いが、漢字の山
と本(夲)とが、やや薄く山の絵を挟ん
でごちゃごちゃと接近して中央やや左中
段に縦に書かれているように私見する。
本は「+」が右にややズレ、「大」+
「+」の夲のように見える。山奉の意で
あると私見する。
 奈良時代に於いて長野県佐久市には、
有力豪族ないし武装集団がおり、首領は
王と崇められて何らかの、物品を献上さ
れ、かつ現地では周囲の山に対して奉じ
る山岳信仰がほぼ同時期8世紀奈良時代
に存在したのであろうと疑われる。
(2023/06/16)

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神奈川県鎌倉市玉縄城跡で鎌倉期王将墨書砥石(長さん)

今回は、以前紹介した不成り鉄将かもしれない
という将棋駒の出土を記載した発掘報告書に、
別の2~3キロ北の、山ひとつ超えて離れた
表題遺跡で「成り奔将王棋」のようにも見える、
五角形の、将棋駒型の砥石片出土遺物の写真が、
載っているとの旨の紹介である。
 群馬県産の砥石ではないかと言う事であり、
何らかの用途の石であって元々、例えば一例
「草津」等と、産地名が書かれていた物品だっ
たのかもしれないと私は疑う。
 遺物の写真がweb上に紹介されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 以前紹介の次の名称のpdfファイルである。
129213_1_鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書29
平成2012年度発掘調査報告(第2分冊)
玉縄城跡・笹目遺跡・今小路西遺跡・
円覚寺旧境内遺跡・玉縄城跡・天神山城
新善光寺跡・米町遺跡、西暦2013年3月、
鎌倉市教育委員会。
 鉄将(旧字)かもしれないという将棋駒は、
今小路西遺跡で出土していたが、今回紹介する
遺物は玉縄城跡で出土したようである。遺物
同士の成立年代は、鎌倉時代で大差は無いと
みられる。
 発掘報告書末尾の抄録によると玉縄城の場所
は、神奈川県鎌倉市植木字植宿198番。遺物
が出土したのは、西暦2006年前後のようで
ある。
 遺物の成立年代は、遺物は第Ⅳ層の遺構外で
出土し、遺物の出土層のうちの下層である事か
ら、鎌倉時代の比較的初期の頃との印象を、私
は受ける。
 遺物の写真は発掘報告書の玉縄城跡編の写真
図版第14(第57ページ):”出土遺物4”
の、最下段左から2番目に在って、玉縄城跡編
のスケッチ図第22の第11番遺物との旨、
ナンバリングされている。群馬県産の砥石であ
ると解釈されているようである。

鎌倉玉縄王将.gif

 上図のように、はっきりしないが、砥石自体
が全体として五角形の将棋駒型のように写真か
らは見え、右を仮にオモテ面だとして漢字で、
”王棋”と、やや左にズレて縦に書かれ、裏に
”奉”と、潰れて”峰”か”将”か、縦に何か
書いてあるような、不思議な模様が有る。すな
わち「成り奉将の王棋」という妙な、駒名模様
という意味である。
 しかしながら、オモテの第2字のはずの”棋”
は、ヘンとツクリが離れすぎているし、裏面の
第1字目の”奉”もよく見ると花柄の絵のよう
にも見える。
 そもそも石材とすれば、墨書が有る事自体も
も不自然ではあるし、偶然模様の可能性が捨て
きれない。が五角形に加工した、未知の用途の
石材だと仮にして、何か書いたとすれば、王棋
今と本ブログで読んだ部分に、「草津」等の
産地名が書かれた、何らかの用途の石材だった
のかもしれないと考える。
 将棋駒では恐らく無く、周辺の出土将棋駒と
も、関連は恐らく無かろうと疑う。(2023/06/15)

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長野県箕輪町松島大原遺跡で9C初奔王墨書時甕(長さん)

今回は長野県上伊那郡箕輪町の表題松島大原
遺跡で、9世紀前半のものとみられる長甕
型土器に「奉王」と書かれているようにも
見える暗い模様が在り、長野県のこの地方
では、平安時代初にも古墳時代頃に引き続
いて土地の有力者を「王」と呼んで、墓に
埋葬等していた疑いがあるという旨の紹介
をする。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
7_1_松島大原遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
松島大原遺跡、1998年、長野原上伊那郡箕輪町土地開発公社・
長野県上伊那郡箕輪町教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は、長野県上伊那郡箕輪町中箕輪11・
217番地1。遺物が出土したのは西暦
1997年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第4号住居址
で出土したが、発掘報告書第18ページ
付近の記載により、遺物の形態からこの
住居址自体が平安時代初頭の、恐らく
9世紀前半の意であろうと、私には読み取
れるように考える。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第7
の最上段右に在り、スケッチ図第14の、
遺物番号第9番との旨ナンバリングされて
いる、甕のような形の土器である。

松島大原奔王.gif

 上図のように、写真の右に縦にかなり大
きく、ただしはっきりとはし無いが「奉王」
と書かれているようにも見える暗い模様が
有るようである。長甕型の土器が、当時の
墓で使用する故人の遺骨の埋葬用容器だと
すれば、故人が土地の有力者であって「王」
と呼ばれていた疑いがある。古墳時代に引
き続いて長野県の山間部のこの遺跡では、
土地の豪族・武装集団等が、9世紀初に於
いて、依然として古墳時代の如くに「王」
と呼ばれていた疑いがある事を、示唆して
いるようにも私には見える。(2023/06/14)
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長野県小諸市宮ノ反A遺跡で古墳末山奉墨書土器(長さん)

今回は以前紹介した長野県小諸市のしなの
鉄道線平原駅付近の遺跡で浅間山山岳信仰
が疑われる、山奉墨書土器が更にもう一枚
出土し、合計2枚在るとの旨の話題である。
しかも甕型土器であり、今回の方が大型で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
314_1_三子塚遺跡群東下原・大下原・宮ノ反A遺跡群竹花・舟窪・大塚原.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
小諸市埋蔵文化財発掘調査報告書第17集
三子塚遺跡群下原・大下原・宮ノ反A遺跡群竹花・丼震・大塚原、
1994.3、長野県小諸市教育委員会。
 遺物はこのうち、今度は宮ノ反A遺跡群
大塚原で出土したようである。
 発掘報告書冒頭抄録によると遺跡の場所
は、長野県小諸市大字御影新田字大塚原。
遺物が出土したのは、西暦1989年前後
のようである。かなり広い範囲で宮ノ反A
遺跡は、律令集落と考えられているようで
ある。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第467
ページ付近の記載によると、ここで話題に
する遺物は、第30号住居址で出土したが、
古墳時代後期後葉のたぶん7世紀前半頃成
立とみられるとの旨記載されているように
読取れる。なお発掘報告書第525ページ
付近に、「一帯の遺跡は全体が、古墳時代
後期から古代の成立」との旨記載されてい
るように、私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
101の左最上段カラム”第30号住居址”
と付記された物品であり、スケッチ図第
541の遺物番号第1番との旨、ナンバリ
ングされている大型の甕型土器のように私
には見える。

大塚原山泰.gif

 上図のように、写真の右端上部の土器口
にかなり明確に漢字で縦に”山奉”のよう
に見える模様が有る。
 以前紹介の、竹花遺跡の墨書土器杯同様
山奉と読め、浅間山を望む位置で古墳時代
末にも山を奉じる、山岳信仰が在ったので
はないかと、疑われると私見される。一帯
で山岳信仰が、盛んだった疑いがあるので
はないかと思う。(2023/06/13)

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長野県茅野市上見遺跡で縄文中初泰山墨書土器(長さん)

 今回は表題の、長野県側の八ヶ岳山麓の
茅野市上見遺跡で、縄文の有る土器とされ
る出土遺物に、不自然に字同士が離れて書
かれているように見えるものの、八ヶ岳等
を奉じて「奉山」と書いたようにも見える、
不思議な模様の有る遺物が出土していると
の旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
665_1_上見遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
上見遺跡、1991年、茅野市教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は、長野県茅野市泉野下槻木。遺物が出土
したのは西暦1990年前後の事のようで
ある。
 ここで話題にする大型の遺物土器は、第
14号土坑で出土したが、その成立年代は、
発掘報告書第28ページ付近の記載により、
縄文時代中期初頭と漢字が成立したと見ら
れる時期よりも、飛びぬけて早い。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第27
の下カラムに在り、写真の下部に”第4号
土坑出土土器”との旨付記されている。土
器の破片を集めて復元した大型土器のよう
に私には見えるが、縄文文様ははっきりし
ないと考える。

上見泰山.gif

 上図のように上部に漢字で「奉」、土器
の下部と見られる部分に漢字で「山」のよ
うにも私には見える、余り見栄えのしない
模様が一応有ると考える。
 第2字目の山の字が不明確である事と、
第1字目の「奉」にも見える模様が濃いが、
字がツブレているように見える事、及び、
第1字目と第2字目が離れすぎていて単語
の表現として不自然である事から、恐らく
は偶然模様だと、本ブログでは今のところ
結論する。他の、この回この遺跡で発掘さ
れた縄文土器に、彫りの深い典型的な縄文
土器も有るため、本当は墨書だとしたら、
縄文時代の遺物では無いと疑ってみるべき
だろうとも私は思っている。(2023/06/12)

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長野県佐久市下聖端遺跡で平安中期山泰墨書土器(長さん)

今回は、発掘報告書でも「山本」と釈文
していると見られる、飛びぬけて明快な
「山奉」型墨書土器で、「奉」が「本」
だが源泉・始原を表す「夲」、すなわち
本が「大」+「+」である長野県佐久市
長土呂遺跡群出土の、古代墨書土器遺物
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
882_1_国道141号線関係遺跡.pdf
 なお、本文pdfが全国遺跡報告総覧
の離れた場所に登録されていて、本文
pdfは以下の通りである。
246_1_国道141号線関係遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第9集
国道141号線関係遺跡:下芝宮遺跡Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・
上高山遺跡・下北原遺跡・上宮原遺跡・下蟹沢遺跡・
上大林遺跡・下聖端遺跡Ⅰ・Ⅱ、
1992.3、長野県佐久市教育委員会・
佐久埋蔵文化財調査センター。
 今回話題にする遺物は発掘報告書写真
図版pdf末尾の遺構図によると、この
うち最後の、下聖端第Ⅱ遺跡で出土した
ようである。なお、第Ⅰ遺跡と第Ⅱ遺跡
は接続してい無い。各遺跡の遺構の成立
年代は、バラバラのようである。
 遺跡の場所は発掘報告書本文pdf
「調査の概要」第5ページ付近の記載に
より長野県佐久市大字長土呂宇下聖端。
遺物が出土したのは、同本文pdf8ペー
ジ付近の記載により、1988年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第46号
住居跡から出土したが、発掘報告書本文
pdfの第231ページ付近の記載に
より、住居跡自体が平安時代中期のもの
とされ、出土した墨書土器もそのころの
ものと考えられているように読み取れる
と考える。古代のこの遺跡の性格につい
ての記載は私には発見出来てい無い。
長野県佐久市に存在した律令集落なので
あろうか。
 遺物の写真は写真図版pdfの方の、
写真図版第165の、右の列の下から第
2段目に、墨書部分の拡大写真がある。
遺物の説明として、上大林遺跡と下聖端
第Ⅰ~Ⅱ遺跡発掘時の第46号住居跡の
第7番遺物との旨注記がある。杯の側面
に墨書が有るように、私には認識される。

下聖端山泰.gif

 上図のように一見して本が源泉・始原
の意味の「大」+「+」である、漢字で
「山夲」と書かれている。この山間部の
遺跡で、長野県のこの地方から眺望され
る山々を、平安中期に奉じた祭祀用では
ないかと私は疑う。(2023/06/11)

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