SSブログ

福岡県筑後市高江遺跡で7C前王奔墨書土器(長さん)

 今回は、王奉、奉王型墨書土器が弥生時代
以降見つかると本ブログで指摘し続けている
九州北部の、福岡県筑後市の遺跡で、古代に
近い飛鳥期早期の遺物にも、継続して王奉型
墨書のように見える模様がある出土遺物がみ
つかるとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1119_1_高江遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
福岡県筑後市文化財調査報告書第7集
高江遺跡、1991年、筑後市教育委員会。
 発掘報告書第4ページ付近の「位置と環境」
により遺跡の場所は、福岡県筑後市大字高江。
遺物が出土したのは冒頭「調査の経過」より、
西暦1989年前後の事のようである。
 遺物は住居跡第40号から出土たが、発掘
報告書第10ページ付近の記載により、住居
跡自体が7世紀前半の古墳期末から、飛鳥期
早期とみられ、出土した鉢底の破片とみられ
ている遺物も、その頃のものとされているよ
うに私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第10の
最下段左に在り、遺物番号第8番との旨ナン
バリングされている。土器の破片のように私
には見えるが、発掘報告書によると繰り返す
が、鉢底のようである。

高江王奔.gif

 上図のように写真の中央に、縦に漢字で
「王奉」のように見える、薄い模様がある。
古代に近く、この「王」は弥生時代のものと
は異なり国内の王の事であり恐らく大和王権
を九州筑後の現地遺跡で、敬って奉じたもの
かもしれないと、私は疑う。(2023/06/10)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

静岡県掛川市梅橋北遺跡で平安期泰山墨書土器(長さん)

 今回は山を奉じると同時に、山岳部で古
代に技術的な活動をしていた「巧み」を奉
じているようにも見える「奉山巧」と書か
れている事が疑われる出土椀型土器の話題
である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1429_1_梅橋北遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第14集
梅橋北遺跡、1988年、財団法人静岡県埋蔵
文化財調査研究所。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所
は静岡県掛川市徳泉。遺物が出土したのは
西暦1987年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第55ペー
ジ付近によると、漠然と平安時代と見られ
ている以上の、詳しい事は不明なように
発掘報告書からは読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第19
の下から第2段目右端に在り、遺物番号第
107番との旨、ナンバリングされている。
杯型土器の裏側のようにも見える。発掘報
告書第61ページによると椀との事である。
なお、写真図版第19は墨書土器集であり、
他に22枚程度の墨書の在る土器出土物の
写真がある、他のページにわたっており、
総計で約85枚にもなるとの事である。

梅橋北107泰山.gif

 上図のように、上部中央僅かに左に漢字
で「奉」のように見える模様と、その左に
漢字で「山」その下に「壕」か「巧」のよ
うにも見える、はっきりしない模様がある。
発掘報告書の第61ページによれば、墨は
付着しているが、釈読出来て、い無いよう
に読み取れる。
 「奉山巧」で、山を奉じると共に、金属
の採掘の成功を、古代にも弥生・古墳期同
様に祈って、祭祀活動をしているのであろ
うか。つまりは、その始原を示唆する山岳
信仰が、この遺跡付近で古代に存在した疑
いが有るのかもしれないと私は思う。
(2023/06/09)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

奈良県天理市前栽遺跡で11C初泰山墨書土器(長さん)

今回は奈良県天理市の表題前栽遺跡で、
西暦1000年前後の椀型の土器に「奉山」
と書かれたような模様があり、ちょうど
将棋が伝来した頃の、奈良県の山岳信仰用
の祭祀用土器が、疑われるとの旨の紹介で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1515_1_前栽遺跡第2次.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
天理市埋蔵文化財調査報告第3集前栽遺跡
(第2次)、1987年、天理市教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は奈良県天理市田井庄町295の1番地。
発掘報告書第1ページ付近の調査の契機と
経過によれば遺物が出土したのは西暦
1979年前後の事のようである。
 遺物の成立年代はここで話題とする遺物
は、第2号井戸跡より出土したが、発掘
報告書第25ページ付近の記載により、
10世紀末から11世紀初、西暦1000
年程度の、平安時代後期のものであると、
出土遺物等から推定されているように読み
取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第11:
”前栽遺跡(第2次)井戸跡2・3出土土
器)”の左の列の第3段目、右列の第2段
目の遺物の左隣に在って、遺物番号第5番
との旨、ナンバリングされている。椀の
ような形の土器のように、私には見える。

前栽泰山.gif

 上図のように、写真で中央やや左に寄っ
て、ほぼ真っ直ぐに漢字で2文字「奉山」
と書かれているようにも見える、暗い模様
が在ると私見する。ちょうど将棋が伝来し
たころの時代の、奈良県天理市周辺の山を
奉じる祭祀用土器ではないかと私は疑う。
(2023/06/08)


nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

埼玉県熊谷市瀬戸山遺跡で平安初山泰墨書土器(長さん)

今回は埼玉県熊谷市の表題遺跡で平安初、
9世紀後半成立とみられる甕型土器の口
に、漢字で山奉と書かれているような、
模様の見える土器遺物が出土したとの旨
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1913_1_瀬戸山遺跡・山ヶ谷戸遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
熊谷市遺跡調査会埋蔵文化財調査報告書
瀬戸山遺跡・山ヶ谷戸遺跡、西暦2011年、
埼玉県熊谷市遺跡調査会。
 遺物はこのうち最初の、瀬戸山遺跡で
出土したようである。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所
は、埼玉県熊谷市楊井字沼上1657-
1。遺物が出土したのは西暦2009年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第16
ページ付近により遺物は第1号住居跡で
出土したが、共出土した遺物から9世紀
後半の平安時代前期と書かれているよう
に認識される。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第4
の右最上段に在る土器で、第1号住居跡、
スケッチ図第7の遺物番号第16番との
旨ナンバリングされている。甕型土器の
ように私には見える。

瀬戸山山泰.gif

 上図のように、写真の左縁の口の部分
に、やや滲んでボケているが、漢字で
「山奉」にも見えるような、暗い模様が
ある。その下は、はっきりい無いが神社
の石段の絵か。
 熊谷市から見える、遠方の男体、赤城、
榛名山等の山を、平安時代の9世紀後半
頃に奉じたのかもしれないと、私は疑う。
(2023/06/07)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

大和郡山市平城京右京跡で奈良期泰山墨書土錘(長さん)

今回は、平城京跡で奈良時代のものとされ
る焼き物の土錘に、漢字で奉山と書いてあ
るように見える模様が有るという、比較的
珍しい遺物例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1823_1_平城京右京八条二坊五・六・十一・十四坪.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
大和郡山市埋蔵文化財調査報告書第15集
平城京右京八条二坊五・六・十一・十四坪、
2009年、大和郡山市教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
奈良県大和郡山市九条町229-3。遺物
が出土したのは、西暦2005年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第47
ページ付近の記載により、遺物は平安時代
成立の第0519土坑で出土したが、
平安時代より前のものであり、都であった
奈良時代の遺物が混合したもので、奈良
時代、8世紀の遺物と考えられているよう
に読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第21:
”粘土採掘坑、後世の遺構出土土器、
包含層出土土器①”の第4段目左に有り、
遺物番号第152番との旨、ナンバリング
されている。中心を貫通する穴の有る土器
の錘であり、池等で魚を採取するのに使用
する物品とも私には思われる出土物である。

平城京八条泰山.gif

 上図のように黒い模様が有り、発掘報告
書でも「黒斑あり」と表現され、漢字で
「奉山」と書いてあるようにも見える。
 奈良盆地の山が遠望される池か沼で、豊
富な淡水魚を採集するときなどに奈良時代、
生類供養等の神事を行う祭祀に、使用した
錘なのであろうか。残念ながら、私には
はっきりとは意図が判らない。池等の歴史
が、古い事を物語るのかもしれない。
(2023/06/06)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福岡県筑後市蔵数立野遺跡で弥生中期奔王墨書土器(長さん)

 今回は福岡県筑後市で、弥生時代中期
のものと見られる竪穴住居跡から、奉王と
書いてあるように見える墨書土器が出土し、
前漢の武帝頃の時代に渡来した中国漢王朝
時代の渡来人の筆によるものではないかと
疑われる、かなり濃い模様の有る出土品の
話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
1819_1_蔵数立野遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
蔵数立野遺跡、2007年、筑後市教育委員会。
 発掘報告書冒頭「調査経過と組織」によ
り遺跡の場所は、福岡県筑後市大字蔵数字
立野。遺物が出土したのは西暦2006年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第19
ページ付近の記載によると、遺物は第30
竪穴住居跡で出土し、発掘報告書第23
ページ付近の記載により、弥生時代中期の
紀元前2~1世紀前後の中国前漢時代頃の
成立と考えられており、たいへん古い。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版
(Pla.)第34の最下段中央に在り、
遺物番号第75番との旨、ナンバリングさ
れている。コップ型の土器のように私には
見えたが、発掘報告書第19ページによる
と甕であり、弥生土器との事である。

蔵数立野奔王.gif

 上図のように写真の中央やや左から水平
に左へ向かって横に、漢字で「奉王」のよ
うに私には見える暗い模様が有る。王は
中国の皇帝等の意味で、例えば前漢の武帝
であり、皇帝に納める、鉱産物等何らかの、
甕に入れて、九州北部の港から中国大陸へ
運ぶ、物品入れのようにも見える。濃い模
様だと私見するが、模様が本当に漢字の墨
書だとすれば、相当に貴重な遺物であろう。
(2023/06/05)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県松江市夫敷遺跡で5C泰山墨書土器(長さん)

今回は、島根県松江市の表題夫敷遺跡で、
古墳時代中期、5世紀ころの甕型土器に、
山岳信仰用祭祀土器として用いた事が疑
われる、漢字で「奉山」と書かれている
ように見える、模様が在るとの旨の紹介
である。弥生時代後期程度から、島根県
付近で見られる渡来人の山岳信仰ないし、
山での活動に関連する信仰に関連する遺
物が有るとの本ブログ主張を、補強する
遺品と考える。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
2188_1_夫敷遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
夫敷遺跡、西暦1989年、
建設省松江国道工事事務所、
島根県教育委員会。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所
は島根県松江市(八東郡東出雲町:当時)
出雲郷字額ノ免1524-2。遺物が出
土したのは西暦1987年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は遺物は、6-A区の
中間層で出土したが、発掘報告書第16
ページ付近の記載によると、古墳時代中
期、5世紀頃の土器が複数出土し、話題
とする土器遺物も、その頃すなわち、
5世紀成立と、読み取れるように考える。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
18の最上段左に在って、スケッチ図第
23の遺物番号11番との旨、ナンバリ
ングされている。壷型の土器のようにも
私には見えるが、発掘報告書によれば甕
だという事である。

夫敷泰山.gif

 上図のように写真で右端の欠け目に縦
に漢字で、奉山と読めるような暗い模様
が在るように見える。
 古墳時代中期の5世紀迄に「奉山」と
の漢字が日本に存在し、おそらく渡来人
が記し、道教信仰ないし古墳に埋葬した
有力者の山での活動に関連した祭祀用の
疑いが有るとの旨の、本ブログの主張を、
繰り返して補強する出土品であると私は
疑っているという事である。(2023/06/04)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県出雲市大井谷第Ⅱ遺跡で15C山泰墨書土器(長さん)

 今回は以前に同じ島根県出雲市の壱丁田
遺跡で紹介した中世の「奉山」墨書土器と
類似の墨書が疑われる、杯のような形の土
器遺物が、同じ出雲市で前世紀末に出土し
ていたとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
2331_3_大井谷I遺跡大井谷II遺跡.pdf
 このファイルは全国遺跡報告総覧に登録
したときに乱丁したようであり、pdfで
2→4→3→1の順になり、第4pdfの
途中から、写真図版のようである。
発掘報告書の名称は以下の通りである。
大井谷Ⅰ遺跡・大井谷Ⅱ遺跡、2001年、
国土交通省中国地方整備局出雲工事事務所・
出雲市教育委員会。
 このうち遺物は、大井谷Ⅱ遺跡で出土し
たようである。
 発掘報告書冒頭例言により遺跡の場所は、
島根県出雲市上塩冶町1319番地。遺物
が出土したのは、西暦1998年前後の事
のようである。第Ⅰ遺跡は塩冶町までいっ
しょで、互いに関連しているようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第122
ページ「小結」により遺跡自体が15世紀
の室町時代のものとみられているように、
読み取れる。今回紹介する大井谷第Ⅱ遺跡
の大溝03で出土した遺物も、発掘報告書
の第47ページの記載からもその頃のもの
と解釈されているように私には理解される。
 遺物の写真は発掘報告書第3写真図版の
中段pdfの写真図版第23の最下段左に
あり、そのうち上から覗いた底を見ている、
上の写真コマに以下の墨書が有るように私
には見える。

大井谷山泰.gif

 上図のように、この例では杯状土器の
側面に横に寝て、写真の左端に「楚山奉」
のように私には見える、暗い模様が有るよ
うである。「楚」は、中国大陸の南部を指
すのか、私には不明だが。神仏習合の宗教
施設が遺跡発掘地点に有り、弘法大師が開
いた寺院等との伝説を元に、付近の山の神
社の行事で現代も知られる崇拝等が行われ、
出土品は、その祭祀用に使用された土器の
疑いが有るのではないかと私見する。
(2023/06/03)

nice!(8)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県出雲市受馬遺跡で戦国期王奔墨書土器(長さん)

 以前表題の遺跡からやや離れ、関連性は
無いと見られるが島根県出雲市壱丁田遺跡
で、戦国期成立と見られる奉山墨書土器を
紹介した。今回は、それとペアとなるよう
なイメージの戦国期の「奉王」型墨書土器
の紹介である。山をその時代の天皇に見立
てる、山間部の神社等での山岳信仰祭祀用
遺物であるとの推定を、一応補強するもの
と私見する。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
2560_2_四ツ廻II遺跡・林廻り遺跡・受馬遺跡.pdf
 遺物はこのうち最後の受馬遺跡で出土し
たようである。
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
四ツ廻Ⅱ遺跡・林廻り遺跡・受馬遺跡、
1996年3月、建設省松江国道工事事務所・
島根県教育委員会。
 発掘報告書第5章受馬遺跡の冒頭「調査
の経過と概要」によると遺跡の場所は、
島根県八束郡東出雲町揖屋字受馬。遺物が
出土したのは、西暦1993年前後の事の
ようである。
 遺物の成立年代は、褐色土層で出土した
が、発掘報告書第99ページの記載より、
14世紀から16世紀末の中世後期、戦国
時代程度に成立した物品と考えられている
ように、私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版(PL)
第51の第4段目右に在り、受馬遺跡編の
スケッチ図第76の第15番との旨、ナン
バリングされているようである。杯型土器
のように、私には見える。

受馬王奔.gif

 上図のように、写真の中央やや上に漢字
で「奉」、その左に「王」のようにも「土」
のようにも見える、はっきりしないがやや
暗い模様が、有るようにも見える。
 戦国時代にも東出雲市の北に開けた山沿
いの扇状地で、天皇を王として神道の祭祀
が行われた事を、示していると私は疑う。
(2023/06/02)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県邑南町清源那遺跡で奈良・明治期奔王墨書土器(長さん)

 今回は、島根県邑南町の特定の遺跡発掘
で「奉山王」または「奉王山」と書かれて
いるように見える、8世紀と19世紀とい
うように、極端に成立年代の異なる墨書ま
たは文字が書かれた食器が出土したが、
王と山の字が合体して1字になったような、
書体になっているという共通点のある遺物
出土の話題である。極端に時代の違う物品
であるが、文字を書いた意図に共通性が有
ると疑われる、比較的珍しい例である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
2599_2_清源那遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
石見町支化財調査報告書第16集清源那遺跡、
1998年3月、石見町教育委員会。
 発掘報告書冒頭「調査の概要及び遺構・
遺物」により遺跡の場所は、島根県邑智都
邑南町(旧:石見町)井原地区と中野地区。
遺物が出土したのは西暦1995年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第20ペー
ジの記載により、スケッチ図37の第29
番遺物は杯身で、8世紀、奈良時代成立と
見られているように読み取れる。また、
スケッチ図第46の第128番遺物は、
19世紀の瀬戸物の皿と、発掘報告書遺物
観察表第57ページ付近に記載されている
ようである。
 遺物の写真は、奈良時代の第29番遺物
が発掘報告書写真図版第30の上カラム:
”B区第1番竪穴建物跡出土遺物”の旨の、
下段の左に有る。また、江戸末~明治期の
第128番遺物が同じく、発掘報告書写真
図版第39の第2段左にある。

清源那泰山奈良.gif

 上記は第29番遺物で割れた食器のよう
に私には見え、写真の左縁に漢字で「奉」、
の右に漢字で「山」と「王」がつながった
不明文字があるように、私には見える。「
奉山王」のようでもある。

清源那泰山近世.gif

 上記は第128番遺物で、皿の底の中央
に、漢字で「奉山」といっけん見えるが、
奉のキ部分がキでは無くて「主」のように
私には見え、「奉王山」と縦につながって
いるような、私にはよく読めない字になっ
ている。
 王とは天皇の事であろうが。
 奈良時代から明治時代の間中、この遺跡
は弘法大師等が開いた神道の宗教施設(山
裾の神社)に位置し、歴代天皇を、山の
神様となぞらえて、祭祀することが行われ
ていたかもしれないと、私には疑われる。
(2023/06/01)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー