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仲房、将棋其法度皆忘でなく将棋其馬行方皆忘は何故(長さん)

本ブログでは従来、児教訓を新しい方の極限と
して普通唱導集頃に、小将棋の持ち駒ルールが
開始されたとみている。では、その時代に持ち
駒ルールは無いという、古い方の極限は何時ご
ろかを問題にする。そして藤原定家の明月記の
西暦1213年、四位仲房、此間聊病気・・の
記載が、日本の将棋に持ち駒ルールが、ほぼ無
かった古いほうの極限、年数の数値が小さいと
いう限界、下限値であるとの旨今回は指摘する。
なお、少なくとも発掘報告書全般の記載を見る
限り、歴史学会では、年代の上限・下限の用法
が、本ブログ管理人の言い回しと、慣用的に逆
である。西暦を慣用しないので、困らないから
なのかもしれない。
 さて藤原定家の明月記(西暦1213年
(建暦3年)宣明暦4月27日)の記述は、
以前にも紹介したが以下のようになっている。

「四位仲房、此間聊病気、昨日自云、心神已不
弁前後太惘然、是已及死期、試差将棋、即與侍
男始将棋、其馬行方皆忘、不終一盤云、已以爲
覚悟、是即死期也、太心細、慾見家中懸、侍男
巡見家中了、安坐念佛二百反、即終命、不幸短
命太可悲」

 表題に書いたように、将棋其馬行方皆忘が、
将棋其法度皆忘になっておらず、二歩は駄目、
打ち歩詰めは駄目といった、将棋駒の動かし方
というカテゴリー以外の、将棋類のゲームの
ルールに関する

他のカテゴリーを問題にしてい無いのが特徴

である。
 つまり、西暦1213年時点で複数の将棋種
が仮に有るとして、将棋駒の動かし方ルールと
いうカテゴリーの事項を、同じパターンで機械
的に記憶していれば、ほぼ全部の将棋種が指せ
るという性質であったと見られるという点で、

ルールブックのコンテンツがそれなりの字数に
なる、小将棋の持ち駒ルール等、他のカテゴリー
の形式の将棋ルール族は、ほぼ存在し無い

と見た方が、尤もらしいという事である。だか
ら、取り捨て将棋しか存在し無いという事にな
るのである。
 更に補足しよう。天皇付では無いが少なくと
も正四位か従四位の葉室仲房は、成りのルール
は「駒が人間である場合は玉将以外は金将成り
であり、前進しか出来ない駒ないし、盤の自陣
同一筋後方に、前進しか出来ない自駒が有って、
その駒自身が前進または後退しか出来ない駒は、
人間で無くても金将に成る」と覚えて、この時
点で1本で済ませていた疑いが濃いと、私は考
える。
 つまり二中歴の「如是一方如此行方准之」は、
(注人者)如是一方如此成方准之(歩兵)であ
り、「盤の自陣同一筋後方に、前進しか出来な
い自駒が有って、その駒自身が前進または後退
しか出来ない駒は、人間で無くても金将に成る」
の一例であると葉室仲房が見ていたと本ブログ
では解釈するという意味である。なお何度か繰
り返す事になってしまったが、本ブログでは、
(注人者)如是一方如此行方准之(歩兵)は、
仲人(または注人)不行傍。立聖目内成酔象
(後者は金将)と同じ「心」であると見ている。
 そして

本ブログでは、配流の頃の後鳥羽上皇時代後期
に大将棋が、天皇所持の将棋道具が窃盗に逢わ
ないようにするという、主として管理目的の為、
ゲームの出来とは余り関係なく、小将棋と区別
されて全不成になった

とも考えているのである。それまでは葉室仲房
式将棋ルールの記憶パターンで良かったという
意味である。なお晩年の藤原定家は当然、将棋
ルールの鎌倉時代の急速な変動は、熟知してい
たに違いないと考える。また管理目的で、双玉
にもしただろう。後鳥羽小将棋は双王と考える。
後にそれが豊臣秀次の切腹を恐らく招いたのだ。
 以上の事から、西暦1213年(建暦3年)
宣明暦4月27日時点では、将棋にかなり詳し
いとみられる葉室仲房や、復唱した藤原定家が
知らない程度しか、持ち駒ルールは普及してい
無かった。以上のように見るというのが、本ブ
ログの見方という事になる。(2023/06/24)

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