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宮城県多賀城市高崎遺跡で古代山戌墨書土器(長さん)

 今回は宮城県多賀城市の奈良時代から
平安時代初の遺跡である高崎遺跡で、漢
字で「山戌」と書かれ、遠方の山を奉じ
ながら狛犬への供え物を置く器があると
いった情景を連想させる墨書土器杯が、
現地で出土しているとの旨の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
9390_1_小沢原遺跡・高崎遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
多賀城市文化財調査報告書第54集
小沢原遺跡・高崎遺跡、1999年3月、
多賀城市教育委員会・多賀城市建設部道路課。
 ここで話題にする遺物は上記2箇所
の遺跡のうち、後の高崎遺跡で出土した
とのことである。
 発掘報告書の末尾抄録によると遺跡の
場所は宮城県多賀城市高崎。遺物が出土
したのは西暦1994年前後の第12次
調査かまたは西暦1996~1997年
の、第21次調査の際のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は土溝第
1130番で出土したが、発掘報告書第
103ページの記載から、遺物の形より、
8世紀~9世紀前半にかけての奈良時代
から平安時代初期成立と考えられている
ように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
15:”高崎遺跡出土遺物1”の第2段
目右端にあり、遺物番号第6番との旨、
ナンバリングされている。杯型土器の、
一部欠けた破片のように、私には見える。

高崎山戌.gif

 上図のように、第2字目がやや崩れて
はいるが、多分だが漢字で「山戌」とも
読めるような黒い模様が、遺物写真の、
若干左寄りのほぼ中央に在る。平安時代
初期頃に、そこに近隣の神社で使用する
物品の工作場等が有り、神社に配置する
狛犬の像の前面に供え物を置く食器の類
を製作していたという事が、あるいは有っ
たのかもしれないと私見する。(2023/04/30)

 
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高知県土佐市上ノ村遺跡で中世山泰墨書土器(長さん)

 今回は四国高知県土佐市の上ノ村遺跡
で、中世とみられる須恵器の破片に、
漢字で「山奉」と書いてあるように見え
る遺物出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
9593_1_上ノ村遺跡4.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
高知県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第128集
上ノ村遺跡Ⅳ、2012.3、高知県教育委員会・
財団法人高知県文化財団埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、高知県土佐市新居上ノ村字土居
屋敷5100-1。遺物が出土したのは、
西暦2006年から2009年の間のよ
うである。
 遺物の成立年代は、遺物は1-6区の
包含層2で出土したが、発掘報告書第
216ページ付近の記載によると上層で
あり、中世成立と見られているように私
には認識される。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版
第64の下から3段目右端に在り、遺物
番号第403番との旨ナンバリングされ
ている。陶器の破片のように、私には見
えたが須恵器の、ハネ釜の一部との事で
ある。

上ノ村403山泰.gif

 上図のように遺物の、ほぼ中央少し下
に濃い目に漢字で、「山奉」と書いてあ
るように私には見える模様がある。
 中世に土地の領主が居する山城の山を
平野部から見て、領主を敬い奉じている
のではないかと私的に疑われる。太古の
昔から綿々と続く営みであろうか。
(2023/04/29)

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鹿児島県指宿市迫田遺跡で近代将棋茶碗(長さん)

今回は、おそらく昭和期の茶碗と私は見
るが、将棋駒絵で王将と竜馬がプリント
されている茶碗のカケラが、鹿児島県
指宿市の古墳時代とみられる迫田遺跡の
地表面層から出土したとの紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
130950_1_令和4年度市内遺跡発掘調査報告書
迫田遺跡・敷領遺跡・道下遺跡.pdf
 遺物はこのうち、迫田遺跡の繰り返す
と、古墳時代の層まで到達しない表面層
で出土したとのことである。
 発掘報告書の名称は次の通りである。
指宿市埋蔵文化財発掘調査報告書第70集
迫田遺跡・敷領遺跡・道下遺跡・上払遺跡、
西暦2023年3月、指宿市教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録により出土場所
は鹿児島県指宿市十町。遺物が出土した
のは西暦2016年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の末尾
からは中世との印象を受けるが、私見で
は、ネジ山が口に付いたガラス瓶が共出
土しており近代、特に染付け顔料でプリ
ントした食器が多く使用された、昭和期
のものではないかと疑っている。
 遺物の写真は発掘報告書の第4ページ
のスケッチ図と写真図版を兼ねた第5図
の最上段左に在り、遺物番号第1番とナ
ンバリングされた茶碗のカケラの、側面
写真に、染付け顔料でプリントされたよ
うな中に、問題の図柄が載っている。

迫田将棋茶碗.gif

 上図のように左縁部に、発掘報告書で
は王将と桂馬と、第3ページ付近で釈文
していると認識するが、王将と竜馬とみ
られる将棋駒の絵が書かれている。
 近代に日本将棋が存在した事を、示し
ていると私見される。21世紀に入り、
将棋はやや遠くなったのか。駒の種類を
間違えて解釈する文献が、ときに発生し
ているようだ。(2023/04/28)

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宮城県桶谷町長根浜遺跡で奈良期奔王墨書土器(長さん)

 今回は、宮城県の窯跡とみられる遺跡で、
奈良時代成立とされる土器に、奉王と書いて
あるように見える遺物が、発掘されたようだ
との旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている・
 pdfファイル名は、以下の通りである。
9884_1_長根窯跡群II.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
長根窯跡群、1972年3月、涌谷町教育委員会。
発掘報告書冒頭の「遺跡の位置と現状」例言
によると遺跡の場所は、宮城県遠田郡涌谷町
小里字長根南。第3ページ付近「調査の経過」
によると遺物が出土したのは、西暦1971
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第16ページ
付近の図によると、8世紀第2四半期の奈良
時代中ばと考えられているように読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第5;
”A地点1号窯跡出土須恵器”下から2段目
に在り、杯の蓋の土器のようである。

長根浜奔王.gif

 上図のように、写真のほぼ中央下の土器の
縁付近に、漢字で縦に小さく「奉王」と書い
たように私には見える模様が在る。平城京の
朝廷へ納める土器を、土器窯で生産しており、
墨書で、その物品を献上する用途等を書いた
とも疑われる物品のように、私見される。
(2023/04/27)

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宮城県仙台市陸奥国分尼寺跡で平安前期奔牛墨書土器(長さん)

 今回は、漢字で奉牛と解釈するべきと
見られるが、第2字目が漢字の失念によ
るのか、牛のイラストで代用したのでは
ないかとみられ、発掘報告書では「奉坂」
と釈文されている、宮城県仙台市で西暦
1998年前後に出土した、墨書遺物の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に掲載された。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10171_1_陸奥国分尼寺跡ほか発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
仙台市文化財調査報告書第238集
陸奥国分尼寺跡ほか、1999年3月、
仙台市教育委員会。
遺物は陸奥国分尼寺跡で出土したようで
ある。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、宮城県仙台市宮城野区宮千代
一丁目。遺物が出土したのは西暦
1998年前後の事のようである。
遺物の成立年代は発掘報告書第18ペー
ジ付近の記載によると、遺物は第2住居
跡で出土し共出土した遺物の形から、9
世紀から10世紀初のと考えられ、今回
以下に話題にする遺物も、平安時代前期
の、その時代のものと考えられているよ
うに私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
17の旨の下から2段目の左に別コマ写
真形式で提示され、その出土遺物の、右
と左に濃くまた大きく漢字で2文字の墨
書とみられる模様が明快に表現されてい
る。発掘報告書でも「墨書遺物であり
『奉坂』と読める」との旨の本文中での
釈文がある。また遺物番号としては、第
18番との旨ナンバリングされている。
発掘報告書第14ページのスケッチ図下
の説明によると、杯型土器の裏側の写真
のようである。

陸奥国分尼奔牛.gif

上図で「坂」と釈文した発掘報告書の見
解とは異なり、

 第2字目はツクリが「反」では無い

と私見する。検討するとイラストであり、
牛の絵を描いたのであり、牛肉を入れる
食器の意図ではないかと私は考える。根
拠は、右上から左下に線を引いて折り返
すと、ぴたりと重なる図形が描かれ、哺
乳類動物の、顔の性質と一致している点
が挙げられる。
 牛の字を書かなかったのは、仏教伝来
の後で、牛肉を食するのが禁制の状態で、
神道の神への牛肉の奉納を行ったのかも
しれないし、単に牛という字を執筆者が、
忘れただけかもしれない。椀ではなくて
杯であるとすれば、神棚に何時間か肉を
置くのではなくて、単純なツマミ用食材
であって、たとえば酒に酔った勢いで、
字が思い出しにくい状態で、食器にふざ
けて内容を書いただけなのかもしれない。
どちらなのかは、別に決定的な証拠が無
いと、判らない疑いが濃いのではないか
というのが私見である。(2023/04/26)

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高知県高知市秦泉寺廃寺跡で奈良期奔鬼墨書瓦(長さん)

今回は、高知市の廃寺跡の発掘で出土
した瓦に、鬼瓦の鬼を崇拝したもので
はないかと疑われる、漢字で”奉鬼”
ではないかと見られる、模様の有る物
品が出土しているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に掲載され、発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧に登録・公開
されている。
 pdfファイル名は以下の通り。
10412_1_秦泉寺廃寺.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
秦泉寺廃寺、高知市教育委員会。
発掘報告書冒頭「秦泉寺廃寺の名称と
位置」により遺跡の場所は高知県高知
市中秦泉寺鍛冶屋ヶ内鷹通141-1。
「調査の契機と第一次・第二次調査」
により遺物が出土したのは西暦
1975年~1977年頃の前後の事
のようである。
 発掘報告書第29ページ付近の記載
によれば、遺物は廃寺のもので寺自体、
奈良時代に存在したものであると考え
られているように読み取れ、話題とす
る遺物も、奈良期と考えられているよ
うに私には認識される。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版
第1の左下に在り、遺物番号第3番と
の旨ナンバリングされている瓦の破片
のように私には見える物品である。

泰泉寺奔鬼.gif

 上図のように、瓦の内面とみられる
写真の図の、左側に縦に漢字で「奉鬼」
のように見える模様が有る。鬼瓦の鬼
の崇拝という内容ではないかと個人的
に疑う。(2023/04/23)

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香川県高松市楠井遺跡で中世奔馬墨書土器(長さん)

 今回は香川県高松市の、中世の窯跡と
される遺跡から、足の付いた調理用の釜
に「奉馬」と書かれているように見える
遺物があり、馬の肉の調理用器具が疑わ
れるという旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10447_3_国分寺楠井遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
国分寺楠井遺跡、1995.10、
香川県教育委員会・財団法人香川県埋蔵文化財
調査センター・日本道路公団。
 発掘報告書第1pdfの本文の終わり
に挿入された抄録によると、遺跡の場所
は、香川県高松市(綾歌郡国分寺町:当
時)福家字楠井。遺物が出土したのは、
西暦1995年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1
本文pdfの、第372ページ付近によ
ると、発掘報告書ではここで話題とする
足の生えた土鍋のような出土遺物を足釜
としていて、13世紀後半鎌倉時代中期
の遺物と見ているように、私には読み取
れる。
 遺物の写真は、第3写真図版pdfの
写真図版第52:”土器溜り1第Ⅰa層
出土遺物16”の第3段目左に在り遺物
番号第445番との旨、ナンバリングさ
れている。繰り返すと私には、足の生え
た土鍋ののように見える。

国分寺楠井奔馬.gif

 上図のように写真の左側、「足」の破
片の付け根左に、反時計回りに回転して
いるが小さく「奉」と読めるような、か
なり黒い模様が在り、字の向きを基準と
して、その左下に漢字で同じくらいの濃
さ、大きさで「馬」と書かれ「奉馬」と
も読めるような、模様が有る。また写真
の右側にある、大きな模様の中に擦れて、
はっきりしないが「馬」のようにも見え
る黒い塊が有るようでもある。
 釜に入れる食材を書いているようでも
あるが、本ブログで、類例を示したこと
は無く、はっきりとはしない。土器を生
産する窯で生産した製品を使い、実際に
食材を調理したように、黒い模様の多さ
から私には感じられる。が、廃棄後の汚
れではないとは断定が、難しいかもしれ
ないと考える。(2023/04/24)

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茨城県土浦市神明遺跡で4C泰山墨書土器群(長さん)

 今回は以前に紹介した遺物と同じよう
なタイプの別例が、同じ発掘報告書に紹
介されているとの旨の内容である。
 以前のは、近傍に筑波山が望めるとみ
られる茨城県土浦市常名の神明遺跡で、
古墳時代の前期に成立とみられる、壷や
甕のような比較的大きな土器に、奉山と
墨書したような模様が有るという旨の紹
介であったが、遺物は以下のように2個
有るようである。
 遺物の写真が奈良文化財研究所の
発掘報告書デ-タベース、全国遺跡報告
総覧に登録公開されていて、pdfファ
イル名、発掘報告書名、遺跡の場所、
遺物の発掘年、成立年代は同じであり、
次の通りである。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10543_1_常名台遺跡群確認調査神明遺跡第3次調査.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
常名台遺跡群確認調査神明遺跡(第3次
調査)、西暦2002年、土浦市・
常名台遺跡調査会・土浦市教員委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、茨城県土浦市土浦市大字常名字
神明2760番地。遺物が出土したのは
西暦2001年前後という事であった。
 遺物の成立年代は共出土した土器の形
態から、発掘報告書第74ページ記載
によると、以前に紹介した第1号住居跡
で古墳時代前期の4世紀であったが、今
回の別例は発掘報告書第82ページ記載
によると、第3号住居跡が古墳時代前期
の同じく4世紀と見られていると読み取
れるようである。
 遺物の写真は以前の例は発掘報告書の
写真図版(PL.)第25:”神明遺跡
 第1住居跡出土遺物”の下から2段目
中央で遺物番号第6番とナンバリングさ
れている壷のような形の土器であった。
この例では、墨書が写真の中央にあり、
本ブログでは、今回の表題そのままで
”泰山”と読んだ。
 さて、今回の例では発掘報告書写真図
版第26:”神明遺跡”の下カラムの、
”第3住居跡出土遺物(1)”の中央に
あり、遺物番号第2番とナンバリングさ
れた、今度は甕のような形の土器である。
中央ではなくて写真の左縁付近に同じく、
墨書のような模様が見える。

常名台泰山左端.gif

 上図のように、縁なので今度は字の横
方向がぺちゃんこだが、縦に漢字で奉山
等にも読めるように、私には見える模様
が存在する。以前の例の同類という意味
である。
 古墳時代に”奉”や”山”、”泰山”
等の文字が、日本の茨城県付近の筑波山
が見える場所で、使われていた証拠の一
つが、更に存在したという事例のように、
思う。すなわちこの遺跡の古墳時代の遺
物に墨書が有る可能性が、更に高まった
と私見するという事である。(2023/04/23)

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香川県観音寺市長砂古遺跡で古墳期水奉墨書砥石(長さん)

 今回は、日本で古墳時代には水流を
用いた御清めの儀式が既に成立してい
て、儀式に用いる何らかの砥石として
使用されるアイテムに、漢字で「水」
や「奉」の字が、わが国では書かれて
いた疑いがあるとの旨の、紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。その発掘
報告書が奈良文化財研究発掘報告書
データベース全国遺跡報告総覧に登録・
公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
10849_3_石田遺跡・長砂古遺跡・柞田八丁遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
石田遺跡・長砂古遺跡・杵田八丁遺跡、
1988.3、香川県教育委員会・
日本道路公団。
 ここで話題にする遺物は、2番目の、
長砂古遺跡の第Ⅲ区で出土したようで
ある。
 発掘報告書第1本文pdfの、冒頭
の例言によれば遺跡の場所は、香川県
観音寺市池ノ尻町。遺物が出土したの
は西暦1985年~1987年の間程
度の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は第Ⅲ区の
包含層で出土したが、弥生時代後期後
半、2世紀前後の土器が多数出土して
おり、その頃ないし古墳時代前期3世
紀ころの砥石であるとみられているよ
うに、読み取れると私は認識する。以
下、古墳時代前期(特に早期)として
議論する。
 遺物の写真は、第3写真図版pdf
の写真図版第82の下カラム”(2)
(3)Ⅲ区包含層出土遺物①”の下側
に在って、遺物番号第432番との旨、
ナンバリングされている。土器のカケ
ラのように、私には見えたが、石製の
砥石だという事である。

長砂古遺跡水奔.gif

 上図のように、かなり小さいが、写
真の左側の、海岸線の湾のような感じ
の割れた部分の、欠け目の直ぐ右に、
漢字で「水」その右下に「奉」と書い
てあり、「水奉」のように読める文字
があるようにも見える。なお大局将棋
に「奔火」という名称の駒が有る。

「奔水」は無いようである。

戻すと。
 古墳時代早期の3世紀頃に水で御清
めの神事が、香川県の発掘現場付近で
行われ、その神事用の器具磨き用の砥
石に、漢字で「水」や「奉」を書き、
そうした字の書ける、渡来人とみられ
る住人が存在した疑いを、示している
のではないかと私見される。古墳時代
に「水」という漢字も、我が国でも成
立していた疑いが有ると私見する。
(2023/04/22)

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香川県川津二代取遺跡で古墳初奔王墨書土器(長さん)

 今回は、弥生時代恐らく末から古墳時
代前期の、4世紀前後の壷状土器に、
「王奉王」とはっきりと書かれている
ように私見される、四国香川県で出土し
た遺物の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
10954_2_川津二代取遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
四国横断自動車道建設に伴う埋蔵文化財
発掘調査報告第十六冊川津二代取遺跡、
1995.3、香川県教育委員会・財団法人
香川県埋蔵文化財調査センター・日本道路公団。
 発掘報告書冒頭にある抄録によると、
遺跡の場所は、香川県坂出市川津。
遺物が出土したのは、発掘報告書冒頭の
調査にいたる経緯によると西暦1990
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は溝状遺構で
出土したが、発掘報告書第201ページ:
”まとめにかえて”等のの記載によると、
環状遺構自体が弥生時代後期~古墳時代
前期の遺物を中心とするものと考えられ、
問題とする遺物もその時代4世紀前後の
成立と考えられているように読み取れる。
弥生期後期には用水を引いて、農作物の
生産が行われるような、場所だったとみ
られているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第
54:”第7溝状遺構出土遺物①”の、
最下段左に在り、遺物番号第326番と
の旨、ナンバリングされている。壷型の
土器のように、私には見える。

川津二代奔王.gif

 上図のように、写真の左に寄った所に、
このケースは横に、左からまたは右から、
漢字で「王奉王」と書かれているように
見える、はっきりとした模様が在る。
 古墳時代初に、王や奉といった漢字が、
日本で使われていた証拠だと私見する。
(2023/04/21)

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