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茨城県土浦市龍善寺遺跡で古墳期王将墨書土器(長さん)

今回はかなり以前に、同じ茨城県土浦市の
木田余台遺跡で出土したと本ブログで判定
した、平将門関連が疑われる「王将」墨書
土器が、同じ茨城県土浦市の龍善寺遺跡で
も、その13年前後の西暦2003年の頃
に出土したようであり、「王将」の成立が
将棋の伝来よりも、茨城県周辺で早い疑い
が同様にあると見られるという旨の、以下
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11135_1_龍善寺遺跡.pdf
 なお、同じ土浦市の木田余台遺跡の発掘
報告書の全国遺跡報告総覧の番号は、
11146番であり、データベースに登録
されたのは、ほぼ同じ時期であったようで
ある。
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県土浦市龍善寺追跡、2006、
株式会社クラフト・土浦市教育委員会・
龍善寺遺跡調査会。
 発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は、
茨城県土浦市中高津二丁目1122-1。
遺物が出土したのは、繰り返すと西暦
2003年頃の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は竪穴住居跡第
16号から出土したが、発掘報告書第66
ページ付近の記載から、竪穴住居跡第16
号自体が、出土遺物の形態から、古墳時代
後期の6世紀前後成立と、見られているよ
うに読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版(PL.)
第39:”古墳時代住居跡出土土器(2)
1-3;SI6、4~8;SI16)の、
上から2段目右にあり、遺物番号写真図版
39の第4番と付記されている。腕型の土
器のようにも、私には見える。

龍善寺王将.gif

 上図のように、写真の左端の方で、破片
の継ぎ目のすぐ左側に縦に、漢字で「王将」
のように見える黒い模様がある。木田余台
遺跡のケースと、よく似ているように、私
には思える。この遺物についても、少なく
とも破片になった後からかもしれないが、
古代に一度、掘り出された疑いも残ると考
える。平将門の時代である10世紀頃であ
り、いわゆる将棋の成立時期であると見る
11世紀よりは、早かったのではないだろ
うかと、個人的に疑う。(2023/04/20)

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兵庫県神戸市住吉宮町遺跡で中世奔王墨書土器(長さん)

 今回は、阪神淡路大震災の為の復興宅地
建設の際の発掘調査のおりに出土した中世
の土師器土器に漢字で奉王のように読める
模様があるが、モノクロ写真であるものの、
奉と王とで濃さが異なり、現物の色相が、
1字目奉と2字目王とで、恐らく全く異な
る有彩色とみられる。よってこのケースは
偶然出来た模様である疑いが濃いという、
中世遺物例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11288_1_住吉宮町遺跡第17次・第18次調査.pdf
 なお、全国遺跡報告総覧に登録する際、
本文冒頭部を第2pdfに、写真図版後半
から末尾を、第1pdfとして誤って
登録したようである。第2pdf冒頭に
よれば、発掘報告書の名称は以下の通りで
ある。
 住吉宮町遺跡(第17次・第18次調査)、
1998年、神戸市教育委員会。
 発掘報告書本文と写真図版の間に挿入
された抄録によると、遺跡の場所は、
兵庫県神戸市灘区7丁目4-13、
遺物が出土したのは西暦1995年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物はこの回の遺跡
の第2遺構面で出土したが、発掘報告書第
19ページ付近の記載によれば、14世紀
~15世紀の間の鎌倉末~室町前期の遺構
と見られているように、読み取れる。当時
から通常の住居地帯だったと、見られてい
るようである。
 遺物の写真は第1写真pdfの写真図版
第38:”一号溝出土遺物”の最上段右に
在り、第10スケッチ図の第18番との旨、
ナンバリングされているようである。私に
は、カワラケのようにも見えはっきりしな
い。発掘報告書によると、土師器の皿との
事である。

住吉宮町奔王.gif

 上図のように、写真の右に漢字で「奉」、
その左横に「王」と読めるような模様が
見える。
 しかしながらモノクロ写真で濃さが違い、
現物は、前記漢字状の模様で「奉」とその
左側の「王」とで、

色相が違う疑いが濃い。

 恐らくだが、この事は模様が偶然出来た
ものである事を示しているのではないか。
よって、この遺物は墨書土器では恐らく無
いだろうと、モノクロ写真を見た限りは私
は疑っている。2字有って尤もらしくても、
明度が大きく違う場合は、この写真例のよ
うに≪偶然模様≫と見た方が、少なくとも
安全ではあるのだろう。(2023/04/19)

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秋田県横手市田久保下遺跡で古墳期山泰墨書土器(長さん)

 今回は、かつての奥州、秋田県横手市の
田久保下遺跡で古墳期の小さな甕型土器に、
奥羽山脈の山等を奉じて「山奉」と墨書
された疑いのある遺物が、出土していると
の旨の紹介である。日本はさほど大きな島
国では無いので、漢字の伝来に「手前」も
「奥」も極端には、無かったのではないか
と疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11482_2_秋田ふるさと村仮称建設事業に係る
埋蔵文化財発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第220集
秋田ふるさと村(仮称)建設事業に係る埋蔵文化財
発掘調査報告書-富ケ沢A・B・C窯跡・田久保下遺跡
・富ケ沢1号-4号塚-、1992.3、秋田県教育委員会。
 今回紹介の遺物はこのうち田久保下遺跡
で、出土したようである。各遺跡は接して
おり、全体として半径数百メートルの一定
地域のようであり、東側の一部が田久保下
遺跡と名がついているだけのようである。
 発掘報告書冒頭序論2.調査の組織と構
成によると遺跡の場所は、秋田県横手市
婦気大提字田久保下62-1。遺物が出土
したのは、西暦1990年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は遺物は第310土壙墓
から出土した、小型の甕型土器と取られて、
発掘報告書第256ページ付近の記載によ
ると、古墳時代成立の墓の副葬品と見られ
ているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの写真図版第90の最上段右にあり、
遺物番号で田久保下遺跡出土土器の第11
番との旨、ナンバリングされている。

秋田ふるさと村山泰.gif

 上図のように、側面と見られる部分に、
縦に漢字で、煤が多いものの「山奉」とも
読めるような暗い模様があるように私には
見える。ひょっとすると以上は誤読で、本
当は「山大王」かもしれない。
 奥州の古墳時代に、土壙墓に埋葬される
人物と交流の有る者の中に、「山奉」等と
漢字で書ける程度の識字可能な人間が、
古墳期に既に、存在した疑いが有るように
私見される。(2023/04/18)

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秋田県横手市江原嶋遺跡で平安中泰山墨書土器(長さん)

今回は、律令集落とみられる古代の遺跡で、
杯型土器の内面に漢字で奉山と書かれていて、
奥州の通常の律令集落でも、9世紀後半に
識字層が住んでいたと疑われる遺物出土例の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11710_3_江原嶋1遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第310集江原嶋1遺跡、
2001.1、秋田県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によれば遺跡の場所
は、秋田県横手市(平鹿郡大雄村当時)字
東阿気。遺物が出土したのは、西暦1998
年前後の事のようである。
 発掘報告書第309ページの記載によれば、
話題とする遺物は第25ないし第05土器廃
棄用土坑で出土し、成立年代は、9世紀後半
から10世紀前半の、平安時代前~中期と見
られているように、報告書から読み取れるよ
うに考える。
 遺物の写真は発掘報告書第3写真図版写真
図版第16の第2段目左に在り、第25土器
廃棄用土坑(SK)のスケッチ図第258の
第1番との旨、ナンバリングれている。杯型
土器の内面を覗き込んだ写真に私には見える。

江原嶋泰山.gif

 上図のように、このケースは内面に汚れが
多いものの、画面の右に寄って写真では縦に、
漢字で奉山と書いたような模様がある。
 古代に発掘現場の東側に広がっていると見
られる奥羽山脈の連山を、奉じた物品のよう
に私見される。官衙とは、関連してい無い場
所のようであるが。古代に識字層が生活して
いた疑いが在ると私は考える。(2023/04/17)

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秋田県にかほ市前田表遺跡で10C奔王墨書土器(長さん)

 今回は、発掘報告書で「秦」と読んだ
墨書土器に関して、「奉王」かもしれない
という例の紹介である。なお、古代・平安
中期10世紀の遺物であり、比較的よく見
かける例とみられる、朝廷に敬意を払った
という意図とも、取れるように考える。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
11715_1_前田表2遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
秋田県文化財調査報告書第451集前田表Ⅱ遺跡、
西暦2010年3月、秋田県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は秋田県にかほ市両前寺字前田表145。
遺物が出土したのは西暦2007年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第46ペー
ジ付近の記載から、遺物は「秦」に似た文
字が書かれており10世紀の平安時代中期
との旨が同発掘報告書に書かれているよう
に私には読み取れる。出土場所は当時の、
律令集落のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
7の、右の列の第3段目にある「赤外線
写真」であり、遺物番号第151番との旨、
ナンバリングされている。カワラケか杯の、
底の裏側の写真のように、私には見える。

前田表奔王.gif

 上図のように一見して「奉」型墨書土器
であり、繰り返すと発掘報告書でも「秦」
に類似の字が、書かれているのであろうと、
見ているようである。
 一字の可能性が濃厚なのかもしれないが。
「奉王」と書こうとしている疑いも、残る
かもしれない。祭祀用の土器なのであろう。
(2023/04/16)

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広島県広島市今市城跡遺跡で室町期奔王墨書すり鉢(長さん)

今回は、室町時代に広島県に勢力のあった
安芸武田氏の中世館城とみられる広島県
広島市の今市城跡で、すり鉢の内側に、
「奉王」と書かれており、神社・仏閣領で
あった地域に、承久の乱で坂東の武家が
勢力を伸ばしたという背景で、宗教施設と
軍事的砦が兼ねられている事を示すような、
中世「奉」墨書土器出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
12115_1_今市城跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
今市城跡発掘調査報告、整理期1993年3月、
財団法人広島市歴史科学教育事業団。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、広島県広島市市佐伯区五日市町大字
石内。遺物が出土したのは西暦1992年
前後のことのようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の目次に
よれば第13ページとされ、pdfでは、
私にはページ番号が発見出来ていないが、
「まとめ」の、更にその2ページ前、第
11ページ付近とみられる「遺物の説明」
の部分によれば、15世紀半ばのものと、
発掘報告書では見なされているように、
私には読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第15:
”今市城跡出土遺物(1)”の最下段に
在り、遺物番号第6番との旨ナンバリング
されていて、砦で使用した調理用等の
すり鉢と見られているような印象の内容が、
発掘報告書には書かれているように、私に
認識される。

今市城奔王.gif

 遺物を見ると上図のごとくに、すり鉢の
破片を使って内面を撮影したように見え、
写真の中央のやや右に寄って、縦にかなり
大きく漢字で「奉王」と書かれているよう
にも見える。もともとこの地域が、武田氏
が進出する以前に、神道の神主と見られる
厳島神土家が支配しており、宗教施設が、
砦を兼ねているのが珍しくない地域のよう
である。そのため、神道系の「奉王」墨書
すり鉢が、合戦用の砦で出土したと、全く
解釈出来無いとまでは、行かないように私
には見える。将棋駒名の「奔王」には、私
には見えていない。(2023/04/15)

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大阪府茨木市中河原遺跡で弥生中期兵王墨書土器(長さん)

 今回は、墨書遺物の日本での成立年代に
近いと本ブログがみなしてきた大阪府の遺
跡で、漢字で「兵王」のように見える土器
が在り、弥生時代中期に、現地に大陸から
の帰化人によって組織された軍事組織が存
在したような気配が有るとの旨の、遺物の
紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
130937_1_中河原遺跡1.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大阪府茨木市文化財資料集第84集中河原遺跡Ⅰ、
西暦2023年3月、(大阪府)茨木市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言により遺跡の場所
は、大阪府茨木市中河原。遺物が出土した
のは西暦1990年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第44
ページの記載によれば、遺物は第2落ち込
み遺構から出土したが、第3遺構面一帯が、
弥生時代中期、紀元前後頃成立の弥生土器
で占められ、以下の遺物も、その類と解釈
されているように読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版
(PL.)第53:”1990Ⅰ調査出土
遺物”の下カラム:”2.第3遺構面SX
2出土遺物”の上段の方の右に在り、遺物
番号第272番との旨、ナンバリングされ
ている。土器の破片のようである。

中河原兵王.gif

 上図のように、遺物写真の右上に漢字で
「兵」のように見える、比較的濃い模様が
在り、その下に縦に「王」と書かれていて、
「兵王」とも読めるように私見される。
 弥生時代中期に、比較的大陸との繋がり
が強かったと、本ブログで議論してきた
大阪府で、軍事組織が存在して、兵を統率
する者が居た事を、示唆しているようにも
取れる疑いが有ると私は考える。(2023/04/14)

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石川県野々市市御経塚シンデン遺跡で3C山兵墨書土器(長さん)

 今回は、石川県野々市市御経塚シンデン
遺跡で、大局将棋の山将を連想させる、
「山兵」と読めるような墨書土器が出土し、
成立が弥生時代であり、その古さから、
「兵」という文字が「王」や「龍」と、同
程度に、漢字としての成立年代が、古い事
を匂わせる出土例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
12340_1_御経塚シンデン遺跡・御経塚シンデン古墳群.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
御経塚シンデン遺跡・御経塚シンデン古墳、
2001、石川県野々市町教育委員会・
野々市町御経塚第二土地区画整理組合。
発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、石川県野々市市(石川郡野々市町:当
時)御経塚町。遺物が出土したのは、西暦
1986年から西暦1996年の間のよう
である。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第110
ページ付近のスケッチ図によると、土溝第
17号で出土したようであり、発掘報告書
第52ページ記載から遺構自体が弥生時代
後期から古墳時代初の3世紀前後と考えら
れているようであり、その頃の遺物と解釈
されているように理解される。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第34:”
土坑第4・6・10~13・16・17・
19・33”の下から2段目左に在り、
土坑遺物の番号第56との旨ナンバリング
されているように理解する。広口瓶のよう
な形の土器のように私には見える。大きさ
は、さほど大きく無いようである。

御経塚山兵.gif

 上図のように、写真の左下に横に左から
右に漢字で2文字「山兵」に見えるような、
黒い模様があり、山に籠る兵隊用の酒か、
水入れの瓶を、私的に連想させる。山兵と
いう将棋駒種は、多分存在しないから、日
本の将棋とは関係の無い、弥生時代後期の
遺物であろう。
 しかしながら兵という字の成立が、弥生
時代後期にまで遡れる事を疑わせる、重要
遺物であるように私は疑う。(2023/04/13)

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岡山県玉野市地蔵山1号墳で奔王墨書土器(長さん)

今回は、古墳の埋葬者の骨の一部を
入れたと疑われる、台付の椀とされる
土器に漢字で「骨奉王」等と書かれて
おり、古墳時代に古墳に埋葬される
人物が概ね、近隣で「王」と呼ばれて
いたと見られる事を示しているという
事実を示すとみられる遺物出土の紹介
である。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録公開
されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
12588_1_地蔵山1号墳.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
玉野市埋蔵文化財発掘調査報告(5)
地蔵山1号墳墓、1992.3、
地蔵山墳墓発掘調査会。
 発掘報告書冒頭例言によると遺跡の
場所は、岡山県玉野市玉3丁目2500-
10。遺物が出土したのは西暦
1990年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第
32ページ付近の記載によれば、古墳
時代末の7世紀前半の成立で、古墳の
副葬品の一部と見られているように私
には読み取れる。
 遺物写真は発掘報告書の写真図版第
17:”出土須恵器(2)”の第2段
目左にあり、遺物番号第10番との旨、
ナンバリングされている。台のついた、
コップのように、私には見える。発掘
報告書では「台付き椀」としていると
認識する。

地蔵山奔王.gif

 上図のように、左側の黒い染み状模
様がまず目立ち、漢字で第1字目が、
「骨」と書かれていて、滲んでいる
ようにも私には思える。
 ついでよく見ると、骨の右側に、少
しずつ下に下がりながら、漢字で横に
「奉王」と書いてあるようにも見える。
骨の下の黒い染みは、私には正確には
判読出来ないが、ひょっとするともう
一度「奉」と書いてあり「骨奉奉王」
と解釈するべきかもしれない。
 本ブログで過去、古墳の副葬品土器
に「奉王」系の墨書があるとの指摘を
何回かした。が、この例はその「王」
が、古墳に埋葬されている故人である
事が多い事を、示唆する証拠であると、
私見するものである。(2023/04/12)

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長野県上田市信州大学構内で弥生末王奔墨書土器(長さん)

今回は、以前に「龍」墨書土器が出土したと
の旨紹介した表題の遺跡で、漢字で「王奉」
と読める墨書遺物も出土し、当たり前だった
かもしれないが、古墳初の「龍」墨書土器は、
渡来人の筆ではないかと解釈出来たとの旨の
紹介をする。
 遺物の写真は前回同様web上発掘報告書
の中で紹介されたもので、発掘報告書は、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている、
前回同様の件である。
 pdfファイル名、発掘報告書名、遺跡
の場所、出土した年は順に以下の通り。
pdfファイル名は、以下の通りである。
712_2_常入遺跡群下町田遺跡V.pdf
発掘報告書名は、以下の通り。
上田市文化財調査報告書第96集
常入遺跡群下町田遺跡Ⅴ信州大学
ベンチャービジネスラポラトリー棟の建設工事に伴う
常入遺跡群下町田遺跡第5次発掘調査報告書、
2004.3、信州大学・上田市・上田市教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の位置
は、長野県上田市常田三丁目15番1号の、
信州大学繊維学部構内との事であり、遺物が
出土したのは、西暦2003年前後であると
の事であった。
 遺物の成立年代は、遺物の形から前回紹介
した「龍」墨書土器同様の、弥生時代後期か
ら古墳時代初めの頃とみられ、第91号竪穴
住居跡から出土しているとの旨が、この遺物
については同じく発掘報告書の、17ページ
付近に記載があると解釈される。
 遺物の写真は、前記の発掘報告書第2写真
pdfの、写真図版15の最上段左に在り、
遺物番号第91号竪穴住居跡(SB91)の
第17番とナンバリングされている、この物
品もたまたまだが、前回の「龍」墨書土器と
同様瓶型土器の首の部分の、破片のように私
には見える。

常入王奔.gif

上図のように、写真の下の方の左から右下へ、
漢字で今度は王奉と書かれているように見え
る、煤にかぶった部分に、さらに黒く書かれ
たように見える模様が有るという事である。
 王とは中国古代、三国鼎立時代の魏王朝の
王等を指し、龍と書いた信州大学構内に居し
た人物と共に漢字が書ける渡来人の筆であり、
本国の王を、信州大学近くの竜神同様、
弥生時代末から古墳時代初にかけて、奉じた
という事実が在るのではないかと私は疑って
いる。(2023/04/11)

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