SSブログ

岡山県総社市鬼城山遺跡で4C泰山墨書土器(長さん)

今回は、岡山県総社市鬼城山遺跡で、
古墳時代初期成立と見られる大型壷土器
の破片に、漢字で「奉国奉山」と書かれ
ているように見える模様があり、大陸か
らの渡来者の渡来動機が、日本の山岳部
での鉱物資源の捜索である事を、示唆し
ているという例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
13057_1_国指定史跡鬼城山.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告203、
国指定遺跡鬼城山、西暦2006年、
岡山県教育委員会。
発掘報告書末尾抄録によると遺跡の場所
は岡山県総社市奥坂。遺物が出土したの
は西暦1999年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物自体の形から、
古墳時代前期の4世紀頃の物品と、発掘
報告者は推定したように、発掘報告書第
29ページ付近から読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
11:”出土遺物(須恵器・土師器)の
第3段目左にあり、遺物番号第25番と
の旨、ナンバリングされている。土器の
破片のようであるが、発掘報告書第29
ページ・第100ページ付近の記載によ
ると、第7土壙から出土し、大型の壷型
土器で須恵器であろうとのことである。

奉国泰山.gif

 上図のように、2列で漢字計4文字の
ように見える模様が、口へ向かって逆サ
マに書かれていて、2つ口を合わせて使
用する、死者埋葬用の

骨壷の上部のように私には見える。

文字は「奉国(改行し左へ)奉山」の、
4文字のように私見する。
 埋葬者が日本の鉱物資源を捜索する為
に帰化した大陸からの渡来者で、山岳部
での鉱物取得を業としていたという経緯
であり、その者の生前の六朝時代の中国
王朝に対する、忠誠心を称えると共に、
山の崇拝が古墳時代の初期の頃には資源
探査と関連している事を、示唆している
という例ではないかと私見する。日本の
山で鉄鉱石が大量に取れたかどうかは謎
だが。例えば火山の火口付近に広がる、
硫黄化合物の塊等は。中国へ持ち帰れば
貴重品の採取者として、当時尊敬の眼差
しで迎えられたのかもしれない。
(2023/04/10)

nice!(6)  コメント(2) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岡山県邑久町熊山田遺跡で弥生中泰山墨書土器(長さん)

今回は、紀元前3世紀、中国の戦国時代後期
に当たる日本の弥生時代中期半ば成立とされ
る、岡山県瀬戸内海の海岸熊山田遺跡で遺物
に漢字で「泰山」と書かれ、背景に山の絵の
ような模様の付いた、比較的大きな甕のよう
な土器が出土しているとの旨の紹介である。

比較的早い中国大陸からの帰化人遺物である

疑いが有ると私見する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
13306_1_熊山田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
邑久町埋蔵文化財発掘調査報告1熊山田遺跡、
2004、岡山県邑久町教育委員会。
 発掘報告書本文末尾、写真図版の前にある
抄録によると遺跡の場所は、岡山県邑久郡
邑久町山田庄字月ノ木363番地。遺物が
出土したのは西暦1983年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は発掘報告書第114ペー
ジ付近の「まとめ」によると、遺物の形態か
ら、弥生時代中期半ばの紀元前3世紀と、
かなり早いように見られていると読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第17:
”斜面堆積1出土遺物”の下段右に在り、
遺物番号第283番との旨、ナンバリング
されている。かなり大きな甕型土器が再現さ
れたように、私には認識される。

熊山田泰山.gif

 上図のように、中段右側の縁に近い部分の
破片に、漢字で無骨な文字で「泰山」と書か
れていて、背景に山を表現したように私には
見える囲みがある。
 紀元前3世紀の成立となると、伝来した漢
字としては著しく早くまた、道教信仰の大陸
での成立年代の議論にも影響があり得る。
 よって、

本物の字だとすれば、そうとうに貴重な遺物

なように、私には感じられる。瀬戸内海への
帰化中国人等の到達が、相当に早かった事を
示唆している疑いが有ると私見される。
(2023/04/09)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

徳島県美波町田井遺跡で古代~中世水奔墨書土器(長さん)

 今回は、徳島県美波町の縄文時代から
中世まで続く田井遺跡で、古代から中世
成立とみられる土器のカケラに「水奉王」
と漢字で書かれたようにも見える、淡い
模様が有り、竜神信仰の存在を示すので
はないかと疑われる例について紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されて、
発掘報告書に載っておりその報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
13367_3_田井遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
徳島県埋蔵文化財センター調査報告書第69集
田井遺跡、2007、徳島県教育委員会・
財団法人徳島県埋蔵文化財センター・
国土交通省四国地方整備局。
 発掘報告書第3写真図版pdf末尾の
抄録によると遺跡の場所は、徳島県
海部郡美波町田井字久保686。遺物が
出土したのは、西暦2002年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第157
ページ付近の記載によると、ここで話題
にする遺物土器破片は、包含層で出土し
たが、古代から中世の土器破片であると
報告者は見ているように読取れる。
 遺物の写真は、第3写真図版pdfの
写真図版第33:”包含層出土遺物12”
の最上段右側に在り遺物番号第2306
番との旨ナンバリングされている。写真
は上下に外面と内面の、計2コマがあり、
下の方の内面に、以下話題とする漢字で
字を書いたような模様が見える。

田井奔土.gif

 上図のように、写真の右に寄った所に、
第2字目が少し時計回りに回転している
点が怪しいものの、縦に漢字で「水奉」、
その右に第3字目に「王」のように見え
る淡い模様が在り、合わせて

「水奉王」のようにも見えるような模様
が有る。

 充分明確とまでは言え無いが「水王奉」
の意図で書き、竜神を信仰しているよう
にも私見される。中世に掛かっているか
ら、現地に「王」が居たとは思えず、
龍王をイメージして、それを祭る土器片
を、作成したのかもしれないと疑う。
(2023/04/08)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

鳥取県倉吉市大御堂廃寺跡で奔行墨書土器(長さん)

 今回は、複数の墨書土器が出土した
表題の遺跡の発掘で、大半は「久米」
という地名に由来した、「久米寺」、
「久寺」墨書土器が出土し、わずかに、
仏教の「浄」という墨書土器も在ると
された、平安時代初期の出土遺物に
関して、「(何がし)行」と書かれ、
発掘報告書では「仏行」と釈文した
遺物には、本当は「奉行」と書かれて
いるもように見えるとの旨の、紹介で
ある。

当時の遺跡の寺が神仏習合

なのであろう。
 遺物の写真がweb上に公開され、
発掘報告書に載り発掘報告書が、奈良
文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に、登録公開されて
いる。pdfファイル名は以下の通り。
13635_1_史跡大御堂廃寺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書名は、以下の通り。
倉吉市文化財調査報告第107集
史跡大御堂廃寺跡発掘調査報告書、
西暦2000年、倉吉市教育委員会。
 発掘報告書本文末尾と図版の間の
抄録により遺跡の場所は鳥取県倉吉市
大字駄教寺町字大御堂・上場原、
駄教寺町二丁目字大御堂・隅還・
どんと川。遺物が出土したのは、西暦
1996~2000年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、遺物は第1土溝
にて出土したが、発掘報告書第62ペー
ジ付近の墨書土器一覧等によると、
「仏行」と読まれた墨書土師器であり、
同じく発掘報告書の第59ページ付近
の記載によると、第1土溝自体が、
かなりの数の土師器の類の形から、
少なくともその地点の土師器について、
は9世紀の平安時代初の成立と、見ら
れているように、読み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版
第19の最上段右から2番目に墨書部
分の拡大写真として存在し、遺物番号
第215番との旨ナンバリングされて
いる。発掘報告書のスケッチ図第48:
土溝(SD)第01番出土土師器1に
も、「仏行」等と釈文されたように記
載されている。

大御堂廃寺奔行.gif

 上図のように第2字目も欠けている
ので「行」自体もは残念ながら、確実
では無いように私見する。が「行」の
ようにも読め、第1字目は擦れていて、
更にはっきりしないと見る。私見だが、

「奉行」でも通るのではなかろうか?

 寺が平安初期に在ったのは、久寺
墨書が複数出土している事から明らか
なのであろうが。その寺が神仏習合な
ら、自然を奉じる祭祀も、寺で全く行
われなかったと、断言するまでには
至らないのではないかと私は疑う。
奉行、奔行は将棋の駒名として、多分
無いから将棋には関連し無いであろう。
(2023/04/07)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

島根県津和野町喜時雨遺跡で南北朝車走墨書土器(長さん)

今回は、表題の津和野町の前期中世遺跡で、
卒塔婆型の木製品出土遺物に、泰将棋の駒
として存在する「走車」の、第1字目と、
第2字目をひっくり返した漢字で「俥走」
書いたように見える遺物が出土していると
の旨の紹介である。

卒塔婆の戒名と考えられる。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
13722_1_喜時雨遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
津和野町埋蔵文化財報告書喜時雨遺跡、
2000年3月、津和野町教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の場
所は、島根県鹿足郡津和野町大字田二穂
喜時雨。遺物が出土したのは西暦1997
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、単独墓と推定された
不明遺構2(SX2)で遺物は出土したが、
発掘報告書第41ページの記載によると、
14世紀、南北朝時代頃成立したものでは
ないかと、取れるように考える。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第6
の下から2段目右にある、木簡ないし卒塔
婆状の木の切れ端であり、遺物番号第
211番との旨、ナンバリングされている。

喜時雨車走.gif

 上図のように、オモテ面とみられる方の
みに、字が少なくとも2文字書いてあるよ
うに見え、発掘報告書では「禅定」と釈文
している。残存のよい部分の字から、戒名
が書かれた卒塔婆と見たようである。字が
明快には残っておらず、12月の意味の
「師走」や、

(ニンベン)俥走も、完全否定は出来無い

と私見する。将棋駒名とは完全合致はして
いない為、異制庭訓往来の時期に泰将棋が
成立していたという説の根拠としては、か
なり淡いであろう。
 無理に連想すれば、泰将棋の成立よりは、
中国シャンチーの南北朝時代の伝来と、棋
譜の木板への木簡としての書き込みが想像
出来るかもしれない。発掘報告書が第3字
目として読んだ「尼」は、「馬」の上部の
ようにも見えなくも無い。しかしながら、
第1字目の上に、その前の中国シャンチー
の相手の着手が書かれているような気配は、
ほぼ無いように思う。発掘報告書の言うよ
うに、卒塔婆へ故人の戒名が書かれている
という単純な可能性が、残念ながら、この
ケースは高いであろう。(2023/04/06)
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

富山県高岡市麻生谷遺跡で平安前期泰山墨書土器(長さん)

今回は、古代の宿駅:「川人駅」付近と
される、富山県高岡市の麻生谷遺跡で、
付近の低山を道教の泰山に見立てて奉じ
たとみられる、「泰山」墨書遺物が出土
しているとの旨の紹介と、それと共に、
将棋とは繋がらないが、奈良期の貴重な

絵画土器ではと、疑われる破片がある

との旨紹介する。
 遺物の写真がweb上に紹介され、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
14081_1_麻生谷遺跡・麻生谷新生園遺跡調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
高岡市埋蔵文化財報告書第Ⅰ冊
麻生谷遺跡・麻生谷新生園遺跡調査報告、
西暦1997年3月、富山県高岡市教育
委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると遺跡の
場所は、富山県高岡市麻生谷。以下紹介
する幾つかの遺物が出土したのは、西暦
1992年~1995年の間のようであ
る。なお遺物は、麻生谷遺跡から出土し、
麻生谷新生園遺跡の東側400m前後地
点にあたる。麻生谷新生園遺跡からの
古代遺物の出土量は少なく、冒頭のべた、
古代宿駅:川人駅付近に近いのは、話題
にする遺物の出土地点の、麻生谷遺跡
本体のように読み取れる。
 繰り返すと遺物の成立年代は、発掘
報告書第87ページ付近の記載から、
遺跡自体が8世紀後半から9世紀にかけ
ての、奈良時代後期から平安時代前期頃
のものと、考えられているように読み取
れる。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第
203:”遺物麻生谷遺跡西暦1992
年度調査地区”の上カラム:”市道地区
 須恵器・土師器・数洲”の第3段目、
右端に在って、遺物番号第1218番と
の旨、ナンバリングされている。土器の
かけらのようである。

麻生谷泰山.gif

 上図のように、写真の右側上の方に、
漢字で「泰」のようにも見える、少し大
きめの模様があり、縦に第2字目がやや
小さめに「山」と書かれているようにも
見える。発掘現場の北部に見える標高は
あまり高く無いものの、景観を形作って
いる、地図で見ると等間隔に並んでいる
地元の連山を、道教の泰山に見立てて、
古代に奉じたようにも見える。
 ちなみに同所が宿駅で、旅行客が古代
に往来した事を示唆するように私見され
る、土器片が共出土しているようである。
 以下は、発掘報告書の同じ写真図版第
203の、泰山破片のひとつ置いて左に
あり、遺物番号第1215番との旨、
ナンバリングされている、同じく土器の
破片のような出土物である。

麻生谷絵画1.gif

 上図のように、顔を上空に向けた男性
と、前に向けて微笑んでいるように見え
る、古代ふくよか顔の女性、それに、も
しかすると、間にもう一人、旅籠の団体
客の余興の司会者のように私には見える、
男性がもう一人、計3人の人物の顔のよ
うな、模様がついているようにも見える。
 そして、右下に縦に漢字で何か2文字
説明書きが書かれているようにも見え、
無理読みすると「干手」または「干の手」
となる。恐らく能登半島の浅瀬で取れた
海産物を使って作成した「干物」の意味
と見られる字であろう。酒のツマミを置
く容器という意図が、個人的に私には、
連想される。旅行客の慰安の為に、宿駅
の旅籠で古代に行う宴会時の、食器の意
図が連想されるということである。
 さらに、発掘報告書の写真図版の今の
べた第203番より少し先に、連番で前
記よりも少し大きな遺物番号第3111
番にも、人物画が描かれている疑いが、
あるようである。

麻生谷絵画2.gif

 発掘報告書の推定通り、後2者は宿駅
から出土する、独特な墨絵土器なのでは
ないかと個人的に疑っている。(2023/04/05)

nice!(4)  コメント(0) 

群馬県前橋市上大屋遺跡で奈良時代王龍墨書土器(長さん)

今回は、以前に述べた上大屋遺跡出土の
縄文土器等に「奉馬」「奉行」と書かれ
ているように見えた模様について、E区
第1住居跡以外の地点の遺物の類似模様
を調べて、不可解に早い時代の墨書模様
の真偽性について、考察した結果を紹介
する。

縄文土器の模様は、偶然模様であり、文
字で無いから、縦に真っ直ぐに書かれて
い無い

とみられる。
 以前紹介したので繰り返しになるが、
以下にpdfファイル名、発掘報告書の
名称、遺跡の場所、遺物の出土年を繰り
返して記載する。ただし写真のpdf
ファイルは今度第5ではなくて、第6に
載っている
pdfファイル名は以下の通りである。
16123_6_上大屋・樋越地区遺跡群.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
大胡町発掘調査報告書Ⅲ上大屋・樋越地区遺跡群、
西暦1986年3月31日、群馬県勢多郡大胡町
教育委員会。
 遺物は、表題の最初方の上大屋遺跡の
FないしG地区の八ヶ峰須恵器窯で出土
したとの事である。
 発掘報告書冒頭「発掘調査に至る経過
と調査の経過」によると遺跡の場所は、
群馬県前橋市(勢多郡大胡町:当時)
大胡町上大屋字八ケ峰。
 遺物が出土したのは、西暦1983年
11月から1985年3月までの間との
事であった。
 今回下記に示す、より「本物の墨書」
らしい遺物については、縄文土器ではな
く、古代成立である。すなわち本遺跡の
発掘報告書第5本文pdf”八ヶ峰趾
遺構”の第223ページ付近の記載によ
れば、八ヶ峰須恵器窯の成立年代は、第
7世紀第2四半期の奈良時代と縄文時代
に比べて、はるかに下る。なお八ヶ峰趾
遺構は、繰り返すと上大屋遺跡のFない
しG区にあるとの事である。
 遺物の写真は、最終pdfである、第
6後半写真図版pdfの、写真図版第
100の上段カラム:”広口壷(274
図1~4)”の右側にあり、スケッチ図
第274番中の遺物番号第2番との旨、
ナンバリングされている。

上大屋王龍.gif

 上図のように、いっけんして上部に濃
く王と読める模様があり、第2字目は下
端しか、はっきりとは残ってい無いが、
「奉」のように見える、薄い模様が在り、

縦に、整列して2文字在る。

それにひきかえ、以前に紹介した「奉馬」
墨書遺物も「奉行」土器片も、横に書か
れていたり、字の大きさがチグハグだっ
たりで、同じ場所で出土する朝廷献上物
の入れ物土器とみられる、上図の遺物の
文字に比べて人工感が乏しいことが判る。
 よって、前回紹介した、発掘報告書、
写真図版第22の最上段右側遺物番号
第2番の奉馬模様暖炉壁も、写真図版
第24の同じく最上段右の、第12番
の奉行遺物模様土器破片も、模様は、
少なくともこの遺跡の墨書の書き方には
個体差が極端には無いとすると前回のは、

残念ながら、大発見ではなく偶然模様

の疑いが濃いのではないか。以上のよ
うに私は、今のところ結論している。
 また縄文土器であっても、墨書は時代
が下がっている疑いが、こうしたケース
には良く有ると考えるので。本物ならば
字は真直ぐなはずなのではないかと、私
はやはり疑うという事である。(2023/04/04)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

愛知県新城市石座神社遺跡で4C泰山墨書土器(長さん)

今回は、奉の字がぼやけているものの、
黒々と漢字で泰山にも読めるような、
煤模様のある甕型土器が愛知県新城市の、
戦国時代の古戦場、石座神社遺跡から
出土しているとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
14521_4_石座神社遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、第1pdf表紙に
よると、以下の通りである。
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第189集
石座神社遺跡、2015、公益財団法人愛知県教育・
スポーツ振興財団,愛知県埋蔵文化財センター。
発掘報告書冒頭例言によると遺跡の場所は、
愛知県新城市大宮字狐塚。遺物が出土した
のは西暦2007年から2010年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書第45ペー
ジ付近によれば、遺物は遺構(SK)
1804で出土したが、平底甕型の土器の
破片であると見られているようである。遺
構自体、発掘報告書第36ページ付近の記
載により、古墳時代初めの4世紀頃成立と
みられ、その頃の遺物と、発掘報告書から
受け取れるように考える。
 遺物の写真は、発掘報告書第4pdfの
遺物写真前半図版の写真図版第109の最
上段右端にあり、遺物番号第274番との
旨、ナンバリングされている。古墳期の広
口の少し小ぶりの甕型土器のように、私に
は見える。

石座神社山泰.gif

 上図のように、左下に明快な煤模様が在
り、山という字がはっきりしていて、「奉」
はやや、ボヤケているが、奉山または山奉
の意図のようにも見える。
 古墳時代初の4世紀に、愛知県新城市で、
山と奉の漢字が成立していた疑いが、濃い
事を示しているように私見する。(2023/04/03)

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

長崎県島原市稗田原遺跡で縄文晩期山泰墨書土器(長さん)

 今回は、はっきりした文字模様では
無いが長崎県島原市の縄文時代晩期の
発掘遺跡ではないかとみられる場所で、
漢字で「山泰」のように読める、浅鉢
型土器が出土しているとの旨の紹介で
ある。
 遺物の写真がweb上公開されて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧に登録・公開
されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
14766_1_稗田原遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
長崎県文化財調査報告書第145集
稗田原遺跡Ⅱ、1998、長崎県教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録によると遺跡の
場所は、長崎県島原市稗田(ひえた)
町。遺物が出土したのは西暦1996
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第
37ページ付近の「まとめ」冒頭によ
ると、縄文時代晩期半ば程度の遺跡で、
その程度の成立年代のもではないかと、
考えられたように読み取れる。日本で
漢字が成立していたとすれば、極めて
早い遺物と考えられるようである。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版第
8:”出土遺物④”の最下段左に在り、
遺物番号第59番との旨ナンバリング
されている。土器の破片のように、私
には見える。発掘報告書第25ページ
付近の、遺物観察表によると磨研浅鉢
(の破片)であるとの事である。

稗田原山泰.gif

 上図のように、少し右に寄った上の
方に一見して漢字の「山」のように見
える、暗い模様が有り、その下にはっ
きりしないが、泰のようにも見える字
模様がある。
 写真から器の内面のようであり、
「泰」が摩耗しているので、単なる煤
かもしれない。はっきりしない。漢字
そのものが中国で定着した周王朝の頃
に書かれたことになってしまう為、器
の内面に書くという不自然さから、
おそらくは偶然模様だろうが。これが
本当に墨書だとしたら、大きな発見に
なるだろう。(2023/04/02)

nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

愛知県春日井市松河戸遺跡で古墳後期龍王墨書土器(長さん)

 今回は、古墳時代後期の6~7世紀に
成立とされ、壷型の土器に大きく「龍王」
と漢字で墨書きされているように見える
遺物が、愛知県春日井市で発掘されてい
るとの旨の紹介である。
 遺物の説明が今の所発見できないが、

大きく字が書いてあるように見える。

 遺物の写真がweb上公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書デタベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
14900_1_松河戸遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通りである。
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第48集
松河戸遺跡、1994年、財団法人
愛知県埋蔵文化財センター。
発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場
所は、愛知県日井市松河戸町。遺物が
出土したのは西暦1986年から西暦
1991年の間の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第9
ページ付近に、ここで話題とする遺物が
出土した第201号溝は、古墳時代後半
の6~7世紀程度のものと見られている
ように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書写真図版
(PL)第77番の上段集合写真の中で、
2列目右端にある。なお、写真のコマに、
62A区の溝(SK)第201番との旨
の付記がある。比較的大型の壷型の土器
のように、私には見える。

松河戸龍王.gif

 上図のように、第2字目が別の土器に
隠れているが、大きく側面に漢字で、
「龍王」と墨書きされているような、黒
い模様が見える。
 竜神信仰の例であり、古墳時代の遺物
に墨書が珍しくは無い事を、この例も示
しているのであろう。(2023/04/01)

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー