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インド11~12世記マナソラーサの4配置図の正体(長さん)

以前増川宏一氏の著書から、本ブログでは
インド2人制古将棋類(チャトランガを含む)の、
初期配列による4種類のゲームの存在を疑ってい
た。以下はその件の続報である。
 少なくとも、一つは、古チャトランガの途中の
局面を指している事が判った。具体的に最初に書
いてしまうと、以下のようになっている。
4段目:口、口、兵、口、口、口、兵、口
3段目:口、兵、車、兵、兵、車、兵、口
2段目:兵、口、口、馬、馬、口、口、兵
1段目:口、口、象、王、臣、象、口、口
マナソラーサの文献を解釈したものだが、解釈者
は、欧州人のボックラーミンクで、1995年の
事である。以下に、説明を加える。
 雑誌名が不明であるが、著者ボックラーミンク
の居所が、オランダのアムステルダムと記載され
たコンテンツの309から331ページに、以上
の情報がある。325ページに問題の配置図が記
載されているとみられる。題名は、
The varieties of
 Indian chess through
the ages(”インドチェスの通史”か?)
である。なお、ボックラーミンクは別文献だが、
ドイツ語でも論文を書いている。オランダ語は発
見されていない。国籍は良く判らないがオランダ
人は、かなりドイツ語が出来るので、ドイツ人の
方ともオランダの方とも断定できないと見られる。
 なお、雑誌名はともかくとして、以下のurl.
にコンテンツがある点が、重要である。

エイチティティピー://history.chess.free.fr/library.htm

私は、本ブログをたまたま読まれた有志の方より、
上記のサイトの存在を教えてもらった。

情報の提供者の方に、深く感謝したい。

ところで。
 ボックラーミンクは324ページの図の記載で、
11~12世記のインドの2人制チャトランガの
各駒の動きにつき次のルールと解釈しているよう
である。(本文中の説明はまだ読み取れて居ない。)
王:玉将。大臣:猫叉。象:飛車。馬:八方桂
車:シャンチーの相/象。兵:ポーンに加えて
2升目前方に、制限された香車の走り。ただし、
ボックラーミンクの文献を良く見て居ないので、
2升目前方移動が、最初の位置からだけなのか
どうかは、まだ私には個人的に判らない。その他、
西洋チェス同様、ステイルメイトがこの時点で、
古チャトランガにも有ると、ボックラーミンク
は、見ているようである。今問題にしているイン
ドの古文書マナソラーサに、終盤近くの局面部分
例があるとボックラーミンクは言っているようだ。
 ところで少なくとも上の配列へ、普通の2人制
古チャトランガの初期配列から移行できることは、
車の位置から確実とみられ、その際、特に特記す
べき点は、

馬が八方桂馬でなければならない事と、兵が、
ほぼポーン動きである点

と指摘できる。何れにしても、4種類有ると、
増川宏一氏が彼の成書で書いている、ボックラー
ミンク解読の、11世紀~12世記インドの文献
マナソラーサの配列のうちの、少なくとも1配列
は、インド2人制古チャトランガの、途中局面図
であるようだ。なお、終盤部分局面図も、前記の
英文”アムステルダム発・文献1995”には、
マナソラーサの分として2枚載っている。だから
残りの1つは、増川氏の言うようにインド2人制
古チャトランガの初期配列だとすれば、問題の”

3種類のゲームの配置図”は、全部チャトランガ
の途中局面図の可能性も濃い

とみて、間違いないようである。
 以上で、本題の説明は終わる。
 以下に、少なくとも12世紀の初め頃には、
インドも、イスラムシャトランジのように、
”馬が八方桂の動き”だと、確定した件について
コメントする。
 まずこの結果は、11世紀の4人制チャトラン
ガを再現していると本ブログでは見る、4人制の
成立時期、11世紀初時点のものと、本ブログで
見るルールよりは、動きが桂馬ではないから

馬に関して、西洋チェスのナイトである。

インドが元々、日本の将棋に近い馬駒の動きだっ
たと仮にしたとして、
少なくとも12世紀に入る頃には、たぶんイスラ
ムシャトランジに、より近くなり、結果西洋チェ
スにも近くなったと、結論せざるを得ないとみら
れる。インドの今の残る2人制チャトランガへは、

ビルーニ反転の前に、馬が八方桂、もしかすると
車が角行から飛車へ、先祖返りするという事が、
マナソラーサ期には起こった

と、ボックラーミンクの研究結果を正しいとする
限りは、そう考えざるを得ないのであろう。なお、
前記の駒組図で、象を角行動きと仮定したケース
でも、角道が空いているので、

ボックラーミンクの象駒の推定(飛車)は間違い

である可能性も、有ると見られる。その際には、
ビルーニ反転と、走り駒のついての象/車の角→
飛車の変化は、実際には本ブログで、従来考えて
いるように、同時の可能性も残ると見る。しかし、
八方桂化は、それ以前と考えざるを得ない。その
原因は難しいが今の所、11世紀に、そもそも
アル=ビールニがインド訪問をした頃、訪問自体
を可能にした

トルコ系カズニー朝のインドへの侵攻が、インド
にイスラム化を、それなりにもたらしたからだ

とでもしないと、さしあたりは旨く説明できまい。
今後は以上の、2段階のインドチャトランガ→
イスラムシャトランジ化(”古チャトランガ”→
”今に残るチャトランガ”への転換)仮説を、本
ブログでは取る事にしたい。
 なお、冒頭付近に記載した、ボックラーミンク
解読のインド2人制チャトランガの配置図の戦法
は、かなり消極的であり、個人的には、この駒組
は、実戦として、余り尤もらしいとは思えない。

馬は守り駒ではなくて、このゲームのケースは、
先制攻撃駒だと、個人的に私は考えている

からである。この”戦法図”を見る限り、マナソ
ラーサのチャトランガ説明部のボックラーミンク
による解析結果の方式は、ヘビーゲーマー以外の
人間の作った、チャトランガ解説書の中の、尤も
らしいが”作り物の作戦図”ではないかと個人的
に、私には疑われている。(2020/02/16)

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弾碁仮説”沈香木画双六”ゲームチェック結果(長さん)

以前述べたように、東大寺正倉院の用途不明
ゲーム盤”沈香木画双六盤”を、本ブログでは
弾碁の一種用のゲーム盤とみなした。
 サイコロを振る代わりに、駒を指で弾いて、
有る程度の自分の意思で、盤双六パターンの、
合法手を指すようにし、相手側の3升目×2段
の中に、8枚の自陣の駒を全部移したら、勝ち
というものである。このとき、相手側に上げら
れる前の駒が残っている場合には、小プレミヤ
が、1枚も相手陣に入って居ないと大ブレミヤ
が、以上の2つが両方起こった場合、特大プレ
ミヤが付くのであろう。今回は実際に、簡便に
ゲーム盤を作り、碁石を使用して、以上の仮説
に矛盾が無いかどうか、ゲームをやってみたの
で報告する。
 結論から書くと、

次の2点を考慮する必要が有った。

①弾いたが元の升目のままである場合は、振り
出しに戻らなくても良い事にする。(パスも可
能。)
②振り出しの位置から弾いたとき、たまたま駒
が転がって、思わぬ升目に入った場合はOK。
合法移動とする。

では、経過を説明する。
以下は、縁の20升目のうち、印の付いた所に
駒を入れた、初期配置である。駒は8枚ずつで
あり、黒は上部の相手白陣への移動を目指し、
白は下部の相手黒人への移動を目指してゲーム
を開始する。

沈香木画初期.gif

 ゲームが進むと、一例では以下の状態に到達
し、この例では黒勝ちで、白にスタート台への
取り残され駒が一つ残存しているので、小ブレ
ミヤ勝ちである。このようになるのに、
各100投位必要である。かなり、のんびりし
たゲームである。

沈香木画打終.gif

なお、白の斜め右上隅の駒は、盤双六でいう、
蒸されたような状態であるが、相手の駒がライ
ンに出ない範囲で、強く弾き

遠くまで転がして、無理に脱する事も出来る

としないと、ゲームが固まってしまうという、
難点が有る事が、実際にプレーしてみて判った。
 どちらの升目に、駒のより多くの部分が入っ
ているのか。移動先を迷うケースが、結構多かっ
たので、もし実際にこんなゲームであってかつ
賭博に使うと、トラブルが多くて、廃れたのか
もしれないと思われる。(2020/02/15)

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奈良時代正倉院沈香木画双六局は将棋盤で無い(長さん)

本ブログでも、将棋の伝来が奈良時代では
無いとの立場を取る。ところで奈良東大寺
正倉院に、用途不明の遊戯盤が存在する。
表題の、沈香木画双六局である。双六盤の
ように、2列に12ずつの升目があるわけ
でもなく、囲碁のように19路の線がある
わけでもない。3×5の15升目に、面積
のせまい、20のヘリ升目があり、とりあ
えず、15升目の日高駒よりも更に大きな

規格外に大きな将棋駒を使う、駒数少数型
の将棋盤のように見えなくも無い。

奈良時代に、将棋の類が有ったとしたら、
定説は大きく覆る。が、将棋駒を使う将棋
盤ではないという証拠が、具体的に何か有
って、否定できるのかどうかを今回は論題
とする。回答を書く。

将棋盤では無いとみられる。

根拠は、角の花形紋に接続された短線が斜
めであり、駒が奇数角形の駒で無く、具体
的には

8の倍数角形ないしは円柱であり、五角形
将棋駒は使わないゲームと推定されるから

である。
 では、論を開始する。
このゲーム盤が奈良時代の成立であるのは、
今の所、同系統の正倉院の宝物から見て、
そう考えるしか無いだろう。だから、将棋
盤の類だとすると、伝来時期が大きく遡っ
てしまい、定説は完全に覆る。
 そこで、この遊戯盤の模様を観察すると、

周囲補助升目の花形紋に短線が付いている。

問題は、そのうちの角の花形紋であり、下
の部分拡大図のように斜めに書かれている。

沈香木画双六局.gif

この事から、使用する駒は奇数角形の、そ
れ自身で方向が判る形の物ではないと推定
できる。花形紋に短線を描かないと、駒の
向きが判らないような、形態の駒を使用す
る遊戯用と考えるのが自然である。
 また、短線の向きが盤の端線に垂直な
ものもあり、角以外で垂直。また、升目自
体が四角であるから、駒は一例で、

正多角柱で8の整数倍か、円柱

のはずである。なぜなら、45°回転させ
ても支障が無いから、短線方向が盤縁線に
垂直なものと、そこから45°回転したも
のの、2種類があるとみられるからである。
よって、このゲーム盤は、

推定される駒の形から、少なくとも現在の
形の五角形駒を使う、日本の将棋の系統に
使う遊戯盤では無い

事が判る。
 以上で証明は済んだが、この盤が何なの
か、一応の推定はしてみよう。

たぶんだが、一種の弾碁の盤で、このケー
スは、相手の駒に当ててはいけないような、
特殊なルールのもの

であろう。ルールは盤双六を、混ぜたよう
なものなのかもしれない。
 最初に、8枚づつ双六の駒を持ち、花形
紋の所で、長方形の部分に2個、四隅に
1個づつ初期配列するのではなかろうか。
陣地は、中央3升目が中間段であり、残り
の2列6大升目を、プレーヤーが左右どち
らかずつ持つのだろう。四つ角の花形紋の
短線の両方に2つずつ、花形紋が余分に有
るのは、四つ角に駒を置くと、方向短線が
隠れてしまうのを、補うつもりなのだろう。
 ゲームは駒を指で弾いて進め、ラインに
乗ったら面積の大きい方へ、入れなおして
整頓して良いのだろう。ただし最初だけ、
弾く方向が、短線方向と決められているの
かもしれない。
 また弾いて他の駒をその升目の外へ出し
てしまった場合は、普通の弾碁とは逆に、
ヘリの出発点に、戻されてしまうのだろう。
他と干渉せずに、別の升目に弾けたときだ
け、升目を移動できる。このとき、自分の
駒だけの升目か、相手の駒が1枚しかいな
いか、駒の無い升目ならば移動でき、相手
の駒が2枚以上の所へ、間違って入れた場
合も、ヘリ升目へ戻されてしまうのだろう。
落下したり、中央15大升目以外へ入って
しまった場合も、振り出しに戻りだろう。
なお一つの升目には、4個程度しか駒は、
入らないとみられる。以上のエラーのケー
スは、スタート地点5箇所のうち、空いて
いれば、自分で出戻り先を決めてよいと見
られる。
 ただし、相手の駒が一枚だけの升目へ、
移動できた場合は、相手の駒を相手陣の縁
升目のどこか、自分に好きな所へ押し込む
事ができるのだろう。囲碁と違い、初期縁
升目に駒が残っている場合でも、升目数が
双六盤より少ないため、差別しても無駄だ
から、どの駒も弾いて動かせるのだろう。
 そして、それを互いに繰り返し、相手の
陣地の6升目のどれかへ、自分の8枚の駒
を全部移動できたら、そのプレーヤーの勝
ち、かつ形勢差によりさらに、ブレミヤが
付くというゲームなのではないだろうか。
 一般に弾碁の盤は、双六盤に逆L型の足
が付いていて、中央が盛り上がったものが
よく知られている。弾碁盤は双六盤に似て
いるわけであるから、恐らくこの正倉院の
ゲーム盤も、その類の可能性が大きいよう
に私には思える。(2020/02/14)

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刀伊の入寇を国家戦と見た藤原隆家主張は通る(長さん)

本ブログでは、日本の平安小将棋の流行りは、
藤原隆家の後一条天皇への説示の、ほぼ一言
が発端だという事になっている。刀伊の入寇
は、対外国国家間戦争の一環であり、将棋は
それを模したものであって、帝、皇族の将、
征夷将軍にとって、必要な武芸であるという
主張である。古代インド、バルダナ朝の、
ハルシア王伝説とも合っているので、説示の
内容として、そもそもの違和感は無いのだが。
実際には刀伊の入寇は、女真族の大規模海賊
によるものであり、国家間戦争とは、女真国
が11世紀には存在しないので、厳密にはみ
なせない。
 にもかかわらず、双方に玉駒があるゲーム
が、海賊討伐作戦にまで役立つと、藤原隆家
が主張して通ったのはなぜなのか。本ブログ
の仮定に、今述べた点で矛盾が無いのかどう
かを論題とする。回答から書く。

矛盾は無い。新羅の入寇が、遣唐使を廃止
する頃にあり、新羅国は基本的に日本と百済
敵国。それに対し日本と高麗の関係は中立だ
が、両者が急速に関係悪化した局地戦に準え
れば、刀伊の入寇のような戦闘がそれに当る
と、言えなくも無いから

である。
では議論を開始する。
 現場の戦闘の具体的な内容は、

西暦1019年の刀伊の入寇と、西暦894
年前後の寛平の韓寇とさほどの差は無かった

と考えられる。

高麗と日本の戦争は、歴史上ほぼ無かったが、
友好関係は、百済と日本よりは下、新羅と日
本よりは上、渤海と日本の程度だったと、
高麗国そもそもの建国経緯からみなせる

だろう。だから、

藤原隆家が、刀伊の入寇を寛平の韓寇に準え
ても、後一条天皇等には、へんだとは当然
感じられなかった

のではないか。
 つまり、賊が百済の賊であり、百済と日本
との間の国家間戦争に、原始平安小将棋が
準えられたのだとしたら、後一条天皇も、
藤原頼道も、藤原実資も変に思うのだろうが。
対日関係は並である高麗の海賊は、国王の
命令とはとても思えないにしても、
西暦1001年や、話をしている最中の、
西暦1020年12月頃にも、日本に押し寄
せていたと、web上には出ている。
藤原隆家は”太宰府では平素から、こうした
問題に対処していている”という意味で、述
べたのであろう。
だから、

女真海賊と高麗海賊をいっしょくたんにして
藤原隆家が論じても、日本では統一新羅王の
関与を疑っている、西暦894年頃の”
寛平の韓寇”を覚えていてくれてさえいれば、
それなりの説得力は有った

のではないかと私は考える。
 なお藤原実資は「小右記」で、西暦1001年
の海賊を”高麗国の賊”と敢えて明確化して
いるとされ、対朝鮮半島王国間戦争を、従来
より懸念していたと取れる証拠が有る事が判る。
 よって、

高麗国と日本との国家間戦争を最悪のケー
スは想定

し、それに備える意味で、武芸に励むのが
道理だと、藤原隆家が、他の朝廷メンバー
にも伝わるように、後一条天皇に説示したら、

おかしな話だと、感じる者はほぼ無かった

のではないかと思える。よって、刀伊の入寇
に対処するために、玉駒が2枚有り、国家間
戦争を明らかに模したものである小将棋に励
む事は、刀伊の入寇を首尾よく鎮圧した例か
ら見ても、一般的に日本の防衛に寄与したと
主張して、当時の上流階級・貴族層に通るの
は明らかだと、私は以上のように考えるので
ある。(2020/02/13)

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なぜ盤双六の存在は初期象棋をブロックしない(長さん)

本ブログでは、日本に西暦666年頃から
西暦1015年の間にイスラムシャトランジ
は、伝来すると直ぐに、廃れたと考えている。
囲碁のゲームの出来の良さを良く知っている
ので、出来の悪いイスラムシャトランジ系
ゲームは盛んにならなかったと見たのである。
ところで、出来の良いゲームとして、盤双六
があり、ペルシャや欧州ではイスラムシャト
ランジ時代に盛んであった。しかしイスラム
シャトランジがこれらの地域で日本のように
廃れると、西洋チェスが存在し無い事になり、
事実に反する。そのため、囲碁は初期将棋の
キラーになるが、盤双六系はキラーには、
ならないと考えなければならない。なら、
なぜゲームの出来の良い盤双六からは、初期
象棋であるイスラムシャトランジの出来の悪
さが発見できないのかを、今回は論題にする。
回答を先に書く。

棋力がAとBの対局で、Aが少し大きいとき、
囲碁ではA勝ち、初期象棋では勝負付かず引
き分け、盤双六ではAとBが勝ったり負けた
りになる。

ゲームが勝ち負けが確定して終わるという点
で、囲碁と盤双六は初期象棋より優れるが、
AがBより棋力がすこし上という点が、反映
されないという点で、囲碁より劣りかつ、

盤双六と初期象棋はその点で同じ。なので、
前者が後者よりも優れているように見えない
から

である。
 では、以下に論じる。
 言うまでも無いが、盤双六が流行ったのは、
上記の例で、Aの方がBより少し優れていた
とき、

Aが勝つことが多いが、Bも時として勝てる

からである。だから、頂点に居る名人が誰な
のかを決定するには、囲碁の方が盤双六より
優れているが、盤双六には

弱者Bが、たまたまの運を信じてプレーして
くれるので、賭博としては面白く、盤双六は
それなりに流行る要素が有る

と考えられる。だから、盤双六を会得してか
ら、初期の時代の象棋、例えばイスラムシャ
トランジをした場合は、囲碁のように、棋力
の差がスッパリ出るゲームが、囲碁が有る場
合とは違って、別には無いと考えられる。
そうすると、トーナメント戦を繰り返して、

名人が誰なのかを問題にする意識が、生じに
くかった

と考えられる。ゲームとは、実力の他、運も
左右するのが、当たり前と認識されるため、
”匠”は居ても、頂上”トップ”を決めよう
とは、しないからである。
 こうした意識を持っている限り、勝つのは
運だから、イスラムシャトランジに、ゲーム
の終端状態に達しにくく、引き分けが多いと
いう欠点は、

余り苦にならない

と当然だが考えられる。玄怪録の岑順のセリ
フではこれが曖昧に、宝応将棋に援用されて
おり、”勝利はときの運であり精霊が決める
こと”と、文学表現されているとも考えられる。
 それはともあれ。
 ペルシャや中世の欧州のゲーム界は、その
ような状態だった。だから、イスラムシャト
ランジが、囲碁のある東洋の中国、朝鮮半島、
日本のように、ブロックされなかったのでは
ないかと考えられる。
 なおインドでは、盤双六が余り、流行らな
かったようである。本ブログは”盤双六の謎
を解く”目的のものでないため、

なぜ古代インドで盤双六が余り盛んでなかっ
たのか

に関して、詳しくは述べない。簡単に書くと、
古代インダス文明の流れをくむインドでは、
”国の文化であるから、特定のゲームをする”
という、”思想”というもの一般が、そもそ
も流行らず、

賭博の、本質的意義の有無が問題にされた

とみる。その結果、ハイリスクならハイリター
ンで無ければならないと考えられ、二人制
賭博ゲームは、概して流行らなかった。とい
うのも、インド人に言わせると

一人づつカモにしてゆくのでは、金を巻き上
げるのに”効率”が低すぎると考えるため

である。その結果、ゲームの良し悪し以前に、
2人制ではだめとされ、賭博は四人制
チャトランガのように、3人以上のゲームに、
早くに移行したのではないかと、私は考える。
 何れにしても棋力世界一という事が、価値
有るものだと認識されるには、現実として、
最善手を選択するのに、高度な実力が必要な
ゲームが、囲碁という形で現実に出現しない
と生じないし、又囲碁のように、悪手をちょっ
とでも打つと、名人戦では勝ち抜けないよう
なもので、なければならなかった。

現実にそうした性質を充分に供えた囲碁が現
われて、第2番手のイスラムシャトランジは
遅れを取って、東洋では囲碁にブロッキング
された

のであろう。
 以上の点から、棋力が結果とイコールにな
り、かつ最善手の選択に相当な鍛錬が必要に
なるという両方の条件のうち、

盤双六には前者の性質が、たまたま欠けてい
た。そのためたまたま、対イスラムシャトラ
ンジへのブロッキングゲームになれなかった。

私は以上のように、考えるのである。
(2020/02/12)
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なぜ日本将棋が金、銀、銅3種にならなかった(長さん)

日本将棋の駒が玉将、金将、銀将なのは今更
であり、銅将をなぜ入れなかったのかを本格
的に問うた、先行研究があるとも聞かない。
が今回はこの、駒名の選択に関して日本将棋
に関し、玉将が当選して銅将が、落選した
理由を本格的に考察する。回答から書く。

大理国の王族は後漢書を読んでおり、金銀銅
ではなくて、金銀に価値を、隣国の大国、
漢王朝が持っていたのを、知っていたという
対外的体裁

からである。
 では、以下に論を開始する。
 実際の大理国では、複数の将棋が11世紀
に有ったのかもしれないが。前20世紀の、
中華人民共和国雲南省当局の、日本人研究者
による、研究調査時の対応の歴史からも推定
されるように、銀細工師と北宋商人との間の
交易を管理する、大理国当局としては、外国
に自国を良く見せる効果の有る物品だけ、
輸出するように、11世紀には管理していた
だろうと推定される。他方後漢書のテン国の
記載から漢民族が、雲南に関して金属のうち、

金と銀の産出が特筆されると、考えていた

と読めるのは明らかである。従って大理国当
局からみると、国のイメージを上げるものは、
貴金属のうち、特に金と銀の2種を選択した
ケースだと、当然認識し得ると考えられる。
 そのため、貴金属を使用するような遊具は、

そもそも、富裕層の所有物だとみなせる

のだが。更に銅、鉄の入った遊具よりも、

大理国のイメージアップには、金と銀が限定
して2種類だけ入ったものが、大理国の特徴
を良く表したものであるように見える

と考える事が出来るだろう。それに加えて、
玉将については、細工物が当時の大理国の
特産品だったとみられ、

将駒が3種必要であっても、玉将を入れれば
それの好きな、中国人への印象が、すこぶる
良いだろうとの想定が、容易にできた

と見なせる。
 以上の事から、大理国原始平安小将棋の他
に、別の将棋種が雲南では並立存在していた
としても、大理国当局によって、小将棋だけ
が、国のイメージアップに繋がる物品として、
選択的に許可されたと推定できる。すなわち、
小将棋だけ

大理市金銀細工職人共同組合等から北宋交易
商人の(一例)周文裔への売り渡しが、当局
にスムーズに、許可されたのではないか。

当然、今の日本将棋は、この大理国原始平安
小将棋の後継であるし、産地がわかった上で、
古代・中世の日本の将棋史の実質的な愛好家
が、後漢書のテン国の記載を見れば、

五宝のうち、金と銀がテン国付近で特に名産
品だったので、選択したのは判って支持した

であろう。その結果、末裔の日本将棋には、
玉、金、銀、銅、鉄を、どこかで区切るとす
れば、銀と銅の間で区切る習慣が定着し、

銅将が入らなかった。

以上のように考えられるのである。
 なお、日本に関して後漢書には、翡翠とも
とれる青玉と、辰砂と真珠の産地と書いてあ
り、平泉の金鉱の発見等は遅れたようである。
 そのため、少なくとも将棋には強い興味を
示さず、興福寺の将棋博打場など、考慮に入
れずに焼き討ちにしてしまった、平家の閣僚
層は、後漢書の東夷の倭は読んでも、西南夷
のテン王は、読み飛ばしてしまったのだろう。
つまり当時の

中国人の銀相場感が法外に高く、金>銀≧銅
ではなくて金>銀>銅であるのを、そのため
に知り得なかった

ようだ。その結果平家政権時代にも、宋銭の
輸入のために、法外に日本の銀を、大陸に対
して銅原料を得るために放出してしまった
らしい。逆に言うと政情不安で、のんきに将
棋を指して遊んでいられなかったのも、ある
のかもしれないが。

平家の一族の間では、平安末期に極端に将棋
が流行った事はやはり無かったのではないか。

以上の傍証の一つに、あるいはなるのかもし
れないと、私は考えている。(2020/02/11)

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後漢書で南夷をテンのように表現の他例は無い(長さん)

以前、後漢書で、テン国王一族の記載が、
贅沢三枚で、領土内で金銀の鉱産資源を有
し、馬牛が多数居るという3点で、日本将棋
の伝来元として、相応しいとの旨を述べた。
しかし単にテン国の後漢書の記載だけでは、
漢王朝が周辺民族一般に対し、しばしば、
上記3点を、決まり文句で記載しているの
かもしれず、証拠として適当かどうかの
疑念もあった。特に史記では”中国王朝に
初めは逆らって反乱を起こしたが、平定さ
れて皇帝を尊敬している”は決まり文句だ。
 そこで、今回は、

リファレンス情報として、周辺民族一般を
漢王朝が、一般的にどう表現しているのか
を、とりあえず産物が類似の、西南夷の章
について、後漢書でチェックしてみた。

以下が、人の性格と特産品に絞った、
”西南夷”についての、本ブログが把握し
た範囲での、後漢書の記載である。

タン人国:人食い人種である。
越しょう国:白い雉が居る。
黄支国:犀を中国に献上した。
ベトナム:雉とウサギが居る。
邑国:犀と雉を中国に献上した。
巴郡の豪族:虎狩をする。勇猛である。
昆明:遊牧民。王は居ない。
夜郎国:原始宗教を信じる。牧畜蚕業が無く
貧しい。こうろう木の皮をはいで食している。
哀牢夷:鼻や耳に穴を空け、体に竜の刺青を
描いている。雲南省の奥地に住み、かつては
弧立。土地は肥沃で五穀が採れ、蚕業が盛ん。
織物業が盛んで麻布、桐の木の”むく毛”の
織物が有る。

金、銀、銅、鉄、鉛、錫、真珠、琥珀、水晶、
瑠璃、翡翠等の鉱産資源がある。

孔雀、犀、象、ショウジョウ等の動物が生息。
首に瘤の有る、特殊な種類の牛状家畜動物が
いて、肉が多い。また鹿が居る。象牙や象を、
漢王朝へ献上した。漢王室に、ここの手品師
が来て、”自分はローマ帝国の末裔だ”と、
名乗っていた。
きょう都夷:平原で稲作地。道楽者で合唱が
好きである。
作都夷:山岳地帯の民。民族音楽がある。
宗教的な彫刻を作る。
ぜんぼう夷:寒く不毛な地で麦が取れるだけ。
牧畜業を営む。牛、馬、羊、鹿、ジャコウ、
鶏、ショウジョウが居る。特産の織物がある。
肉食なので、住民は太っている。
白馬氏(てい):土地が険しく麻畑が続く。
馬、牛、羊が居る。漆を産する。養蜂をする。
川のほとりに住む。向こう見ずで恐れを知ら
ず、命がけで高利貸しを営んでいる。
(以上が、人種の特徴と、特産品についての
抜書き結果。)

以上の事から同じ雲南省で大理市より山奥の、

”哀牢夷”以外、テン王同様、鉱産資源の豊
富な場所等との記載が無い

事が判る。なお、net上の記載を見る限り、
哀牢夷=白衣蛮のように、私には見える。
 以上の結果から、テン国王のような記載が、
漢王朝から、見た当時の蛮族一般に対して、
決まり文句で与えられている訳でもない事が、
明らかである。
 しかも、哀牢夷の王はテン国王とは異なり、

”国王は耳に穴を空けて、肩まで耳が垂れて
いる”等と未開人のごとくに表現され、黄金
に囲まれて暮らす、バイキングの王族系とい
う、テン王イメージとは又、別な表現

のようである。
 よって、後漢書の周辺民族列伝に関しては、
少なくとも、日本の将棋の伝来元に関する、
傾向証拠を全く含み得ない、他民族の記載が
画一化している情報とは、とても言えないの
ではないか。
 テン王以外の、西南夷に関する後漢書の記
載から、私は以上のように考えるのである。
(2020/02/10)

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ミャンマーシットゥイン自由陣形起源インドか(長さん)

増川宏一氏書、ものと人間の文化史134
遊戯・その歴史と研究の歩み(2006)
の248ページに、アンドレアス=
ボックラーミンクの”インドのチェスと
関連した盤上遊戯の文献資料”(1995)
の紹介があり”ミャンマーのシットゥイン
の自由陣形ルールは、インド起源か”とい
う増川氏のコメントがある。今回はこれも
有り得る話だという観点から、内容を紹介
すると共に、簡単にコメントしたい。
増川氏の前記著書に次のように書いてある。
引用:
16世紀のインドのチェスの一種は、事前
に5段目まで、互いに陣形を整えてから競
技を開始する方法があったことを紹介して
いる。今日まで続いているビルマの将棋の
原型であろう。(以上引用)
 結論から述べると、
アノーヤター王の頃に成立したはずの、
ミャンマーシットゥインが16世紀のゲー
ムから、分岐するとは考えにくい。
 だから最近まで、この成書のこの記載は、
解読不能と感じられた。つまり

インドで成立した年代は、もっと古い

と考えなければ、つじつまが合いにくい。

しかし、自由配置は13世紀にも存在した
と考えさえすれば、

余りおかしくない話だ

と、その後、思うようになった。
 つまりインド人は、駒の動きのルールは、
思想的ではなく、写実的であるべきだと考
えやすい民族であろう。だから駒の動きを、
彼らの感覚からみて不自然に、強く変える
以前に、

王を高上げして、攻撃に参加させ、バラン
スが悪いのを、緩和する事を最初に考えて
もおかしくない。

よって、ミャンマーのシットゥインのルー
ルのすべてが、バガンで考えたとも、言い
切れないのかもしれない。
 そう考えると、成立した年代の推定が
おかしいものの、

インドで先に、自由配置ルールが考えられ

て、ミャンマー等で取り入れられたが、
インド本国自体では、不充分と見られて永
続せずに、今に残らず、残ったのは定形型、
今に残るインド二人制チャトランガ(象・
馬・車が、銀将、八方桂、飛車型で、配置
は中央王、副官、象、馬、車、二段目ポー
ンで、相手陣対応駒ポーン成りルール)だ
けだったのかもしれない。
 なおインドには、ミャンマー・古シットゥ
インの、兵の左3段右4段の高上げ位は、
情報として伝わっていたと考えられる。
 更にインドが、イギリスの植民地化した
とき西洋チェスに、移行をし始めたので、
”今に残るインド2人制チャトランガ”の
ディフェンス過多は、結論的に言うと、
置き去りにされ、放置された結果残存した
のであろう。
 成立が16世記ではなくて、13世紀で
あり、記録としては16世紀のものにも有
るというのなら、自由配列はインドが起源、
その後、モンゴル帝国に攻められ衰退しつ
つあるバガンのミャンマーに伝来したでも、
余り、おかしくないのかもしれないと思う。
(2020/02/09)

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後漢書の雲南テン国の記載。北宋代の大理国に酷似(長さん)

以前、鳥越憲三郎氏(中央公論)の成書、
”中国正史 倭人・倭国伝全釈”を紹介した。
が、そのときには、岩波書店(2005)の
後漢書を私は読んでいなかった。この第十冊
には、東夷列伝第75の”倭”が載っていて、
中国の史書として、ほぼ同時代の漢書と同じく
ノイズの多い日本情報だとされている。
しかし史書として早期の、後漢書に、

南蛮西南夷列伝第76の”テン”国も有る

点が重要である。そこで

テン王に関する記載の部分は、大理国王に酷似

という話を今回はする。
 では、以下論を開始する。
 後漢書では鳥越憲三郎氏が指摘するように、
東夷列伝第75の”倭”は、南蛮西南夷列伝
第76の”夜郎”と、似たり寄ったりと冒頭で
表現されている。漢代には日本列島は、海南島
の近くにあると、中国では考えられており、
海南島には、夜郎国と同族人種が住んでいると
されたためである。なお、夜郎国もテン国も、
北宋時代には、大理国領内とみられるので、

統一国家テン国は、小国分裂状態の日本列島
倭国国群の、同族先行国家と言うことになる。

そこで、テン国の様子だが、後漢書には、次の
ような旨が、書いてあるようである。
”テン国にテン王という者が居て、荘嬌将軍の
末裔の者である。西暦0109年に漢の武帝は、
雲南を攻め、漢王朝領の益州郡とした。その後
数年して昆明も征服した。昆明の近くにテン池
があり、雲南省のテン国の中心であり、そこか
ら生じる川は最初流れが緩く、逆さ川のようで
ある。テンとは逆の意のテンである。池の周り
には盆地で平坦な大地が広がり、

オウムと孔雀がおり、塩水湖で漁が盛ん。また
金・銀が多く産出し、畜産業が盛んである。
テン国官僚・富裕層は、贅沢三昧をしていて、
富かな者は、何代にもわたって栄えている。

・・・・
西暦0042年、土地の豪族の棟蚕は、漢王朝
に対して反乱を起こしたが、大軍を派遣される
と、陣地を捨ててゲリラ戦で抵抗。しかし数ヶ
月で平定された。その際、敵12700人が切
られるか、又は捕虜となり、馬3000頭、

牛と羊合計30000頭以上が、漢の物となる。

以上のように反乱軍は、ことごとく鎮圧された。”
 以上の事から、テン国ののちの、ジャン(チュ
アン)国、南詔国、大理国は、仏教の伝来は別
として、テン国と体質は、さほど違わない後続
国家であると、イメージできる。大理国時代に
は、シルクロード地帯との交易も盛んになり、

鉱業(金、銀)、畜産(馬、牛、羊)、魚業、
の他ネフライト(玉)の細工も盛んになった

のであろう。何れにしても

後漢書のテン王国の記載から、そこに将棋駒
の金将、銀将、猛牛駒の元がいかにも有りそ
うなのは、

もっともなのではないか。
なお、私は知らなかったが後漢書の記載から、

藤原道長が西暦1015年の春に、唐物とし
て受け取った孔雀は、少なくとも、かつては
テン国にも居た

ようだと判る。
 北宋時代以前に、後漢書の東夷列伝第75、
南蛮西南夷列伝第76が成立していたのは明
らかである。だから北宋商人(一例)周文裔
が、上記を読んで、宝応将棋の進化型である、
原始平安小将棋(大理国タイプ)の存在を
予め掴んだ上で、

立体駒タイプの平安小将棋を交易品として輸
送して来る行為は、実際にその作業をすると
すれば、”単なる同族内の文物の移動を、
代行して商人がしている”と、意識するに
すぎないという事は明らか

だと、私は考えるのである。なお、大鏡の
藤原行成を記載した、”後一条天皇のオモチャ
の件”等から、倭族については雲南テン国だ
けでなく日本でも、雲南大理国の時代になる
と、富裕層が贅沢三昧し出したので、一緒の
レベルに到達したと北宋商人(一例)周文裔
は、見なしたはずである。つまり冒頭で述べ
たように、テン王も大理国の王侯も、日本の
天皇・藤原一族も同じ倭族であるからいっしょ
だと、北宋商人には、後漢書を読めば、見な
せるということになるのである。(2020/02/08)

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私説、朝廷サロン・双王小将棋仮説根拠のまとめ(長さん)

平成の天皇に将棋の趣味があるが、今の日本将棋
を、普通に楽しんでおられるだけだとの旨の情報
が、”解明将棋伝来の謎”松岡信行著に出ている。
 本ブログでは、白河天皇から後陽成天皇までは、
朝廷での小将棋の標準は、王将×2だったとして
いる。後奈良天皇の詔の話から推定されるように、
実効力は別として、将棋文化を朝廷がコントロー
ルしているとの意識が、存在した可能性がある。
実効力は中世、近畿地方と神奈川県鎌倉市の街中
だけに、限定されたと、本ブログでは推定している。
 その第一の中心的根拠は、本ブログで以前述べ
た、関西方面で、よほど摂関家が強い興福寺のよ
うな例を除いて、

古代末~中世に玉将が出土しない事

である。
なお、近畿以外になると、一乗谷、鳥取、福岡、
新安沖沈没船から、中世に玉将は出土している。
鎌倉に王将駒が、ひっそりと出土している点は、
本ブログでも前に指摘した。以上は中世に朝廷が、
鳥羽離宮135次のような王将駒を、玉駒として
推奨した、最有力の証拠と本ブログでは見る。

なお今の所、本ブログの論の賛成意見は皆無

である。原因は少し後で述べるが、ともあれ自分
が、この点でのトップランナーだと考える事にし、
良い事だと思うようにしている。
 さて更にここでは、他の根拠もあわせて、証拠
のまとめをしておく。以下、論を開始する。
 2番手の証拠として、最も大きいのは、
八木書店2000年発行(復刻)の、二巻物
色葉字類抄、加賀藩前田本の、1/4冊末備奥付、

小将碁馬名の玉駒が、王将である

事である。今回はこれにつき、もう少し詳しく述
べる事にする。
 二巻物色葉字類抄、4分冊化を実行した西暦
1565年書写者で、小将碁馬名の挿入者とみら
れる雪竹老人は、

戦国時代に天皇家では、日本将棋の玉は、
2枚ともに、王将だと認識していた。

ので、玉駒を書く所に、王将と書いたというのが、
少なくとも本ブログの見方である。玉駒を書くと
ころは、一箇所だったので、玉将を省略したのだ
ろうと、言う向きも有るかもしれないが、それな
ら、色葉字類抄のフォーマットから見て、王将の
字の下に小さく、”他一方ハ玉将”等と、注釈を
入れれば済むだけのはずである。なお、加筆者と
みられる雪竹老人は、自身のあとがきの中で、”
写書は、聖徳太子に見せたいと希望している”と、
取れる文を書いている。近年の成書に”聖徳太子
は天皇だ”と題字しているものも有る位だから、
色葉字類抄のターゲット読者が、皇族である事を、
雪竹老人が意識していたと、仮定できるだろう。
 しかし、これに関して前にも述べたが、恐らく
上の史料を慶長期に問題にした、あい嚢鈔の、
西暦1590年後半の、慶長本書写者兼、
玉/王将の理由の項の加筆者が、本ブログの論
は取らず、日本将棋の玉駒は、上手が王将、下手
が玉将の1:1だと言う意味の記載であると、
安土桃山時代の末から江戸時代草創期にかけて
主張した。そしてかつ、

あい嚢鈔の説が、非常に優勢になって今日に至っ
ている。

そのため、

本ブログ説はここに述べても全くの奇説に見える

だけに、なってしまっているという訳である。
 しかし、戦争は国家間でするものであり、対立
国家には、

それぞれに王が居るので、中世天皇家の小将棋ゲー
ムが双王でも、冷静に考えると違和感など無い。

だから”玉/王1:1かつ、王将上手説”に、も
ともと大きな説得力など無いと、考えられるので
ある。

2つ王が居るとおかしいという洗脳力が、いかに
強いものか。

繰り返して主張されると、整合性の乏しい説も、
さもさも、尤もらしく思えて来るという一例だと、
本ブログでは、当然考えている。
 更に3番手の史料として西暦1595年宣明暦
5月5日の、朝廷の女官の日記、”御湯殿上日記”
に、秀吉の大将駒の提案をした旨の、朝廷への報
告の記録が載っていて、

豊臣秀吉が、玉将に言及して居ない

という点も証拠である。これは当時の天皇家で、
小将棋を指すときに、玉将を使用していなかった
証拠であると本ブログでは見ている。後陽成天皇
の、豊臣家への問いは、”昨今は皇族も、たいそ
う質の良い、水無瀬兼成駒を使用するようになっ
た。だが、そもそも皇族の玉は、特に小将棋につ
き玉将ではなくて、王将なのが、院政時代からの
流儀である。将棋の一番大事な駒に関して、皇族
は王将×2を今後も使用すべきかどうか、豊臣殿
は、どう御考えですか?”が、具体的質問内容だっ
たと私は推定する。
 つまり後陽成側は”水無瀬兼成の双玉は摂関流
であり、上皇流ではない”と、言っていることに
なり、天皇家で安土桃山時代末まで、双王小将棋
が残存していた証拠と推定できると、本ブログで
は独自に考えたというわけである。
 今の天皇家に、こうした話が残って居ないのは、
血筋が途絶えて、閑院宮家流に天皇が継承された
江戸時代に、前記記憶が、将棋の家の既存在から
当然の如く不要となって、失われたからであろう
というのが、ここでの見方だ。
 今の所、史料としての根拠は以上の3点である。
特に関西の出土駒については、王将の王の書体が、
”本当は玉で、無理やり王にさせられているのだ”
という心の叫びがあるかのように、真ん中の横棒
が、下に下がっているように見える点を含めて、
それだけだと考える。むろん本ブログでも、本件
については、更に証拠が無いかどうか、今後も調
べるつもりで居る。(2020/02/07)

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