SSブログ
前の10件 | -

福岡県大刀洗町下高橋馬屋元遺跡で奈良期奔王墨書土器(長さん)

今回は、福岡県の遺跡で奈良時代の土器に、「
奉王」墨書の有る例を示す。

大和朝廷の時代になり、王や皇は洛陽では無く
て近畿地方に存在するようになっても、九州の
北部では、奉王墨書が土器に記され続けた

ようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
57558_1_下高橋馬屋元遺跡1.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
県道久留米・筑紫野線関係埋蔵文化財調査報告7
下高橋馬屋元遺跡(1)、1997年、
福岡県教育委員会。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所は、
福岡県三井郡大刀洗町下高橋。遺物が出土した
のは西暦1995年前後の事のように読取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第39ページ
とその前後の記載により、竪穴住居跡1~4号
の何れかから出土したが、8世紀の奈良時代成
立であろうと取れる旨の記載が在る。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第44の、
下から2段目左側に在り、遺物番号で第10番
との旨、ナンバリングされている。甕型の土器
の破片のようである。

下高橋馬屋元奔王.gif

上図のように、写真の土器の左側の上から、縦
に、漢字で奉王と読めるような、煤模様がある。
弥生土器とされる為、弥生時代の奉王や奉馬墨
書の甕型土器と、形の上での、さほどの差は無
いように私には見える。
 近畿地方の奈良市に中央政権が出来ても、納
税の際の貢物の入れ方は、弥生時代に大陸や、
古墳時代に地元の有力者へ差し出す場合と、
福岡県近郊では、格別な差が無かったことを示
しているように私見される。奈良期の大和朝廷
と漢王朝とで、福岡県の下々の民には、大きな
差が在るようには、ひょっとして、見えなかっ
た事を示しているのではないかと、私は疑う。
少なくとも奈良時代に、遣唐使を派遣する効果
は有ったろう。(2022/06/28)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岩手県洋野町宿戸遺跡で縄文後期奔馬墨書土器(長さん)

以前、青森県の縄文時代のものとされる遺跡で、
縄文後期の土器に「奉山」と墨書された遺物を
報告した。今回は、三陸リアス式海岸の岩手県
の太平洋岸で、同じく縄文時代後期とされる
土器に、漢字で奉馬と書かれているように、私
には見える例について報告し、本州全体で状況
が同じであった疑いがあることについて述べる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
90838_3_宿戸遺跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書
第726集宿戸遺跡発掘調査報告書、2021年、
国土交通省東北地方整備局三陸国道事務所・
(公財)岩手県文化振興事業団。
 なお、発掘報告書本文は第1pdfである、
90838_1_宿戸遺跡発掘調査報告書.pdf
に記載されている。第2pdfは、遺物スケッ
チ図集である。
 遺跡の位置は、発掘報告書冒頭の例言による
と、岩手県九戸郡洋野町種市第6地割字宿戸。
遺物が出土したのは、西暦2016年前後の事
のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第130ペー
ジ付近のリストにより、縄文時代後期の半ばな
いし後半との旨、読取れるようである。
 遺物の写真は、前記発掘報告書第3写真図版
pdfの、写真図版第159:”北5Dグリッ
ド出土土器”の左上に在り、遺物番号で第
183番との旨、ナンバリングされている。
急須のようなちょっと変わった形の土器のよう
である。

宿戸奔馬.gif

上図のように、急須の注ぎ口の左側に、縦に、
漢字で奉馬と読めるような、煤模様が在る。
 土器に縄文が在るが、形が変わっている。
岩手県の、縄文時代

晩期土器の混入と考え、該遺跡の西側の山に、
鉱物を採りに来た、漢王朝からの帰化人が書い
た文字だ

とすれば、説明が絶対に不可能とまでは言えな
い例ではないかと、本ブログの管理人は疑う。
 青森県青森市米山遺跡の縄文期泰山墨書と、
同系統のものであり、鉱山からの鉄鉱石等の採
掘等と、移動用の馬の供給が、西暦紀元前後に、
中国漢王朝の帰化人により本州全域で、いつも
ペアーで行われた疑いが有ることを示している
のではないかと私見する。(2022/06/27)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

愛媛県松山市若草町遺跡で20C初遊戯盤(長さん)

以下、発掘報告書で将棋または碁盤と紹介
されている、20世紀初成立とみられる、
遊戯盤出土の話題である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
115696_1_若草町遺跡3次・4次調査.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
松山市文化財調査報告書205若草町遺跡
3次・4次調査、西暦2022年、松山市教育委員会・
公益財団法人松山市文化・スポーツ振興財団埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、愛媛県松山市若草町。遺物が出土
したのは、第3次調査時であり、西暦
1993年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第61
ページによると、第1号井戸跡で発見され
たが、20世紀初成立とみられるとの事で
ある。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
19:”出土遺物(包含層・その他・井戸
跡)”の最下段右側に在り、遺物番号第
320番との旨、ナンバリングされ、本文
により、井戸跡からの出土した、石の表面
に升目盤を書いたものである。升目は具体
的には、だいたい10×7升目程度残って
おり、メッシュは1.5センチ角程度であっ
て、囲碁盤に近いもののように、私は見る。
なお、遺物番号321番として、同じ井戸
跡から出土した、碁石とみられるものが紹
介されている。碁石の色はグレーのようで、
私には白と黒のどちらかは良くわからない。
 以下は碁盤の破片とみられるものである。

若草町囲碁.gif

暗色に全面色が塗られていて、線は最初か
ら、白に近い色で付けられていたようであ
る。10升目在るので、その点で目を引く
が、メッシュが細かい点から見て碁盤の一
部だろう。
 石製だったので消耗し無かったようであ
るが。成立が近代であっても、遊戯盤の
出土は、わが国の遺跡では、比較的珍しい
と認識している。木材が多く、かつては家
庭での燃料になった事も、影響しているの
ではないかと、出土しにくい理由を、私は
推理している。(2022/06/26)

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

青森県青森市米山遺跡で縄文期泰山墨書土器(長さん)

今回は青森市の遺跡から、縄文時代後期成立
とされる土器に、漢字で奉山と書かれている
ように見える、出土土器破片の紹介である。

漢王朝時代の渡来人による鉱山資源の捜索が、
本州全土に及んでいた

ように解釈されるように私見する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
122091_2_米山2遺跡Ⅸ.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
米山(2)遺跡Ⅸ、西暦2022年3月、
青森県教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書第1本文pdf:
122091_1_米山2遺跡Ⅸ.pdf
の、冒頭の例言によると、青森県青森市大字
宮田字米山。
 遺物が出土したのは、同じく例言から西暦
2018年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は発掘報告書の第25ペー
ジ付近によると、第19号流路跡で出土した
が、青森県の縄文時代後期のものであると、
取れる記載が在る。
 遺物の写真は発掘報告書第2写真pdfの
写真図版第29:”19号流路跡出土土器
(6)”の第2段目左端に在って、遺物番号、
スケッチ図第40の第1番との旨、ナンバリ
ングされている。甕型土器が、ばらばらに砕
けたものであるように、私には見える。

米山2_40_1泰山.gif

上図のように、写真の中央上の縁下の部分か
ら真ん中に向かって、ぼやけているが漢字で
”奉”、画面やや右の下の端近くに”山”に
見える煤模様がある。

日本の鉱物資源を、漢王朝時代の渡来人は、
本州全域に亘って捜索した

と取れるような史料であると私見する。なお、
縄文時代後期だと紀元前10世紀前後になり、
漢字の成立として早すぎるが、流路跡に落下
していたものであって誤差が在り、縄文時代
晩期成立であって、渡来人の筆によるもので
あると考えれば説明が付くように、私には思
える。
 漢王朝には、恐らく軍事上の理由で、大量
の鉱物資源が絶対に必要で、アジアの各地か
ら、寄せ集めなければならない事情が有った
という事を、示しているのではないかと、私
は疑う。(2022/06/25)

nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

宮崎県えびの市柊野第1遺跡で古墳期龍馬墨書土器(長さん)

今回は、宮崎県えびの市の遺跡で、古墳時代に
成立したとされる土器片の内面に、漢字で龍馬
のように書いて在るように見える土器の話題で
ある。

小規模製鉄に関連する遺跡では、馬も飼われて
いた

事を示しているようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
122219_1_柊野第1遺跡.pdf
 発掘報告書名は、以下の通りである。
えびの市埋蔵文化財調査報告書第61集
柊野第1遺跡、2022年、宮崎県えびの市教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書末尾の抄録による
と、宮崎県えびの市大字末永上原。遺物が出土
したのは、西暦2019年前後の事のようであ
る。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第171ペー
ジ付近の記載から、元々弥生時代末から古墳時
代前期後半の遺跡であり、第50号竪穴住居跡
から出土したが、この遺構について、古墳時代
前期4世紀の成立と見られるとの旨が、書かれ
ているように読取れる。以前紹介した、福岡県
上毛町郷ケ原遺跡の成立期とほぼ同じである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第87の
上から4段目左端に在り、遺物番号は、
第1334番の一部分とみられる。

柊野第1遺跡龍馬.gif

 上図のように左側の2つの破片を跨いで、内
面だとみられるが、漢字で龍馬と書かれている
ようにも見えるが、字がかなり滲んでしまって
いて、はっきりとはしない。
 なお、発掘報告書の前出第171ページ付近
に、竪穴住居跡第50号から、砂鉄すくいの為
のスプーンが出土しているとの旨記載がある。

小規模な製鉄作業場の近くの住居なのであろう。
たまたま馬も飼っていたが、良い馬なので龍馬
と表現した

のではないかとも、受け取れる。習字用に割れ
た土器の、裏面を使ったのであろうか。何れに
しても、製鉄関連施設には同時に、飼い馬の存
在を示す例が有るという点で興味深く、4世紀
頃の九州では、

鉄も馬も軍事的用途等で共存する事が多かった

事を示しているのではないかという事が疑われ
ると、私は考える。(2022/06/24)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福岡県上毛町郷ケ原遺跡は奔馬墨書土器計7個(長さん)

以前古墳時代初期の奉馬墨書土器を紹介し
た、表題の福岡県築上郡上毛町の遺跡で、
奉馬土器は2個ではなくて同じ発掘報告書
に、あと5個在るのに、本ブログの管理人
は気がついたので、以下に紹介する。

上毛町旧大平村側唐原の古墳時代初期牧場
の馬の数は、多かった

ようである。
 今回紹介する遺物は以前に紹介した2個
と発掘報告書も同じだし、pdfファイル
も同一である。
 発掘報告書は前に紹介したように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
繰り返すと、次の通り。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
57565_1_郷ケ原遺跡.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告第10集
郷ケ原遺跡、1998、福岡県教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭の例言に
よると、福岡県築上郡上毛町(当時:大平
村)大字上唐原・大字下唐原。
 遺物が出土したのは、発掘報告書の第1
ページ付近の記載によると、西暦1985
年前後で、以上も既に紹介済みである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第
254ページの記載から、遺跡自体が、
弥生時代後期から古墳時代初にかけての
成立である。残りの5個も同様とみられる。
 遺物の写真は、3個目が発掘報告書の、
写真図版第76の第3段目左側に在り、
遺物番号(第22竪穴住居跡の)第19番
とナンバリングされている。今度は卵型の
甕のように私には見える土器である。

郷ケ原奔馬3.gif

上図のように、右側に縦に漢字の奉馬のよ
うに読める、煤模様が在る。
 遺物の写真の4個目は発掘報告書の、
写真図版第79のやはり3段目左側に在り、
遺物番号(第32竪穴住居跡の)第8番
とナンバリングされている。これも卵型の
甕のように私には見える土器である。

郷ケ原奔馬4.gif

上図のように、今度は左側に縦に、漢字の
奉馬のように読める、煤模様が在るが、濃
いものの、馬の字が小さい。
 遺物の写真の5個目は発掘報告書の、写
真図版第102の第1段目左側に在り、
遺物番号(第3号方形周溝の)第23番
とナンバリングされている。金魚鉢型の土
器のように私には見える遺物である。

郷ケ原奔馬5.gif

上図のように、写真の右側に縦に、カスレ
て漢字で奉馬のような煤模様があり、それ
とは別に、中央上端と、半時計回りに字が
回転変形しているが、奉・奉と書いてある
ように見える、濃い煤模様が在る。なお、
方形周溝と竪穴住居跡とは関連しており、
どちらも弥生時代後半成立と、見られてい
るようである。
 遺物の写真の6個目は発掘報告書の、写
真図版第124の第3段目左側に在り、
遺物番号(第2号溝状遺構の)第200番
とナンバリングされている。卵型の割れた
甕型土器のように私には見える遺物である。

郷ケ原奔馬6.gif

上図のように、写真の右側に縦に、煤に埋
没して漢字で奉馬のような煤模様がある。
なお第2号溝状遺構については出土遺物が
大量に有ったらしく発掘報告書の第250
ページ付近に、弥生時代後期成立だろうと
の旨記載されている。私見だが馬の厩舎か。
 遺物の写真の7個目は発掘報告書の、写
真図版第127の第3段目右側に在り、
遺物番号(第2号溝状遺構の)第239番
とナンバリングされている。棺桶型の土器
のように私には見える遺物である。

郷ケ原奔馬7.gif

上図のように、写真の左側に縦に、漢字で
かなり濃く奉馬のような煤模様がある。牧
場主の、棺桶の片方なのであろうか。
 既に述べたように、これらの遺物を加え
た、計7個の奉馬と書かれたように見える
墨書土器から、2~4世紀に、有力者に馬
を奉じる目的で、付近に牧場等があり、
実際には大量に馬が飼われていた事を意味
するのかもしれないと、見て取れるように
思える。全部軍隊用の馬になったとすれば、
たいへん有力な豪族が存在したのであろう。
(2022/06/23)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福岡県上毛町郷ケ原遺跡で4C奔馬墨書土器(長さん)

今回は、以前弥生時代の奉王墨書土器を
紹介した福岡県上毛町の遺跡で、弥生末~
古墳時代初の成立と見られる土器に、
奉馬と書かれたような遺物が複数出土して
おり、

漢字「奉」の伝来は飛び抜けて早い

事を示しているとの例の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
57565_1_郷ケ原遺跡.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告第10集
郷ケ原遺跡、1998、福岡県教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭の例言に
よると、福岡県築上郡上毛町(当時:大平
村)大字上唐原・大字下唐原。
 遺物が出土したのは、発掘報告書の第1
ページ付近の記載によると、西暦1985
年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第
254ページの記載から、遺跡自体が、
弥生時代後期から古墳時代初にかけての
成立であり、遺物もその頃のものと、読取
れるように考える。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
61の2段目と3段目の右側の2つの広口
の金魚鉢のような形をした2個の土器であ
り、2段目は遺物番号J5-5番、3段目
はJ5-8番との旨、ナンバリングされて
いる。
 以下に、2段目遺物、3段目遺物の順で
2個の出土土器の写真を紹介する。

郷ケ原奔馬1.gif

 2段目の遺物は、煤模様のうち、右の端
で、画面の中央右の、黒い模様の固まりが、
上下で縦に漢字の奉馬のようにも見える物
である。

郷ケ原奔馬2.gif

 3段目の遺物は、画面の中央、やや左に
寄って奉。その下に馬にも見える、ぼんや
りとしているが、漢字で縦に奉馬とも読め
るような、煤模様の在る、J5-8番土器
である。なお、J5は、第5号竪穴住居跡
の意味のようである。
 遅くとも4世紀。あるいは弥生時代の、
2~3世紀の成立で、本当にあるとすれば、
有力者に馬を奉じる目的で、付近に牧場等
が在った事を意味するのかもしれない。そ
してそこには、識字層がたまたま居たのか
もしれないが、漢字の”奉”や”馬”の成
立が九州北部の福岡県東部では、相当に早
い事を物語っていると私見する。中世に、
城井氏の居城が形成されたと聞く豊前中津
方面では、大陸への鉄の売買等で、巨大な
富を得た有力豪族が、古墳時代の早期には
既に存在し、軍馬を集めていた事を示して
いるのかもしれない。(2022/06/22)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福岡県春日市門田遺跡で弥生中期馬行墨書棺桶(長さん)

今回は、馬術に関係した弥生中期の成人男性
の墓と見られる遺跡から棺桶が出土したが、
漢字で馬行と読めるような隅跡があるという
紹介であり、

漢字の、弥生時代中期の伝来を示唆している。

なお、日本の将棋名として、大大将棋に行鳥
または、行馬がある。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
62645_1_山陽新幹線関係埋蔵文化財調査報告6.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
春日市・門田遺跡門田地区甕棺墓群の調査第6集、
1978年、福岡県教育委員会。
 遺跡の場所は2ページ以下遺跡表によると、
福岡県春日市上白水門田。遺物が出土したの
は、冒頭例言によると西暦1974年前後の
事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第5ペー
ジ付近の墳墓遺跡の説明から、弥生時代中期
と読取れる。発掘報告書の第26ページ付近
の説明から、成人男性の遺体を安置した棺桶
の上部だとみられているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第73
の左上に在り、第54号提棺上甕と付記され
ている。

山陽新幹線馬行.gif

 上図のように、中央の横線を跨いでいるが、
漢字で馬、その下に漢字で行と書いたような、
煤模様が有り、

弥生時代中期に、福岡県春日市に「馬」「行」
といった漢字が伝来していた事を示唆

しているように私見される。馬術に関連した、
渡来人の棺なのではあるまいか。
 大陸に近く船舶で来訪可能と見られる福岡
県の弥生時代の遺跡には、漢王朝期の識字能
力のある中国人が、混在して住んでいて、漢
字を書いているという事が全く無いと考える
方が、そもそも不自然なのではないかと私は
疑っている。(2022/06/21)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

福岡県上毛町桑野遺跡で弥生中期奔王墨書土器(長さん)

今回は、九州北部福岡県東部の、成立が際
立って早い奉王墨書遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
57547_2_三ツ溝遺跡・長田遺跡・大池添遺跡・ウツケ畑遺跡・竹ノ下遺跡・.pdf
 発掘報告書の名称は以下のとおりである。
豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告第6集上巻
三ツ溝遺跡・長田遺跡・大池添遺跡・竹ノ下遺跡、
豊前バイパス関係埋蔵文化財調査報告第6集下巻
桑野遺跡・上の熊遺跡・小松原遺跡、
1997年、福岡県教育委員会。
 なお、pdf1が上巻、pdf2が下巻
である。
 遺跡は上記のように全部で7箇所あるが、
遺物はこのうち、桑野遺跡で出土したよう
である。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭によると、
福岡県築上郡新吉富村と築上郡大平村
(当時)。上巻の遺跡群と下巻の遺跡群と
で南北に2つの村に跨っていたようであり、
桑野遺跡は南側の(旧)大平村に所在する
ようである。詳しい位置は第2下巻pdf
末尾の抄録によると上毛町(大平村)大字
下唐原1296-3。
 同じく巻末抄録によると、遺物が出土し
たのは、西暦1991年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第2
pdfの第225ページ付近の記載による
と、遺跡自体が弥生時代中期と見られてい
るようである。遅くても中国王朝の前漢時
代の頃のようである。
 遺物の写真は、発掘報告書第2pdf、
桑野遺跡編の写真図版第34の最上段右上
に在り、遺物番号D211-61番との旨
ナンバリングされている。小型土器の台部
分の破片のように見える。

桑野図版34奔王.gif

 上図のように、中段中央から右に向かっ
て横に、漢字で第2字目の王の字が潰れて
いるものの、「奉王」と書かれているよう
にも見える、黒い煤模様が在る。
 大分県中津市に近い福岡県東部地点で、
弥生中期には有力者に貢物を奉じる識字層
が存在したという証拠のように見える。
九州北部では渡来人の到着が早く弥生時代
には漢字が存在しただろうというのが、本
ブログの従来よりの主張であるが、この例
も、九州北部の漢字の成立が相当に早く、
渡来人そのものが存在した事を示唆する遺
物と、解釈出来るように私見される。恐ら
くだが、日本には漢字が伝来したというよ
りは、漢字を日常使っている当時の文明人
的な人間集団自体が、漢王朝時代に、九州
北部に多数移住して来た事実があるとしか、
説明困難であるという事を、示しているの
であろう。(2022/06/20)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

岐阜県大垣市美濃国分寺遺跡で12C龍馬墨書陶器(長さん)

今回は、岐阜県・美濃国の国分寺跡付近から、
古代末期とみられる陶器に、龍馬と見られる
文字が、散漫に書かれているように見える出
土遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
90223_1_国分寺遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岐阜県文化財保護センター調査報告書第150集
国分寺遺跡、2021、岐阜県文化財保護センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は、岐阜県大垣市青野町。遺物が出土し
たのは西暦2017~2018年およびその
前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第49ペー
ジによると、流路跡に落下していた灰釉陶器
であって、古代・国分寺に関連する物品で、
12世紀成立と見られているように、読み取
れる。
 遺物の写真は発掘報告書第14写真図版:
”出土遺物(4)”の第2段目左から2番目
に在って、遺物番号第48番とナンバリング
されている。

国分寺龍馬.gif

 上図のように、割れてからの書き込みと判
るような、底台を跨いで書かれた漢字の二文
字が存在し、龍馬か羆馬のどちらかのように
読取れる。字体はしっかりしているが、適当
に、そのへんの筆記具で書いたようである。

良馬が亡くなったので墓を建てて埋葬したが、
使っていた馬具に字を書いて添えた

ような物品のようにも見える。
 将棋と関係在るかどうかは何とも言えない
と見られる。書き方から見て、家族以外の他
人に見せるつもりの無いような文字列であり、
馬等が古代末にも識字層に愛玩用動物として、
飼われていた事を示唆する一例として、興味
深い物品であるように私見する。(2022/06/19)

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー
前の10件 | -