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福井市一乗谷朝倉氏遺跡35期で戦国泰山墨書土器(長さん)
福井県福井市の一乗谷朝倉氏遺跡の、東西に
山が迫った地形の第35次調査区の発掘で、
今回は、木製品や陶器・磁器では無く、地味
に土師器に奉山と漢字で書かれたような模様
が在り、更に「金」と真ん中に書かれていて、
戦国時代にも、鉱脈捜索は、貴金属の採掘が
目的であった事を示している
という遺物の出土例を以下に紹介する。
遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
94043_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡
発掘調査報告.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調在報告(第7報)/
第35次第56次・第85次第61・62次
調査、1999、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡
資料館。
今回の遺物は、5回の発掘調査のうちの、
第35次調査のときに、出土したようである。
発掘報告書冒頭第23ページ付近の記載に
より遺跡の場所は、福井県福井市城戸ノ内町
下城戸町屋とみられ、遺物が出土したのは、
西暦1979年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は同地外壕西トレ
ンチで出土したが、発掘報告書第40ページ
付近の記載により、16世紀前半の戦国時代
と読み取れるように、私には思われる。
遺物の写真は、発掘報告書第35次発掘
調査編の、写真図版(PL.)第18図:
”第35次調査出土遺物(11)”旨の最下
段左から3番目に在り、遺物番号第225番
との旨ナンバリングされていて、土師器の皿
のようである。写真は多分だが、内面である。
なお、スケッチ図と写真図版が混在しており、
目的の写真図版は、注意深く探す必要が有る。
ちなみに、一乗谷朝倉氏遺跡からは、土師器
も出土するが、より高級な陶器・磁器の類が
多量に出土する。
上図のように、写真の右上に左から右へ、
漢字で「奉山」と書かれているような、暗い
模様が有るが、その左斜め下の底に「金」の
字のように見える模様も在り、「金」の模様
が比較的珍しい。
本ブログでは従来より、我が国に於ける
山岳部の鉱脈捜索は、弥生時代中期から続い
ており、貴金属の発掘が当初から、目当てで
あったと見ているが、時代は大きく下るもの
の、この土師器土器の暗い模様は、その仮説
を、なおも支持するものと私は考えている。
(2024/10/06)
山が迫った地形の第35次調査区の発掘で、
今回は、木製品や陶器・磁器では無く、地味
に土師器に奉山と漢字で書かれたような模様
が在り、更に「金」と真ん中に書かれていて、
戦国時代にも、鉱脈捜索は、貴金属の採掘が
目的であった事を示している
という遺物の出土例を以下に紹介する。
遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
94043_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡
発掘調査報告.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調在報告(第7報)/
第35次第56次・第85次第61・62次
調査、1999、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡
資料館。
今回の遺物は、5回の発掘調査のうちの、
第35次調査のときに、出土したようである。
発掘報告書冒頭第23ページ付近の記載に
より遺跡の場所は、福井県福井市城戸ノ内町
下城戸町屋とみられ、遺物が出土したのは、
西暦1979年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、遺物は同地外壕西トレ
ンチで出土したが、発掘報告書第40ページ
付近の記載により、16世紀前半の戦国時代
と読み取れるように、私には思われる。
遺物の写真は、発掘報告書第35次発掘
調査編の、写真図版(PL.)第18図:
”第35次調査出土遺物(11)”旨の最下
段左から3番目に在り、遺物番号第225番
との旨ナンバリングされていて、土師器の皿
のようである。写真は多分だが、内面である。
なお、スケッチ図と写真図版が混在しており、
目的の写真図版は、注意深く探す必要が有る。
ちなみに、一乗谷朝倉氏遺跡からは、土師器
も出土するが、より高級な陶器・磁器の類が
多量に出土する。
上図のように、写真の右上に左から右へ、
漢字で「奉山」と書かれているような、暗い
模様が有るが、その左斜め下の底に「金」の
字のように見える模様も在り、「金」の模様
が比較的珍しい。
本ブログでは従来より、我が国に於ける
山岳部の鉱脈捜索は、弥生時代中期から続い
ており、貴金属の発掘が当初から、目当てで
あったと見ているが、時代は大きく下るもの
の、この土師器土器の暗い模様は、その仮説
を、なおも支持するものと私は考えている。
(2024/10/06)
岡山県岡山市鹿田遺跡で近世「全般奔成」木簡(長さん)
今回は、江戸時代初期成立とみられるが、
表題の遺跡で出土した木簡に、摩訶大大/
大将棋のルールである「かなり多数の駒が、
奔駒に成る」と書いて有るように思わせる、
かすかな墨書が有るとの紹介である。なお発
掘報告書には「判読不能」と記載されている。
民家の庭先のゴミ捨て場のような、遺構での
発見であり、その場所は、武士が住んでいた
屋敷跡かとも、推定されているようである。
「・・宝般若之成(書)」と本ブログ管理人
はその後読み、宗教関係の書物を集めた事を
示していて、
仏教信仰に関係する、木札ではないかと推定
する。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140358_3_鹿田遺跡12.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岡山大学構内遺跡発掘調査報告第34冊/
鹿田遺跡12/第29次A地点・25次調査、
2018年、岡山大学埋蔵文化財調査研究
センター。
発掘報告書第3pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、岡山県岡山市北区鹿田町二丁目
5番1号。遺物が出土したのは西暦2009
年かまたは西暦2014年。ないしその前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第70ペー
ジ付近の記載により、17世紀前半の江戸
元禄期の頃のものであるように、私には読取
れるように思う。
遺物の写真は、発掘報告書第3pdfの、
写真図版第19;”木簡・土製品・石製品・
金属製品”の、最上段左に在り、溝40(
スケッチ図93の木製品第42番)と取れる
旨、付記されている。面状の木の薄板の切れ
端のように、私には見える。
上図のようにいっけん「全般奔之成」と
読んでしまい、摩訶大大/大将棋のルールが
書いてあるのかとも、思ってしまい驚く。
しかし、「奔」では無くて「若」のようで
あり「般若」のと書いてあるとみる方が、
日本で出土する墨書遺物として、いかにも
ありがち
である。そこで、やや主観的にそのように
読むと、「『宝般若』之成書(保管)」と
書いてありそうである。そうすると、書庫に、
内容の札をつけたようにも見えるがとにかく、
仏教信仰の為に使った、墨書遺物の類だろう
とも思えてくる。
よって本ブログの管理人は、今のところ、
この岡山大学構内で発掘された「木簡」を、
仏教の「般若経」に関係する経典の、当時の
存在のサインが記載された札と、解釈してお
きたい。将棋の分野には、残念だが余り関連
は無い物品かもしれないと思う。(2024/10/05)
表題の遺跡で出土した木簡に、摩訶大大/
大将棋のルールである「かなり多数の駒が、
奔駒に成る」と書いて有るように思わせる、
かすかな墨書が有るとの紹介である。なお発
掘報告書には「判読不能」と記載されている。
民家の庭先のゴミ捨て場のような、遺構での
発見であり、その場所は、武士が住んでいた
屋敷跡かとも、推定されているようである。
「・・宝般若之成(書)」と本ブログ管理人
はその後読み、宗教関係の書物を集めた事を
示していて、
仏教信仰に関係する、木札ではないかと推定
する。
遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140358_3_鹿田遺跡12.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岡山大学構内遺跡発掘調査報告第34冊/
鹿田遺跡12/第29次A地点・25次調査、
2018年、岡山大学埋蔵文化財調査研究
センター。
発掘報告書第3pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、岡山県岡山市北区鹿田町二丁目
5番1号。遺物が出土したのは西暦2009
年かまたは西暦2014年。ないしその前後
の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第70ペー
ジ付近の記載により、17世紀前半の江戸
元禄期の頃のものであるように、私には読取
れるように思う。
遺物の写真は、発掘報告書第3pdfの、
写真図版第19;”木簡・土製品・石製品・
金属製品”の、最上段左に在り、溝40(
スケッチ図93の木製品第42番)と取れる
旨、付記されている。面状の木の薄板の切れ
端のように、私には見える。
上図のようにいっけん「全般奔之成」と
読んでしまい、摩訶大大/大将棋のルールが
書いてあるのかとも、思ってしまい驚く。
しかし、「奔」では無くて「若」のようで
あり「般若」のと書いてあるとみる方が、
日本で出土する墨書遺物として、いかにも
ありがち
である。そこで、やや主観的にそのように
読むと、「『宝般若』之成書(保管)」と
書いてありそうである。そうすると、書庫に、
内容の札をつけたようにも見えるがとにかく、
仏教信仰の為に使った、墨書遺物の類だろう
とも思えてくる。
よって本ブログの管理人は、今のところ、
この岡山大学構内で発掘された「木簡」を、
仏教の「般若経」に関係する経典の、当時の
存在のサインが記載された札と、解釈してお
きたい。将棋の分野には、残念だが余り関連
は無い物品かもしれないと思う。(2024/10/05)
福岡県福岡市博多遺跡で安土桃山大泰山磁器(長さん)
今回は、福岡市の博多遺跡で白磁器の内側
に、大奉山と書かれたような、模様の有る
遺物が出土しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140353_3_博多196.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
福岡市埋蔵文化財調査報告書第1509集/
博多遺跡群第221次調査Ⅲ・Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ・
Ⅹ・ⅩⅡ区の概要、2024年3月22日、
福岡市教育委員会。
なお、この”福岡市埋蔵文化財調査報告
書第1509集”は独特で、形式・構成が
他のそれと違い、写真図版が本文に、全部
挿入されている。
発掘報告書第3pdf末尾抄録により、
発掘調査地の場所は、福岡県福岡市博多区
上川端97-1。遺物が出土したのは西暦
2018年から西暦2021年ないしその
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第3
pdf第228ページ付近の記載により、
遺物は、第12区の第157号遺構で出土
したが、16世紀、安土桃山時代頃の港湾
の、ゴミ捨て場での出土と考えられている
ように、私には読取れる。
遺物の写真は、同第3pdf第228
ページの図(Ph.)第255の左に在り、
遺物番号第12区の第18番との旨、ナン
バリングされていて、白磁の破片とされて
いるようである。
上図のように、内面写真(発掘報告書の
同遺物の写真で下のコマ)の、遺物の左上
に上部が煤に埋もれているが漢字で「大」
その右に「奉」、その下やや右にズレて、
淡く「山」と書いてあるようにも見え、
全体で「大奉山」と書いたようにも私には
見える。
発掘地点は、当時の海べりの港内であり、
近接して山は無い。たまたま博多の街内の
宗教施設で定型で使っている祭祀用であり、
割れたのでその白磁器を、廃棄したのでは
なかろうか。
現代同様に、白磁をこのような用途に
安土桃山時代にも使えたという事から、
博多の、町全体の裕福さが偲ばれると私は
思う。(2024/10/04)
に、大奉山と書かれたような、模様の有る
遺物が出土しているとの旨の紹介である。
遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140353_3_博多196.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
福岡市埋蔵文化財調査報告書第1509集/
博多遺跡群第221次調査Ⅲ・Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ・
Ⅹ・ⅩⅡ区の概要、2024年3月22日、
福岡市教育委員会。
なお、この”福岡市埋蔵文化財調査報告
書第1509集”は独特で、形式・構成が
他のそれと違い、写真図版が本文に、全部
挿入されている。
発掘報告書第3pdf末尾抄録により、
発掘調査地の場所は、福岡県福岡市博多区
上川端97-1。遺物が出土したのは西暦
2018年から西暦2021年ないしその
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第3
pdf第228ページ付近の記載により、
遺物は、第12区の第157号遺構で出土
したが、16世紀、安土桃山時代頃の港湾
の、ゴミ捨て場での出土と考えられている
ように、私には読取れる。
遺物の写真は、同第3pdf第228
ページの図(Ph.)第255の左に在り、
遺物番号第12区の第18番との旨、ナン
バリングされていて、白磁の破片とされて
いるようである。
上図のように、内面写真(発掘報告書の
同遺物の写真で下のコマ)の、遺物の左上
に上部が煤に埋もれているが漢字で「大」
その右に「奉」、その下やや右にズレて、
淡く「山」と書いてあるようにも見え、
全体で「大奉山」と書いたようにも私には
見える。
発掘地点は、当時の海べりの港内であり、
近接して山は無い。たまたま博多の街内の
宗教施設で定型で使っている祭祀用であり、
割れたのでその白磁器を、廃棄したのでは
なかろうか。
現代同様に、白磁をこのような用途に
安土桃山時代にも使えたという事から、
博多の、町全体の裕福さが偲ばれると私は
思う。(2024/10/04)
福井市一乗谷朝倉氏遺跡40期で戦国金将駒1追加(長さん)
福井県福井市所在の一乗谷朝倉氏遺跡で第40
期の調査で、第9期調査時の大量な出土に加えて
追加の形で、飛車駒と金将駒1枚の計2枚が出土
しているという情報については、成書「天童の将
棋駒と全国遺跡出土駒」、2003、天童市将棋
資料館、の第67ページ付近に記載が有る。が、
比較的最近になり発掘報告書が出され、金将駒が
更に1枚追加になっているという情報等が有るよ
うなので、以下に紹介する。
公開の場で将棋を指すときに、複数の将棋が併
存している時代に特有の、
ゲームの種別を表示する為に使った道具では無い
かと、本ブログ管理人には疑われる、「中村胤人
は三十六指し」との意の木札が共出土している
疑いが有る。
遺物の写真がweb上に公開されていて、発掘
報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧に登録・公開されている。pdfファイル名
は、以下の通りである。
140345_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調在報告17/第40次調査、
2020、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は福井県
福井市城戸ノ内町字奥間野。遺物が出土したのは、
西暦1980~西暦1981年の間ないし、その
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、従来より戦国期とみられる。
追加の金将の写真は、発掘報告書写真図版
(PL.)第68:”出土遺物その他Ⅱ遺構面”
の最下段左端に在り、遺物番号第900番との旨、
ナンバリングされている。
上図のように、従来の朝倉氏遺跡で出土した類
の厚みの薄い不成り金将駒の追加と、解釈出来る
遺物のようである。
その他、この発掘報告書には写真図版(PL.)
第62:”出土遺物E区Ⅰ・Ⅱ遺構面”の、最上
段右端に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、
第47(第67ページ付近)の下側の「飛車」の
写真が、オモテ面だけであるが、下図のように
遺物番号第737番として載っている。
飛車であり、厚みが厚い後代の将棋駒型であり、
別の遺物番号第694番と表され、天童の将棋駒
と全国遺跡将棋駒の第47(第67ページ付近)、
右上に載っている第1金口駒と、厚みが厚い点で
同じであるとの旨の説明が、発掘報告書の第30
ページ付近に有る。町人街の僧侶宅であり、館の
博打場の関係者よりも裕福であると見られている
ようである。なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒に載っている方の金口駒の写真はこの発掘報告
書では逆にヌケており、やや天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒のそれよりも粗雑な、スケッチ図だけ
が在る。
さて、それと共に、成立年代は、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒の、第1金口駒等と同じ頃のよ
うであるが、発掘報告書写真図版(PL.)第
60:”出土遺物D区Ⅱ遺構面”の最上段左端に、
下のような、遺物番号第686番とナンバリング
された木札の写真がある。発掘報告書第30ペー
ジ付近により「中村ロロ」・「さん十六さし」と
釈文されている。
オモテ面(右)とみられる中村口口は、私には
中村胤人という人物名のようにも見え、裏面は、
「飛車・角行を取り除いて、9升目36枚制の
持駒ルールの小将棋をこの局では指す」の意と私
見する。
神奈川県鎌倉市出土の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札と、同じカテゴリの物品の疑いが
残るのではないのだろうか。この方が、この回の
発掘調査では、将棋関係での大発見だった可能性
が有る。(2024/10/03)
期の調査で、第9期調査時の大量な出土に加えて
追加の形で、飛車駒と金将駒1枚の計2枚が出土
しているという情報については、成書「天童の将
棋駒と全国遺跡出土駒」、2003、天童市将棋
資料館、の第67ページ付近に記載が有る。が、
比較的最近になり発掘報告書が出され、金将駒が
更に1枚追加になっているという情報等が有るよ
うなので、以下に紹介する。
公開の場で将棋を指すときに、複数の将棋が併
存している時代に特有の、
ゲームの種別を表示する為に使った道具では無い
かと、本ブログ管理人には疑われる、「中村胤人
は三十六指し」との意の木札が共出土している
疑いが有る。
遺物の写真がweb上に公開されていて、発掘
報告書に載っている。発掘報告書が奈良文化財
研究所の発掘報告書データベース、全国遺跡報告
総覧に登録・公開されている。pdfファイル名
は、以下の通りである。
140345_1_特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一乗谷朝倉氏遺跡発掘調在報告17/第40次調査、
2020、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館。
発掘報告書末尾抄録により遺跡の場所は福井県
福井市城戸ノ内町字奥間野。遺物が出土したのは、
西暦1980~西暦1981年の間ないし、その
前後の事のようである。
遺物の成立年代は、従来より戦国期とみられる。
追加の金将の写真は、発掘報告書写真図版
(PL.)第68:”出土遺物その他Ⅱ遺構面”
の最下段左端に在り、遺物番号第900番との旨、
ナンバリングされている。
上図のように、従来の朝倉氏遺跡で出土した類
の厚みの薄い不成り金将駒の追加と、解釈出来る
遺物のようである。
その他、この発掘報告書には写真図版(PL.)
第62:”出土遺物E区Ⅰ・Ⅱ遺構面”の、最上
段右端に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、
第47(第67ページ付近)の下側の「飛車」の
写真が、オモテ面だけであるが、下図のように
遺物番号第737番として載っている。
飛車であり、厚みが厚い後代の将棋駒型であり、
別の遺物番号第694番と表され、天童の将棋駒
と全国遺跡将棋駒の第47(第67ページ付近)、
右上に載っている第1金口駒と、厚みが厚い点で
同じであるとの旨の説明が、発掘報告書の第30
ページ付近に有る。町人街の僧侶宅であり、館の
博打場の関係者よりも裕福であると見られている
ようである。なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒に載っている方の金口駒の写真はこの発掘報告
書では逆にヌケており、やや天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒のそれよりも粗雑な、スケッチ図だけ
が在る。
さて、それと共に、成立年代は、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒の、第1金口駒等と同じ頃のよ
うであるが、発掘報告書写真図版(PL.)第
60:”出土遺物D区Ⅱ遺構面”の最上段左端に、
下のような、遺物番号第686番とナンバリング
された木札の写真がある。発掘報告書第30ペー
ジ付近により「中村ロロ」・「さん十六さし」と
釈文されている。
オモテ面(右)とみられる中村口口は、私には
中村胤人という人物名のようにも見え、裏面は、
「飛車・角行を取り除いて、9升目36枚制の
持駒ルールの小将棋をこの局では指す」の意と私
見する。
神奈川県鎌倉市出土の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡中将棋木札と、同じカテゴリの物品の疑いが
残るのではないのだろうか。この方が、この回の
発掘調査では、将棋関係での大発見だった可能性
が有る。(2024/10/03)
埼玉県越谷市見田方遺跡で古墳末山泰墨書土器(長さん)
今回は、埼玉県越谷市の大昔の荒川川岸の遺跡
で、古墳期末の7世紀初成立とみられる杯土器
に、漢字で「山奉」と書いて有るような模様が
有るとの旨の紹介である。周囲に山は無く、
定型の宗教施設が存在したものと推定される。
今回の遺物はweb上では無く、冊子の発掘
報告書に載っていると当初、本ブログ管理人に
認識された。冊子の表題は以下の通りである。
見田方遺跡発掘調査報告書、西暦1971年、
埼玉県越谷市教育委員会。
なお後に同じ報告書がweb上に有り、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に、登録・公開されている事も、
判った。pdfファイル名は以下の通りである。
92508_1_見田方遺跡発掘調査報告書.pdf
遺跡の場所は、この冊子第1ページの地図
より、埼玉県越谷市大成町5。遺物が出土した
のは、発掘報告書第11ページ付近の記載から、
西暦1966年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、冊子56ページ付近の
記載より、遺跡自体が7世紀初、古墳時代末と
見られているように、私には読取れる。
遺物の写真は冊子の写真図版第10の最下段
の左側に在り、その写真図版ページの第9番と
の旨、ナンバリングされている。杯型土器のよ
うに見える出土物品である。
上図のように、写真の右の縁の近くに、ひと
きわ濃く黒く小さく、漢字で「山奉」に見える
ような模様が有るようである。
付近は湿地で、筑波山等が極遠くに見えるだ
けで、近くに、川が運んだ砂の丘が有る程度の
環境だとみられ、具体的に山を奉じたのでは無
て、発掘調査地点に恐らく宗教施設が存在し、
古墳時代の末には定型になった、祭祀に使う器
が出土したのではないかと、私は見ている。
(2024/10/02)
で、古墳期末の7世紀初成立とみられる杯土器
に、漢字で「山奉」と書いて有るような模様が
有るとの旨の紹介である。周囲に山は無く、
定型の宗教施設が存在したものと推定される。
今回の遺物はweb上では無く、冊子の発掘
報告書に載っていると当初、本ブログ管理人に
認識された。冊子の表題は以下の通りである。
見田方遺跡発掘調査報告書、西暦1971年、
埼玉県越谷市教育委員会。
なお後に同じ報告書がweb上に有り、奈良
文化財研究所の発掘報告書データベース、全国
遺跡報告総覧に、登録・公開されている事も、
判った。pdfファイル名は以下の通りである。
92508_1_見田方遺跡発掘調査報告書.pdf
遺跡の場所は、この冊子第1ページの地図
より、埼玉県越谷市大成町5。遺物が出土した
のは、発掘報告書第11ページ付近の記載から、
西暦1966年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、冊子56ページ付近の
記載より、遺跡自体が7世紀初、古墳時代末と
見られているように、私には読取れる。
遺物の写真は冊子の写真図版第10の最下段
の左側に在り、その写真図版ページの第9番と
の旨、ナンバリングされている。杯型土器のよ
うに見える出土物品である。
上図のように、写真の右の縁の近くに、ひと
きわ濃く黒く小さく、漢字で「山奉」に見える
ような模様が有るようである。
付近は湿地で、筑波山等が極遠くに見えるだ
けで、近くに、川が運んだ砂の丘が有る程度の
環境だとみられ、具体的に山を奉じたのでは無
て、発掘調査地点に恐らく宗教施設が存在し、
古墳時代の末には定型になった、祭祀に使う器
が出土したのではないかと、私は見ている。
(2024/10/02)
奈良県奈良市平城右京一条南大路で奔馬木簡(長さん)
今回は、縦に裂いた左側の木簡にいっけん「奉馬」
と書いて有るが「奉駈」であり、文面の続きで、
奉は前の「仕奉」という動詞の最後の方の文字、
「駈」は、現代語の運送屋を意味する「駈使丁」
の第1字目であり、文書木簡の場合は、文字が
多数書かれている為、
将棋駒のような熟語を、安直にイメージ出来ない
という教訓
を示す墨書遺物例の紹介である。釈文を、自分で
考える際の、参考例となる。
遺物の写真がweb上に公開されていて、マス
コミ記者向けの発掘報告資料に載っている。発掘
報告資料が、奈良文化財研究所の発掘報告書デー
タベース、全国遺跡報告総覧に、登録・公開され
ている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140319_3_平城京右京一条南大路とその周辺の
調査平城第530次調査記者発.pdf
このマスコミ記者向け発表資料の表題は、次の
通りである。
平城京右一条南大路とその周辺の調査周辺の調査
-平城第530次調査記者発表資料-、2015
年4月30日、奈良文化財研究所都城発掘調査部
(平地区)。
第1pdf冒頭によると、発掘した場所は、
奈良県奈良市二条町2-9-1。遺物木簡が出土
したのは、西暦2014年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、右京一条二坊一坪の斜行
大溝埋め立て土から出土したが、発表資料の第5
ページ付近の記載から、8世紀、奈良時代前半
成立と考えられているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発表資料第3pdfの最後から
2番目の図版の左に有り、第530次調査出土木
簡、左:(今回本ブログで紹介する面の反対面)
に「奈良京」と書かれた木簡との旨、下段に注記
がある。
上図左写真の面の出だしに「平散操仕奉馬使丁」
に、見えるような文字が赤外線処理で浮かび上が
り奉馬を含むが、釈文は第6ページの説明から、
「平散操仕奉駈使丁」、つまり「平散を操し仕奉
した駈使丁が、」と解釈されているようである。
なお、「平散」とは現在の「医薬品」の意味の
ようである。繰り返しになるが「駈使丁」は運送
業者の意味らしい。
つまり、奉と駈とは単語として別々なのであり、
上の部分の最後と、下の部分の最初であり、かつ、
木簡が裂かれていた結果「駈」が「馬」のように
見えているという事のようである。
文脈の一部として、将棋駒を連想させる文字列
が現れても、文の一部の場合は、意味の中身が、
大きくズレる事が多いという、本ブログ管理人へ
の戒めと解釈出来るように思われた。(2024/10/01)
と書いて有るが「奉駈」であり、文面の続きで、
奉は前の「仕奉」という動詞の最後の方の文字、
「駈」は、現代語の運送屋を意味する「駈使丁」
の第1字目であり、文書木簡の場合は、文字が
多数書かれている為、
将棋駒のような熟語を、安直にイメージ出来ない
という教訓
を示す墨書遺物例の紹介である。釈文を、自分で
考える際の、参考例となる。
遺物の写真がweb上に公開されていて、マス
コミ記者向けの発掘報告資料に載っている。発掘
報告資料が、奈良文化財研究所の発掘報告書デー
タベース、全国遺跡報告総覧に、登録・公開され
ている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
140319_3_平城京右京一条南大路とその周辺の
調査平城第530次調査記者発.pdf
このマスコミ記者向け発表資料の表題は、次の
通りである。
平城京右一条南大路とその周辺の調査周辺の調査
-平城第530次調査記者発表資料-、2015
年4月30日、奈良文化財研究所都城発掘調査部
(平地区)。
第1pdf冒頭によると、発掘した場所は、
奈良県奈良市二条町2-9-1。遺物木簡が出土
したのは、西暦2014年前後の事のようである。
遺物の成立年代は、右京一条二坊一坪の斜行
大溝埋め立て土から出土したが、発表資料の第5
ページ付近の記載から、8世紀、奈良時代前半
成立と考えられているように、私には読取れる。
遺物の写真は、発表資料第3pdfの最後から
2番目の図版の左に有り、第530次調査出土木
簡、左:(今回本ブログで紹介する面の反対面)
に「奈良京」と書かれた木簡との旨、下段に注記
がある。
上図左写真の面の出だしに「平散操仕奉馬使丁」
に、見えるような文字が赤外線処理で浮かび上が
り奉馬を含むが、釈文は第6ページの説明から、
「平散操仕奉駈使丁」、つまり「平散を操し仕奉
した駈使丁が、」と解釈されているようである。
なお、「平散」とは現在の「医薬品」の意味の
ようである。繰り返しになるが「駈使丁」は運送
業者の意味らしい。
つまり、奉と駈とは単語として別々なのであり、
上の部分の最後と、下の部分の最初であり、かつ、
木簡が裂かれていた結果「駈」が「馬」のように
見えているという事のようである。
文脈の一部として、将棋駒を連想させる文字列
が現れても、文の一部の場合は、意味の中身が、
大きくズレる事が多いという、本ブログ管理人へ
の戒めと解釈出来るように思われた。(2024/10/01)
CTE-X50に有り-X60に無いPM登録-X40には(長さん)
WACOMのペンタブレットの以下、
補助ボタン(ファンクションキー)の
機能を、パソコン/表計算カルク
ソフトの、成表現に使うという、以前
に述べた話題の続きである。
結論から言うと、上位バージョンの
60番代、70番代で、50番代に
存在した、複数の登録文字列のポップ
アップ選択機能は廃止して、使え無い
状況に四半世紀前になってしまったと
以前に述べたが、下位バージョンの
30番代、40番代時代には元々無く、
50番代の型番CTE-450、CTE
-650でだけ、使える機能であった
事が、ほぼ確定した。
さて本ブログでは、将棋用にオープン
オフィス/カルクか、ライブルオフィス/
カルクを使う際、WACOMペンタブ
レットの、CTE-450かCTE-
650に先手と後手用に、ポップアップ
メニュー機能で、不成りで移動か、
成りで移動かを、選択する目的で、
補助ボタン(=ファンクション・キー)
に、ポップアップメニュー登録を予め
行っておき、ボタンを押した後で更に、
マウスでクリック選択してその機能を
持たせる、ポップアップメニュー/
複数文字列そのものの、2ケース以上
の分岐選択機能である、「ポップアップ
メニュー選択機能」を使っている。
これは、駒の成りを意図したケースに
は、移動した駒が着手完了時に成り駒で
表示されて居無いといわゆる「着手完了
に関する加藤一二三反則」になるからで
ある。
よって、日本将棋の正式競技では、
少なくともペンタブレットの制御ソフト
ウェアの中に、タブレットの補助ボタン
(=ファンクションキー)にポップアッ
プメニュー選択の為の、複数の文字列毎
登録機能画面が無ければならない。
WACOMのペンタブレットの五十番
代である、CTE-450や、CTE-
650には少なくとも、その制御アプリ
ケーションソフトウェアーに、ポップ
アップメニュー選択複数文字列登録機能
が存在したが、六十番以上のバージョン
では、廃止されたというのが、管理人の
これまでの認識であった。
だが、下位バージョンの、
CTE-440、430に、その機能が
存在し無かったのかどうかについては、
調査不足で曖昧であった。なお本ブログ
には、メーカに直接問い合わせる人脈は
無い。
最近ディスカウントショップで運良く、
WACOMペンタブレット/WACOM
CTE-440が廉価で入手出来た。
元々同WACOM/CTE-430は
所持しており、補助ボタン(=ファンク
ションキー)そのものが見当たら無いの
で、ポップアップメニュー選択は出来無
いと見られる事は判っていた。
それに対して、WACOM社ペンタブ
レット、WACOM/CTE-440に
は、補助ボタン(=ファンクションキー)
が付いていたので、もしかするとCTE-
450の機能が有るかもしれないと、私
には思えたという経緯である。
以下に、CTE-450、
CTE-440、CTE-430を1台
ずつ、上から下へ並べた写真を示す。何
れの機種も白いが、同社は色だけ違い、
機能は同じな各色ペンタブレットを販売
している。
CTE-450には4つと回転ホイール
1つ、CTE-440には2つと回転ホ
イール同じくバーが中央に一つ、CTE-
430には補助ボタン等が無い事が判る。
制御ソフトは入手出来無かったので、
ソフトウェアーを起動して画面から確認
出来無かったが、運良く、web上に、
WACOM/CTE-440のマニュア
ルと、補助ボタン(=ファンクションキー)
登録に関する説明が書き部分の記載が、
発見出来、現物を見ながら状況確認した。
上記のように、WACOMペンタブレッ
トの40番代時代には、単純にキーへは、
単一特定文字列を登録出来ただけだった
事が、マニュアル記載から明らかなよう
である。
以上の事から、ポップアップメニュー
選択機能で、2個以上の文字列の複合を
登録して、キーを押してから、プルダウ
ン窓で、どの動作をさせるのかを選択す
る、文字列のポップアップメニューの
複数登録機能が使えたのは、同社のペン
タブレットでも、五十番代の短い期間の
バージョンの時代だけだったと見るのが、
どうやら益々本ブログ管理人には、確か
らしく思えるようになって来たところで
ある。(2024/09/30)
補助ボタン(ファンクションキー)の
機能を、パソコン/表計算カルク
ソフトの、成表現に使うという、以前
に述べた話題の続きである。
結論から言うと、上位バージョンの
60番代、70番代で、50番代に
存在した、複数の登録文字列のポップ
アップ選択機能は廃止して、使え無い
状況に四半世紀前になってしまったと
以前に述べたが、下位バージョンの
30番代、40番代時代には元々無く、
50番代の型番CTE-450、CTE
-650でだけ、使える機能であった
事が、ほぼ確定した。
さて本ブログでは、将棋用にオープン
オフィス/カルクか、ライブルオフィス/
カルクを使う際、WACOMペンタブ
レットの、CTE-450かCTE-
650に先手と後手用に、ポップアップ
メニュー機能で、不成りで移動か、
成りで移動かを、選択する目的で、
補助ボタン(=ファンクション・キー)
に、ポップアップメニュー登録を予め
行っておき、ボタンを押した後で更に、
マウスでクリック選択してその機能を
持たせる、ポップアップメニュー/
複数文字列そのものの、2ケース以上
の分岐選択機能である、「ポップアップ
メニュー選択機能」を使っている。
これは、駒の成りを意図したケースに
は、移動した駒が着手完了時に成り駒で
表示されて居無いといわゆる「着手完了
に関する加藤一二三反則」になるからで
ある。
よって、日本将棋の正式競技では、
少なくともペンタブレットの制御ソフト
ウェアの中に、タブレットの補助ボタン
(=ファンクションキー)にポップアッ
プメニュー選択の為の、複数の文字列毎
登録機能画面が無ければならない。
WACOMのペンタブレットの五十番
代である、CTE-450や、CTE-
650には少なくとも、その制御アプリ
ケーションソフトウェアーに、ポップ
アップメニュー選択複数文字列登録機能
が存在したが、六十番以上のバージョン
では、廃止されたというのが、管理人の
これまでの認識であった。
だが、下位バージョンの、
CTE-440、430に、その機能が
存在し無かったのかどうかについては、
調査不足で曖昧であった。なお本ブログ
には、メーカに直接問い合わせる人脈は
無い。
最近ディスカウントショップで運良く、
WACOMペンタブレット/WACOM
CTE-440が廉価で入手出来た。
元々同WACOM/CTE-430は
所持しており、補助ボタン(=ファンク
ションキー)そのものが見当たら無いの
で、ポップアップメニュー選択は出来無
いと見られる事は判っていた。
それに対して、WACOM社ペンタブ
レット、WACOM/CTE-440に
は、補助ボタン(=ファンクションキー)
が付いていたので、もしかするとCTE-
450の機能が有るかもしれないと、私
には思えたという経緯である。
以下に、CTE-450、
CTE-440、CTE-430を1台
ずつ、上から下へ並べた写真を示す。何
れの機種も白いが、同社は色だけ違い、
機能は同じな各色ペンタブレットを販売
している。
CTE-450には4つと回転ホイール
1つ、CTE-440には2つと回転ホ
イール同じくバーが中央に一つ、CTE-
430には補助ボタン等が無い事が判る。
制御ソフトは入手出来無かったので、
ソフトウェアーを起動して画面から確認
出来無かったが、運良く、web上に、
WACOM/CTE-440のマニュア
ルと、補助ボタン(=ファンクションキー)
登録に関する説明が書き部分の記載が、
発見出来、現物を見ながら状況確認した。
上記のように、WACOMペンタブレッ
トの40番代時代には、単純にキーへは、
単一特定文字列を登録出来ただけだった
事が、マニュアル記載から明らかなよう
である。
以上の事から、ポップアップメニュー
選択機能で、2個以上の文字列の複合を
登録して、キーを押してから、プルダウ
ン窓で、どの動作をさせるのかを選択す
る、文字列のポップアップメニューの
複数登録機能が使えたのは、同社のペン
タブレットでも、五十番代の短い期間の
バージョンの時代だけだったと見るのが、
どうやら益々本ブログ管理人には、確か
らしく思えるようになって来たところで
ある。(2024/09/30)
2017年型普通唱導集大将棋の不滅ルール成目的限定化(長さん)
本ブログ版、西暦2017年型普通唱導集大
将棋は、攻守のバランスが良く取れている
ように見えるが、成麒麟で終盤に、相手の
守り駒が払われる効果が効いている。
その為、終盤まで麒麟が残るように、指さ
なければならない。つまり、麒麟を集中攻撃
する着手が、有効でありすぎるという難点を
抱えているとも言える。軽微な弱点に見えた
が、西暦2020年代に入り、本ブログで、
麒麟に盤双六の、元戻しルールを採用して、
この問題の解決を試みてきた。
ここで西暦2017年版の普通唱導集(本
ブログ仮説)13升目108枚制将棋の初期
配列は、以下の通りである。
上図で駒の動きのルールは二中歴では無く、
将棋纂図部類抄の動きである。銅将は中将棋
の動き、鉄将は前方3升のみ。飛龍と猛牛は、
2升先まで動き(特別に隣接升目にも行く)、
跳ぶだけで無く、大阪電気通信大学のルール
で途中相手駒も取れ、踊る。猛虎は中将棋の
盲虎。酔象は隣接7升動き。麒麟や鳳凰も
中将棋の動き。方行は将棋纂図部類抄の斜め
前行き飛車。3段目以上の他の駒は、中将棋
の動きとした。横行も中将棋の動きである。
成りは、二中歴の大将棋の説明の最後と、
将棋纂図部類抄の仲人の成を、酔象にしてい
る部分とが同じで、水無瀬兼成は正しいルー
ルを、後鳥羽上皇型に敢えて変えていると、
本ブログでは解釈して、水無瀬兼成は不成と
しているが、人間駒と、前進しか出来ない
獣・悪行の駒と、後ろが閊えている前後動駒
は、金将成の「本来の姿」に変えた。配列の
外側の駒が飛車と玉・金を除いて金将に成る。
仲人と歩兵も金将(と金)成りである。なお
酔象・麒麟・鳳凰が将棋纂図部類抄の言うよ
うに、太子・獅子・奔王に成る。獅子は中将
棋の獅子としたが、獅子に関する特別な規則
は無い。このように、前に述べた、改善
熊澤良尊型大将棋とは、駒の動きがかなり違
う、近世型であるが、取り捨ての大将棋系で
ある点で、同類ゲームである。
また、麒麟に元戻りさせるルールは、従来
次のような内容であった。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。
つまり、2歩目から成るまで麒麟・鳳凰だ
けは、不死で、盤双六駒的ルールにするとい
うような内容である。
このルールは、
麒麟が、獅子に成り込む前に無くなると、
西暦2017年版普通唱導集大将棋(本ブロ
グ仮説)がゲームとして面白みが無くなる
という理由で、付加的に作成
したものである。
しかしながら、テストしてみると、
麒麟や鳳凰の、無理攻め手筋を誘発し易い
という、副作用の欠点が生じてしまう
のに、本ブログの管理人は気がついた。その
結果、麒麟と鳳凰だけ攻撃駒に使う傾向が、
強くなりすぎるという欠陥が現れる。
その欠陥は、無理攻めしても麒麟・鳳凰は
死なないので、成る為の移動では無くて、
主要な攻め駒として使う目的で、不死ルール
が作用するからである。
対策として、初期位置から2歩目と成りま
での間のケースで、初期位置が取られる方の
支配下状態の序・中盤局面であっても、
取ろうとしている麒麟ないし鳳凰が、取ろう
としている側のどれかの駒に、麒麟と鳳凰
のルールに則って、当たりになっている場合、
そのような犠牲となる可能性の、取るプレー
ヤの駒が一つでも有る場合は、盤双六のよう
に元位置に、戻さなくても良く、普通に取っ
ても元位置に戻してもどちらでも良いとする
という、改善ルールにする方法が比較的容易
に考えついた。
しかし、ルールが複雑化して、プレーヤが
感覚的にゲームを面白く感じ無くなるかどう
かが、心配という難点・問題点が有った。
そこで今回、この攻め用の麒麟・鳳凰の
繰り出しが明らかな場合の、不滅ルールの非
適用という、「不滅ルールの弱体化」の改良
を目的とした改善ルールの、実際のテストを
行ってみた。
以下は、その指し終わり「指了」図で、
後手がたまたまこの一局では麒麟の成り手順
の着手に失敗して、大差で先手に負けた局面
である。
指してみると、文書で書くと長くなるが、
戻すべきか、取れるかの判定は、さほど困難
では無く、この改善は有力
だと、私には結論された。無理攻めすると、
不滅が効かなくなり、将棋は、麒麟・鳳凰の
不滅ルールを取り入れなかったケースに近く
なって、かつ、不運な麒麟の消失は、ほぼ
防げるようである。
西暦2017年版普通唱導集本ブログ仮説
の13升目108枚制将棋の致命傷にならず
に、取りあえず、私はいまほっとした所だ。
そこで改善されたルールは、まとめると、
以下のようになる。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
ただし、取ろうとしている麒麟ないし鳳凰
が、取ろうとしている側のどれかの駒に、
麒麟と鳳凰のルールに則って、当たりになっ
ている場合、そのような犠牲となる可能性の、
取るプレーヤの駒が一つでも有る場合は、
以上の条件を満たしても、強制元戻しルール
は適用されず、前記で述べた例外の方に、
入れるものとする。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。(2024/09/29)
将棋は、攻守のバランスが良く取れている
ように見えるが、成麒麟で終盤に、相手の
守り駒が払われる効果が効いている。
その為、終盤まで麒麟が残るように、指さ
なければならない。つまり、麒麟を集中攻撃
する着手が、有効でありすぎるという難点を
抱えているとも言える。軽微な弱点に見えた
が、西暦2020年代に入り、本ブログで、
麒麟に盤双六の、元戻しルールを採用して、
この問題の解決を試みてきた。
ここで西暦2017年版の普通唱導集(本
ブログ仮説)13升目108枚制将棋の初期
配列は、以下の通りである。
上図で駒の動きのルールは二中歴では無く、
将棋纂図部類抄の動きである。銅将は中将棋
の動き、鉄将は前方3升のみ。飛龍と猛牛は、
2升先まで動き(特別に隣接升目にも行く)、
跳ぶだけで無く、大阪電気通信大学のルール
で途中相手駒も取れ、踊る。猛虎は中将棋の
盲虎。酔象は隣接7升動き。麒麟や鳳凰も
中将棋の動き。方行は将棋纂図部類抄の斜め
前行き飛車。3段目以上の他の駒は、中将棋
の動きとした。横行も中将棋の動きである。
成りは、二中歴の大将棋の説明の最後と、
将棋纂図部類抄の仲人の成を、酔象にしてい
る部分とが同じで、水無瀬兼成は正しいルー
ルを、後鳥羽上皇型に敢えて変えていると、
本ブログでは解釈して、水無瀬兼成は不成と
しているが、人間駒と、前進しか出来ない
獣・悪行の駒と、後ろが閊えている前後動駒
は、金将成の「本来の姿」に変えた。配列の
外側の駒が飛車と玉・金を除いて金将に成る。
仲人と歩兵も金将(と金)成りである。なお
酔象・麒麟・鳳凰が将棋纂図部類抄の言うよ
うに、太子・獅子・奔王に成る。獅子は中将
棋の獅子としたが、獅子に関する特別な規則
は無い。このように、前に述べた、改善
熊澤良尊型大将棋とは、駒の動きがかなり違
う、近世型であるが、取り捨ての大将棋系で
ある点で、同類ゲームである。
また、麒麟に元戻りさせるルールは、従来
次のような内容であった。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。
つまり、2歩目から成るまで麒麟・鳳凰だ
けは、不死で、盤双六駒的ルールにするとい
うような内容である。
このルールは、
麒麟が、獅子に成り込む前に無くなると、
西暦2017年版普通唱導集大将棋(本ブロ
グ仮説)がゲームとして面白みが無くなる
という理由で、付加的に作成
したものである。
しかしながら、テストしてみると、
麒麟や鳳凰の、無理攻め手筋を誘発し易い
という、副作用の欠点が生じてしまう
のに、本ブログの管理人は気がついた。その
結果、麒麟と鳳凰だけ攻撃駒に使う傾向が、
強くなりすぎるという欠陥が現れる。
その欠陥は、無理攻めしても麒麟・鳳凰は
死なないので、成る為の移動では無くて、
主要な攻め駒として使う目的で、不死ルール
が作用するからである。
対策として、初期位置から2歩目と成りま
での間のケースで、初期位置が取られる方の
支配下状態の序・中盤局面であっても、
取ろうとしている麒麟ないし鳳凰が、取ろう
としている側のどれかの駒に、麒麟と鳳凰
のルールに則って、当たりになっている場合、
そのような犠牲となる可能性の、取るプレー
ヤの駒が一つでも有る場合は、盤双六のよう
に元位置に、戻さなくても良く、普通に取っ
ても元位置に戻してもどちらでも良いとする
という、改善ルールにする方法が比較的容易
に考えついた。
しかし、ルールが複雑化して、プレーヤが
感覚的にゲームを面白く感じ無くなるかどう
かが、心配という難点・問題点が有った。
そこで今回、この攻め用の麒麟・鳳凰の
繰り出しが明らかな場合の、不滅ルールの非
適用という、「不滅ルールの弱体化」の改良
を目的とした改善ルールの、実際のテストを
行ってみた。
以下は、その指し終わり「指了」図で、
後手がたまたまこの一局では麒麟の成り手順
の着手に失敗して、大差で先手に負けた局面
である。
指してみると、文書で書くと長くなるが、
戻すべきか、取れるかの判定は、さほど困難
では無く、この改善は有力
だと、私には結論された。無理攻めすると、
不滅が効かなくなり、将棋は、麒麟・鳳凰の
不滅ルールを取り入れなかったケースに近く
なって、かつ、不運な麒麟の消失は、ほぼ
防げるようである。
西暦2017年版普通唱導集本ブログ仮説
の13升目108枚制将棋の致命傷にならず
に、取りあえず、私はいまほっとした所だ。
そこで改善されたルールは、まとめると、
以下のようになる。
敵陣に突入しておらず、初期配列元位置か、
元位置へ一手で戻れるか、または相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居るか、
以上の場合を除いて、相手は麒麟・鳳凰を
捕獲しても取り去らずに、必ず初期配列位置
に、返さなければならない。
ただし、取ろうとしている麒麟ないし鳳凰
が、取ろうとしている側のどれかの駒に、
麒麟と鳳凰のルールに則って、当たりになっ
ている場合、そのような犠牲となる可能性の、
取るプレーヤの駒が一つでも有る場合は、
以上の条件を満たしても、強制元戻しルール
は適用されず、前記で述べた例外の方に、
入れるものとする。
そのとき、取られる側の駒が戻す元位置に
在る場合は、必ず取り除いて麒麟・鳳凰の方
を、生かさなければならない。又敵陣に突入
しているか、初期配列元位置のままか、元の
位置へ一手で戻れるか、または、相手の駒が
自分の麒麟・鳳凰の元位置を占拠して居る
場合は、元位置に戻さず麒麟・鳳凰は取り
去れるが、そうで無い場合のように、元位置
に戻すと、後三者については、取る側の駒を
自爆させる事になるが、それでも、どちらの
着手も合法とする。なお、このルールは、成
麒麟の獅子、成鳳凰の奔王には適用され無い。
獅子・成鳳凰の奔王については、通常通りの
捕獲とする。(2024/09/29)
鎌倉横小路流改善熊澤良尊後鳥羽上皇大将棋に五右衛門則(長さん)
今回は、改善熊澤良尊方式後鳥羽上皇期
大将棋に、二中歴の横行ルールで動く、
鎌倉市横小路遺跡出土の悪行を、旧横行
位置の、先手7十二、後手7二に入れて、
13升目96枚制にした大将棋に、従来
通り、どうぶつ将棋トライルールを悪行
に適応すると同時に、それだけで無くて、
2段目か初期位置の前升目以外で、かつ
初期位置に攻め側の駒が既に侵攻して占拠
してい無い場合は、悪行を取った時に、
取り捨てて排除しないで、元の相手の初期
マス目に戻さなければならず、よって歩兵・
仲人同様、悪行が不滅になるという、言わ
ば「石川五右衛門釜ゆでルール」ともいう
べき不滅ルールをも、二つ共に取り入れた
ら、攻撃が更に強くなり、該ゲームは出来
が、改善するのかどうかという話題である。
結果、意外にも逆効果で、石川五右衛門
釜ゆで時の言いぐさ(時世の句)のような
このルールは、普通唱導集大将棋の麒麟・
鳳凰ルールのようには、使わない方が良い
事が判った。
以前にも述べたが、鎌倉横小路流改善
熊澤良尊後鳥羽上皇期大将棋は、以下のよ
うな、13升目盤に、初期に将棋の駒を、
並べてプレーするゲームである。
このゲームは改善熊澤良尊後鳥羽上皇期
大将棋に、神奈川県鎌倉市横小路遺跡で
出土した、不成悪行駒を、二中歴から、
後鳥羽上皇期の大将棋で、袖に横行を移動
して隙間が出来た、穴埋めと解釈して玉将
の直ぐ前升目へ導入したものである。
この駒にも、どうぶつ将棋流のトライルー
ルを適用すれば、オフェンスが更に強化
され、バランスが改善してゲームの出来が
良くなるとみられたという訳である。
その後普通唱導集大将棋の麒麟・鳳凰の、
取られても盤雙六のように、元位置に戻す
不滅ルールが、本ブログにより提案された。
ので、悪行に、そのルールを適用したら、
更に攻め側有利に傾くのかどうかが、私の
興味の的となり、今回テストしたという経
緯となる。
そこで実際に一人指しでマイクロソフト/
エクセルでテストすると、指終わりが引き
分けで終わる、以下の局面に一例としてし
まった。
上図のように守り駒が大量に余っており、
意図せず、守り(ディフェンス)が返って、
強くなって、改悪となり失敗であった。
察するに、
悪行が元々「守備駒」だった為「自陣二段
位置と第3段目の直ぐ前升目以外では不滅」
の石川五右衛門釜ゆで時の辞世の句ルール
は、返って守りの強化に繋がった
のである。テストして見無ければ、ここま
で極端とは判らなかったのには感心させら
れたが。とにかくこの結果から、悪行に、
石川五右衛門の釜ゆで時の時世の句ルール
は導入せず、以前に本ブログで示した通り、
単にニ中歴時代の横行動きの後退出来無い
悪行を、二中歴の横行位置に入れて、
トライルールを兵駒に準じて適用しただけ
の方が良い
との結論に、今回チェックの結果終わって
しまったという次第という事になった訳で
ある。(2024/09/28)
大将棋に、二中歴の横行ルールで動く、
鎌倉市横小路遺跡出土の悪行を、旧横行
位置の、先手7十二、後手7二に入れて、
13升目96枚制にした大将棋に、従来
通り、どうぶつ将棋トライルールを悪行
に適応すると同時に、それだけで無くて、
2段目か初期位置の前升目以外で、かつ
初期位置に攻め側の駒が既に侵攻して占拠
してい無い場合は、悪行を取った時に、
取り捨てて排除しないで、元の相手の初期
マス目に戻さなければならず、よって歩兵・
仲人同様、悪行が不滅になるという、言わ
ば「石川五右衛門釜ゆでルール」ともいう
べき不滅ルールをも、二つ共に取り入れた
ら、攻撃が更に強くなり、該ゲームは出来
が、改善するのかどうかという話題である。
結果、意外にも逆効果で、石川五右衛門
釜ゆで時の言いぐさ(時世の句)のような
このルールは、普通唱導集大将棋の麒麟・
鳳凰ルールのようには、使わない方が良い
事が判った。
以前にも述べたが、鎌倉横小路流改善
熊澤良尊後鳥羽上皇期大将棋は、以下のよ
うな、13升目盤に、初期に将棋の駒を、
並べてプレーするゲームである。
このゲームは改善熊澤良尊後鳥羽上皇期
大将棋に、神奈川県鎌倉市横小路遺跡で
出土した、不成悪行駒を、二中歴から、
後鳥羽上皇期の大将棋で、袖に横行を移動
して隙間が出来た、穴埋めと解釈して玉将
の直ぐ前升目へ導入したものである。
この駒にも、どうぶつ将棋流のトライルー
ルを適用すれば、オフェンスが更に強化
され、バランスが改善してゲームの出来が
良くなるとみられたという訳である。
その後普通唱導集大将棋の麒麟・鳳凰の、
取られても盤雙六のように、元位置に戻す
不滅ルールが、本ブログにより提案された。
ので、悪行に、そのルールを適用したら、
更に攻め側有利に傾くのかどうかが、私の
興味の的となり、今回テストしたという経
緯となる。
そこで実際に一人指しでマイクロソフト/
エクセルでテストすると、指終わりが引き
分けで終わる、以下の局面に一例としてし
まった。
上図のように守り駒が大量に余っており、
意図せず、守り(ディフェンス)が返って、
強くなって、改悪となり失敗であった。
察するに、
悪行が元々「守備駒」だった為「自陣二段
位置と第3段目の直ぐ前升目以外では不滅」
の石川五右衛門釜ゆで時の辞世の句ルール
は、返って守りの強化に繋がった
のである。テストして見無ければ、ここま
で極端とは判らなかったのには感心させら
れたが。とにかくこの結果から、悪行に、
石川五右衛門の釜ゆで時の時世の句ルール
は導入せず、以前に本ブログで示した通り、
単にニ中歴時代の横行動きの後退出来無い
悪行を、二中歴の横行位置に入れて、
トライルールを兵駒に準じて適用しただけ
の方が良い
との結論に、今回チェックの結果終わって
しまったという次第という事になった訳で
ある。(2024/09/28)
富山県富山市水橋金広遺跡で中世泰山墨書陶器(長さん)
今回は、以前すごろく盤が出土したと紹介し
た表題遺跡の同発掘調査で、陶器茶碗の裏面
に、漢字で「泰山」と書いてあるように見え
る黒い模様が在るとの旨の紹介である。
湯のみ茶碗の意匠ではないかと私は疑う。
遺物の写真は繰返すとweb上に公開され、
以前紹介の発掘報告書に載っている。報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
以前にも示したがpdfファイル名は以下。
13696_2_富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
富山市埋蔵文化財調査報告113/
富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘報告書、
2001年、富山市教育委員会。
発掘報告書第2pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、富山県富山市水橋金広中馬場。
なお、水橋金広遺跡はこれより大きく、字
の中馬場地区をこの期間に、発掘調査したと
の意味のようである。
遺物が出土したのは西暦2000年前後の
事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第23ページ付近の説明により遺物
は、中世の瀬戸美濃の天目茶碗であり、戦国
時代の頃のものと見られているように、私に
は読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書、第2写真図版
pdfの写真図版第27の、越中瀬戸を集め
た集合写真最上段カラムの、最下段(3段目)
の左から3個目に在り、遺物番号瀬戸物の第
69番との旨、ナンバリングされているよう
である。
上図のように、破片の裏面の写真のようで
あり、左上に「泰」右下に、「山」のように
も見える、黒い模様が有る。側面に道教の
寺院のような絵が有り、底面に、そう書いて
あれば、ツジツマの合う字であるように、私
には解釈される。茶碗の意匠ではなかろうか。
(2024/09/27)
た表題遺跡の同発掘調査で、陶器茶碗の裏面
に、漢字で「泰山」と書いてあるように見え
る黒い模様が在るとの旨の紹介である。
湯のみ茶碗の意匠ではないかと私は疑う。
遺物の写真は繰返すとweb上に公開され、
以前紹介の発掘報告書に載っている。報告書
が奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
以前にも示したがpdfファイル名は以下。
13696_2_富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
富山市埋蔵文化財調査報告113/
富山市水橋金広・中馬場遺跡発掘報告書、
2001年、富山市教育委員会。
発掘報告書第2pdf末尾抄録により遺跡
の場所は、富山県富山市水橋金広中馬場。
なお、水橋金広遺跡はこれより大きく、字
の中馬場地区をこの期間に、発掘調査したと
の意味のようである。
遺物が出土したのは西暦2000年前後の
事のようである。
遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの第23ページ付近の説明により遺物
は、中世の瀬戸美濃の天目茶碗であり、戦国
時代の頃のものと見られているように、私に
は読取れる。
遺物の写真は、発掘報告書、第2写真図版
pdfの写真図版第27の、越中瀬戸を集め
た集合写真最上段カラムの、最下段(3段目)
の左から3個目に在り、遺物番号瀬戸物の第
69番との旨、ナンバリングされているよう
である。
上図のように、破片の裏面の写真のようで
あり、左上に「泰」右下に、「山」のように
も見える、黒い模様が有る。側面に道教の
寺院のような絵が有り、底面に、そう書いて
あれば、ツジツマの合う字であるように、私
には解釈される。茶碗の意匠ではなかろうか。
(2024/09/27)
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