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岡山市津寺遺跡より弥生時代等角行墨書土器2つ(長さん)

以下、奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧に登録されている、
古代の土器に、角行ないし角と読める黒い
模様が存在するという話題である。

2字共薄い弥生時代成立の土器と、行の字
が塗りつぶされて、明確で無い古墳時代の
土器の合計2枚から日本将棋が無文献時代
迄成立が遡れる事は無い

と、以下に述べる。
 web上に情報は公開されており、前記
データーベースに、写真が以下のpdf
ファイル名で登録されている。
13109_1_津寺遺跡5.pdf
 発掘は西暦1990年頃のようであり、
報告書の表題は次の通り。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告127
沖寺遺跡5、
日本道路公団中国支社津山工事事務所・
岡山県教育委員会、1998年。
発掘報告書の冒頭の記載から、この遺跡は
弥生時代から、古墳時代にかけての集落跡
のようである。
 弥生時代の土器については、図版54
の一番上に写真があり遺物番号5231番、
とナンバリングされている。もう一つの、
古墳時代の土器については、図版73の中
央一番上の段に写真が載っていて遺物番号
7320番とナンバリングされている。
 何れも成立年代については、本文中にそ
の旨紹介されている。古い遺跡のようであ
る。弥生時代の土器は、以下の通り。

津寺弥生角行..gif

古墳時代の土器は以下の通り。

津寺古墳角行..gif

上図の通り、弥生時代の土器の”角行”は、
文字が薄くてはっきりせず、古墳時代の土
器では、”角”ははっきりしているが”行”
は塗りつぶされている。よって今の所本ブ
ログでは、上の方の遺物については、たま
たま角行に見えるヨゴレが出来ただけ、下
の方の遺物については、角一文字であると
解釈する。なお、両方の遺物共、発掘報告
者による、墨書の指摘は無い。

ただし、別の遺物で、もっと明確に角行と
書いてあれば、古墳時代以前の成立なら、
当然大問題

だったろうと認識する。角行は、将棋が成
立してから、考案された単語と考えるのが
自然だからである。
 以前にも、同じような例を示した事から
判るように、一文字までは、まったく偶然
の産物であっても、そのようなものが現わ
れる程度の量、発掘報告書全般の遺物総数
は膨大であるという解釈に、今の所だが、
論が収まっているような印象を、私は個人
的には受ける。(2021/02/27)

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四国金毘羅山遺跡よりシャンチー帥駒か(長さん)

以下一字一石経文のように報告されている
が、帥のように読め、中国シャンチーの駒
のように見える物品が香川県金比羅山遺跡
の1998~1999年の発掘調査で発見
されたという話題である。石積みのような
所から、拾われたらしい。
 発掘の報告はweb上に公開されており、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されている。スケッ
チしか見当たらないが、pdfファイルは、
以下の通りである。
10680_1_池の奥遺跡・金毘羅山遺跡Ⅱ.pdf
発掘報告書の表題は、以下の通り。
池の奥遺跡・金比羅山遺跡Ⅱ
香川県教育委員会・
財団法人香川県埋蔵文化財調査センター・
日本道路公団、2003年。
 スケッチの図は、前記発掘報告書の、
195ページ”第147図溝状遺構・不明
遺構・柱穴跡・遺物包含層遺物実測図”の、
上から2列目に遺物番号18として示され
ている。大きさとしては径が2~3センチ
のようであり、中国シャンチーの駒でも、
おかしくは無さそうである。

香川金毘羅山遺跡帥.gif

なお上図は、原図を私が更に、同じように
書いてみたもので、本物ではない。正しく
は、元の発掘報告書等を参照されたい。
 上図から、帥に見えなくも無いが、

”印”の方が近そう

である。報告書には、砂礫の山の中からの
発見で、山の頂上に信仰上の理由で石を積
んだような場所の、

どこから来たのか判らない石

との旨と取れる説明が同じ195ページの
最後の行付近にある。今の所本ブログでは、

一字一石経文の石の、たまたまの運搬物で
あり、時代も古墳時代から中世に掛けてと
不定

と取れる、発掘報告書の見解を、概ね支持
したい。
 形が崩れているので、シャンチー駒とし
たら中世で古く、四国での出土という、
今までに例の無い破格の発見だが。たぶん、
経文で”印”が出てくる、お経の写しなの
ではなかろうかと思われる。(2021/02/26)

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岩手県盛岡市志波城跡より横馬墨書土器(長さん)

以下、”横馬”と二文字の将棋駒名風の墨書
の有る、9世紀前半の杯型土器出土の話題で
ある。1977年出土と、遺物が発掘されて
から、相当に時間が経っている。
 場所は岩手県盛岡市中太田の志波城跡で、
この発掘調査で、城柵である事が確定したと
のことである。
 発掘報告書がweb上に公開されていて、
オンラインで見れ、奈良文化財研究所
発掘報告書データベース全国遺跡報告総覧
に登録されている。写真の出ているpdf
ファイルは、以下の通りである。
52689_6_東北縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告書XIII.pdf
発掘報告書の表題は以下の通り。
岩手県文化財調査報告書籍68集
太田方八丁遺跡(志波城跡)、
岩手県教育委員会・日本道路公団、
西暦1982年。 
 今述べたpdfファイルの、写真図版59、
右上段2列目に遺物の写真が、17号住居跡
89番杯型土器として出ている。

岩手志波城横馬.gif

なお、杯型土器であるという事に関しては、
本文の90ページに説明がある。本文の、こ
の部分のpdfファイルは、分割されていて、
以下の名称である。
52689_2_東北縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告書XIII.pdf
 さらに、この遺物の成立が9世紀の前半と
されているが、その説明は、”まとめ”とし
て、本文の467ページに有る。467ペー
ジの属する、分割されたpdfファイルの
ファイル名は、同じく以下の名称である。
52689_5_東北縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告書XIII.pdf
 さて遺物を見ると、二文字目の”馬”が薄
いが、これは有るとして、

第1字目の”横”は不明解で”木へんに無の
ブナの漢字”等の可能性もある。

何れにしても、将棋駒名称である横行、桂馬
から1字づつを取り、

横馬と組み合わせた将棋駒は存在しない。

よって、9世紀前半に、日本にある種の将棋
が存在したという証拠にはならないと本ブロ
グでは、今の所考える。
 古代の東北地方の城柵跡には識字層が存在
し、文字史料が多数出土していて、事実上、
あらゆる漢字文字の組合せが出現しているよ
うである。が、

将棋駒名が、具体的に墨書の内容の中で、跳
び抜けているという形跡が、今の所余り感じ
られない。

やはり、奈良時代や平安時代初期、日本では
囲碁と違って、将棋は余り行われなかった疑
いが、少なくとも存在はするのではないか。
(2021/02/25)

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富山市百塚遺跡から縄文時代の方行刻書石斧片(長さん)

以前に議論した、偶然に出来る凹凸から、
古い時代の遺物に将棋駒種の文字が書かれ
ているように錯覚しているという例の、以
下紹介である。ただし今回の例に関しては、

成立時代が問題で、縄文時代であり

に日本で漢字が書かれていた事を示してい
るのに変わり無いので、将棋史以前の問題
である。漢字は第1字を”方”とここでは
読んだが、

万の可能性も有る。

なお2字目が”行”かどうかは、実際には
曖昧とみる。では紹介を以下にする。
 出土したのは、西暦2009年前後の発
掘作業中のようであり、場所は富山県富山
市百塚の、百塚遺跡とされている。
 発掘報告書がweb上に公開されていて、
オンラインで見れ、奈良文化財研究所
発掘報告書データベース全国遺跡報告総覧
に登録されている。写真の出ているpdf
ファイルは、以下の通りである。
5379_1_富山市百塚遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は以下の通り
富山市埋蔵文化財調査報告461
富山市百塚遺跡発掘調査報告書、
富山市教育委員会、2012。
 写真は”写真図版52 百塚遺跡C・D・
E12地区”の右下隅に載っている石斧用
とされる石であり、遺物番号312となっ
ている。
 本文の102ページ付近に、遺物の解説
が有り、縄文時代の石斧と説明されている
と認識する。刻書の指摘は無い。

富山百塚方行.gif

 上図から、2字目の行は〒がかろうじて
判る程度であり、行ニンベンが本当に有る
かどうかは謎である。よって、本ブログで
は今の所、この遺物の刻書きは、文字が有
る。が、”方行”かどうかは謎であり、

”方”一文字であり”方行”とは書かれて
いないので、縄文時代に大大将棋が存在し
た事を意味しない

と解釈する。なお、本ブログのこれまでの
推定によれば、大大将棋は安土桃山時代の
豊臣秀次の知り合いの書道家によって、作
成されたものであるとみられている。
 ちなみに本当に方行とはっきり出ていた
ら、この単語も将棋に固有と見られるため、
定説は覆ると本ブログでは見る。なおそれ
以前に冒頭述べたように、少なくとも
本ブログ内での解釈だが、

縄文時代に日本に漢字が既に有った

としか思えないような奇妙な遺物だと見る。

一般論としてたいへんな遺物が眠っていた

という事に、本当にならないのだろうか。
(2021/02/24)

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愛知県東海市畑間遺跡より7世紀の王将墨書土器(長さん)

よく知られるように、古墳時代や飛鳥時代の
遺物は多数出土している。ので、墨書・刻書
等の書き込みの有る遺物の中に、将棋に特有
の名詞が有るかどうかを調べれば、将棋の伝
来が、その頃以前であるかどうかを判断出来
る材料は、それらの時代に関して意外に多い
との旨を述べた。しかし判定の時に、自然に
出来たシミ等の誤認の懸念を、例を掲げて指
摘した。今回は、

その誤認の類と疑われる遺物の他の例

の紹介である。
 遺物は愛知県東海市畑間遺跡より2016
年頃に発掘された、比較的新しい出土例であ
る。7世紀に成立した弥生土器の破片とされ
るものである。
 情報はweb上に公開されており、
報告書が、奈良文化財研究所発掘報告書デー
タベース、全国遺跡報告総覧に登録されてい
る。写真の出ているpdfファイルは、以下
の通りである。
22811_1_平成28年度畑間遺跡発掘調査報告.pdf
報告書の表題は以下の通り。
愛知県東海市畑間遺跡発掘調査報告2018年
東海市教育委員会、2018。なお畑間遺跡
は、東海市大田町に有るそうだ。下の図の
写真は、前記pdfファイルの写真図版42、”
遺物 畑間遺跡(土師器・須恵器・灰釉陶器・山茶碗)”
の上段右に有り遺物番号は50で、写真の
遺物の中央に王と、右下の寸の部分が特にはっ
きりしない、将のようにも見える部分がある。

畑間遺跡50王将.gif

良く見ると、全体が長方形で、囲われている
ようでもある。しかし”将”の字の、へんが
爿になっているのかどうかは、かなり怪しい。
 なおこの遺物の成立年代については、前記
報告書の64ページの真ん中付近の記載から、
7世紀半ばと発掘者は解釈している事が判る。

本当に王将なら、この名詞も将棋に固有とみ
られるので、現在有力な説となっている、
”将棋の遅い伝来説”は不利になる。

 しかしながら。
上記図のように、王はしっかりしているよう
に見えるが、このケースについては将が、
ボヤケ過ぎである。王将は将棋駒名でしか、
あまり使われないので、もし本当に王将なら、
7世紀に、日本に将棋が伝来しているという
証拠になり得るだろう。しかし、王は土器を
作ると漢字の三という横縞のヨゴレや、写真
に影として写る模様が出やすい。のでたまた
まそう見えているだけ。”将”はこの土器に
関してヨゴレが、たまたま、多数の遺物を探
すと、そのような形になったものを選んだと
いう、それだけであると、このケースに関し
ては解釈も出来るのではないか。だとすれば、
将棋が日本に7世紀に成立していたとの証拠
には、必ずしもならない事は明らかである。
 将棋駒や将棋盤は木製が多いため、腐って
歩留まりが悪い。ただし他の機会に、他の物
品に将棋駒名を書くというケースは、相当に
レアーだろう。が後に残る物に書けば、発掘
される確率はかなり上がる。土器類は文字史
料の大量に見つかる、平安時代初期以前のも
のがたくさん発掘されており、木が腐って将
棋駒自体が残らないにしても、それを補完し
て、日本での将棋の存在の、手がかりが得ら
れる事を、ここでは期待してみたという事で
ある。木製五角形駒:たまたま墨書遺物の発
掘確率は、1:1/4程度かもしれない。
 それでも過去に、土器に将棋駒名を書いた
例等が発掘されていそうだが。過去、将棋史
家に目に付く程度の数は、たぶんだが無いの
だろう。そのため過去には、そうした例の指
摘が無いのかもしれないと、探してみて私は
最近思うようになった。(2021/02/23)

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長野県佐久市円正坊遺跡から経石状金将文字遺物(長さん)

以下、石に2文字の経文を書いたような形の、
金将と書かれている疑いの有る石の遺跡から
の出土の話題である。場所は表題のように、
長野県佐久市岩村田の円正坊遺跡で遺物の成
立年代は、建屋のそれから

古墳時代と見られている。

西暦1999年頃の現地の発掘作業で、出土
したらしい。文字が書かれているとの指摘は、
発掘報告書には無く、

自然の模様の疑いが有る。

報告書は、奈良文化財研究所発掘報告書デー
タベース、全国遺跡報告総覧に登録されてい
て、写真の出ているpdfファイルは、以下
の通りである。
939_5_枇杷坂遺跡群円正坊遺跡IV.pdf
報告書の表題は以下の通り。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第102集
枇杷坂遺跡群円正坊遺跡Ⅳ、長野県
佐久市教育委員会、2002年3月。
写真は、前記pdfファイルの図版40、”
H10・H11号住居址”の右隅3段目中段
に有り遺物番号は19で、写真の右側の面に、
輪郭だけだが金将に見える黒い部分がある。
ただし”将”の字は草書体のように見える。

円正坊遺跡19金将.gif

 なおこの遺物の成立年代については、10
号・11号住居跡の成立が、何れも古墳時代
との旨、本文pdfファイルの、
939_1_枇杷坂遺跡群円正坊遺跡IV.pdf
14ページの図面に記載されている事から、
そのように発掘者は解釈している事が判る。

金将で間違い無ければ、将棋固有の名詞な為
大発見

となり、定説は覆る。
 しかしながら、上記の写真のように

単に石の凸部分についた黒い染み

のように見え、

古墳時代に平安小将棋が有ったとの証拠には
ならない

と本ブログでは、この程度の写真からは解釈
する。
 が、繰り返すと逆に言えば、もし同類の遺
物で、金将の文字がはっきりと記載され、成
立年代が、この時代程度のものが出土すると、

定説は簡単に覆る状況

であるという現実に、注意が必要である。な
お、わが国では古墳時代の遺物は、多数の出
土例が有る。つまり実際には

早い到来説の当否に関する曖昧性は、思った
ほどは無い

のである。
 ようするに早い伝来説派は遺跡発掘で、こ
うした出土遺物を探しさえすれば、それで自
説が正しいという事が、割と簡単に証明出来
てしまうという事だと、考えられるのである。
(2021/02/22)

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千葉県光町篠本城跡から複数の仲人墨書土器(長さん)

以前茨城県石岡市鹿ノ子から平安時代成立、
佐賀県唐津市中原遺跡から古墳時代の仲人
墨書遺物をそれぞれ報告したが、茨城県の
隣の千葉県匝瑳郡光町の篠本城跡からも、
仲人と書いてある疑いの有る、奈良・平安
時代8世紀成立の墨書土器杯がある事が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている発掘報
告書から判った。web上にpdfファイ
ルで公開されており写真の出ているpdf
ファイル名は以下の通りである。
22011_2_千葉県匝瑳郡光町篠本城跡・城山遺跡
なお、城山遺跡は篠本城跡の現地の別名の
ようである。
 しかも、上記pdfには、杯の底の面に、
仲人と書かれている疑いの有る土器が、

1枚ではなくて、8枚程度載っている。

成立年代は、皆ほぼいっしょのようだ。
遅れたが、発掘報告書の名称は以下の通り。
財団法人東総文化財センタ一発掘調査
報告書第21集、千葉県匝瑳郡 光町
(そうきぐん ひかりまち)
篠本城跡・城山遺跡、千葉県企業庁・
財団法人東総文化財センター、2000年。
なお下の図は、一例として
図102奈良・平安時代遺物⑮41号住居
跡出土遺物の、上段右から2番目に載って
いる、136とナンバリングされた土器の、
底の写真である。

篠本城跡仲人.gif

その他、字がやや不鮮明であるが、
123番、137番、177番、229番、
230番、303番、339番の7枚にも、
底に仲人という墨書が有るようであり、全
部でこれで8枚になる。なお、仲人の墨書
について、

8枚共に、発掘報告書には指摘は無い。

墨は存在してもかなり淡いのは確かである。
ただし、番号304番の土器の裏に”四止”
と読める土器杯が有ると、発掘報告書には
記載されている。仲の字のニンベンを除く
と、淡くなると類似に見える字であり、何
か関連性が有るのかもしれない。
 なお、発掘報告書の本文中に、個別の遺
物や住居の説明は特に見当たらない。珍し
いことだが発掘報告書として、この遺跡の
分は、きちんと揃ってweb上に公開され
ていない。8世紀という点につき推定経緯
が、層序の説明も無く、発掘報告書データ
ベースに登録された情報だけでは、はっき
りしない。一応結論として、奈良・平安時
代のものとされている事が、本ブログの管
理人にも判る程度に、書いてあるだけのよ
うに、今の所認識する。ようするに、

本文編が”啓蒙書”風であって、”専門書”
的に書かれていない

という意味である。
 別の遺跡の所で前にも述べたように、恐
らくこの仲人は、紛争の調停者の中世の仲
人では無く、古代のスペシャリスト技術者
の意味の仲人だと思える。が、これだけ数
が有ると、8世紀の千葉の豪族の、

結婚式の仲人(なこうど)の器だったので
はないか

と、さすがの私も、心配になって来てしまっ
た。何れにしても、駒数多数日本の将棋の
仲人の存在を、この遺物が示唆していると
は言えないだろうと考える。(2021/02/21)

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佐賀県唐津市中原遺跡から仲人墨書粗製器台土器(長さん)

以下成立年代が古墳時代の、仲人と記載された
墨書土器出土の話題である。場所は、佐賀県
唐津市原の中原遺跡。発掘調査は西暦2000
年前後に、行われたようである。
 遺物の写真が掲載された発掘報告書はweb
上に公開されており、奈良文化財研究所
発掘報告書データベース、全国遺跡報告総覧
に登録されている。pdfファイル名は、以下
の通りである。
18506_2_中原遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通り。
佐賀県文化財調査報告書第199集、中原遺跡
Ⅶ、佐賀県教育委員会、2013年3月。
 そこの、図(PL)84竪穴住居跡出土土器
23の右下の馬蹄形の粗製台土器が表題の遺物
であり、遺物番号163-1と命名されている。
西暦1999年12月7日に出土したとの旨の
注釈説明がある。

佐賀県中原仲人.gif

墨は薄いがバランスら”仲人”のようであり、
但し仲のニンベンがはっきりしない。発掘報告
書の第1pdf、18506_1_中原遺跡.pdf
の冒頭部分26ページに”中原遺跡が官衙的
遺跡で、弥生時代から古墳時代のもの”とあり、
この遺物の成立年代は、古墳時代以前と考える
のが妥当なようだ。なお、この遺物に関して、
発掘報告書には、墨書が有るとの指摘は無い。
 以前に茨城県石岡市鹿ノ子で、同様に字の存
在のはっきりしない古代成立の、仲人土器が出
土している事について、本ブログでは紹介した。
その際にも正確には中人であって、技術者・
スペシャリストの階層の意味であろうと考察し、
更に述べた。
 九州の唐津地方では、この言葉の成立は更に
早く、文字通り巨大施設建設の時代、古墳時代
には有ったという事になる。土器の文字の意味
は、高度な技能を持つ技術者の意味で、恐らく
良いのであろう。
 中世の、イザコザの調停役の仲人とは全く別
の意味なので、将棋の駒名とは関連性が、この
ケースも無いのであろう。古墳時代に、日本に
将棋が有ったという証拠には、この史料はなら
ないと私は考える。(2021/02/20)

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岐阜県重竹遺跡より王将墨書土器片(長さん)

奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧登録の発掘報告書に、
王将との墨跡の残る土器片の紹介があるとの
旨の報告を、以下にする。表面の模様をタク
ホンの要領で写したと見られる発掘報告書の
図に、それが載っている。

ただし、普通の写真に写らない。

その記録が載った発掘報告書のpdfファイ
ル名は、以下の通りである。
1241_2_重竹遺跡・上西田遺跡・洞雲戸遺跡.pdf
発掘報告書は、表題が以下のpdfに記載
されている。登録するとき、順番を間違え
たらしい。
1241_3_重竹遺跡・上西田遺跡・洞雲戸遺跡.pdf
 この発掘報告書の表題は次の通り。
岐阜県教育文化財団文化財保護センター
調査報告書第91集、重竹遺跡・上西田遺跡、
財団法人岐阜県教育文化財団、西暦2005。
 2001年頃の発掘で、遺物は出土した
ようだ。
 報告書の第2分冊34ページの図236の
”(重竹遺跡)遺構出土遺物(中近世)”の、
中段付近に遺物番号454として載っている。

岐阜県関重竹王将.gif

この、魚のタクホンを取る要領で写したとみ
られる図面の記載からは、王将のような字が
有るように見える。が第2分冊の図版54の、
下段左から2番目に、遺物の写真そのものが
あるが、問題の面を撮影したと見られる

写真では、王将の文字は、全く判らない。

なお発掘された場所である岐阜県重竹遺跡は、
岐阜県関市下有地にある”刃物の町・関”と
言われる場所との事である。現場は鍛冶職人
の住居跡かもしれない。
 また成立年代は中世~近世となっており、
漠然としすぎてはっきりしない。が、

何れにしても王将の存在した時代なので、
有っても矛盾は無い遺物

であると、本ブログでは見ている。
 繰り返すが、写真に明確に写らない事から、
タクホンで偶然出来た模様である疑いがある。
(2021/02/19)

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山梨県甲府朝気、地蔵北遺跡から3個角行遺物(長さん)

今回は、奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧に登録された同一
遺跡発掘報告書の中に、

3箇所、角行の文字書のある出土遺物が有る

という不思議な話題である。

このうち成立年代古墳時代後期の甕は角だけ、
戦国時代成立の土器と石碑は将棋影響の疑い

がある。なお、同じ甲府市内の城下町遺跡で、
江戸時代の中将棋駒や、近世の五角形角行木
製駒が発掘されている旨の話題を、以前本ブ
ログではしている。
 発掘報告書のpdfファイル名は、以下の
通りである。
6535_1_甲府市内遺跡VI.pdf
 報告書の表題は、以下の通り。
甲府市文化財調査報告41、甲府市内遺跡Ⅵ
西暦2001~2002年度試掘調査報告書、
甲府市教育委員会、2009。
遺跡の名称は以下の通り。
(1)甲府朝気遺跡。(土器・甕)
(2)甲府地蔵北遺跡。(土器片)
(3)甲府地蔵北遺跡。(立方体の石)
成立年代は、浅気遺跡の(1)については、
朝気一丁目501番他の浅気遺跡(13-5)
として、古墳時代後期との旨の説明が、発掘
報告書に有る。
(2)については東光寺三丁目1743-1
の地蔵北遺跡(13-18)として、16世
紀の戦国時代成立、
(3)については東光寺三丁目1743-8
に地蔵北遺跡(14-24)として、15世
紀後半から16世紀前半の戦国時代成立。
以上の旨の説明が、それぞれ本文中にあると、
認識している。
 何れも甲府城下町遺跡とは、さほど離れて
いない場所のようである。
(1)は下記のような遺物である。

甲府朝気角行.gif

(2)は下記のような遺物である。

甲府地蔵北13_18.gif

(3)は下記のような遺物である。

甲府地蔵北14_24.gif

何れも、余り明確なものではない。発掘報告
書には、3個とも墨書遺物との指摘が無い。
あくまで本ブログで、発掘報告書を見て、見
出したものである。
 このうち、

(1)は古墳時代な為、角行が成立している
と大問題

になる。が、行の字がズレている上に、甕が
割れていて、2文字目のように見える部分は、
ほんの一部だけであり明確ではない。今の所

(1)については、角という一文字の墨書遺
物であり、将棋と関連しない

と本ブログでは見る。
 それに対して残りの2つについては、日本
将棋が成立した頃な為、

(2)・(3)については将棋の角行駒の影
響で作られた墨書遺物であっても矛盾は無い

と本ブログでは見る。元々寺の境内内のよう
であり、将棋は甲府市内では、戦国時代から
指されていたのであろう。

土器や石片に記載した内容は”悪行を重ねた
者も、念仏で成仏する”といった意味であり、
行がジグザグ、角ばって居る者との意味

ではなかろうか。それと既存の角行とをひっ
かけたとしても、さほどおかしくはないのか
もしれない。
 これらのケースは、日本将棋が指されてい
た頃に、将棋駒が出土する地帯での駒字遺物
の出土なので。将棋駒名が書かれた墨書遺物
が複数出土しても、大きな矛盾は、特に起こ
らないと私は考える。(2021/02/18)

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