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「一の谷見立将棋合戦飛白」駒は盤上太平棋の龍王駒(長さん)

以前本ブログで、歌川芳員の一の谷見立将棋合戦の
絵であると説明した写真は、西暦1843年と同期
成立なものの、歌川国芳の「駒くらべ盤上太平棋」
の絵の将棋駒であった。

本ブログの管理人の大ミス

であり、平にお詫びしたい。なお、この駒は飛車で
は無くて、龍王と書かれている。飛車は、別に楷書
の飛車として歌川国芳の「駒くらべ盤上太平棋」で
は描かれている。絵なので、実物駒の形よりも細長
く描け、旦ではなくて且だが、日と一の接触は強く
は無い。話は実際には、相当にややこしい。
 web等で、山本亨介の将棋文化史のカバーでは
無くて、全体図が描かれたページを見て、私は間違
いに気がついた。なお、将棋文化史のカバーの絵は、
歌川国芳の前記錦絵の初版では無くて、第2版の絵
である。以前本ブログで紹介した将棋駒の絵で、第
1字目の、実際には「龍」の字の、左端の跳ねが低
いのが1843年の初版。紹介のように高く跳ねて
いるのが、第2版というふうに区別できるという、
話である。
 ちなみに、初版の絵は、国立図書館「囲碁・将棋
文化史展」西暦1988年の記念図版集で、紹介さ
れているとの事である。
 そこで、書かれている字が龍王であるとして、

第1字目が「飛」にも「龍」にも見える字、第2字
目が「王」の草書体には見え難い字である理由は、
歌川国芳がオリジナルなので謎だ

と、webの将棋駒販売店のサイトに、そう読める
記載がある。
 これと、以下の龍馬の第1字目の「龍」の字の
ツクリが、右上に縮んでいる点の正当性については、

この書体こそ、歌川国芳が西暦1843年頃に始め
た、オリジナルなものなので、そういうものだと、
記憶するしか無い

らしい。

歌川国芳龍馬.gif

 現実に使われている幕末将棋駒の中に、上の龍王
に近いものがあると本ブログの管理人は、前記将棋
駒販売店のサイトで、実物の将棋駒の写真を見て認
識するが。そちらの方が第2字目は「王」に見える
ように、歌川国芳書体を幾分戻しているようである。
何れにしても歌川国芳の将棋駒の書体は、どう考え
てそれを書いたのかは、不明としておくしか私には
無さそうだ。(2024/05/20)

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埼玉県蓮田市ささら遺跡で4C山鬼墨書土器(長さん)

今回は、埼玉県さいたま市南区大谷場遺跡の山竜土器
の墨書に似た、「山何がし」に見える土器が、前世紀
の末に同じ埼玉県の蓮田市の蓮田駅近郊で出土してい
る。が、周辺にある丘が、小ぶりなようであり、龍神
や仏教等の宗教祭祀用では無く、単なる食料貯蔵用か
もしれない、漢字で「山魚」と書いてあるような容器
が、出土しているという旨の紹介である。
 なお遺物は成書の「埼玉県蓮田市史」に載っている。
書誌は次の通り。
 蓮田市史/考古資料編Ⅱ・古代&中世資料編、西暦
1999年3月、埼玉県蓮田市教育委員会。
 この市史の第48ページ付近の記載により、遺跡の
場所は、埼玉県蓮田市東町3丁目。遺物が出土したの
は、西暦1995年より、少し前の事のようである。
 遺物の成立年代は、市史で世紀毎に記載が分断され
ていて、第4地点の発掘で遺物は、「4世紀の項」で
紹介されている。ささら遺跡自体は、旧石器時代から、
現代まで、ほぼ全ての時代で人間が居住していると
考えられるような、複合遺跡らしい。現在のJR
蓮田駅の東口数百メートルの地点である。
 遺物の写真は、市史の第51ページ付近の「第6号
住居跡出土土器」の第2段目右側に在る。壷型の古墳
時代頃の、口ツバの大きい土器のように私には見える。

ささら遺跡山竜.gif

 上図の四角の部分に土器に対して斜めに、山鬼のよ
うな、不明解な漢字にも見える模様がある。
 画像処理して詳しく見たところ、字では無くてヨゴ
レと見ている暗い模様との関連性から考えて、第2字
目の「鬼」の下部と当初見ていた部分はは、単なる
ヨゴレであり、

「山魚」と読むのが公平

と考えられるようになった。4世紀に普通に公園の名
になって現在残っている「堂山」付近の、現在名で言
う元荒川で取れた「山魚」を保存した容器に、帰化人
所有であった為に、漢字で用途が書かれているのかも
しれないと私見する。「山竜」型の祭祀用ではなく、
普通の食料保存用か、または祭祀にしても魚をお供え
ものとして、供える為の容器だろう。あるいは、古墳
時代の王に供する物品なのか。
 字に見える模様自体も、充分に明瞭とまでは行かな
く、偶然模様である可能性も、否定出来無い物品の
ようであり、「山竜土器」の仲間かと思った私は、
画像処理していささか、がっかりという結果であった。
(2024/05/19)

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車の「且」字体安土桃山時代も偶然には発生(長さん)

既に本ブログで、増山雅人の「将棋駒の世界」
を参考に、将棋駒の飛車の車の字体を話題に
した。今回はその続きで、書や史料の成立年代
を推定するには、≪複数の≫飛車墨書が必要で
あるとの旨の紹介である。
 前回の議論では、将棋駒の飛車の書体につい
て実態把握が、

本ブログの、そのときの記載だけでは不明瞭な
記載内容が存在した

ようだ。
 そもそも将棋駒の書体というのは、ゲームを
盛り上げるため、特に水無瀬兼成などが活躍し
た安土桃山時代末期から、書家の楷書や草書と
は、異なる字体に進化している。
 大阪府島本町の水無瀬宮所有の、将棋纂図
部類抄と、旧・前田藩所蔵の将棋纂図部類抄の、
各飛車書体を比べると直ちに、前者の書体だけ
が、将棋駒らしい書体である事が判る。車の左
右の縦棒を太く書き、横に広がった形にして、
駒が強そうなように、水無瀬宮モノだけなって
いる。つまり将棋用に進化したので、安土桃山
時代の

水無瀬兼成の頃からは、いかにも将棋駒らしく
て、かっこよい書体に、書家の書体とは違って
そうなっている

のである。つまり、飛車の車の胴から下の中央
縦棒除きが、旦から且になったのは、元々は

左右縦棒を、太く書いたから

である。水無瀬兼成は、左右縦棒を太く書くよ
うな筆跡だったので、

いつもではなくて、しばしば且になった

という事が、水無瀬宮の将棋纂図部類抄や、
水無瀬兼成筆の「飛車」将棋駒とされる遺物の
様子を見ると、直ちに判る。
 後には、飛車と書くには五角形の駒では縦が
足りない為、江戸後期には、

必ず、「且」のように書くようになった

らしい。事実、大坂城から出土する将棋駒の
飛車は、普通の書体の旦と且書体がバラバラだ。
 よって、飛車書体から史料の成立年代を推定
するには、そもそも将棋駒らいし書体になって
いる事から、安土桃山時代以降だと判断する際
には単品で、飛車の書体1個から判断できるが、
安土桃山時代末ないし江戸初期なのか、江戸後
期以降なのかに関しては、

複数の飛車駒の存在が必然であって、いつも
且なのかどうかで、元禄より前か、江戸後期な
のかを、区別する必要がある

とみられるようだ。
 この点、本ブログの以前の書き方は舌足らず
であった。
 以上のように訂正する。(2024/05/18)

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何故「一の谷見立将棋合戦」の飛車は飛百か(長さん)

19世紀中成立だと私は聞くが浮世絵に歌川芳員
作の、「一の谷見立将棋合戦」という作品がある。
 鎌倉時代に見立てた、鎧を着た源平を表す赤と
無彩色将棋駒頭のロボットのような武者が、白兵
戦を演じている絵である。狂画とか錦絵とか言わ
れていると、故・山本亨介の将棋文化史の、第
209ページ付近に書かれている。同著書では、
本のカバーに、その絵の部分図が載っている。
 将棋駒名を辿るのは容易だが、

飛車が飛百になっているのが、奇妙だ。

今回は、そこから何を読取れるのかを調査したの
で、以下結果を示す。
 将棋駒書体になってしばらくした、江戸時代で
も遅い頃の作である事がそこから判るようである。
 回答は、別の成書、増山雅人の「将棋駒の世界」、
中公新書/中央公論、西暦2006年/中央公論
新社の第42ページ付近の、「駒字考察/飛車」
に、そのヒントがある。飛車の「車」の字は江戸
期に、駒師の裾野が広くなるにつれ、何らかの省
略により、切り詰めないとスペースが足らないと、
共通認識されたとの旨の記載が在る。
 通常は、「旦」の部分を且に変えて乗り切った
というのだが。
 一の谷見立将棋合戦の浮世絵では、歌川芳員は、
第一画の横棒を飛の下部に入り込ませ、縦棒を、
飛の中央縦棒と兼用にして、乗り切ろうと独自に
飛車の「車」だけ書体を作ったようだ。ところが、

飛の縦棒と車の縦棒を連続させるのは、車の縦棒
は途中で、原則的に曲げられないので表現不能

となり、それならいっそと、車の縦棒を省略して、
下記の図のように、「百」にしてしまったようだ。

見立将棋合戦図.gif

なお、以上の思考を、専門絵師の歌川芳員は、当
時、ほとんど反射的にしたらしい。
 そして、第2字目は「百」では無いのを、下部
に「しっぽ」を縦に付けて、表現する、独特の
「車」の略字を作ったという事らしい。つまり、

車は省略しなければならないという、将棋駒の
「飛車」字体が成立してから、この浮世絵は成立

したと判るという訳で、19世紀以降の史料とい
う事になるようだ。
 尤も、山本亨介の将棋文化史の第209ページ
付近に書いているように錦絵自体のの成立が西暦
1765年前後なので、この絵が錦絵であるから、
19世紀成立なのは、飛車が飛百になっている事
以前に明らかなようなのだが。
 江戸時代末成立なのが、絵のカテと将棋駒の
飛車への字体の工夫と、両方から判るという点を
調べて知り、専門家には、当たり前だったのかも
しれないが。少なくとも私には、史料の成立年代
を割り出す方法を知るという意味で、今回は勉強
になったと、思ったところである。(2024/05/17)

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千葉県君津市芋窪原遺跡で縄文後期竜山墨書土器(長さん)

今回は、表題の遺跡で、加曾利B3式の鉢型
土器とされた、やや欠けた器物土器に、漢字
で「竜山」と書かれているようにも見える、
小さな模様があるとの旨の紹介である。

 後代に鉢破片が掘り起こされて、道教信仰
の龍神の文字が付記された

のであろうが、模様の成立年代が古い時代で
ある事は、間違い無いように、私見される。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。 
139387_1_君津市芋窪原遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
千葉県教育委員会埋蔵文化財調査報告第51集
君津市芋窪原遺跡、西暦2024年3月、
千葉県教育委員会。
 発掘報告書末尾抄録により、遺跡の場所は、
千葉県君津市芋窪字芋窪台124。遺物が
出土したのは、西暦2019年前後の事のよ
うである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第61ペー
ジ付近の記載により、物品は加曾利B3式の
土器で、縄文時代と見られているものと、私
には読取れる。発掘報告書第239ページ付
近の記載により、加曾利B3式の土器群は、
縄文時代後期の、紀元前15世紀前後の遺物
と、たいへん古い物品とみられているようで
ある。黄河文明での、漢字の成立以前という
事になる可能性が濃い。
 発掘報告書第160ページ付近のの記載よ
り、遺物は浅鉢との事である。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
25の下から2段目左に在り、発掘地点C区
の第276番との旨、ナンバリングされてい
て、繰り返すと加曾利B3式の縄文土器との
事である。

芋窪原竜山.gif

 上図のように、写真で左上の裂け目の右に、
縦に小さく漢字で「竜山」と書かれているよ
うにも、私には見える模様がある。
 発掘報告書冒頭、第4ページ付近の「遺跡
の位置と地理的環境」によると、現地は標高
差最大、数十メートルのアップダウンのある、
丘の中との事であり、川の蛇行する中の丘は、
以前紹介した、千葉県市原市江子田遺跡と同
様、龍神の棲み家と、古い時代から考えられ
ていたものと私には疑われる。墨書だとして
成立した時代は、この例に関しては定かでは
無い。が、縄文土器が地面を掘り起こすと、
出て来るような事は、以前述べた江子田遺跡
の出土土器の成立年代である弥生~古墳期頃
にも、あったのであろうと私は思う。
 現に本ブログの管理人は「今から六十有余
年前にとある自治体で、加曾利式ないし安行
式土器が、道路の拡張工事の際に出土し、請
負業者が私物として持ち去ったと、付近住人
の間で、非難の噂が流れていた」という話を、
以前に小耳に挟んだ事が有る。その持ち去っ
た業者が咎められたかどうかとか、その土器
の行方が、今ではどうなったのかは、私には
謎だが。いわゆる出土土器が、ちょっと掘れ
ば出て来るという遺跡が、20世紀時点程度
まで時代が下っても、関東南部に存在した事
は、確かなのではないかと、あくまで私見だ
が、そう認識している。
 よって縄文土器が後世に、発掘作業とは関
係無く、偶然出土するという事は、その事か
ら、私的には有り得る話だと思っているので
ある。恐らくだが今回の遺物のように、加曾
利B3式土器の破片のうち、凹凸の少ない
物品に、道教の龍神信仰に関連する文字を入
れて祭祀用に使うという事が、弥生時代以降
に有ったので。縄文土器の、縄文模様の薄い
余白に、文字がたまたま書かれたという経緯
ではないかと、今の所私は、この縄文土器の
墨書については考える。(2024/05/16)

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千葉県市原市江子田遺跡で古墳期龍山墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代に大きな集落だったとされる
千葉県ほぼ真ん中の市原市江子田遺跡で、低山
を龍の山に見立てて、祭祀を行ったようにも見
え、「龍山」という墨書の有る疑いの有る台付
杯土器の破片が、少し前に出土しているとの旨
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
139385_1_市原市江子田遺跡.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
千葉県教育委員会埋蔵文化財調査報告第49集
市原市江子田遺跡、西暦2024年2月、
千葉県教育委員会。
 発掘報告書冒頭凡例により遺跡の場所は、
千葉県市原市江子田字大宮後。遺物が出土した
のは、西暦2014年から西暦2016年程度
の間の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書のまとめ、
第177ページ付近の記載から、遺跡自体が、
古墳期全般にわたり、大きな集落だったとされ、
その時代の範囲のどこかの時点での遺物と取れ
るように、私には読取れる。なお発掘報告書の
第92ページ付近の記載により、遺物は第67
竪穴住居跡で出土し、住居跡自体は、古墳時代
中期の5世紀前半ではないかとの事である。
 また第4ページ上段の記載から遺跡は、東に
奥へ細長く続く低山の裾野の、小高い丘の西端
のような場所であり、遺物の出土環境は以上の
ような、アップダウンの有る平野部の中である
と言うことである。
 遺物の写真は、発掘報告書写真図版第44の
下から2段目中央に在り、第67竪穴住居跡の
遺物番号第5番との旨ナンバリングされている。
 台付き杯土器で、杯が折れて無くなった、下
の部分だけの破片のように、私には見える。

江古田龍山.gif

 上図のように、脚の最下部に縦の写真でほぼ、
中央に、お互いに完全にくっついてしまってい
るが、漢字で「龍山」と書かれているようにも
見える、暗い模様が有るように私見する。
 古墳時代に、現地から見て東側の小高い山を、
南側に川が流れていることから龍の棲む繁みと
見て、祭祀を行った際に使用した土器の、破片
かもしれないと私見する。埼玉県さいたま市南
区大谷場の道教信仰の地が疑われる遺物と、同
じような形態の祭祀用施設が、同様に千葉県の
江子田遺跡にも、存在したのではないかと私は
疑っている。(2024/05/15)

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岡山県倉敷市上東遺跡泰山墨書土器3枚目(長さん)

今回は、全国遺跡報告総覧のpdf名で、
12861_1_上東遺跡.pdf
である以前の発掘報告書でと紹介した文献
の別の図版に、甕型では無く、今度は台付
杯型土器に「奉山」と書かれているように
見える、暗い模様が存在するとの旨の紹介
である。「奉山」「山奉」墨書は、結局計
4つ目になったという事になる。
 遺物の写真は既に本ブログで紹介した
発掘報告書なので、今度はweb上にあり、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は前記の通りであり、
繰り返すと発掘報告書の名称は以下の通り。
岡山県埋蔵文化財報告第158上東遺跡、
2001、岡山県教育委員会。
 遺跡の場所を繰り返すと、発掘報告書の
末尾の抄録によると、岡山県倉敷市上東字
才の元。遺物が出土したのは、この遺物に
ついては、末尾の抄録をよく読むと、西暦
1998年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺跡自体が古墳時代
前期、4世紀成立とみられているように私
には読取れる。
 遺物の写真は今度は、発掘報告書の写真
図版第40の”第8号井戸出土遺物”旨の、
第4段目右に有り、遺物番号で第1151
番との旨、ナンバリングされている。今度
は台付杯型土器のように、私には見える。

上東遺跡泰山Ⅳ.gif

 上図のように、写真では右端に、足のす
ぐ上の部分、杯の部分の下部に、縦に漢字
で「奉山」のように見える模様が有るよう
に私見する。泰山墨書はこれで、上東遺跡
に関して3つ目になった。山泰墨書を入れ
ると、4つ目である。
 波止場跡だが、瀬戸内海の岡山県倉敷市
付近で、古墳時代前期の4世紀頃に、山岳
信仰が存在したように、依然として私には
疑われる。
 ちなみに、同発掘報告書の、写真図版第
32の第2段目中央に、以下のように濃く
大きく「山」と書かれていると、私は見る
甕型土器の写真も有る。

上東遺跡山.gif

上記の写真から、この遺跡には

漢字にはっきり見える、4世紀成立遺物が
有るという事を、私は以前見落としている

と結論出来るようである。
 何れにしても21世紀第1四半期末の、
現時点で、日本列島での漢字の成立時期の、
一般的に見かける、5世紀前後との論は私
見だが、

遅く見すぎているという意味の、エラーが
有る疑いが濃い

と考える。九州の「漢委奴国王」印のハン
コの文字も、当時の日本列島在住の人間に
も、とっくに読めていたのでは、無いのだ
ろうか。
 古墳時代前期の4世紀には、必要なら
「奉山」程度の祭祀用漢字は、末期弥生人
は渡来人から教わり、実際これらの出土遺
物に表現されているように、誰もが黒墨で
書いていたのではないかと、私は依然とし
て疑っているという事である。(2024/05/14)

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岡山県倉敷市上東遺跡の奉山甕土器の裏に山泰(長さん)

 今回は、以前に奉山墨書土器が2個出土
し、そのうちの1つ甕型土器の方の奉山の
ように見える模様の裏側ではないかと疑わ
れる部分に、今度は漢字の「山奉」と書か
れているとみられる模様が、以前とはまた
別の成書に載っているとの旨の紹介である。
 成書名は、今度は以下の通り。
発掘された日本列島1995~1999年、
文化庁、西暦1999年、朝日新聞社。
前に台型土器を紹介した成書は以下の通り。
「古代史の『舞台』を歩く」、関祐一監修、
宝島社、西暦2021年。
 なお、オモテ面の奉山墨書は、以下の、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧登録のpdf名で以下の
ものに掲載されている。
12861_1_上東遺跡.pdf
 なお発掘報告書の名称は、以下の通りで
ある。
岡山県埋蔵文化財報告第158上東遺跡、
2001、岡山県教育委員会。
 形から、前に紹介した甕土器のように私
には見えるが、後の発掘報告書に甕土器は
複数載っているので、絶対同一物だとは言
えない。
 なお以前にも紹介したが、遺跡の場所は、
岡山県倉敷市上東字才の元。遺物が出土し
たのは、西暦1996年前後で、速報に
1999年載り、発掘報告書が、西暦
2001年に発表されたという経過と見ら
れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書から古墳
時代前期の、4世紀成立とみられていたよ
うである。なお、前記「発掘された日本列
島」、1999、文化庁本では、弥生時代
中期末の、西洋紀元前後だと今回の遺物に
関して記載している。
 今回の遺物の写真は、「発掘された日本
列島」の、西暦1999年分冊第87ページ
付近の、上段の中央に載っている。

上東遺跡山泰.gif

 前記2001年発行の発掘報告書と、
「発掘された日本列島」1999の甕写真
は、良く似ており、模様は別なので、

同一遺物の、互いに裏表写真かもしれない

と私は疑った。なお、以前「古代史の『舞
台』を歩く」本から抜粋した台形土器は、
同一面で、「発掘された日本列島」本にも
写真が載り、「奉山」模様も確認出来る。

 上図のように、右側やや上に縦に、同様
に煤に埋もれているが「山泰」と書かれて
いるようにも読取れる模様が有る。

泰山と山奉とはあべこべだが、意図は恐ら
く同一

で、現地か、船舶で移動した先の山を、奉
じているのではないかと私見する。
 「発掘された日本列島」1999によれ
ば、内側に米の炭化物が検出されていると
の旨が記載され、米を炊く釜として使用す
る物品と推定されるとの旨が記載されてい
る。ひょっとすると、祭祀用に米のトギ水
を入れる事も在るため、米の炭化物も残っ
たのかもしれない。大阪府島本町の奈良時
代の遺物である「山ゆすり大甕土器」の類
の可能性も全く無いとまでは言えないと私
は思う。
 現代では電気釜等であるが。二千年前に
は、コメを炊いてご飯を作る事それ自身が、
祭祀の一種だったのかもしれない。 
 いずれにせよ航海安全は前提なのかもし
れないが。海では無くて山を奉じていると、
依然として、上東遺跡の大量出土土器に関
して、私は疑いを継続している。(2024/05/13)

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ウルムチ博物館将棋盤説明読み目的「将棋の来た道」2冊(長さん)

以前、本文に説明が無く、中国ウィグル自治区
のウルムチ博物館にイスラムシャトランジ盤と
容易に判る展示物が写真だけ、故大内延介の
「将棋の来た道」(メコン社)第85ページ
付近に有るのを問題にした。イスラムシャト
ランジを土台にして、中国シャンチーが出来た
と、本ブログでは、従来より明確に論じている
からである。
 ただし、展示物に付いている説明札の大内氏
撮影の文字像が不鮮明であった。下二段は、
出土場所が、「囲碁の美人画」と同じであり、

「吐魯番(改行)阿斯塔那」と書いてあると
いうのが、本ブログの当時は推定

という事であった。
 解読に使った書籍がやや、紙が黄色く焼けて
いたので、今回、初版である事までそっくり同
じだが、別の同成書を、最初とは買った場所が
別だが、アカシヤ書房で購入した。そして再度
2冊共にスキャナーにかけて、同じ個所を撮影
し、「札の下2段」の記載の解読を試みた。
 並べると、左が以前紹介した本の記載像、右
が、今回購入した別物の本の記載像である。

将棋の来た道2冊.gif

 結局、画像処理ソフトに「鮮明化」という
機能が有るのに、前回は、私のソフト使用能力
不足で、その機能を使わなかった失敗効果が
強く出た。両方共「吐魯番(改行)阿斯塔那」
と書いてあり、書籍の紙の焼けの効果は、

今回長年古本屋で持っててもらって、私が改め
て買い込んだ物の方が、良く見て少し良い程度

であった。
 「囲碁の美人画」と「将棋盤」とは、同じ
トルファンのアスターナ古墳で出土し、

共出土だった可能性が、どうやら高そう

である。
 なお将棋の来た道のこの写真の注釈には象棋
盤というふうに、「中国将棋を表す『象』の字」
が札の1段目に書いてあるように表現されてい
るが、実際には前記写真のように「将棋盤」で
あり、「象棋盤」とは、1段目には書いて無い
ようだ。(2024/05/12)

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岡山県倉敷市上東遺跡2枚目泰山墨書土器(長さん)

 今回は、以前に奉山墨書甕型土器の出土
を紹介した表題の遺跡で、別の台型土器が、
別の成書の図版で紹介されているとの旨を
以下に示す。
 この遺物情報がweb上に有るかどうか
は現時点で謎であるが、以下の成書に土器
の集合写真でその遺物も載っている。
「古代史の『舞台』を歩く」、関祐一監修、
宝島社、西暦2021年。
 以前にも紹介したが、遺跡の場所は、
前の甕型土器と同じく、この成書の写真が
記載されている第98ページ付近によると、
岡山県倉敷市上東。字名で、恐らく才の元
とみられる。遺物が出土したのははっきり
判らないが、以前の甕型土器は、西暦
1996年前後に発掘されている。
 遺物の成立年代は、成書の該当箇所から、
以前の甕とほぼ同じく古墳時代前期の、
4世紀成立とみられているように読取れる。
 遺物の写真はコマの中央最下段に在る。
他の容器型土を置く為の台土器とみられる。

上東遺跡泰山Ⅱ.gif

 上図のように、左側に、煤に埋もれてい
るが細字で「奉山」と書かれているように
も読取れる模様が有り、更に泰の上にも黒
い模様が有り、全体で「金奉山」かもしれ
ない。以前の甕土器は、「山」の字がはっ
きりし無かったが、台土器の方は、成書の

上東遺跡泰山Ⅰ.gif

ように、比較的「山」の字が良く残ってい
る。前記成書には、私には未確認の理由で、
航海安全祈願の祈祷用の場所であると、取
れる旨が、紹介されているようである。が、
祈祷内容は「航海安全」では無くて、住居
地の山か、移動先の、場所は私には特定出
来無い、日本のどこかの「宝の山」を、奉
じているようにも見える。なおその右隣の、
3つ位の模様の塊や、背景のもやもやした
模様は、ひょっとして「山2つと川の地図」
絵かもしれないと、私は疑う。
 航海術には長けていたのかもしれないが。
古墳時代前期の時点で、鉱物探査を「吉備
族」が業としていた、疑いも有るのではな
いかと私見する。本ブログでは全国規模で、
古墳時代前期には、軍事物資の中国大陸本
国への供給と、見返りの膨大な利益獲得を
目的として、山から資源を取り出す努力が
続くという状況が、日本の各地で展開され
ていたとの旨を、これまで再三ブログで、
記載を繰り返した。
 が、今回紹介した「宝島社」の本成書で、
「波止場状遺構の地点」とされたこの遺跡
でも、黄金の国、鉄の産出する国を夢見て、
4世紀頃には大陸から船団がやって来ると
いう状況が、別の日本列島の場所と、ほぼ
同じように存在した可能性も有るのでは
ないかと、依然として私には疑われている。
(2024/05/11)

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