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藤原定家は13世紀初水無瀬離宮の後鳥羽上皇将棋言及(長さん)

今回は明月記で「かに星雲超新星」への興味
や、藤原定家の将棋好きは又聞きしていたも
のの、実際に本ブログの管理人が明月記を、
通読・調査したことが皆無だったことから来
る、将棋関連情報収集の手落ちという初歩的
失敗談の紹介である。
 和歌だけでなく、将棋グループとしても、
藤原定家は後鳥羽天皇~上皇と繋がっている
証拠となる記載が、明月記にあったとの事で
ある。
 情報を発見した文献はweb上に公開され、
実は発掘報告書を集めたデータベースに登録
されていた。大阪府三島郡島本町の発行した
文献で、奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧にも、登録公開され
ていたのである。
 文献のpdfファイル名は以下の通り。
129400_1_島本町文化財調査報告書.pdf
 文献名は以下の通りである。
発行日西暦2004年3月、大阪府三島郡
島本町教育委員会、島本町文化財調杏報告書第6集、
「詩歌としまもと」。
 島本町水無瀬に、西暦1200年前後に
水無瀬離宮が造営され、後鳥羽上皇を中心に
そこで将棋が指された事を、他の文献ばかり
ではなくて、将棋を嗜む事が天体の超新星の
興味や和歌に関する熟達だけでなくて著名な
貴族、藤原定家が記しているとの内容である。
なお、後鳥羽天皇が上皇になり院政を始めた
のが、その2年位前ではないかと、私は承知
している。
 文献の27ページ付近には、具体的に以下
のように記されている。”水無瀬離宮の行幸
にしばしば供奉した藤原定家は、自身の日記
『明月記』の中で、院が贅を尽くした離宮に
家臣ならびに遊女を集め、花実、紅葉狩りに
囲碁や将棋、歌舞に乗馬と遊びに明け暮れて
いたと記している。”ということである。
 角川日本史辞典で藤原定家を説明する部分
で、和歌での後鳥羽上皇との関連が記載され
る点から見ても、①和歌での同天皇との関係
が定家の代表的な活動成果である事。また、
増川宏一の「将棋の歴史」の中で第43ペー
ジ付近で、②摂政殿下九条兼実の将棋サロン
に藤原定家が出入りしている点、後鳥羽上皇
関連で、大日本史料を元史料として③上皇家
臣が将棋を指している様子を配流先で、
後鳥羽上皇が眺めていた一件の記載ば在り、
以上の3点は、従来より本ブログの管理人も
情報の存在を承知していた。しかしながら、
将棋分野で後鳥羽天皇~上皇サロンと将棋を
するという意味での藤原定家のつながりが、
明月記に示唆されているとして紹介されたと
いう情報は、増川宏一の将棋Ⅱが未チェック
だったせいがあったのかもしれないが、私に
とっては初耳の情報収集の大穴であった。
 葉室仲房の「将棋駒使い方に関するルール
忘れ」に出てくる将棋種も、鳥羽離宮出土駒
で「小将棋だけ成りが有るので成成り金将駒」
を意味する出土駒のの出土例から、大将棋と
小将棋を網羅して、全てを指すのがこれで
ほぼ自明になったし、後鳥羽上皇グループが
指したと私の見る、後鳥羽期94枚制自陣
4段型大将棋を、藤原定家とその仲間が西暦
1200年代初の時点で、68枚制自陣3段
型二中歴大将棋と、改善動機から共存して
指していただろうとの以前に表明した仮説も、
ほぼ確実になったのではないかと私には認識
できる、大きな情報収集の成果となった。
 よって島本町が水無瀬離宮を説明した下り
の前述発行文献の記載は重大である。上記の
ように認識出来ると私は考える。(2023/06/22)

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