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19世紀早の八道行成には雪隠型存在(長さん)

以前、長崎県多良見町琴ノ尾岳烽火台跡より
西暦1987年頃出土した和漢三才図会バー
ジョンの八道行成用遊戯盤は、西暦1808
年の『フェートン号事件』の頃成立したもの
であるから、明治期の挿絵の十六ムサシ型の、
雪隠の有る物は、幕末より後成立ではないか
との旨、本ブログで私は述べた。だが、後で
調べると、

この考えはおかしい事に、私は気がついた。

西暦1795年発行とされる、浮世絵絵師の、
紅翠(こうすい)こと北尾重政著作の「絵本・
譬(たとえ)草」に、八道行成(やすかり/
やさすかり)または十六ムサシ類の遊戯盤の
図が有り下図のように「雪隠部」が既に有る。

絵本譬草八道行成.gif

 いっけん上図からは、webの言葉の使い
方で、八道行成(やすかり/やさすかり)と、
十六むさしは、西暦1800年前後または、
19世紀始め頃、並存していたかのように見
える。が、

これも違う。

 webの十六むさしと、上図の遊戯盤とで
線の数が違い、上図の盤の方が斜め線が少な
く、升目が三角ではなくて、一体化して四角
になった部分が全部で10か所有る。
 つまり、同じ

十六むさしにも、ルールが違うゲームが少な
くとも2種類は有った

事になる。
 ただし、雪隠が、18世紀から存在してい
たのは間違い無さそうだから、以前の

本ブログの論が、間違っていた事は確か

である。
 単純に考えると、元禄時代の和漢三才図会
バージョン八道行成から、web版の十六む
さしまでの間で、線の数が増え続けたように
は、一応見える。
 web版十六ムサシは、子側(後手)必勝
だと聞いているし、駒を同数のまま、升目と
線を減らせば、恐らく後手の方が、単調に
優勢度が、更に増し続けるのだろう。
 子が勝った方が痛快なゲームなので、最初、
かなりそうなりやすいゲームが自然に出来、
だんだんに難易度が増して、末期の明治期の
Webに現在「十六ムサシ」として紹介され
ているゲームになったという説が有るとすれ
ば、一応は自然かもしれないと私は思う。
 琴ノ尾岳烽火台跡の和漢三才図会バージョ
ンの頃は、その初期バージョンが、そろそろ
飽きられていて、山の熊狩りに模したゲーム
をして、現地で熊への警戒啓蒙をも兼て行う、
地元多良見町の、お祭りイベント大会用の
八道行成盤だったのかもしれない。その為、
熊の被害は、江戸期にはそうとうにひどくて、
被害者の悲しみ/心の痛み/トラウマは、か
なりのものであり、

熊が勝っては、縁起が悪いという見方から、

後手がやや有利な古風なバージョンを、敢え
て選んだ結果、単純5×5路の和漢三才図会
バージョンの八道行成盤でのプレーになった
という、或いは次第だったのかもしれない。
 昔は火縄銃だから、熊狩りに鉄砲では遅かっ
たので、皆でわいわい罠に追い込んで、人喰
い熊をやっつけたのだろう。だからマタギ型
の狩りが国内にあるというのが、このゲーム
が流行る為の、一つの条件なのかもしれない。
 国家間戦争が無ければ将棋が無いと疑われ
るのと、或いは同じ理屈では無いか。だから、
十六ムサシは、山でのマタギの狩りが少なく
なったのも、大正時代には衰退したとされる
理由のひとつだったのかもしれないと、私は
疑う。猟師が鉄砲で撃てば終わりの狩りの時
代では、このゲームがイメージされる現実の
事は、余り起こら無いのだろう。(2024/05/03)

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