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中国象棋は18世紀のチベットへ普及し無かった(長さん)

以前に17世紀にインド歴法がチベットへ
流入したので、チベットが囲碁文化圏に
復帰したのだろうと述べたが、

これは誤りだ。

なぜなら、インド暦法には月の黄経運動の
不等に関し、出差以下の高次項を問題にす
る動機付けが無く、天体観測を促進する効
果が無いと、結論したからである。
 だから、ダライ=ラマに囲碁が打てても、
17世紀に復活したものでは無い。
結論から書くと、18世紀に清王朝の支配
下に入った事で、チベットも囲碁文化圏に
復帰したとしか、考えられない。
 ところで、清王朝が欧州による分割の
時代を迎えるのは、典型的には19世紀だ。
18世紀には欧州列強は中国を支配してい
なかったのに、出来の悪いイスラムシャト
ランジを駆逐して、強大な清王朝下で
中国シャンチーが、チベットへ入れなかっ
たのは何故なのか。中国をチベットが吐蕃
以来”別の国家”視していたとしたら、

出来の悪いシャトランジ自体が廃れて、
チェス文化自体が18世紀に消滅、西洋チェ
スの時代が、チェス・象棋型ゲーム系統自体
が廃れたために、19世紀から始まらないと
いう事は無いのか

を今回は論題とする。
 回答を書く。

清王朝時代の暦編纂は欧州の宣教師が荷った。

 のでチベットへは、中国暦とシャンチー
では無くて、チェスをセットで運んできた。
そのお陰で、

欧州チェス文化は、18世紀にはチベット
に入った

と考えられる。
 では、論を展開する。
 17世紀にチベットで、ダライ=ラマ統一
政権が生じた頃に、イスラムシャトランジが
壊滅しなかったのは、インド暦に天文道の
要素が希薄なのに加えて、チベット近傍に、
ボハラ汗国とカンジガル汗国という、イスラ
ム系の国家があった為だと、本ブログでは一
応、今の所見る。
 18世紀に入るとチベットは、明末から清
王朝にかけて、中国王朝支配領域になり、
中国暦法が流入した。本来なら、囲碁文化に
回帰して、イスラムシャトランジの欠点に気
がつき、出来の良い、別の象棋型ゲームへ移
行するはずだが、

囲碁文化圏に回帰すると同時に、清王朝の暦
を運搬してきた欧州宣教師の影響下になった
為、中国シャンチーは伝わらなかったと考え
られる。

つまり初期のダライ=ラマ国の王は、
チベット囲碁を打つようになったと同時に、

出来の良い西洋チェスに接することが出来た

と考えられる。清王朝の時代には、日本の
天保暦と同じく、暦計算が、ほぼ完全に中国
では欧米化していたのである。しかも、暦編
纂している

担当官自体が欧米人だった

と私は聞く。吐蕃の時代から、チベットは、
中国とは別の国だと、チベット王が考えて
いたとすれば、出来の良いチェス・象棋型ゲー
ムとして、中国チャンチーを選択せずに、
既に18世紀には、暦を伝来させた中国王朝
所属の欧米宣教師のおかげで、少なくとも
宮廷レベルでは、

西洋チェスが、選択できた

という意味である。
 清王朝や、南のムガール帝国を西洋列強が
侵略し、北からはロシアが南下して、モンゴ
ルをチェス化してから、しばらくたってから、
ようやくロシアやイギリスのチェスがチベッ
トに達したと見られるが、

清王朝に居た、暦専門の欧米の宣教師の方が、
チベットへは早く来れた

と推定できるようである。
 だから、インド暦法が17世紀に伝来して
もチベットでは、イスラムシャトランジは、
中央アジアのイスラム小国が、残存していた
事もあって、廃れなかったが、19世紀に、
西洋列強が周辺を支配する約100年前の

18世紀に、イスラムシャトランジが廃れて
も空白期が出来ずに、西洋チェスに移行した
可能性が、意外にも中国と接触する事で存在
する。

以上のように、推定できるようなのである。
(2020/01/04)

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