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栃木県宇都宮市同城で神鳥谷曲輪火鉢同形土器出土(長さん)

以前本ブログで、西暦1354年~1382年
に宇都宮氏京都屋敷~栃木県小山市に居住し生
存したとみられる、小山義政の正妻の小山芳姫
は、宇都宮氏一族であり、西暦1381年頃に、
神鳥谷曲輪で出土した将棋駒を含む、将棋具盤
駒を管理していただろうとの旨を述べた。所有
者の小山義政から手が離れたのは、合戦で転戦
中だと考えられるからである。嫡男小山若犬丸
は、埼玉県久喜市鷲宮神社等での芳姫の婚礼が、
武蔵平一揆の乱の起こった1368年頃だと仮
定しても、西暦1381年には高々13歳前後
とみられる。よって大将棋具を、使うことは可
能だとしても管理能力は無かったと考えられる。
 ゆえに神鳥谷将棋駒が、第1次小山若犬丸の、
小山城攻めの西暦1387年前後まで四散せず、
猪俣の百八燈や、広木上宿の五色宝塔と関連す
るようになったとすれば、1381年時点で、
小山芳姫/小山よし姫が、将棋道具の管理する
しかないと考えられたのである。
 少なくとも本ブログの論では、元々将棋具は、
小山朝氏(=朝郷)が近衛経忠等より、南北朝
時代初期に拝領入手したものであり、小山家当
主の所有であって、嫁で家に入った者が管理す
るのはやや不自然である。しかし、

小山芳姫が宇都宮氏だとすれば、寒川尼に準え
られ、嫡男の朝政とともに、小山政光の留守に、
野木野宮の合戦で参謀として活動したとの先例
から将棋具は、宇都宮氏から来た嫁が、戦時中
で夫が留守の際には管理する者として、適任と
見られやすい

という論法であった。
 しかしながら小山芳姫が藤氏系であっても、
宇都宮氏の一族であるという証拠は、京都の
伊予の守別邸に居たと推定出来る、宇都宮義綱
と、「よし」の読みがいっしょで、親子ではな
いかという程度が、根拠の材料に過ぎなかった。
 しかるに、ぼんやりとした証拠ではあるが、

宇都宮城の中近世とみられる発掘遺物の中に、
小山市神鳥谷曲輪遺跡、第8号および14号
井戸跡から出土したものと酷似の火鉢の破片

が有るのに、最近私も気がついた。
遺物の写真はweb上に公開されていて宇都宮
城跡発掘報告書に載っており、その発掘報告書
が、奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
71358_1_宇都宮城跡.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
宇都宮城跡(平成18年度第4次調査)、西暦
2008年、宇都宮市教育委員会。
 宇都宮城跡は、宇都宮市役所の100m南
付近で、宇都宮城跡(西舘堀地区)が正式名称。
発掘報告書第1ページによると栃木県宇都宮市
旭1丁目3440番地16他で問題の出土物が、
西暦2006年前後に発掘されたとの事である。
 遺物の成立年代は、1号井戸跡から今回紹介
する、手火鉢の破片らしき土器が出土したが、
形から室町時代前期の、15世紀代であるとの
説明が、発掘報告書のまとめ、36ページ付近
にある。誤差を考えれば14世紀末でも通るで
あろうと私見され、以下、南北朝時代末である
として議論を進める。
 遺物の写真は図版11の3段目に一列に並ん
で、破片が3個示されている。紋模様の入った
破片を、小山市神鳥谷曲輪遺跡の2007年
発掘の14号火鉢破片と並べて示すと以下のよ
うになる。

宇都宮小山火鉢比較.gif

巴紋と四角いナルト模様が共通で、この形が、

代々宇都宮城の住人を連想

させたのであろう。なお、巴もナルトも、手
火鉢に入り易い模様だろうが、組み合わせて同
じという例は、少なくとも本ブログ管理人は
あまり見ない。なお、一般庶民の住んでいた
中世遺跡からは、手火鉢自体が出土するのも稀
なように管理人は認識している。
 室町時代、戦国時代、江戸時代にかけて小山
市神鳥谷北端の天神町バス停横の青蓮寺に、小
博物館の陳列物火鉢のようなイメージの模型が
あって、廃仏毀釈で明治の初めに井戸に投げ込
まれるまで陳列され、それが神鳥谷曲輪遺跡と
今では呼ばれるその場所で、2007年に再出
土したのであろう。持ち物が女物であるから、
南北朝時代末に、そこに居たのは女性と判断で
きるが、

第1次小山義政の乱のさなかに、ゆうゆうと、
宇都宮氏の者が恐らく単身で小山城近くに居た

という不可解な事実を表現していると思われる。
 そしてこう出来た理由は、
①小山芳姫が伊予宇都宮氏であり、一例では、
②たとえば京都の宇都宮亭の相続をめぐって、
下野の本家との間に軋轢がある等、小山義政と
別れて、栃木県宇都宮市に戻りたく無い理由が
有ったと適宜理由をつければ、小山市の小山氏
が対宇都宮氏戦争の最中でも、宇都宮市ではな
くて小山市に、居する事が可能であったのでは
なかろうかと考えられたのである。
 なお、小山芳姫の兄弟とみられる、京都伊予
宇都宮氏の宇都宮元綱に子供か、または孫が居
れば、後に足利持氏が、宇都宮氏相続争いに干
渉して、「当主 宇都宮家綱」をでっち上げる
のも難しい事では無いのかもしれない。つまり、
宇都宮義綱(南北朝時代の)は実は宇都宮氏綱
の実の弟で、伊予の支配を宗家に戻すために、
伊予宇都宮家に送り込まれたという経緯だった
という意味である。ところが、宗家が分家の持
分を氏綱・義綱兄弟でぶんどった所、その子供
の基綱と元綱のいとこ同士の間で、今度は取り
合いが発生したという、以上は顛末である。な
お宇都宮元綱は宇都宮氏家と同一人物か、また
は兄弟であろう。氏綱が往生してまもなく名前
を、宇都宮氏京都烏丸四条亭の相続と、伊予守
の相続のために、氏綱の口頭の遺言に合わせて
氏家から元綱へ変えたのではないかと疑われる。
 だから宇都宮家綱(室町時代の足利持氏関連)
は、宇都宮等綱より本家筋に近いので、本ブロ
グの管理人に言わせると、室町時代の京都の「
宇都宮家綱こそが、下野宇都宮家の当主だ」と、
足利持氏には、でっちあげが出来たというわけ
だと考えるのである。よって話を戻すと、

小山芳姫は、実は第1次小山義政の乱で、宇都
宮氏の一員でありながら宗家の基綱が、兄弟:
元綱ないし氏家の、愛媛県の権利に関する取り
分を、横取りしようとしているのが気に入らな
くて、小山義政側に生涯付いていたという、
神鳥谷曲輪遺跡火鉢は、そんなイワレの物品

なのだという、本ブログ流解釈となるのである。
 以上の事から、栃木県小山市神鳥谷曲輪
2007年発掘将棋駒と、埼玉県美里町
の広木上宿五色宝塔・猪俣の百八燈、福島県
会津若松市鶴沼B遺跡の歩立馬奔王(空白升目)
玉墨書土器を、順に関連付けてゆく仮説にとり
有利な、小山芳姫を宇都宮義綱の娘等、伊予宇
都宮氏出身とみなすのに肯定的な遺物の出土が、
宇都宮城跡から西暦2006年頃に、有ったと
本ブログでは解釈する。そしてそれは小山義政
の乱の混乱による、大将棋の盤駒関連遺物、
裏一文字金角行駒のロストを防止出来るという
点で、淡いものの、全体として本ブログの論に
取り、好都合と云える材料に属す情報とみなせ
るだろうという事になるのである。(2022/01/29)

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