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熊本市健軍京塚下遺跡で平安初泰山墨書土器(長さん)

今回は、墨書土器が共出土している奈良~平安
初期成立の熊本県熊本市の台地際の遺跡で、
土器杯の裏面に漢字で「奉山」等と書かれてい
るように見えるひび割れ出土土器の話題である。

「泰(お日様マーク)山(改行)秦山」と書い
てあるようにも見え、阿蘇山が奈良時代に、
雄大な「秦山」と呼ばれていた事を示す土器

の可能性が在るように見える。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
15621_1_江津湖遺跡群・健軍京塚下遺跡.pdf
発掘報告書名は以下の通りである。
熊本県文化財調査報告第245集江津湖遺跡群・
健軍京塚下遺跡、2008.3、熊本県教育委員会。
 遺物は健軍京塚下遺跡の第Ⅱ区で発掘された
との事である。
 遺跡の場所は、末尾の抄録と冒頭地理的環境
後半総括に挿入された地図等から、熊本県熊本
市神水。遺物が出土したのは、西暦2004年
前後の事のようである。遺跡の場所は現在は、
熊本市市街地の中であるが、元々は阿蘇山の
裾野の、託麻台地の山の端付近であるとの事で
ある。
 遺物の成立年代は、健軍京塚下遺跡第Ⅱ区の
第2号土壙から出土したが、官衙の祭祀場であ
り、8世紀中~9世紀中までの間の奈良・平安
初期の成立と見られていると取れる記載が発掘
報告書の第142ページ付近に在る。写真図版
に、討伐の伐と書かれたように私には見える、
墨書土器が共出土して、報告されているようで
ある。軍事的施設でも、あったのであろう。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第22
の、最下段のカラムの、Ⅱ区2号土壙(遺物)
と書かれた部分の、そのページの最下段の中央
に在り、遺物番号、2号土壙の第6番との旨の
ナンバリングが在る。割れ欠けのある土器杯の
ようであり、底の部分の下の写真に模様が有る。

健軍京塚泰山.gif

 上図のように、遺物の写真中央に、

秦の字と見られる目立つ模様が在り、その下に
漢字の山に見える煤のような模様が在って

秦山と書いてあるようである。そして、それだ
けではなくてその右に、縦に泰山と書いてあっ
て、その2字の中央に、私には目玉焼きマーク
に見える模様が在る。4文字および絵から、
「太陽のような大きい山である『はたやま』」
という意味では無いだろうか。
 恐らく山を拝めているのであり、具体的には
阿蘇山のことであろう。阿蘇山が奈良時代には
「はたやま」等とも呼ばれていた事を、示して
いるのではあるまいか。つまり奈良時代に今と
ほぼ同じ山岳信仰が、熊本市付近に存在してい
た事を示しているように私見する。(2022/05/24)

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middrinn

中国の「泰山[たいざん]」と何か関係は無いのでしょうか(@_@;)
by middrinn (2022-05-24 18:37) 

df233285

middrinn さま。yes,です。大きい山と、山東省魯中山地の山
とを、書いた人間は文書で知っていてかけていると私も思います。
by df233285 (2022-05-24 23:27) 

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