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岡山市津寺遺跡で古墳期奔倅馬龍馬墨書土器(長さん)

今回は、以前偶然模様の角行を紹介した
岡山県岡山市の津寺遺跡で、古墳後期
成立の奔馬と龍馬が両方在るととれる、
5文字墨書土器の紹介である。

「奉ジル(三)倅ノ馬ヲ(二)龍馬(一)
ノ」の短文が記載

との意味とみられる。
 遺物は前に紹介したのと同じpdfに
載っているのでwebに公開されている。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている報告書
である。pdfは再掲すると以下ファイル
である。
12855_1_津寺遺跡4.pdf
 発掘報告書名も再掲する。
岡山県埋蔵文化財発掘調企報告116
津寺遺跡4、1997年、
日本道路公団中国支社岡山工事事務所・
岡山県教育委員会。
 遺跡の位置と遺物の発掘された時期につ
いては、発掘報告書末尾の抄録によると、
岡山県岡山市津寺、出土は西暦1990年
頃の事のようである。
 遺物の成立年代は、この遺物の形から、
出土した竪穴住居-13号自体が古墳時代
後期の6世紀頃と推定されているように、
発掘報告書の、第403ページ付近から読
み取れる。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第
143の下から2段目左に在り、遺物番号
で第78番とナンバリングされている、比
較的よく見かける、弥生~古墳期の、左右
に鍵状の取っ手の付いた、甕のような形の
土器である。

津寺遺跡奔倅馬龍馬.gif

 上図のように汚れが多いが、左上から縦
に、奉倅馬龍、そして龍の左下に馬と漢字
のようにも見える、煤模様があり、

龍馬のセガレの馬を(王様へ)奉じる

等の意味の事が書いてあるようにも読める。
 奔馬ではなくて奉倅馬であり、龍馬は駿
馬の意味の一般名称であろうから大局将棋
や大将棋には無関係で、これらの6世紀の
成立を意味するものでは無いであろう。
 謙遜して良い馬を、龍馬ではなくて、
龍馬の子の牡馬と称して、飼い馬を有力者
へ献上するときに、馬といっしょに付帯さ
せるための、馬用器具なのかもしれない。
 以前の、角行墨書遺物のように見えた器
物は偶然模様と結論したが、同じ岡山市の
津寺遺跡で同時に発掘されたこの土器の字
は、本物の墨書の疑いが有るように、私に
は思えた。(2022/02/28)

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愛知県春日井市勝川遺跡で古墳時代奔牛馬墨書土器(長さん)

今回は漢字で、奉午と縦に書かれている見
えるものの、馬という字も添えられている
トックリのような形の、墨書遺物の紹介で
ある。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
14899_2_勝川遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第29集
勝川遺跡Ⅳ、1992、
財団法人愛知県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
場所は、愛知県春日井市勝川町と長塚町に
またがる場所のようであり、遺物が発掘さ
れたのは、西暦1989年前後の事のよう
である。
 遺物の成立年代は、図版に第Ⅱ期と記載
され、発掘報告書、第4ページの説明によ
れば弥生時代後期から古墳時代と推定され
ているようである。古墳時代の可能性もあ
り、その旨で以下議論する。
 遺物の写真は発掘報告書の図版第122:
”第Ⅱ期”の左下に在り、遺物番号で第
103番とナンバリングされている。トッ
クリ型の土器に見える物品である。

勝川奔牛.gif

 上図のように、写真で遺物の中央に縦に、
奉午と書いてあり、牛を有力者に献上する
事を示しているようにも見える。が、午か
牛の字の左上と右下計2箇所に、馬とも書
いてあるようである。
 恐らく牛ではなくて十二支が、古墳時代
に中国王朝期の努力で日本に伝来済みだっ
た事と、愛知県春日井市にも有力者が居て、
この土地の住人が、家畜、特に馬を献上し
ていた事を示しているようだ。複数書かれ
ているのは、行為を強調するためだろう。
 奔牛ではなく奉午のようだから古墳時代
以前に、大局将棋が存在したことは、意味
してい無いであろう。(2022/02/27)

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茨城県つくば市明石遺跡で奈良期奔金墨書土器(長さん)

今回は、何回か紹介した奉金墨書土器
であるが、金の字が丸い輪で囲われ、
しかも外側ではなくて、器の底に書かれ
ているように見える、出土遺物の紹介で
ある。

砂金を精製する為等、何らかの純金を
得るための道具となる器

のようにも見える。
遺物の写真がweb上で公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
22760_1_明石遺跡2.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第413集
明石遺跡2、西暦2016年、
茨城県土浦土木事務所・公益財団法人
茨城県教育財団。
 遺跡の場所は発掘報告書末尾の抄録から、
茨城県つくば市明石686-2。遺物が発
掘されたのは、同じく抄録から、西暦
2013年前後のように読み取れる。
 遺物の成立年代は、発掘報告書69ペー
ジ付近の記載から問題の遺物は竪穴住居跡、
第200号より出土したとされ、出土土器
の形から8世紀中と推定されたと、書かれ
ているようである。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版
(PL)18”第191・192・199・
200・203号竪穴建物跡出土土器”の
最上段右側にあり、遺物番号で第200番
竪穴住居址(SI)第97番との旨ナンバ
リングされている、杯の形の土器である。

明石遺跡奔金.gif

 上図のように、杯型土器の底の方に、
丸い輪のような模様が在り、その中に縦に、
奉金と漢字で書いてあるような模様が在る。

奔金ではなくて、奉金であるから奈良時代
の摩訶大大将棋/摩訶大将棋の成立は、
意味しない

とみられる。発掘報告書によれば出土遺物
から、祭祀用の施設跡ではないかと取れる
記載があり、

砂金を精製するときに使った器を、神棚に
奉納するときの墨書

のようにも、個人的に私は見る。
 つくば市の近くの川で、奈良時代当時、
砂金の採取等が、行われたのであろう。
(2022/02/26)

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岩手県平泉町志羅山遺跡で平安末金将墨書土器(長さん)

表題の平泉の志羅山遺跡は、第88次調査
で、両面飛龍駒が出土している事で著名で
ある。しかし、それ以前の調査で「五角形
枠囲み金将墨書土器」らしい墨書遺物も、
発掘されていたらしいという事について、
今回は紹介する。
 遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
1299_1_志羅山遺跡第46・66・74次発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告第312集
志羅山遺跡第46・66・74次発掘調査報告書、
西暦2000年、
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
位置は岩手県西磐井郡平泉町平泉字志羅山
32-1。遺物が出土したのは、第46次
のA区の調査であり、西暦1995年前後
の事のようである。
 遺物の成立年代は、A区出土遺物の概観
の書かれた、発掘報告書の47ページ付近
から、12世紀の平安末と考えられている
旨が読み取れる。兵奔王墨書土器と、同一
扱いで良いのであろう。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版の
94:”A地区の遺物④”の、最上段左端
に在り、遺物番号第1133番とナンバリ
ングされている、平安末成立の、かわらけ
とされている物品である。

志羅山金将.gif

上図のように、真ん中に太い筋が入ってい
るが、これは汚れだと仮にみなすことにす
ると、漢字で金将と書いた字を、今の将棋
より、かなり細長い五角形で囲った将棋駒
の絵のようなものが、描かれているように
も見える。ただし五角形枠の左の部分の汚
れ横断線より下の部分は、枠が曲がってい
て、やや不明解であるし、将の字もツクリ
が、やや不明解ではある。

中尊寺出土の平安小将棋駒を描いた

ように私には、一応見える。
 この遺跡では、この少し後の発掘で両面
飛龍将棋駒が出土するのだが、その時代の、
将棋の金将がモデルの可能性が、かなり高
い墨書遺物なのであろう。(2022/02/25)

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普通唱導集時代の持駒打ち手内禁手再考(長さん)

だいぶん前に紹介したが本ブログでは従来、
普通唱導集時代に、取り捨てルールと持ち駒
有りルールが並存、ただし、持ち駒ルールは、

成りの規則が、敵陣3段目一発(限定)成り
の原始中将棋型だったため、その影響で、
いわゆる持ち駒ルールの、打ち手禁止手パター
ンが、現行に比べてそれ相応に複雑

だと考えてきた。すなわち、
①王と金は不成で、金だけどこにも打てる。
②銀は、4段目には打てない。
③桂馬は1・2・4・5段目に打てない。
④香車は、相手陣内2・3段目のみで打てる。
⑤歩兵は、1段目と4段目に打てない。
と考えた。

身動きできない所と、次に成るようなイカガ
ワシイ手は、反則なのではないか

と考えたからである。なお、相手陣に打ち込
んでしまった為、段奥で行き止まりになる、
歩兵2・3段目打ち、香車相手陣2・3段打
ち、桂馬3段目打ちは、段奥で凍結するのだ
ろうと見ていた。

しかし、この考え方は、二中歴の大将棋の
ルール記載の思想と、合っていないのに気が
ついた。

 本ブログの解釈では如是一方如此行方准之
は、成り規則であり、段奥凍結の強い防止と
いう考え(思想)から来ると見ているためで
ある。なお本ブログでは、この謎の一文の解
釈に関して、無水瀬兼成の、将棋纂図部類抄
の仲人不行傍立聖目内成金将は、同意味の事
を言っているとの解釈を取る。つまり、

段奥凍結は、駒を移動させる手に関して別の
禁手になっていると本ブログなりの、二中歴、
大将棋「末尾謎10文字」の独自解釈から
予想される

のであり、本ブログ自分自身の説と、整合性
が取れていない事になると、気がついたので
ある。
 そもそも、今述べた点の他にも、本ブログ
の推定ルールには、

複雑なため、ある程度の年数生き延びられる
という性質を持っていない

との、別の観点からも疑われる。
 そこで今後は、上記の説は取り下げ、

次手で成るのはけしからんという事は、余り
考えられた事は無く、4段目歩兵打ち等は、

合法だったのではないか

と考えるようにした。その代わり、敵陣奥

凍結の手を漫然と指し続ける事が、二中歴の
大将棋のルールの思想を桂馬と香車の小将棋
成りにも適用していると、その当時の人間が
解釈したしたため、禁手とされた

のではないかと考える事にした。その結果、
①金は自由打ち。
②銀も自由打ち。
③桂馬は相手陣奥から1~3段目打ち禁止。
④香車も相手陣奥から1~3段目打ち禁止。
⑤歩兵も相手陣奥から1~3段目打ち禁止。
⑥歩兵・香車・桂馬は3段目強制成り。
以上のルールを今後は主張することに決めた。
その結果、
①次の手で成れるような手は、さほどの反感
はかわなかったと仮定。
②やがて相手陣奥で身動き出来なくなる手は、
そのときに利き筋が有っても先々を考え禁手。
③現行の日本将棋の成りルールを、少なくと
も西暦1500年までは、棋士の多くが取ろ
うとはしておらず、二中歴に書いてある、
「相手陣3段目で成る」は「相手陣3段目で
しか成れない」と中将棋の成規則風に解釈す
るのが、当然と考えられた。
以上のように、解釈代えした結果となった。
 むろん、直感的に以前の私のように、今述
べた点のうち第①番目の、直後に成るような
位置の駒の打ち込みは、イカガワシイと、
考えた棋士が全く居なかった訳ではないと、
今でも私は考えている。しかし、そう主張し
ても、それに基づくルールは複雑化するので
支持されなかったし、部分的に支持され、
実際にはローカルルールとして存在したのか
もしれないが、

むしろそれは、持ち駒ルールの混乱を助長し、
西暦1500年まで、ごくゆっくりと、ルー
ルが取り捨てから置き換わるという、現実に
起こったとみられる挙動の原因になった

に違いないと、考えるようになった。
 合理的というよりは、情報が少なかった為、
二中歴という、権威ある古典に書かれている
内容を、完全に踏襲する事の方が、中世前期
には大切だったため、実際には以上のように
推移したのではないかと、今では私は考えて
いるという事である。(2022/02/24)

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兵庫県姫路市市之郷遺跡で古代奔金墨書平瓦(長さん)

今回は、姫路市の古代の寺跡から、摩訶
大大将棋/摩訶大将棋に在る、漢字の奔金
のような模様の有る、瓦出土遺物の紹介で
ある。
 奉金と書かれており、金品を寺の運営の
為等で、寄付したことを、瓦に記録したも
のなのではないかと疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
19269_1_姫路市市之郷遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
市之郷遺跡Ⅴ、2013年3月、
兵庫県教育委員会。
 遺跡の場所は、巻頭の目次の後に挿入さ
れた発掘報告書抄録によると、兵庫県姫路
市市之郷、遺物が出土したのは、同じく
抄録から西暦2007~2008年の間の
ようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第5章
総括、第3節市之郷廃寺跡出土瓦の第
191ページ付近の、瓦類の成立年代表か
ら、8世紀半ば~9世紀半ばまでの、奈良
時代から平安時代初期と考えられていると
読み取れる。
 遺物の写真は、同じく発掘報告書の図版
第179:”瓦溜推定平瓦(4)”の、第
1段目左にあり、T194番とナンバリン
グされ、

裏にもオモテにも、漢字の奉金とみられる
模様があるように見える。

以下は裏である。

姫路市市之郷奔金裏.gif

以下はオモテである。

姫路市市之郷奔金表.gif

上図で、裏の字の方が薄く、かつ奉と金が
すこし左にカーブしてズレているが、奉金
と、どちらも読めるように思える。

奉であって奔ではないから、将棋とは関係
無いのであろう。

 寺を創建等する際に、純金等の寄付が有っ
た事を示しているのではないだろうか。平
瓦に目立つようにする為、両側に書いてある
のであろう。
 なお、この寺では瓦に字を書く習慣が
有ったとみられるという事になるが、他の
ページ、発掘報告書の図版195:”包含
層出土丸瓦”の写真の中に、漢字で”龍神”
と書いてあるように見える、瓦出土遺物も、
同じ発掘調査の際出土したようであり、写
真が載っている。これも写真図版の第1段
目の左上に、遺物の写真が裏表有り、遺物
番号で、Tの第336番とナンバリングさ
れている。2枚の裏表の写真のうちオモテ、
外側の凸部分に字が書いてあるようである。

姫路市市之郷龍神.gif

 神の字がやや曖昧だが龍神を祭る祭祀が、
多分行われたのであろう。なお成立年代は、
この丸瓦の方が、7世紀前半から8世紀後
半と、奉金墨書瓦より、幾分成立年代が早
いように、前述発掘報告書の191ページ
付近の表から読み取れる。
 奈良時代初から祭祀が行われ、奈良時代
後期には寺だった場所で、宗教活動が、続
けられた事を実質的に表示している、軒瓦
の一部なのであろうと私は考える。(2022/02/23)

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岩手県平泉市中尊寺境内遺跡歩兵歩兵木簡に王奔(長さん)

山形県天童市の天童市将棋資料館2003年
発行の「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」に、
岩手県平泉市の中尊寺境内金剛院遺跡出土
将棋駒等が記載され、概ね写真が載っている。
 将棋駒では厳密には無いのだが、木簡の
片面に「歩兵歩兵」と書かれた遺物もある
のもよく知られている。本ブログでも、
将棋駒約14枚の将棋駒の出土遺物と共に、
この木簡も取り上げた事があったと記憶する。
 裏面も歩兵歩兵ではないかというところ
までは述べた覚えがある。が最近、話題に
昇る事自体が少ない、歩兵歩兵木簡の裏面
に、「歩兵歩兵」ばかりでなく、第一段目
の兵の左横に、

王奉と書かれているように見える

のに気がついた。
 写真が載っているのは、今述べた天童市
将棋資料館本、2003年、「天童の将棋
駒と全国遺跡出土駒」の24ページで、全国
一律通しナンバーで第150番と名づけられ
た将棋駒名「歩兵」が、表面には2回書かれ
ているので良く知られている木簡である。

中尊寺歩兵歩兵.gif

上記で、裏面である右の図で、丸で囲んだ
ところに、漢字のような模様があり、細長い
奉にも見えるし「王奉」という字にも見える
模様が、どうやら有りそうである。
 合戦で手柄をたてられるようにと、神仏に
願掛けをする、祭祀用木簡である証拠のよう
に、私はこれを見て気がついた。
 奔王名が、歩兵と対で、はっきり書かれた
土器が同じ平泉市の祇園Ⅰ遺跡からは出土し
ているが、

歩兵と奔王とは祭祀用のひっかけで、しばし
ば対で書かれやすい

という、別の、しかも多くの人間の目に触れ
て古くから知られた事例が、どうやら実際に
有ったという、驚くべき事実が発覚したよう
である。
 以上のような顛末であると、この遺物につ
いて私は認識する。(2022/02/22)

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山梨県甲府市道々芽木遺跡で6C桂馬墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代末の出土土器に、漢字で桂馬と
書いてあるようにみえる、遺物の紹介である。

漢字は書かれておらず、偶然模様

だとみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
6847_1_道々芽木遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第188集
道々芽木遺跡、2001.3、山梨県教育委員会・
山梨県土木部。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺物が出土し
たのは西暦1999年前後、遺跡の場所は、発掘
報告書末尾の抄録によると山梨県甲府市横根町
875番地との事である。
 遺物の成立年代は発掘報告書の8ページ付近に、
第1号住居跡より今回話題にする遺物は出土した
が、瓶型土器であり、その形等から、6世紀後半
の古墳時代後期であるとの旨が記載されている。
 遺物の写真は、発掘報告書の図版8住居跡出土
遺物の最上段左 遺物番号は特に書いて無い。ス
ケッチ図の第4図から察して第1番とナンバリン
グされた、上記瓶型の土器とみられる。

道々芽木桂馬.gif

 上図のように、淡いが中央少し右上に縦に漢字
で桂馬と言われれば、そのようにも読める模様が、
有るようにも見える。
 将棋の伝来の通説より、400年以上早い。
 そこで、遺物の写真を良く見てみると、
4列に縦に、やや右カーブして太線が土器に付い
ていて、桂や馬に見た模様は、そのうちの左側の

2本のラインの一部に過ぎない

事がわかる。従って、この山梨県甲府市の遺物の
例では馬とも書かれておらず、漢字に見えた模様
は残念ながら、

すべて偶然模様

のように、私には結論される。(2022/02/21)

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鶴岡八幡宮「金将駒」はweb上非存在(長さん)

従前より、”誠堂たより”:
エイチティティピー://makotodo.sblo.jp/
のサイトに、鶴岡八幡宮境内で前世紀の80年代
に出土した、5枚の将棋駒の片面と、レプリカ
の同一5枚面とが掲載されている。
 今回は、この画像を、300枚程度直近に
紹介した、奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース、全国遺跡報告総覧の発掘報告書の
出土遺物の写真と、同一パターンで画像処理し、
特に、「中将棋の成り飛車金将ではないか」
と発掘者がコメントしているとされる駒の
金将面とみられる部分に、「金将」と、
確かに書いてあるのかどうかを、確かめて
見たので以下に紹介する。

金の字が不自然に、小さく見える。

 さっそくそれを示すと、以下の図のように
なる。

鶴岡八幡宮汚れた歩兵.gif

 出土駒の方を画像処理しても、字は浮かび
上がらないのだが、レプリカ作成会社の誠堂
で、画像取り込みで強調処理をかけているら
しく上図のように、

レプリカの方に、更に画像処理をかけると、
金らしき像が浮かび上がる。しかし、小さい。

 将の字は汚れに埋まって見えないとしても、
金将と書かれるはずの面に、不釣合いに小さ
く、金とだけ書いてあるように見えるので
ある。
 発掘者のスケッチでは、金将は金しか確認
されていないように書いてあり、その点では
合っているのだが、

実物よりかなり大きく、記録してしまった

と、疑わざるを得ないとの結果になった。
 なお、繰り返しになるが、裏面は発掘報告
書にしか、たぶんだが載っておらず、私には
まだ、確認できていない。飛車と書いてある
との証拠史料は、スケッチで飛車の飛の第1
画と第2画が書いてあって、あとは汚れ線の
ある図面を、私は見ただけなので、飛の字で
はなくて、こちらの面こそ《一文字金》なの
かもしれないと私見しているという事である。
 なおオモテ面は歩兵であると、本ブログで
は見て、むしろ大将棋の歩兵で、成の金を、
崩して「と金」にしていないパターンを疑っ
ているのだが。上図で駒の先端上の方にある、
黒い染みのような模様を、歩の字の第1画と
2画だと見ているというのが、本ブログの
論のすべてという事である。
 なお誠堂ホームページ写真に対して今回し
た、本ブログでしている画像処理の信憑性に
ついては、誠堂レプリカ写真に関して、淡く
香車と書かれた駒を作成したとされる写真に、
同じパターンの画像処理を、本ブログなりに
すると、以下のようになる。

鶴岡八幡宮香車.gif

 肉眼で、別の図書では薄く見える第1字目
の香車の香の字の日の部分が、はっきりしな
くなるのだが、その代わりに

車がレプリカ写真では、比較的良く出ている

ようである。
 以上の事から、webの誠堂ホームページ
からの写真情報を見ただけでは、少なくとも

どうみても、成り飛車金将駒の存在が確定で
きない事は確か

だと私は考えるのである。(2022/02/20)

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長野県佐久市西八日町遺跡で6C仲人墨書土器(長さん)

本ブログでは過去何回か、婚礼用の道具で、
「なこうど」の使用する物品に、仲人と印を
付けたのであり、大将棋の仲人(ちゅうにん)
とは無関係なのではないかと疑う出土遺物を
紹介した。
 今回はぱっと見にその例のように見えるが、

実は書いてある字が仲人ではなくて仙人であり、
中国よりの文化が、弥生・古墳期に盛大に日本
に流入した証拠

の遺物である事が判るという、長野県諏訪市の
遺跡発掘遺物を紹介する。
 遺物の写真は、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
256_1_岩村田遺跡群東大門先遺跡II
西八日町遺跡III西八日町遺跡V.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第175集第3分冊
岩村田遺跡群:東大門先遣跡Ⅱ・西八日町遺跡Ⅲ・
西八日町遺跡Ⅶ、2010年3月、佐久市・
佐久市教育委員会。
遺物はこのうち西八日町遺跡第Ⅲ次発掘調査で
見つかったようである。第Ⅲ次と第Ⅶ次の発掘
地点は、数十m程度で近接している。東大門先
遺跡は、3~4Km東にあり、別の名称の遺跡
同士の間に、遺物の繋がりはないとみられる。
なおⅢ次とⅦ次は互いに交差点の近くで近接し、
発掘地点に付いた道路が別々なため、別名称に
なったように読み取れる。事実発掘作業は第3
次と第7次とは平行して実施されている。
 遺跡の場所は発掘報告書の末尾の抄録等から、
長野県佐久市岩村田字西八日町。話題にする
遺物は、同じく抄録から西暦2007年から
西暦2010年の間に出土したようである。
 遺物の成立年代は第Ⅲ次発掘調査の第21号
住居跡で遺物が出土したが、遺物の形態から、
この住居跡の成立年代は、6世紀後半とみら
れる旨が、発掘報告書の第Ⅲ次西八日町遺跡発
掘調査部の78ページ付近記載から読み取れる
ようである。6世紀後半は古墳時代後期となる。
 遺物の写真は、発掘報告書の第Ⅲ次西八日町
遺跡発掘部の、図版20:”H19(2)~H
21(1)出土遺物”下の方、H21住居址の
カラムの下から2段目の右から2番目に在り、
遺物番号で第51番とナンバリングされている、
甕の底の破片のような土器遺物である。

西八日町遺跡仲人 .gif

上図のように、かなり薄いが、破片の上部に、
ニンベンの漢字のような模様があって、仲の
ようにも見え、その下に「へ」になってしまっ
ていて第1画目の縦棒部分が不明確だが、人と
いう第2字目の漢字模様が有るようにも見える。
単に、仲人が使用する、古墳時代後期6世紀の
甕と見て終わりになりそうであるが、

第1字目の字の形が怪しい。

 そこで、遺物の表面模様を、注意深く見ると、

第1字目は仲ではなくて仙に近く、仙人の誤読

であると気がつく。つまり、古墳時代の終わり
頃までには、仙人という概念を日本人は知って
いて、長野県佐久市付近では、山を眺めながら、
それになったつもりで、使用する土器に自分使
用の印を付けていた人物が、居た事等を推定出
来るという事であろう。
 弥生期の龍伝来を本ブログでは以前紹介した
が。その他の中国文化とみられる仙人という概
念も、飛鳥時代以前に、どんどん流入して成立
していた事を強く伺わせる例であろうと、今回
のこの遺物を見て私は考えるのである。(2022/02/19)

 
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