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宮城県仙台市下ノ内遺跡で9C初奔馬刻書土器(長さん)

今回は、宮城県仙台市の下ノ内遺跡で、いつ
ものように墨書ではなくて、刻んで字を書く
方式で奉馬と漢字で書いたように見える、
平安時代初期、9世紀初程度成立の土器遺物
について紹介する。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
21272_1_伊古田遺跡・大野田古墳群・下ノ内遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
仙台市文化財調査報告書第413集
伊古田遺跡・大野田古墳群・下ノ内遺跡、
2013年3月、仙台市教育委員会。
 遺物はこのうち、第3番目の下ノ内遺跡で、
発掘されたようである。なお、これらの遺跡
は近接しているようでありすべて、
大野田官衙遺跡の西側周辺にあるらしい。
 発掘報告書の冒頭例言によると、遺跡の
場所は仙台市の仙台駅南方の、市街地南部、
富沢駅周辺に有るといい、住所は巻末の抄録
によると、宮城県仙台市太白区富沢四丁目等
のようである。また遺物が出土したのは抄録
から、西暦2006年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第54ペー
ジ付近の記載で遺物は第417a竪穴住居跡
から出土したが、出土遺物のロクロ使用の有
無等(半々)から、8世紀後半~9世紀初、
奈良時代の終わりから平安時代にかけてであ
ると解釈されているように読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第19:
”下ノ内遺跡(19)、出土遺物(1)”の
ピット遺構の写真のすぐ下左に在り遺物番号
で、第4スケッチ図の第3番との旨、ナンバ
リングされている。取っ手の両側に付いた、
広口の甕の形の水を入れる、バケツのような
土器である。

下ノ内奔馬.gif

 上図のように、煤に覆われているのと、直
ぐ左に割れたようなギザギザが有り判りにく
いが、

奉馬と彫ったような漢字の模様が見える

ように思われる。墨書ではなく刻書で平安時
代に、献上馬の水入れバケツを意味するよう
に見える奉馬(用)という字の入った土器が、
仙台市市街地内に存在したようである。周辺
部にあたるため、大野田官衙に納める乗馬用
の馬を、平安時代初期のその頃に、現富沢四
丁目で飼っていたという事なのであろうか。
 専用に、消えないように用途を示す字を、
わざわざ彫った水桶を貰っている位だから、
その献上馬は、さぞ大事に飼われていたので
あろう。(2022/03/31)

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青森県六ヶ所村大石平遺跡で縄文期王奔墨書土器(長さん)

従来より縄文時代が古墳期の前まで続いたと
本ブログ管理人が認識する青森県では、
西日本の弥生時代の青森縄文土器に、奉等の
漢字が書かれているケースが有るのではない
かと疑う。そこで今回は実際にその類の、黒
い模様の付いた縄文土器の例を紹介する。
すなわち、

山奉や王奉の字が大きく書かれている

ように見える遺物が、青森県の縄文時代に
出土しているようである。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に記載されている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
34001_1_大石平遺跡2.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
青森県埋蔵文化財調査報告書第97集
大石平遺跡Ⅱ、西暦1985年、
青森県教育委員会。
 発掘報告書によると遺跡の場所は、青森県
上北郡六ヶ所村大字尾駮字野附。遺物は西暦
1984年前後に行われた発掘調査で出土し
た模様である。
 発掘報告書249ページの記載から、成立
年代は縄文中期末(青森県)と推定されてい
るようである。
 遺物の写真は、前記pdfの写真図版
(PL.)第21:”7区出土土器(1)”
の第1段目右に在り、遺物に4Hと記載され
ている。甕のように見える大きな土器で、口
の下に半円形の、縄文土器系の模様が見える。

大石平奉.gif

 上図のように、中央やや右を中心として、
漢字で奉または奔と書かれた、大きな黒い模
様が見え、その右上に口か、山か王か、
または国か、はたまた太陽の絵のようなもの
が書かれているように見える。
 縄文土器といっても、青森県では西日本の
弥生時代なのではないかと、本ブログの管理
人は思う。1~3世紀の頃のものではないか。
すなわち奉納祭祀をするのに、奉の漢字を理
解するのは必須で、縄文土器継続使用地帯に
も、その類の漢字は伝わっていたのであろう。
 そして少なくとも本州では使用する土器が、
弥生土器か縄文土器文化なのかには、余り関
係なく、西日本の弥生時代には、王奉等と有
力者に献上する物品用の容器に、日本人が、
漢字を書いていたのではないかと疑う。
 王も国も山も小学一年漢字であるし、奉は
理解が必須なので、日本列島本州以南では、
3世紀までに、恐らくゆきわたっていたので
はなかろうか。当時の東北の蝦夷にも、勢力
範囲のヤマト王権との差等は有るにしても、
クニや王は、群雄割拠していたのではなかろ
うかということである。(2022/03/30)

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岩手県水沢市石田遺跡から律令期奔王龍王龍馬墨書土器(長さん)

今回は、不鮮明ではあるが、右から左に向かって、
「奉王七度龍王龍馬」と漢字で書いてあるような
模様の有る、奈良・平安期の杯型出土土器の紹介
である。

後鳥羽上皇時代の大将棋の第3段目の本ブログ説
と、少なくとも矛盾していない。が、汚れが多い。

 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
52739_5_東北縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告書XII.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
岩手県文化財調査報告書第61集東北縦貫自動車道関係
埋蔵文化財調査報告書(石田遺跡)、西暦1981年3月、
岩手県教育委員会・日本道路公団。
 発掘報告書の冒頭の例言によると遺跡の場所は、
岩手県水沢市寺領。遺物が出土したのは、西暦
1975年前後と、かなり前である。
 遺物の成立年代は、竪穴住居跡第Dg09
(旧期棟)で出土したが第4本文pdfの274
ページの記載から奈良平安期(歴史時代)の住居
跡からの遺物とみられているように読み取れる。
が、正確な成立年代が、特定されたように記載さ
れているようには読み取れない。ここでは、
平安末程度ではないかと見て、以下に論を進める。
 遺物の写真は、冒頭の第5写真図版pdfの、
写真図版79の3段目左に有り第144番とナン
バリングされている。が、本文pdfのスケッチ
図等との関係は、良くわからない。杯のような形
の土器である。

水沢石田奔王龍王龍馬.gif

 上図のように煤のヨゴレの中に埋もれている
感じであるが、目立つ模様としては

中央に龍王に見ればそのように見える模様が有り、
その左隣すぐに、馬に見える模様と、その上に、
無理に龍と読めば、そのように見える黒い模様が
ある。

 これだけだと単なる龍神信仰だが、右の方に目
を移すと、かなり右に寄ったところに、縦に細い
線があり、それを頼りに見ると、奉王や、

無理読みすれば奔王にも見える模様が在り、

さらにはその左隣に、緯度・経度の類を連想させ
る「七度」、又は「七呂」(路)等何か、奔王の
位置が七筋である事が表現されているかのように
も見える。
 余りにノイズが多いので、敢えて今のところ、
後鳥羽上皇時代大将棋の第3段配列の7筋・8筋・
9筋目の初期配列将棋駒名が書いてあるとは主張
しないが、

一応、矛盾する記載になって、い無いように見え
る事は確か

である。水沢市には古代柵が在ったと、以前
本ブログでも、岩手県水沢市中半入遺跡のところ
で紹介しており、この発掘で別途墨書遺物の紹介
は無いようだが、少なくとも遺跡近くに、識字層
が居した可能性は、否定できないのであろう。
(2022/03/29)

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香川県高松市空港跡地遺跡で14C行奔墨書土器(長さん)

今回は、中世の14世紀、南北朝時代成立
とされる器物土器に、寶行奉と記載されて
いる上に、その下に何らかのマークのように
見える模様のある、寄せなべ用調理具のよう
に、私には見える出土遺物の紹介である。
私見であるが、金比羅船にちなんだ、

17世紀以降の近世成立品の疑いがある

のではないかと、考えている。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10512_4_空港跡地遺跡Ⅳ.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
空港跡地遺跡Ⅳ、2000.3、
香川県埋蔵文化財研究会。
 冒頭の例言によると遺跡の場所は香川県
高松市林町、遺物が出土したのは西暦
1993年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書本文第1
pdfの第200ページ付近の説明によると、
溝(SDf)49号で出土したが、溝48・
49号の出土遺物はともに、14世紀であ
るとほぼ取れる主張がされているように、
私には読み取れる。
 遺物の写真は、前記第4写真図版pdf
の、写真図版76の第1段目右に在り、
遺物番号第1309番とナンバリングされ
ている。発掘報告書第1pdf第208
ページ付近で、土師質土器足釜と説明され
ている。私には冒頭で述べたように、寄せ
鍋用調理器具のように見える。

空港跡地行奔.gif

 上図のように、左下の丸い白抜き模様が
目立つが、よく見ると、

その上に、白抜きで漢字が3字程度書いて
あるのではないかと、いっけんするとそう
疑える。

 第2字目が行のようでも竹のようでもあ
り不明解であり、第3字目が奉のようでも
ある。
 第1字目は判読かなり困難であるが、

宝の旧字の「寶」のようだと判る。

 なおその列の右上のいっけん、来のように
見える模様は、単なる割れ目である。
 そこで宝行奉では、何んなのか、解読困難
で行き詰まる。マイクロソフトのimeパッ
ドを駆使すると、下の部分は実は2文字では
なくて1文字であり、

篆と解釈出来て、装飾文字の宝物を意味する
と見られる、「寶篆」が白抜き文字の正体

と見られるようになる。webの中国語の記
載から、アロマテラピーの道具も連想される。
よって、この器物の外側に書いてある文字は、
将棋とは関係無いのであろうとアタリが付く。
 ちなみに、その下の丸の模様から、今述べ
た単語の意味は推定できないが、丸の中には
船の絵が描いてあって、帆に「更超(=極超)」
等の字が書いてあると読み取れてくる。あく
まで私見だが、この鍋は、

四国金比羅神社参拝イベントの記念品等であっ
て、丸の中の絵は、当時の大坂等を始発地と
する廻船が高速である事を、帆の更超の文字
等で示している

のではないだろうか。恐らく廻船は、風向き
が良いと、唄にあるように、かなりスピード
が出たのであろう。ところで金比羅船は17
世紀に下って成立しているので、発掘報告書
の、この遺物に関する成立の南北朝時代との
推定とは合わないように思う。
 近世に参拝記念鍋が四国金比羅神社の近傍
で製作されていて、高松市の空港跡地遺跡溝
第49号の中に、たまたま落ちていた可能性
は無いのだろうかと、私はこの出土遺物に関
しては疑っている。(2022/03/28)

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鳥取県八頭町上野遺跡で3~4C龍王墨書土器(長さん)

今回は4C迄成立の、本ブログ管理人には供物
置きに使用する土器のように見える出土物に、
龍王と漢字が書かれている疑いの濃い遺物につ
いて紹介する。
 遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
14028_1_上野遺跡1奈免羅・西の前遺跡3.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
八頭町文化財調査報告書6:鳥取県八頭郡
八頭町上野遺跡Ⅰ奈免羅・西の前遺跡Ⅲ、
西暦2011年、八頭町教育委員会・
安西工業株式会社。
 話題にする遺物は、このうち最初の、
上野遺跡の第3区で出土したとの事である。
 遺物が出土した遺跡の地名は、発掘報告書
冒頭の例言によれば鳥取県八頭郡八頭町上野。
遺物の出土は西暦2010年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の第141ペー
ジ付近によると、第1号土溝(SD)で問題の
遺物は出土したとされ、自然流路への投げ込み
の可能性があり、形等から報告書の見解では、
弥生時代後期後半から古墳時代の前期初、3~
4世紀成立と見ているように、142ページ付
近と90ページ付近の記載から読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第60:
”上野遺跡3区出土遺物”の右下に在り遺物番
号として第75番とナンバリングされている土
器である。口の広い供物置容器のように、私に
は見える。そして広口壷であるとの説明が、
発掘報告書の第135ページ付近にある。

上野遺跡龍王.gif

 上図のように、王の字の上に刀の鞘のような
縦筋が被っていて、注意散漫だと見落としそう
だが、気が付けば比較的はっきりと、漢字で
「龍王」と書いてあるように見える模様がある。

龍神信仰に関連し、漢字の龍が鳥取県八頭町で
書かれ出して比較的、間もない頃の墨書土器

なのではないだろうか。字体がしっかりしてい
るので、弥生時代から古墳時代の境目頃には、

日本の方々で漢字が、ほぼ定着し出したのでは
ないかと疑われる

と私は思う。(2022/03/27)

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静岡県浜松市宮竹野際遺跡で奈良期末龍馬墨書土器(長さん)

今回は「北」と発掘報告書が読んだとみられ
る墨書土器とされるものの中に、漢字で龍馬
と書かれているのではないかと疑われる遺物
が在るとの旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
91532_1_宮竹野際遺跡6次.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
宮竹野際遺跡(第6次発掘調査)、2012
年3月、(財)浜松市文化振興財団。
 冒頭例言によると遺跡の場所は静岡県
浜松市東区宮竹町。遺物が発掘されたのは、
西暦2010年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の墨書土器
の記載に関する、第73ページによると、
第1河川跡(SR01)から複数の墨書土器
が出土し、形から8世紀後半ないし9世紀初
頭の奈良時代末から平安時代初頭とみなされ
ているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版(PL)
第27の2段目左に在り、第49号墨書と
書かれているが、発掘報告書73ページ付近
によると、遺物番号通し番号第451番と
同一物品のようである。

宮竹野際49龍馬.gif

 上図のように、左から右に2つの煤のよう
な塊が在り、左は全体として薄らとしている。
が、発掘報告書ではこの左側だけに墨跡が有
り、北かもしれないと読んでいる。他に北な
いし北家と書かれている墨書土器が出土して
いる為である。
 しかしながら、右にもひらがなで「せい」
と小さく書かれている濃い煤模様が見え、
薄い所を入れると、「せ」は馬の1・2・4・
5画目、いは馬の下の部分の4点のうちの、
左の2点のようにも見える。
 2文字目にも見える模様が家である可能性
は少なく、第1字目が北に間違いないという
根拠が、盤石でも無いように思える。龍だと
言われれば、そうであるかもしれないという
程度なのではないだろうか。
 たまたま馬が1頭居て、献上用であって、
龍馬と、駿馬の意味で表現されていたのかも
しれない。奈良時代になると浜松市でも馬が
しばしば飼われていて、朝廷献上馬が居ても、
絶対におかしいとまでは、言えないと思うの
だがどうであろうか。
 発掘報告書と比べてみると、本ブログの読
みと合致するケースが、残念ながら現状、か
なり少ないとの心証である。昔の出土遺物は
劣化が激しく、それだけ不確定性が大きいと
いう事なのかもしれないと、自分を慰める事
にしている。(2022/03/26)

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島根県松江市渋山池遺跡で7C前半仲人ミニチュア土器(長さん)

 今回は、結婚式グッズを取り扱う店舗か倉庫
が日本の飛鳥時代の、大化の改新の時代に在り、
倉庫にミニチュア土器が保管されていたと
取れる遺物土器出土の話題である。
 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2128_3_渋山池遺跡・原ノ前遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
渋山池遺跡・原ノ前遺跡、西暦1997年3月、
建設省松江国道工事事務所・島根県教育委員会。
話題にする遺物は、2箇所の遺跡のうち渋山池
遺跡で出土したようである。
 発掘報告書第1本文pdfの冒頭例言による
と、渋山池遺跡の場所は、
島根県八束郡(←現:松江市)東出雲町揖屋。
話題にする遺物が出土したのは、西暦1995
年前後のようである。なお2箇所の遺跡は隣接
していて、大字地名までいっしょのようである。
 遺物の成立年代は、建屋跡(SB)第22号
で発掘されたが、飛鳥時代の大化の改新の頃で
あるととれる旨が発掘報告書の第1本文pdf
の第196ページ付近に記載されている。なお、
建屋は(商品)倉庫のようである。
 遺物の写真は、前記第3遺物写真図版その1
の(写真)図版72:”渋山池遺跡”の左上に
あり、スケッチ図83の通し番号50番とナン
バリングされ、椀のような形のミニチュア土器
のようである。

渋山池遺跡仲人.gif

 上図のように写真のすこし左に寄ったところ
に、縦にかなり薄いが、漢字で仲人と書いてあ
るような煤のような模様が在る。ただし第2字
目は、人ではなくて入のようにも見える。また、
右寄り中央に、一文字で萬(「この縁組につい
ての全てよろずの」の意味か?)に見える模様
がある。倉庫の中に在ったようだから、

結婚式に使う何らかの器具であり、仲人用に、
複数の結婚式イベントにおいて共通で使う保管
品の類か、または販売されている商品のような
イメージの物品

ではなかろうかと私には疑われる。
 大化の改新の頃には、このような現代の特定
イベント用使用商品のようなイメージの物品が、
特に婚礼グッズとしてはまとめて製造販売され・
保管されていたようなケースが、少なくとも
島根県松江市の付近では存在していたようであ
る。あるいはいわゆる地域自治会の物置家屋は、
飛鳥時代・大化の改新の頃には既に、成立して
いたという事かもしれない。(2022/03/25)


 
 

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北海道八雲町野田生1遺跡で王龍墨書土器(長さん)

 今回はアイヌに文字文化が無いにもかかわ
らず北海道の遺跡で、龍神信仰から来ることを
思わせる、「王龍」の文字が書かれたような、
紀元前1360年前後の成立の土器が出土して
いるという話題である。

偶然模様と考えるがみごとである。

 遺物の写真が、web上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
28346_4_八雲町野田生1遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
八雲町野田生1遺跡、西暦2000年~2002年、
財団法人北海道埋蔵文化財センター。
 第1ページ「調査の概要」によると、遺跡の
場所は北海道山越郡(現・二海郡)八雲町
野田生317-6他。遺物が出土したのは西暦
2000年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdfの33ページによると、住居跡(AH)
第2号から問題の遺物は出土したが、縄文時代
後期の中頃(北海道のだとみられる)との旨が、
周辺の住居跡といっしょで、出土遺物の形から
推定されると、主張されている。 西暦年では
具体的に紀元前1360年前後の30年である
と考えられるとの旨が、発掘報告書の同じく第
1分冊の第244ページ付近に記載されている。
 遺物の写真は、第4図版pdfの、(写真)
図版62の上段左に在り、遺物番号で第2住居
跡(AH2)出土の、通し番号第93番と
ナンバリングされている。口の広い逆円錐形の
土器であり、割れていたが、ほぼ元の形に復元
できたとの事である。

八雲町王龍.gif

上図のように遺物の写真上の中央やや右よりに、
口の縁の部分から縦に2文字で、割れ目を跨い
で、漢字の王龍のようにも読めるような煤模様
が有る。細かい縄文が右上から左下に入ってい
るが、それとは余り関連性が無いようである。
また、左中央やや下に、斜めに入った煤模様で、
偶然出来た疑いが有るが、今のとは別にもう一
つ縦に2文字で王龍のように見える模様も有る。
なお、発掘報告書に載っている遺物で、漢字に
見える煤模様のようなものは、他には特には無
いようである。北海道の発掘報告書には、全体
として素焼き古代土器の報告が、本州以南より
も少ない傾向があると私は認識しているが、
この報告書は例外的に比較的多い方である。
将棋の駒の名前関連に限らず偶然模様も含めて、
北海道の遺物の漢字煤模様出現頻度は、本州以
南よりも実際に少ない。
 アイヌに文字文化が無いらしい事は、発掘報
告書の遺物説明や、写真図版の確認を冊数を増
やして有る程度すれば確かだとほぼ認識できる。
 今述べたように、このケースに限っては、
他に墨書土器の出土が全く無い上に、漢字のよ
うに見える模様が、一字ずつ書いたような形跡
が弱くて、偶然の連続模様が、たまたま2文字
の漢字に見えるだけのようなため、さしあたっ
てはこの例は、偶然模様だと解釈出来ると、本
ブログでは考える。が、口の縁の部分の「龍」
の字は、「王」の字とくっつきすぎているとい
う怪しさを除けば実にみごとだと、この点で妙
に感心させられた。(2022/03/24)

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茨城県行方市木工台遺跡で7C角仲人墨書土器(長さん)

今回は、茨城県で飛鳥時代には、ほとんど
日本語が今と同じだったとみられ「使用人」
という、雇い鍛冶細工師を意味する墨書
土器が出土しているとの旨の紹介をする。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
18905_2_木工台遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第140集
木工台遺跡1、1998年9月、茨城県・
財団法人茨城県教育財団。
 発掘報告書冒頭の例言によると、遺跡の
位置は、茨城県行方郡北浦町(当時)大字
内宿字井戸作台1508番地。遺物が出土
したのは西暦1996年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書、第1本
文pdf:
18905_1_木工台遺跡.pdf
の第14ページによると、話題にする遺物
は、第2号竪穴住居跡より出土したが、そ
の住居跡の成立が、”遺構の形態及び出土
遺物から古墳時代後期(7世紀前半)と思
われる”と記載されており、遺物も7世紀
前半のものとみなされてるようである。な
おこの第2竪穴住居跡からは、”炉跡が検
出されており、工房等、住居以外の目的に
使われた可能性が高い”との事である。も
ともと、鉄材精錬つまり鍛冶関連の遺跡で
あるようだ。
 遺物の写真は、発掘報告書第2写真図版
pdfの、写真図版(PL)23の下から
2段目左に在り、遺物ナンバーで、スケッ
チ図8の第5番との旨がナンバリングされ
ている。甕型の土器のようである。

木工台遺跡角仲人.gif

 上図のように、遺物の写真で右の方に縦
に、いっけんすると漢字で角仲人と書かれ
ているようにも見える。
 古代、仲人は結婚式「なこうど」か鍛冶
職人、公的建造物の建築士等の「専門職」
を意味しているようであり、ここでは後者
の意を取ることにしてみる。すると、

将棋の7世紀前半の成立や伝来を意味しな
いが、角仲人の意味が奇怪

である。そこで、遺物を再度見ると、角に
見える模様は、第2字目であって、

第1字目が使。丈の部分が角のク部分に見
えていて角は誤読、第2字目は用

と判る。角ではなくて使用と見られる。
 そこで「使用仲人」(用の器)の意味と
理解される。つまり使用人と仲人とを混ぜ
た4文字が書かれているのであり、使用人
という、現在で鍛冶屋に限らず社員職人の
意味の事と、自明に理解できる単語が、

飛鳥時代に早くも成立していたという、か
なり驚くべき事実が明らかとなる。

 なお、この遺跡では、平安時代の成立と
見られる土器に、寺院の檀家である事を示
した「門人」という墨書遺物も出土してい
て、識字層の有る程度住む街だったようで
ある。(図版25 左上 第14号住居跡)

木工台門人.gif

 飛鳥時代の日本人の話す言語は、少なく
とも北関東では、現代の日本語と大差は無
かったように見える遺物だと言えるように
思う。(2022/03/23)

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鳥取県琴浦町笠見第3遺跡で2C龍馬墨書土器(長さん)

今回は、鳥取県付近としては比較的早い、
漢字の龍馬墨書ではないかと疑われる遺物
の紹介である。

ただし、墨跡は、余り明確ではない。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
14282_6_笠見第3遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
鳥取県教育文化財団調査報告書86
 鳥取県東伯郡東伯町笠見第3遺跡、
西暦2004年、財団法人鳥取県教育文化財団・
国土交通省倉吉河川国道事務所。
 第5本文最終pdfの末尾の抄録によると、
遺跡の位置は、鳥取県東伯郡東伯町(当時)
笠見字東神楽平と田越字岩屋峯にまたがる場
所との事である。
 また、遺物が出土したのは、西暦2003
年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、第112竪穴住居跡
から出土したが、出土遺物から弥生時代後期
の初め頃、2世紀頃と取れる旨が発掘報告書
本文第2pdfの第151ページ付近に記載
されているようである。
 遺物の写真は、前記第6写真pdfの、
写真図版(PL.)105の中段カラム:
”2.竪穴住居跡(SI)112出土土器”
の右側にあり、土器(Po)第512番との
旨ナンバリングされていて、甕のようである。

笠見第三龍馬.gif

 上図のように、器上段の煤ヨゴレの2塊の
ような部分と、その少し上の部分の中間濃度
部分を辿ると、左から右に龍馬と言われれば、
そのような漢字のようにも見える暗い色の模
様が在るというものである。なお、上図の私
のつけた青い線の左側にも、縦に漢字で何か
書いてあるかもしれない。
 2世紀というと、今まで述べた例では、
九州北の福岡県や、関西大阪府付近以外では、
龍は絵で書いて、日本人が漢字では書け無かっ
た時代の、終わりの頃のように認識される。
 本ブログの解釈では日本人が書いた漢字の
龍馬として、最も早いものなのであろうと解
釈する。遺跡の場所が鳥取県の、比較的海端
に近いところなので、大陸から渡来人が流れ
着いていて、龍神信仰が早く成立し、俊馬を
龍馬と表現して、漢字で書く事も、早かった
のかもしれない。ただし字が薄いし発掘報告
書に墨書との指摘も特に無いので、偶然模様
に過ぎない可能性も、このケースは完全否定
は出来ないであろう。(2022/03/22)

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