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長野県上田市国分寺遺跡で古墳飛鳥期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、当時信濃国の国分寺の門前町で朝廷献上
向け等の飼い馬用の容器とみられる物品に、

奉馬や拜馬奉の漢字の模様があるように見える

という旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
7485_5_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・弥.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
(財)長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書31
国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・
弥勒堂遺跡・開畝遺跡、1998年、
日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局・上田市・
長野県教育委員会・(財)長野県埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所と、紹介する遺物の発掘年は、
上田市国分の(各字)前田、浦沖、堀、仁王堂、
明神前、西沖の6つの地域の今回は西沖であると
の旨が、発掘報告書第1分冊:
7485_1_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・弥.pdf
の25ページ付近の国分寺周辺遺跡群の1.
”遺跡の概観”や第6pdf:
7485_6_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・弥.pdf
の末尾抄録に記載されている。また同じく
第1分冊の3ページの調査の経過によると各遺物
は、西暦1994年前後に出土したようである。
 ここで話題にする遺物の成立年代に関する情報
については、第1本文pdfの69ページの記載
から、第325号住居跡が5世紀後半から6世紀
初の古墳時代後期、74ページ付近の記載から、
第331号住居跡が7世紀前半の飛鳥時代に、
それぞれ遺物の形から推定されるとの事のように
読み取れる。

奉馬の方が奉拜馬より古いということになるが、
馬の献上に、変わりは無いとみられる。

 次に遺物の写真は一つ目が第5pdf写真図版
(PL)第58:”国分寺周辺遺跡群 土器7
(古墳中期~平安)”の第4段目の右に在り、
遺物番号325住の第1番との旨ナンバリングさ
れている。金魚鉢のような形の土器である。

国分寺周辺遺跡群奔馬.gif

 奉のところにヨゴレが重なっているが、縦に真っ
直ぐに、漢字の奉馬のように見える、ヨゴレの中
に更に暗い部分として奉の字が在る。
 もう一つの遺物の写真は、第5pdfの、写真
図版(PL)第59:”国分寺周辺遺跡群土器8
(古墳中期~平安)”の下から3段目の左に在り、
遺物番号331住の第3番との旨ナンバリングさ
れている。ボール型の形の土器である。
 こちらの方は奉拜馬奉であり、左上から右下へ、
縦だが、比較的小さい字で、馬の字が、ややはっ
きりしないが斜め全体として傾いて、4文字位書
いてあるように見える。

国分寺周辺遺跡群馬奔.gif

2例共に奉馬が「奔馬」である可能性は少ない

ように見え、江戸時代成立の大局将棋とは無関係
であろう。前者が土地の有力者へ。後者が大和朝
廷へ馬を献上したときの付属品なのかもしれない。
 発掘現場は、国分寺跡そのものではなくて、門
前町に間違いないようなので、仏教とも余り関係
の無い、乗馬馬の供給に絡んだ拠点であるようだ。
それが上田市の、信濃の国の国分寺・国分尼寺の
付近に、たまたま古代に存在したのであろう。
(2022/03/13)

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