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島根県江津市古八幡付近遺跡で1C奔王墨書土器(長さん)

今回は、本ブログで日本に漢字が伝来した
直後としている、1世紀頃に成立したとさ
れる平行横縞線の入った杯土器の破片の
ように見える遺物に、漢字で奉王と書かれ
ているような模様のある例の紹介である。

平行横縞線を利用して、土着の日本人が、
奉王墨書を作成したようにも見える。

遺物の写真がweb上に紹介されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
2242_6_神主城跡・室崎商店裏遺跡・古八幡付近遺跡・横路古墓.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
神主城跡・室崎商店裏遺跡・古八幡付近遺跡・横路古墓、
2000.3、建設省浜田工事事務所・島根県教育委員会・
島根県埋蔵文化財調査センター。
 遺物はこのうち、古八幡付近遺跡で出土
したようである。
 発掘報告書の第7分冊:
2242_7_神主城跡・室崎商店裏遺跡・古八幡付近遺跡・横路古墓.pdf
末尾の抄録によると、遺跡の場所は、
島根県江津市敬川町。ここで話題にする
遺物が発掘されたのは、西暦1997年
前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdf:
2242_1_神主城跡・室崎商店裏遺跡・古八幡付近遺跡・横路古墓.pdf
の第83ページの記載から第2竪穴住居跡
から、話題にする遺物が発掘されたが、こ
の住居跡から出土する土器の形態から、
弥生時代中期後半から後期初頭の、遅くて
西洋紀元1世紀の成立であると、解釈され
ているように読み取れる。
 遺物の写真は、冒頭の第6pdfの写真
図版第138の下カラム:”竪穴住居2・
3・4、建物36出土遺物”の、下から2
段目の左から3番目に在り、遺物番号で、
第119スケッチ図の第11番との旨が、
ナンバリングされている。なお、第1本文
pdfの第251ページにスケッチ図
119は在り、遺物は古八幡付近遺跡の第
9区で出土している事が判る。
第1本文pdfの第86ページの遺物観察
表から、土器の脚の底辺部分の破片のよう
に私には認識される。

古八幡遺跡奔王.gif

上記図より脚部に平行に横縞が続いていて、

その一部に「傘の↑部」と「|」と縦に書
いて、横縞線を必要に応じて太くすると、
漢字の奉王になる

事が判る。漢字を伝来させた漢王朝人は、
普通に筆で奉王と書くのが習慣だっただろ
うから、意識したとは到底思えないが、

習った日本人は、土器に元々付いていた、
横縞模様を利用して、奉王文字土器を成立・
定着させた事を示唆するような遺物

に見える。そもそも、上記の土器片は、奉
の字が本当に在るのかどうかは曖昧だ。

紀元1世紀頃には、日本人にも「王」とい
う字は少なくとも書けた事を示している

だけなのかもしれない。漢字は古墳時代以
前に無かったという事は有りえず、アバウ
ト表現するとすれば、

小学一年生向け漢字が弥生時代に書かれた

というのが、本ブログ流の解釈である。
 漢王朝人に漢字の使い方に関してそのよ
うな癖が有るとはとても思えないが。横縞
平行凹凸の有る土器に、人||と模様を足
すと奉王に見えるという理由で、奉王とい
う墨書が、日本では選択的に多く書かれる
傾向が最初から存在したように、私には疑
われる。日本の場合朝廷に富が、並みのペー
スより速く集中したのは、元々の漢字の形
の持っていた偶然から来る、貢物入れマー
クの、作り易さも有ったのかもしれない。
(2022/03/21)

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長野県佐久市西近津遺跡で6C奔王墨書土器(長さん)

 今回は、古墳時代の後期6世紀には、
整った墨書で奉王と物品に書かれる事があ
った事実を示す遺物の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
561_1_西近津遺跡群西近津遺跡VIII・
西近津遺跡群西近津遺跡IX.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
佐久市埋蔵文化財調査報告書第207集
西近津遺跡群西近津遺跡Ⅷ・西近津遺跡Ⅸ、
2013.3、茂木義秀・佐久市教育委員会。
 このうち話題にする遺物は、西近津遺跡
第Ⅸ次発掘で出土したとの事である。
 遺跡の場所は、発掘報告書巻末の抄録に
よると、長野県佐久市長登呂1764-1、
1764-15。遺物が出土したのは西暦
2011年前後の事のようである。なお、
第Ⅸ次発掘は、第Ⅷ次発掘の1年強後に
行われている。場所は何百メートルという
桁差で、接していないが近いようである。
 遺物の成立年代は、竪穴住居址第3号で
出土したが、共出土遺物の形状から、古墳
時代後半の6世紀と推定される旨が、発掘
報告書の第144ページに記載されている。
 遺物の写真は、発掘報告書の第151ペー
ジの写真図版:”H2・H3・H4号住居
址出土遺物”(番号は特に無い)の、第3
段目の右から2番目に在り、遺物番号は第
3号竪穴住居址の第6番”とナンバリング
され、甕の破片と一応見られているようで
ある。が余り詳しい説明は無い。

西近津奔王.gif

上図のように、奉の右上に煤ヨゴレが在る
が、比較的整った達筆な筆跡で「奉王」と
書かれているように見え、字がきれいだっ
た為か、甕を割った上で、文字の部分だけ
切り取って再使用したようにも見える。

古墳時代の終わりごろには、きちんとした
漢字を書ける人間が、長野県佐久市に居た
ことを示している

のではないかと私は疑っている。
 つまり漢字の伝来が、数世紀まで下ると
いう説は変だと、本ブログの管理人は、こ
の遺物を見ても明確に感じているという意
味である。その数百年前、漢王朝人の渡来
と同時に、漢字は日本に伝来しているので
は無いだろうか。(2022/03/20)

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愛媛県松山市筋違K遺跡で近代奔王墨書御神徳利(長さん)

以前、本ブログで倉敷市横内北窯跡群1号遺跡
の平安期奔王酒瓶を紹介した。その際墨書は、
酒の品種と説明したが、

単なる御神徳利の類ではないか

と示唆する、近代明治以降の遺物が愛媛県で出
土している事が判ったので、比較例として報告
する。

中世前期に仏教では戒律に反する酒を、「神」
に奉じるのは不自然とは言え、前記2例は互い
に同類の疑いが否定できない

ように思われた。
 遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
12265_2_福音寺地区の遺跡II.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
松山市文化財調査報告書67福音寺地区の遺跡Ⅱ
北久米浄蓮寺4・5・6次、筋違J・K、
西暦1998年、松山市教育委員会・財団法人
松山市生涯学習振興財団埋蔵文化財センター。
 遺物は3つの遺跡のうち、真ん中の、筋違K
遺跡で発掘されたようである。
 遺跡の場所は、発掘報告書本文pdf:
12265_1_福音寺地区の遺跡II.pdf
の75ページ「調査の経緯」によると、
愛媛県松山市福音寺町533-1、
遺物が発掘されたのは、同じく調査の経緯75
ページから、西暦1995年前後の事のようで
ある。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1分冊の
122ページの遺物観察表にリストされていて、
近代明治以降の遺物で、詳細省略となっている。
観察表には砥部焼と記載されている。
 遺物の写真は、第2pdfの写真図版36の、
下の数個の出土品写真の左から2番目に在り、
遺物番号第88番とナンバリングされている。
発掘報告書の前述遺物観察表によると、御神
徳利であろうと解釈されているようである。

福音寺遺跡奔王.gif

 足のところに王が入って、奉王と解釈すれ
ばそうなのかもしれないが、発掘報告書の読み
のように奉一文字と見る方が、自然であろう。
足の部分の王は、横に土器ろくろの筋が入って
いるので、写真に、そのように写ったにすぎな
い可能性が高そうである。何れにしても、

現代でも、どこかに在りそうな物品であり、
神棚に神酒を置くのに使用する器

と解釈される。この物品を見てから岡山県
倉敷市横内北窯跡群1号遺跡出土の奔王酒瓶と
紹介済みの遺物を再度見ると、平安時代と近代
とで、推定成立時代が大幅に違うが、類似品に
過ぎないのではないかとも疑われてくる。

倉敷市遺物は王が付いているとはいえ御酒徳利
かとしなかったのは、むしろ私のうかつだった
と反省

させられてきた。倉敷市遺物は第1字目が奔に
見えても大の部分が春の上部であるとは完全に
否定できない程度に薄いし、倉敷市遺物の奔の
下のサ部分が、絶対に有るのかと言えば、そこ
まではいかないようだ。
 神仏が分離されていない時代に、神に酒類を
奉じるという点が不自然だったため、本ブログ
の倉敷市奔王遺物説明では酒の銘柄の奔王解釈
を取ったが、正当性100%とまでは行かなかっ
た。私の身近に神酒の徳利瓶が、仮に実際有っ
たとしたら解釈が違っていた位、推論が甘かっ
たと反省させられた。倉敷市の遺物は、大将棋
とほぼ無関係な疑いもある。(2022/03/19)

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栃木県宇都宮市北若松原遺跡で古墳期奔兵墨書土器(長さん)

今回は、将棋の駒の名前として有りそうだ
が実在し無い、漢字で奔兵と書かれている
ように見える墨書土器の紹介である。

奉寓等と書かれていて、古墳時代になると、
地域でまとめて権力者に、税や献上品を出す
システムになっていた事を表している

とみられる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
71233_1_北若松原遺跡若松原南遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
宇都宮市埋蔵文化財調査報告書第105集、
北若松原遺跡・若松原南遺跡、西暦2019年12月、
(栃木県)宇都宮市教育委員会。
 遺物はこのうち最初の方の北若松版遺跡
で発掘されたようである。
 遺跡の場所は冒頭の「序」によると、
栃木県宇都宮市北若松原、遺物が出土したの
は、序論の次に記載の例言によると、西暦
1995年又は1997年前後のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第90ペー
ジ付近の「おわりに」によると、5世紀末~
6世紀初の古墳時代中後期とみられているよ
うであり、塚山古墳群の造営に関連した者の
住居だったろうとの旨が、発掘報告書の92
ページ付近に記載されているようである。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版(PL)
14の上段右側に在り、遺物番号で第8号竪
穴住居跡出土第3番との旨が、ナンバリング
されている。甕の形をした土器である。

北若松原奔兵.gif

 上図のように、割れた部分に奉、その右下
の写真で中央に近い部分に、漢字で兵のよう
な模様があり、奉兵となるが、古墳の人夫が
住む街に、兵が居るというのも妙な話である。
 そこで模様を更によく見てみると、奉は、
これ以上明確に出来ない為、そうであると仮
にして、第2字目の兵は誤読であり、「寓」
の上の部分が見えているように理解されてく
る。兵の丘の中央に、+印が有るように見え
る為である。
 奉寓、あるいは仮に奔寓だとしても、それ
らは将棋駒名に無いから、古墳時代中後期成
立のこの遺物の模様は、将棋には関係は無い
だろう。このケース恐らくだが、

寓は寄(よせテ)と同義

だと私見する。
 地域でまとめて大量の物品を土地の権力者
に献上する際に「皆が出したので私も出しま
した」の意味で、当時は決まり句に近いつも
りで、こう書いたのではないだろうか。
 古墳時代も中期頃になると、次第に日本で
は権力が集中して、納税も、まとまって地域
単位に繰り返し、習慣的に行われるようになっ
たのであろう。以上のような日本の歴史が、
おぼろげながら浮かんでくる、遺物の出土な
のではないかと私には疑われた。(2022/03/18)

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山形県南陽市中落合遺跡で古代奔龍墨書土器(長さん)

今回は、山形県の平安期成立の遺跡で、
龍神信仰と見られるカワラケ状土器に、
漢字で奉龍と墨書されたと見られる、
土師器遺物とされる出土物品に関し、
刻書土器であるとの旨を報告した、発掘
報告書との読みの差を比較する。単なる

刻書とされるが、写真では刻みが×では
無く”/”にしか見えない。

本ブログの見る漢字模様は煤と見られて
いるのかもしれないが。発掘報告書解釈
には、

写真と大きな差が有り、納得困難と私見

する。
遺物の写真はweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
5551_1_中落合遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
中落合遺跡発掘報告書、2008年、
山形県埋蔵文化財センター。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡
の場所は、山形県南陽市中落合。題材に
する遺物が発掘されたのは、同じく抄録
から西暦2005年前後であると読み取
れる。
 遺物の成立年代についは発掘報告書の
20ページ付近等に説明があり、
平安時代8世紀末~9世紀後半成立の
土器であると見られているように読み取
れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版46:
”遺構外出土遺物”の最下段中央に在り、
遺物番号で第288番とナンバリングされ
ている、土師器と説明のある、カワラケ
のような形の、写真では底面に関してで
ある。

中落合奔龍.gif

 上図のように、発掘報告書のスケッチ
図71等で、刻書で×印が有るとされる
が、”/”型の傷が目立ち、その他に、
煤のようなカスレた漢字で、奉龍に見える
模様が有ると言われれば、そのように見
える黒い模様が写っている。奉は大の形
の中央部だけ残存、龍はツクリ部分は切
れ切れである。

摩訶大将棋等には関連し無い、平安期の
龍神信仰

と、本ブログでは過去の複数例と同様に
考える。他に×刻印土器が出土している
ので、発掘報告書のように解釈する、刻書
遺物解釈自体は尤もらしいが。この遺物に
限っては、

写真に”/”しかはっきり写っていないの
で、発掘報告書の解釈に、明快性が感じら
れない例のように私見

される。
 なおこの遺物は数十個出土した墨書土器
からは、発掘地点が少し離れているようで
ある。漢字の奉と墨書された遺物は存在例
がこのケースには見当たらないが、”木”
と書かれている墨書土器が十個前後、この
遺跡のこの回の発掘で、出土しているよう
である。信仰に関連して土器に墨書される、
比較的ポピュラーなケースのひとつではあ
るまいか。
 あるいは写真には墨書のように撮影され
ても、影のようなケースの例なのか。本ブ
ログの情報には、発掘報告書の見解とは、
この例の如くにズレが有る場合が多数であ
り、ノイズが全く無いとも言い切れないと、
私は懸念するようになった。(2022/03/17)

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福岡県筑後市津島九反坪遺跡で4C歩兵墨書土器(長さん)

今回は、古墳時代早期の成立とみられる土器
に、漢字で歩兵と書いてあるように見える
模様のある遺物が、福岡県で出土していると
の旨の紹介である。

その頃北九州地方では、戦乱があったので、
軍が本来は、稲作地帯にすぎない場所に駐屯
していた

のではないかと疑われる。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
1501_1_津島九反坪遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
筑後市文化財報告書第42集津島九反坪遺跡、
2002、筑後市教育委員会。
 遺跡の場所は、発掘報告書冒頭第1ページ
の調査に至る経過によると、福岡県筑後市津
島。今回話題とする遺物が出土したのは、
西暦2000年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書本文35
ページの、出土遺物の説明から、第130番
土抗で、問題の遺物は出土したが、この土抗
で出土した遺物は、その形から弥生時代から
古墳時代初頭の、3~4世紀頃成立ではない
かと判断されている旨が読み取れる。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版(PL.)
12:”1.SD130出土遺物(2)”の、
下段左に在り、遺物番号でスケッチ図48番
の通し番号第97番とナンバリングされてい
る、甕のような形の土器である。

津島九反坪歩兵.gif

 上図のように、漢字で”止兵”と読めるよ
うな墨跡に見える煤模様が在るが、兵の字の
第1画が右上に伸びる、歩兵と書いたときに
特徴的な、2文字模様であって少の部分は、
カスレて消えただけのように見える。つまり、

歩兵と書いてある

ようである。4世紀に将棋が成立してしまっ
ては、通説と全然合わないが、歩兵の文字は、
将棋の4世紀の伝来を示しているのでは無く、
兵隊のうちで底辺を形成する集団を示す、

一般名称であろうとは一応は言える

のではないかと疑われる。何れにしても発掘
報告書には、遺跡は稲作の伝来地帯と、従来
認識されているだけのように書いてあるが、
弥生時代末の小国分立の時代に、付近に軍隊
が駐屯した歴史の有ったような場所なのかも
しれない。以上のように、一応疑った方が良
いように私見された。(2022/03/16)

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岡山県倉敷市横内北窯跡群1号遺跡で平安期奔王墨書(長さん)

今回は平瓶型の土器とされている平安時代
にかけての遺物に、漢字で奔王と書かれて
いるように見えるとの旨の紹介である。
いつものパターンとは違って、この件に限っ
ては、

奉王では無いようである。

 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
4621_1_横内北窯跡群1号下庄遺跡上東遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
横内北窯跡群1号・下庄遺跡・上東遺跡
 倉敷市埋蔵文化財発掘調査報告第12集、
2007.3、倉敷埋蔵文化財センター。
 遺物はこのうち最初の横内北窯跡群1号
の遺跡で出土したようである。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の
場所は岡山県倉敷市玉島陶(たましますえ)、
遺物が出土したのは、同じく抄録によると、
西暦1985年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書の25ペー
ジ、まとめの記載から、奈良時代から平安
時代の、土器生産地跡のように読み取れる。
ここでは平安末期の12世紀前後と仮定し
て、以下議論する。
 遺物の写真は発掘報告書の写真図版第4:
”横内北窯跡群1号出土遺物(2)”の、
左下に在り、遺物番号第102番とナンバ
リングされていて、私には急須か酒のおか
ん用の器物に見えるが、発掘報告書の説明
では、複数同類が出土していて、平瓶の類
として分類されるものであるとの事である。

構内北窯跡第1号奔王.gif

 上図のように、中央縦に、かなり大きく
漢字で奔王と読めるような、煤の跡模様が
ある。奔王であって、奉王等ではこのケー
スは無さそうである。

大将棋から来るのかもしれない。土器の

生産地で発掘された遺物であるとすれば、

土器に入れる物品の銘柄を示している

ようにも、現代的感覚からは思えてくる。
 つまり一例を示せば「奔王」という銘柄
の、地酒を入れる容器という意味である。
 本ブログの管理人には、この土器の提梁
と高台が、何のために付けられているのか
は良くわからない。何度見ても酒のおかん
の器具のように見えるのだが。何れにして
も大将棋へ奔王が、比較的早期に入った事
を示す遺品なのかもしれず、注意が必要な
遺跡だとの印象を持つようになった。
(2022/03/15)

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香川県多度津町奥白方中落遺跡で3C奔皇墨書土器(長さん)

香川県から遠いが、茨城県で10世紀に出土
する王将墨書土器を、本ブログでは平将門に
関連付けている。しかし将門は乱のときに、
新皇は名乗ったが、新王を名乗ったとの話は
無い。

皇と王の違いが有る

ということである。皇将墨書土器なら良いが、
王将墨書土器が茨城県で10世紀成立で出土
しても、本当に平将門と関連付けて良いのか
どうかという問題が、有るということである。
 しかしながら仮に皇と王は類似だと、弥生
後期から考えられているとみなせる証拠さえ
有れば、この問題は一応回避できると考えら
れる。今回は、奉王ではなくて奉皇と漢字で
書かれているように見える、弥生時代後期後
半、3世紀前後成立とみられる墨書遺物を見
出したので紹介する。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
10760_2_中東遺跡2奥白方中落遺跡奥白方南原遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
中東遺跡・奥白方中落遺跡・奥白方南原遺跡、
2008年2月、香川県教育委員会。
 話題にする遺物は、3箇所の遺跡のまん中
の奥白方中落遺跡で出土したようである。
 発掘報告書、第3図版(続)pdf:
10760_3_中東遺跡2奥白方中落遺跡奥白方南原遺跡.pdf
の末尾抄録によると、遺跡の場所は、香川県
仲多度郡多度津町奥白方、紹介遺物が出土し
たのは西暦2004年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘報告書第1本文
pdf:
10760_1_中東遺跡2奥白方中落遺跡奥白方南原遺跡.pdf
の、第80ページ付近によると、第2自然流
路(SR02)の土器集中地点Cで、紹介す
る問題の遺物は発掘されたが、ゴミ捨て場と
読み取れる、土器集中地点Cの成立年代は、
出土遺物群の形態から、弥生時代後期後半の、
3世紀頃に成立していると、発掘報告書では
見ているように読める。
 遺物の写真は、第2図版pdfの写真図版
64の上段に在り、遺物番号第316番と
ナンバリングされ、「SR02土器集中部C
出土遺物」と付記されている、甕型の土器と
みられるものである。

奥白方中落奔皇.gif

 上図のように、口の部分から下へ縦に、漢
字で「朱土奉皇」等と書かれ、底に近い部分
に皇の字が来ているように見える。奔王では
なくて奉皇であり、この弥生時代の漢字と疑
われる模様は、将棋には無関係であろう。
 土地の有力者に、朱色の鉱石粉末等を献上
するのにつかう、容器の壷なのであろうか。
漢字を書くところを見ると、書いたのは渡来
人なのかもしれないが。王と皇とは類似語で
あると意識していたように私には受け取れる。
その認識が、平安時代の10世紀頃には変化
したとは、考えにくいのではないかと、私は
今のところ疑っている。平将門が新王ではな
くて新皇だと記録されたのは、たまたまなの
では無いのだろうか。(2002/03/14)

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長野県上田市国分寺遺跡で古墳飛鳥期奔馬墨書土器(長さん)

今回は、当時信濃国の国分寺の門前町で朝廷献上
向け等の飼い馬用の容器とみられる物品に、

奉馬や拜馬奉の漢字の模様があるように見える

という旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
7485_5_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・弥.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
(財)長野県埋蔵文化財センター発掘調査報告書31
国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・
弥勒堂遺跡・開畝遺跡、1998年、
日本鉄道建設公団北陸新幹線建設局・上田市・
長野県教育委員会・(財)長野県埋蔵文化財センター。
 遺跡の場所と、紹介する遺物の発掘年は、
上田市国分の(各字)前田、浦沖、堀、仁王堂、
明神前、西沖の6つの地域の今回は西沖であると
の旨が、発掘報告書第1分冊:
7485_1_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・弥.pdf
の25ページ付近の国分寺周辺遺跡群の1.
”遺跡の概観”や第6pdf:
7485_6_上田市内・坂城町内国分寺周辺遺跡群・上田城跡・風呂川古墳・弥.pdf
の末尾抄録に記載されている。また同じく
第1分冊の3ページの調査の経過によると各遺物
は、西暦1994年前後に出土したようである。
 ここで話題にする遺物の成立年代に関する情報
については、第1本文pdfの69ページの記載
から、第325号住居跡が5世紀後半から6世紀
初の古墳時代後期、74ページ付近の記載から、
第331号住居跡が7世紀前半の飛鳥時代に、
それぞれ遺物の形から推定されるとの事のように
読み取れる。

奉馬の方が奉拜馬より古いということになるが、
馬の献上に、変わりは無いとみられる。

 次に遺物の写真は一つ目が第5pdf写真図版
(PL)第58:”国分寺周辺遺跡群 土器7
(古墳中期~平安)”の第4段目の右に在り、
遺物番号325住の第1番との旨ナンバリングさ
れている。金魚鉢のような形の土器である。

国分寺周辺遺跡群奔馬.gif

 奉のところにヨゴレが重なっているが、縦に真っ
直ぐに、漢字の奉馬のように見える、ヨゴレの中
に更に暗い部分として奉の字が在る。
 もう一つの遺物の写真は、第5pdfの、写真
図版(PL)第59:”国分寺周辺遺跡群土器8
(古墳中期~平安)”の下から3段目の左に在り、
遺物番号331住の第3番との旨ナンバリングさ
れている。ボール型の形の土器である。
 こちらの方は奉拜馬奉であり、左上から右下へ、
縦だが、比較的小さい字で、馬の字が、ややはっ
きりしないが斜め全体として傾いて、4文字位書
いてあるように見える。

国分寺周辺遺跡群馬奔.gif

2例共に奉馬が「奔馬」である可能性は少ない

ように見え、江戸時代成立の大局将棋とは無関係
であろう。前者が土地の有力者へ。後者が大和朝
廷へ馬を献上したときの付属品なのかもしれない。
 発掘現場は、国分寺跡そのものではなくて、門
前町に間違いないようなので、仏教とも余り関係
の無い、乗馬馬の供給に絡んだ拠点であるようだ。
それが上田市の、信濃の国の国分寺・国分尼寺の
付近に、たまたま古代に存在したのであろう。
(2022/03/13)

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岡山県岡山市高塚遺跡で古墳時代後期奔銀墨書土器(長さん)


今回は類例を山梨県南アルプス市村前東遺跡
で既に紹介済みだが、岡山県の遺跡で、こち
らも古墳時代の、この例では終わり頃の土器
に、漢字の奉銀と書かれた墨書跡の在る遺物
の紹介である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
12395_1_高塚遺跡三手遺跡2.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書150
高塚遺跡・三手遺跡2、西暦2000年、
日本道路公団中国支社津山工事事務所・
岡山県教育委員会。
 発掘報告書末尾の抄録によると、遺跡の場
所は岡山県岡山市高塚、遺物が出土したのは、
西暦1989年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、高塚遺跡の角田調査区、
竪穴住居第176号にて出土したが、7世紀
前半の古墳時代後期と推定されている旨が、
発掘報告書の866ページ付近に記載されて
いる。
 遺物の写真は図版152:”角田調査区竪
穴住居出土遺物26”の第2段目中央に在り、
遺物番号第5097番とナンバリングされて
いる、甕状の土器である。

高塚遺跡奔銀.gif

 上図のように、遺物の写真で左側に縦に、
銀の字がやや不明解だが、奉銀と言われれば、
そのようにも読める、煤のような墨跡がある。
 奔銀ではなくて奉銀のようであり大和朝廷
等に、貴金属の類の献上を行った際の容器等
ではないかと疑われる。
 甕に銀を入れたとすれば、当時は現地で、
相当の量銀塊が取れたのかもしれない。字が
はっきりしないので、正確なところは少なく
とも私にはわからない。(2022/03/12)

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