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岩手県平泉町祇園Ⅰ遺跡12世紀成立歩兵奔王墨書(長さん)

以下に本稿を作成する、3日程度前に、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録された、

影響のとても大きな出土遺物の話題

である。本ブログの、これまでの論にとり、

かなり不利な内容

だ。最も簡単な解釈は、二中歴に
平安大将棋が記載された頃、

後期大将棋も、有ったと考えるという事

であり、

増川宏一氏と木村義徳氏の推定にとり有利

であるという内容である。
 遺物は瓦の破片であり、2018年前後
に発掘されたようである。場所は、
中尊寺境内遺跡で著名な、岩手県平泉市の
岩手県平泉市祇園Ⅰ遺跡。

兵奔王と、濃く縦書きされており、奔王駒
が、瓦片の成立時点で存在する事を、
強く示唆している。

平泉兵奔王.gif

発掘報告書が、西暦2021年4月21日
付けで、web上、pdfファイルで
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されて閲覧出来、
pdfファイル名は、以下の通りである。
90879_1_祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書.pdf
 写真は、報告書の72ページの
写真図版16出土遺物(1)(第4次)の
第2段目中央にあり、遺物番号13番と
ナンバリングされている。
 新聞ネタになるレベルの発見だが、五角
形の将棋駒で無かった為、少なくとも私に
は、これまで確認出来ていなかった。なお、
発掘者自体は、情報を広める努力をしてい
たようだと疑われる、一応の根拠が有る。
新聞赤旗で2018年11月に、増川宏一
氏が、志羅山遺跡の両面飛龍駒を、
後期大将棋と特定する記載を、概説記事に、
脈連無く載せている点。およびそれに調子
を合わせたような記載が報告書本文に、有
るように見えるからである。発掘調査隊本
部は取り上げなかったが、増川宏一氏とは
報告者は当然見識が有ったので、ただちに
知らせたと見ると、記載の様子とよく合う。
 報告書には、はっきり将棋関連だと記載
され、フリーキーワードで大将棋と入力す
ると、データベース内でヒットする。将棋
駒の出土地帯として、余りにも有名な場所
である。
 遺物を見ると、破片な為、本当は

歩兵奔王だったと推定

できる。また、左に薄く”兵奔”とも有る
ように見える。

平泉兵奔王コント.gif

歩兵が奔王の上段に並んでいる事を示して
いる

と取れ、本ブログの言う、

「西暦1260年モデル」以降の大将棋が、
1200年以前にも有った事を、強く示唆

する。なお、報告書の21ページには、
C14測定から、共出土品の成立年代が、
11世紀後半から12世紀であると、記載
され、

逃げ道はほぼ無い。まいった発見だ。

状況は以上であり、単に”平泉周辺遺跡で、
飛龍駒が示唆するように平安大将棋が盛ん”
という認識を

はるかに越えた、影響力の甚大な発見

であると考えられる。そもそも

平安大将棋に奔王駒は無い

のである。
 本ブログにとっての救いは唯一、

初期配列図として見ると、記載が貧弱な事

位か。
 冒頭で述べたが、はっきりした墨の左隣
には、薄い兵の字の下に

同じ奔が書いてあるようであり、ヨゴレ

であると推定される。初期配列の一部であ
るという可能性は、ほぼ無さそうである。
 恐らく、奔王駒を中央歩兵の下段に初期
配列する事だけを、作成者は表現意図した
のであろう。
 今の所、将棋史の研究者のコメントを見
出せないが、

”兵奔王”などという3文字墨書は、将棋
の影響

と見て、間違い無いと思う。以前に本ブロ
グでは類似の、”兵”と”仲人”の文字が
共記載されている土器を、紹介している。”
平安大将棋が記載された二中歴が、有効だっ
た1200年前後に、後期大将棋も有った”
とする、増川宏一氏と木村義徳氏が別々に
した

推定を、それぞれ頭から完全に否定するの
は、これによりかなり難しくなった事だけ
は、少なくとも確か

だと見るべきだろう。(2021/04/24)

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