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物と人間文化史134Ⅱ遊戯Ⅱに飯田研究(長さん)

以下、法制大学出版局、2021年出版の、
遊戯Ⅱ(ものと人間の文化史134-Ⅱ)
に、元プロ棋士でコンピュータ将棋の研究
チームリーダーとして知られ、
北陸先端科学技術大学院大学教授の
飯田弘之氏の二中歴(小)将棋ルールの
コンピュータ対コンピュータ対局の結果に
関する研究が載っていたので紹介する。
 事実上最善を尽くすと、裸玉局面でかつ、
優勢側に成り金1枚だけの、駒枯れ互角の
局面に到達する事が、本ブログのように、
盤駒を使って手作業でチェックしなくても、
機械でも確かめられたという事である。

本ブログは初期の頃に、該チェックが行わ
れて居ないとの旨を憂慮する記載をしたが、
遊戯史研究11号で飯田氏が発表していた

ようである。誠に失礼な内容を書いてしまっ
ていた。この場を借りて深くお詫びする。
 さて、冒頭で紹介した成書はwebで
チェックすれば一目瞭然だが、本稿を書い
ている時点の、2カ月以内に出版された
増川宏一氏の新刊である。同じシリーズの
「遊戯」が2006年に出版されているが、
不足部分を加筆したような内容である。
 将棋に関連する部分のみ読んだところな
ので、増川氏が遊戯史学会をタタむ頃より
少し前から今までの話が、将棋については
ほぼ、出てい無いようなのだが、それが、
将棋の項に関してだけなのかどうかについ
て、私には判らない。つまり西暦2015
年頃から2021年までの将棋史の動きが、
ほぼ出ていないのだが、なぜこの成書が、
より早く出版されなかったのかは良く判ら
ない。出版時期に関する経緯書きは、今の
所私には、この書籍の中に見い出していな
いという事である。
 さて本題に入ると、飯田氏の研究紹介は、
第三章”盤上遊戯の新知見”の将棋の項に
記載されている。

結論だけ書いてあるが、コンピュータ将棋
の論文の結論紹介としては、極めて的確で
単潔かつ判り易く、これほど明解なものを、
少なくとも私は見た事は無い。

 つまり二中歴記載の(小)将棋を真面目
に指すと、棋力に差が無くかつ、まともな
ゲームをする力が、双方に有るケースには、
ほとんど形勢に差は出来ず、勝負は付かず
裸玉局面に到達するという事である。
9升目型と8升目型では、わざとマネ将棋
をしないようにしなければ、中途で行き詰
まるのを避けられないかどうかの差が有る
と見られるものの、その他の点では、

飯田見解のようになるのは、盤に駒を並べ
て手作業でチェックしても、さほど手間を
取るわけでもなく、容易に判る事

ではある。客観性を出す為に、機械を使っ
たという点が大きいと見られる。増川氏は、
人間同士の間では、行われた事の余り無い
事という認識を前提に、飯田氏の研究を肯
定的に賞賛しておられるように読み取れる。
実際には、日本将棋連盟の関西将棋会館
(関西本部の会館)の当時の将棋博物館の
館長で、”持駒使用の謎”の著作で知られ
る木村義徳氏が相当熱心に、人間の力だけ
で、前世紀の末頃には平安将棋のチェック
を将棋史研究家と共同でされていた。今述
べた著書にも、結果の記載が有る。
 雑な追跡考察は、本ブログでも以前紹介
している。結論は厳密に客観的にチェック
しても同じだったが、ほぼ棋力の同じ機械
を使った客観性の高い研究を、遊戯史学会
誌に投稿した飯田氏の功績は当然だが高い。
 二中歴「将棋」の末備で、裸玉勝ちが記
載されているところから見ても、飯田氏の
遊戯史研究に投稿した論文は、

二中歴小将棋が取捨てだった事を、厳格に
証明したもの

として、相当大きな価値を持つものと、
本ブログでも当然だが、肯定的に評価する。
(2021/05/31)

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北海道北斗市館野遺跡で桂龍縄文墨書土器(長さん)

本ブログでは従来、近世以前の北海道に於け
る、日本将棋の伝来に関する史料が見出せて
居なかった。江戸時代の商業家屋の模型村で、
将棋盤駒が、アイテムとして設置さている場
合が有るとも聞いている。が近世以前に
北海道で、日本将棋が指されたかという点に
関しては、記録の裏づけは無いのではないか
と疑っていた。
 しかるに最近、遂に北斗市の館野6遺跡の
発掘報告書の中に、

縄文時代の土器の破片とされるものに、
龍と桂、および馬の字を潰したような黒い
模様が有る

のを見出したので、以下に紹介する。

縄文時代(渡島半島)の北海道に、文字文化
が有ったとは考えにくい。

龍の字が、曼殊院所蔵の「将棋馬写」の”
龍馬”の”龍”の字に良く似ており、

江戸期に、該縄文土器破片が和人の移住者に
拾われ、煤の”馬”の字に似た模様に合わせ
て、龍と桂の字が寄せ書きされた

ものと疑われる。その後現場近くに再廃棄さ
れ、粉々に砕かれた後に、発掘調査で又拾わ
れ、接合され文字が浮かび上がったのではな
いかと疑われる。
 さて遺物の写真がweb上に在り、発掘報
告書の遺物の写真として掲載されている。該
発掘報告書が奈良県の、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfで公開されファイル名は以下である。
28155_4_北斗市館野6遺跡2.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通りである。
北埋調報327、北斗市館野6遺跡(2)、
2016年、
公益財団法人 北海道埋蔵文化財センター。
pdfファイルの、図版63:”H21土器
(6)”の、左上に、遺物番号H21,33
番との旨ナンバリングされて、土器の写真が
ある。粉々の破片を張り合わせたものであり、
縄文時代前期後半(渡島半島)の住居跡から
出土した、土器破片との旨の説明が、以下の
第1pdfの120ページ付近に有るようで
ある。
28155_1_北斗市館野6遺跡2.pdf
発掘作業は、2009年前後に行われたよう
である。オモテ面とみられる部分の、大きな
煤模様が写真から一見して印象的だが発掘報
告書には墨書の指摘は無い。

北斗市龍馬.gif

 上図の遺物を見ると、大文字の下部の4点
部分が潰れた馬の字の、頭部分の右が隙間に
置き代えられ、”桂・龍”と書かれているよ
うにも見える。

縄文時代(渡島半島)に、文字文化が有った
としたら、大発見

だ。
 しかしながら、上図の龍の字は右下部分が
特に、曼殊院所蔵の「将棋馬写」の”龍馬”
の”龍”の書体に良く似ており、

書体から、墨書は江戸時代成立ではないか

と私なりに考えられる。
遺跡の現場で和人が、この縄文土器の当時は、
上図のような大きな破片を、何らかの治水作
業等の関係で掘り出して拾い、

煤が馬に見えるので、自己の日本将棋の知見
に基づいて、桂の字と龍の字を書き加えた

後に、特に必要でも金銭価値も感じられない
のでで現場に捨てた。その際粉々にしたが、
発掘調査で再度発掘され、復元されたという
事なのではないかと私は疑う。つまり、

”大きな馬の字に見える煤は、桂馬の馬と、
龍馬の馬だ”という主張のようだという意味

である。なお、発掘報告書の第1pdfの冒
頭に、付近の遺跡の紹介が有り15世紀後半
から16世紀にかけての中世館跡と18世紀
の遺跡が在るとの旨が、19ページ付近に記
載されている。前者は中将棋の時代なので、
桂馬駒と龍馬駒を同時に連想しにくい。よっ
て、該「馬の字模様」の

煤の有る縄文土器に、龍と桂の恐らく墨書の
加筆が行われたのは、幕末の18世紀の頃

なのであろう。よって縄文時代(渡島半島)
の日本将棋の成立や、北海道への室町時代の
中将棋の伝来はたぶん示唆しないが、

江戸時代に北海道にも日本将棋が有ったとい
う証拠の史料が、北斗市に於いて少なくとも
本ブログの管理人が知る限り、初めて現われ
出したようだ。

以上のように、この遺物からは、めでたく結
論出来るように私には疑われた。以上の通り
である。(2021/05/30)

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兵庫県春日町七日市遺跡で平安期蟠蛇墨書土器(長さん)

今回は、摩訶大大将棋、摩訶大将棋に有る
将棋駒名”蟠蛇”の類の墨書が、書かれて
いると疑われる、平安時代成立とされる、
墨書土器の紹介である。web上に写真が
有る。

平安時代にはあった四文字熟語”輻蟠虫芸”
かもしれない意味不明の用語の、中2文字
が見えている

と疑われる。
発掘報告書に写真が有りそのコンテンツが、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfで公開されファイル名は以下である。
19298_7_七日市遺跡3弥生~平安時代の調査.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
兵庫県文化財調査報告 第271冊
氷上郡春日町七日市遺跡(Ⅲ)
弥生~平安時代の調査、2003年、
兵庫県教育委員会。
 遺物の写真は、発掘報告書の以下の場所
にある。墨書土器とされているようである。
写真図版238”出土土器44”2段目左。
遺物番号第1229番とナンバリングされ
ている。解説の出ているpdfは、別の
第1pdfであり下記のファイル名である。
19298_1_七日市遺跡3弥生~平安時代の調査.pdf
第1pdfに、発掘報告書の表題や、
七日市遺跡が、兵庫県氷上郡春日町(現
丹波市春日町)七日市・野村・棚原に有る
と書いてある。またこの第1pdfの、
154ページに、問題の遺物が、SB02
という地点で出土した土器であるとの旨が
ある。SB02構造物の成立年代が、
平安時代との事である。正確には12世紀
成立であり平安末期のようである。なお、
遺物が出土したのは、同じく第1pdfの
7ページの記載から、西暦1996年前後
の事のようである。

七日市蟠虫.gif

 遺物から蟠と蛇のヘンのように見える字
が有り、発掘報告書、第1pdfの212
ページ付近の遺物土器表に、”墨書土器”
との旨の表示がある。発掘報告書に釈文は
無い。
 将棋の存在による作成物だとすれば、
摩訶大大将棋/摩訶大将棋が平安時代の成
立という事になり、本ブログの今昔物語等
からの推定の、室町時代前期、世阿弥活動
期との論と整合しない。
 そこで遺物を良く見ると、

虫の右に、画像が切れているが”它”とい
う、ツクリが有るように私には見えない。

蟠虫と書いてある疑いがあるように思える。
蟠虫と蟠蛇とでは異なるから、
摩訶大将棋等の平安時代の成立の証拠にな
らないと私は考える。
 そこで次に更に発掘報告書の、平安期の
墨書土器とされるものの写真を見てみると、
以下の何か4文字書いてある墨書土器の、
左から右への2文字目が蟠、3文字目が虫
と書かれているように私には見える。

七日市輻蟠虫藝.gif

この遺物は同じく発掘報告書の第7pdf、
19298_7_七日市遺跡3弥生~平安時代の調査.pdf
の、写真図版237”出土土器43”の、
左の上から5段目に在り、遺物番号第
1221番とナンバリングされている。
発掘報告書、第1pdfの212ページ付
近の遺物土器表では墨書との指摘は無いが、
煤にしては形が不自然かつ、2文字目3文
字目が1229番と似ている。これも墨書
土器なのではあるまいか。なお、遺物番号
第1221番の成立時代は12世紀前半の
ようであり、第1229番と大差が無い。
 私なりに読むと、この4文字熟語は冒頭
のように、

”輻蟠虫芸(但し芸は旧字)”となり、私
には意味は良く判らない、平安時代には、
存在した言葉かもしれない、文字列となっ
ている。

よって確定はしないが、問題の2文字墨書
土器は、意味の私にはよく判らない上の
四文字熟語の、中2文字の可能性があると
思う。
 よって、問題の第1229番墨書土器に
は摩訶大将棋等の蟠蛇とは書いてはおらず、
よってこの遺物は、摩訶大大将棋/
摩訶大将棋の平安時代末、12世紀の成立
を、必ずしも示唆しているとは言えないと、
私は疑っている。(2021/05/29)

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岩手県北上市金附遺跡で弥生期角行墨書土器(長さん)

以前、今回紹介する岩手県北上市に近い
同県一関市の清田台遺跡で縄文時代の角行
墨書土器が発掘された可能性について、本
ブログでは紹介した。今述べた土器に、
墨書が有ると見なされていないと見られる。
今回は同じ、岩手県文化振興事業団の遺跡
発掘調査で調査団の報告には記載が無いが、

岩手県での弥生時代の土器には、しばしば
墨書が有るようだとの、本ブログの私見を
述べる。

表題の岩手県北上市金附遺跡で、少なくと
も弥生時代には成立の土器に、発掘報告書
に指摘は無いが、明らかに墨書の例が有る
との内容である。つまり、これはすなわち
漢字は少なくとも部分的には岩手県では、
現地の弥生時代、1世紀~2世紀には、速
いスピードで、西日本から伝来していたの
では無いかと、疑われるという事である。
当時漢王朝の中国人等は、船で日本の回り
を回遊する事位は、博多に行くのと五十歩
百歩であり、さほど苦にはならない技術力
を持っていた、という事なのかもしれない。
 遺物は写真でweb上に公開されており、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている、
岩手県文化振興事業団の遺跡発掘調査報告
書に掲載されている。
コンテンツのpdf名は以下の通りである。
13303_1_金附遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第482集
金附遺跡発掘調査報告書(第3分冊写真図版編)、2006、
岩手県北上地方振興局土木部・
岩手県北上地方振興局農林部農村整備室・
(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター。
なお、遺跡は岩手県北上市稲瀬町所在との
旨が、第1pdfにあたる以下のファイル
の冒頭に記載されている。
13004_1_金附遺跡発掘調査報告書.pdf
手違いで、全国遺跡報告総覧にバラバラに
登録されたようである。
遺跡の成立年代も、下の第1pdf冒頭に
縄文時代末から弥生時代(岩手県)に掛け
てとの旨がある。
 話は戻すが、遺物は上の方の第3pdf
(=第3分冊写真図版編)の、
写真図版138:”縄文・弥生土器(87)”
上から3段目左にある、遺物番号1745
番とナンバリングされた、弥生時代の象徴
と見られる”米”という字が、四角で囲わ
れたような模様の有る、少なくとも同時代
には成立している土器とされる物品である。
西暦2002年前後に、発掘されたようだ。

金附米.gif

発掘報告書には「煤である」との旨が、第
2pdfである以下の遺物説明部の、表の
中に載っている。
12513_1_金附遺跡発掘調査報告書.pdf
このpdfファイルも他の2報と、くっつ
けて保存すべき所、誤って別々の所の
全国遺跡報告総覧データに登録されている。
 話を再び遺物の話に戻すと、中央に”米”、
またはひょっとすると”果”や”呆”なの
かもしれないが、漢字で一文字書いた後に、
四角く枠を書いているように上図からは見
える。つまり私には、この模様は人為性が
高く、

到底、煤ヨゴレには見えない

という事である。
 現地に弥生時代(岩手県)に、漢字が一
部伝来しており、この墨書土器の中に寒く
てもやっと取れた”米”を入れる等の表現
を、漢字を使って、しているのではないの
だろうか。
 さて以上は、将棋駒の名称等とは繋がら
ない遺物の紹介であった。実は今紹介した
遺物と、角行墨書が疑われる土器が共出土
している。最上段の第3pdf、
13303_1_金附遺跡発掘調査報告書.pdf
の、写真図版166:”縄文・弥生土器
(115)”の上から3段目左にある、
遺物番号2252番とナンバリングされた、
”米”墨書土器とよく似た形の、弥生時代
成立と見られる土器の中央に、角と消えか
かったような、行の字が有るようにも見え
る土器である。

金附角行.gif

 角行が弥生時代に成立していたとしたら、
このケースも本ブロクにとり問題なのだが。
しかしこの場合も以前、岡山県岡山市津寺
遺跡の遺物で述べたのと同じパターンで、

より広い範囲の黒い部分が作る、偶然模様
の一部に過ないニセモノ

と見る。よってこのケースにも、弥生時代
の、西暦1260年モデル大将棋の成立を、
意味しないと言うことになる。
 しかし、前に述べた米または果または呆
を、ここでは私的に本物の漢字と見るので、

弥生時代に岩手県北上市付近には米や果と
いう漢字は伝来しており、少なくとも漢字
文化の一部はその時代までに、表面に波文
様の有る土器文化圏にまでも到達していた

と見るべきなのではないか。以上のように、
本ブログでは、この発掘報告書を見て、
漢字文化の岩手県への到達は、通説よりも
かなり早かったのでは無いのかと、疑って
いるという訳なのである。(2021/05/28)

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岩手県清田台遺跡で縄文時代角行墨書土器(長さん)

今回は、紀元前3000年成立と言われる
縄文土器に、角行の文字が見えるという話
題である。web上に写真が有る。

不規則に将棋駒型の白抜き部分が有るため、
恐らくは偶然模様であろうが、まるで本物
の漢字のようだ。

写真は発掘報告書に載っておりpdfで、
発掘報告書がweb上に公開されている。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
21589_1_清田台遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第412集
清田台遺跡発掘調査報告書(第3分冊写真図版編)
岩手県千厩地方振興局千厩農村整備事務所、
2003年。
なお、”千厩地方”の千厩町は現在、一関
市の一部だと言うことである。
 遺物の写真が、写真図版151:
”遺構外出土土器(4)”の右下に、遺物
番号第897番として載っている。なお、
遺物は2000年に出土したとの旨が、
以下のpdfの遺物表に有る。
21586_1_清田台遺跡発掘調査報告書.pdf
遺物表には、遺構外だがこの遺物について
は、出土地層が深部だとの旨書かれている。
手違いで、データベースの別々の場所に、
バラバラになったようである。

清田台遺跡角行.gif

多角形の白抜きの中に角行と書かれている
ようであり、更に、将棋駒型が土器の左下
等にも有って、何か2文字書いてあるよう
にも私には見える。
 縄文土器であるとされ、縄文土器として
の分類や、成立年代については、手違いで、
以下のpdfに、データベース上、バラバ
ラに登録されたファイルに有る。
22065_1_清田台遺跡発掘調査報告書.pdf
上記発掘報告書(遺物解説部)にはスケッ
チもあるが、縄文土器の面状の濃淡模様は、
書かれていないようである。
 さて問題は、この遺物の成立年代である。
発掘地点とは少し離れた場所のであるが、
第47号住居跡の遺物の炭素14同位体法
による年代測定から、紀元前3000年程
度に成立の遺跡だと考えられているらしい。
本ブログの角行成立期推定の、実に約
4250年程度前である。しかしそもそも
紀元前3000年に、漢字が有るとすれば、
日本で漢字の楷書が発明された事になって
しまう。

将棋駒”角行”の成立時期以前の問題だ。

 そこで上図を更に良く見ると、見事に”
角行”なのは取りあえず仕方が無いとして、
白抜きに着目してみる。すると角行の字が
浸っている白抜きは、1個でなくて2個で
あることが判る。そしてより白い

左下の白抜きは、将棋駒に似た五角形

である。所が、この2個目の白抜きと、字
の位置が全くチグハグである。つまり
左下部の五角形白抜き部分は、明らかに、

何故存在するのか、構図的に謎

である。だから、この

角行の字は、偶然模様と疑える

と私は思う。
 なお、白抜き模様は、この土器破片には、
4箇所有ると考える。角行の模様とは無関
係に左上と左下にも有り、それぞれ2文字
に見える模様が有って、無理読みすると、
左上が鉤豹、左下が鬼蝕の字に私には見え
る。何れも偶然模様であろう。
 そもそも4箇所に白抜きがあるのは、

写真撮影時に、遺物の凹凸により光源が、
鏡面反射して見えるからではないか

と私は疑う。白抜き模様が、同じ発掘報告
書の別の遺物にも有る上に、縄文土器に、
五角形模様を表画する動悸も、謎だからで
ある。
 字が余りに見事なので注意したいとは思
うのだが。

この縄文土器に人間が角行と書いた可能性
は余り無いのではないか

と私は疑っている。(2021/05/27)

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なぜ後期大将棋に65枚のうち龍駒6枚有る(長さん)

普通唱導集大将棋に関して、本ブログでは
双方に54枚ずつの駒が有り、龍王×2、
龍馬×2、飛龍×2で10%を越える、6
枚の龍駒があると見ている。後期大将棋は、
悪狼×2、猛豹×2、猫叉×2、石将×2、
歩兵×2、(生)獅子が加わったものと、
ここでは見るので、表題のように65枚の
うち6枚龍駒という事になる。どちらにし
ても、成りで龍駒が4枚存在するに過ぎな
い日本将棋より、その存在は目立つ。なお、
世界のチェス型のゲームで、龍を駒名にす
るものは、古典的にはほとんど無い。
 本ブログでは、龍はモンゴル帝国の来襲
の際、祈祷で竜神へ国の守りを託したため、
龍駒が増加したと見るが、圧倒的な力を持
つため、1匹でも充分ではないかと疑われ
る龍に関してこれまで、

数を複数増やす意味を、厳密に考えてはこ
なかった。

そこで今回は、どういう事情で平安大将棋
の飛龍×2の状態が、龍王、龍馬を加えて
6枚(匹・柱)にまで増やされたのかを考
える事とする。

従軍祈祷者の中に、高野山の僧や熊野神社
の修験者が居たとされ、後者が八大竜王、
海竜王等、複数の竜神をモンゴル帝国来襲
の際に担ぎ上げた

からだとみられる。
 一般向けの成書に、今述べた事が記載さ
れており、成書名は以下の通りである。
蒙古来襲、新井孝重、吉川弘文館/戦争の
日本史シリーズ7、2007年。
 その、229ページ、Ⅴ:”「異域」の
中の日本”、1.”祈祷の防衛体制”に、”
鎌倉幕府の安達泰盛に対して、熊野神社の
他宝坊より『諏訪大明神、鹿島大明神の神
体の前記複数竜神が、国の守り神である』
との進言があって採用され、肥後国の守護
代が九州に、社殿を作ったのがモンゴル帝
国の、日本侵略を防ぐ竜神信仰の始まりと
の旨が鎌倉遺文に記載”等が書かれている。
幕府を動かし、アイテムとして大将棋に
龍駒を、多数添加する原因になったのは、
熊野神社の祈祷師のようである。
 なお他宝坊が、京都の藤原長者や太宰府
権帥にも同様の進言をしたから、デザイナー
の耳にも届き、普通唱導集大将棋は、龍駒
片側6枚制になったと見られる。つまり、

熊野の修験者、藤原氏を任命の太宰府権帥、
鎌倉幕府重臣の安達泰盛等は、三位一体の
間柄

だったのであろう。だから安達泰盛は熊野
信仰には熱心だったと、日本史の研究者の
間で、推定されるようになったようである。
 なお、鎌倉駅に近い今小路西御成小学校
遺跡は、鎌倉幕府の役付きの者の屋敷と考
えられており、恐らくは安達泰盛派の有力
メンバーの、接待の間を持つ屋敷とされて
いるようである。接待の間で、京都の”
今小路の御所”と引っ掛けて、将棋も指さ
れたのであろう。
 よみがえる中世3、武士の都鎌倉で、
河野真知郎氏が問題の遺跡を有力武家屋敷
跡との旨記載しているし、他の成書として
は、中世鎌倉のまちづくり、吉川弘文館、
2019で、高橋慎一郎氏も、成書の末尾
で屋敷跡の発掘を紹介して、接待の間の存
在を指摘しておられる。
 当然京都の藤原長者(太宰府権帥)と、
安達泰盛や、その派閥の有力武士は、熊野
神社の修験者を挟んで、友達の友達で繋がっ
ていたはずである。だから、御成小学校の
すぐ近くのJR東日本鎌倉駅の駐輪場でも、
”搦(角行角行奔)王馬馬仲(人)”木片
という、普通唱導集大将棋の存在を匂わせ
る遺物が、関連する風俗営業店舗等の所有
または展示、あるいは贈答品物品として、
恐らくは見つかるのであろう。
 このように、元々博打であり仏教では戒
律違反だが、国を守るという大義名分で、
熊野修験者の頭目と繋がっているような
鎌倉時代の支配者が居住する場所の家来の
間で大将棋は大っぴらに指されていたので、
今も記録に残る

後期大将棋には、その信仰から来る龍神駒
が6枚も、過剰に配合されている。

以上のような事情なのであろう。(2021/05/26)

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平泉祇園遺跡に平安末将棋指しが居た証拠(長さん)

以前、千葉県横芝光町北長山野遺跡で、
仲人、行、奔墨書遺物が共出土したが、
行が”廻行”なので、慶事の業者の存在を
示すのであって、将棋棋士指しの存在を示
してい無いのではないかとの旨を論じた。
 では、(歩)兵奔王土器の発掘された、
岩手県平泉町祇園遺跡の第4次発掘時、
第2号溝跡とされる発掘地点で、住居者
の素性を伺わせるような、共出土遺物は
無いのであろうかという点について、
今回は問題とする。回答から書くと、

有る。博打を打って還俗させられたように
取れる、元僧侶の居た事を示す遺物が出土

している。
 証拠の遺物は、兵奔王墨書土器の写真
を記載したのと同じ、発掘報告書に有る。
再掲するとpdfファイル名は以下。
90879_1_祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書.pdf
上記は、奈良文化財研究所発掘報告書
データベース、全国遺跡報告総覧に登録
されている。
発掘報告書の名称は次の通り。
岩手県平泉町文化財調査報告書第136集
祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書、
2020、平泉町教育委員会。
今回紹介する兵奔王土器と同じ遺構で同時
期に発掘された土器遺物は、兵奔王土器の
写真と同じく、前記発掘報告書72ページ
の写真図版16:出土遺物(1)(第4次)
の下から2段目、右隅に、遺物番号第77
番とナンバリングされて登録され、その器
の内面の写真が載っている。

平泉祇園元僧.gif

発掘報告書には、”煤有り”の指摘しか無
い。が、真ん中に煤のヨゴレがあり、かつ
2文字で曲がって書いてはあるが、

”元僧”とも読める字が有る

とここでは考える。
 元僧がこの付近に居る人物像だとすれば、
還俗した僧侶が平安時代末期に、平泉町の
祇園遺跡付近には居た事を示すのかもしれ
ない。還俗の理由はもとより個別には不明
であるが、在来仏教にとっては戒律違反の

博打を打った疑いで祇園舎を追い出された
のかもしれない

とも取れるように思える。このケースは、
だからまさに”碁打ち将棋指し”の存在を
示唆するのではないか。
 なお、発掘報告書には、黒碁石が出土し
たとの紹介が同じく76ページの写真図版
20に、”石製品”の部、遺物番号第4番
とナンバリングされ、第2号溝跡出土とし
て確かに有る。
 その他武芸である可能性も高いが、御遊
び所を連想させる、”的”の破片が、同じ
く、写真図版20の木製品の部に遺物番号
第27番とナンバリングされて、これも、
第2号溝跡出土である。
 以上の結果から、本ブログにとっては、
甚だ残念であるが。岩手県平泉町祇園遺跡
の兵奔王墨書土器の共出土物は、

碁打ち・将棋指しの存在をかなり、匂わせ
るものと考えざるを得ない。

以上のように思われた。(2021/05/25)

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千葉県横芝町北長山野遺跡で平安期仲人土器(長さん)

本ブログでは岩手県平泉町祇園Ⅰ遺跡より
歩兵奔王が同時に書かれていると疑われる
土器が2021年4月にpdfとして、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に発掘報告書が登録され
て以来、奔王駒が平安時代末に成立してし
まって、主張に合わなくなり、窮地に立た
されている。
 ところが最近同じ全国遺跡報告総覧に、
表題の地点(現横芝光町)で、平安時代に
成立の、

仲人墨書土器、行土器、奔土器が、遺跡の
中の同じナンバリングの住居跡で、共出土
しその写真が載っている

のに本ブログの管理人が気が付いた。遺跡
の発掘は、平泉町祇園Ⅰ遺跡の、
西暦2018年前後よりも、はるかに早く、
西暦1988年の年初と見られる。
 ただし、一文字”行”や一文字”奔”が、
大将棋西暦1260年モデル(本ブログ)
の平安時代成立を、本当に示唆するかどう
かは怪しく、

行土器は”迴行”等であり、結婚式等の、
慶事に関係しており、将棋とは無関係の可
能性がある。

 情報は繰り返すと、web上にpdfの
形で存在し、発掘報告書内に遺物の写真が
有る。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に発掘報告書が登録され、
pdf名は下記の通りである。
22329_3_東・北長山野遺跡.pdf
なお”_3_”の他、第1pdf”_1_”と、
第2pdf”_2_”が有る。
発掘報告書名は以下の通りである。
東・北長山野遺跡、1990、
北長山野遺跡調査会。
なお、遺跡の場所は(現)千葉県山武郡
横芝光町長倉に有ると、発掘報告書の第1
pdfの例言に、その旨が記載されている。
 北長山野遺跡の発掘調査は西暦1987
年の暮れから1988年の年初に行われ、
15号住居跡で、そのときに今回話題とす
る遺物群が出土したようである。住居跡は、
平安時代成立と有るので、鎌倉時代と本ブ
ログが見ていた将棋駒を示唆する遺物だと、
本ブログの論と、時代か合わなくなる。
 前記発掘報告書の、写真78の最下段の、
中央に”行”と墨書の有る平安期の土器、
同じく右に”仲人”と見られる、共出土の
土器、写真79の最下段の右に、”奔”と
墨書が有るようにも見える土器が、
”15号住居跡”の旨が表示されて、示さ
れている。発掘報告書の説明だと、
北長山野遺跡のこの住居跡は、平安時代の
ものとの事である。

東長山野仲人.gif

東長山野奔王.gif

上の方の図から、字は薄いが、”行”土器
の行の字が相当に鮮明であり、珍しい”行”
墨書土器である事が、印象的である。
 なお、行・仲人については字が薄く、奔
については汚れが多いため、発掘報告書で
これら3個の遺物に、墨書が有るとの指摘
は見当たらない。ただし報告書には、他の
複数の、”吉”等の墨書遺物とされる写真
が掲載されている。
 話を戻すと上記の15号住居跡遺物につ
いてだが。しかしながら、本ブログ確認の
”行”墨書土器について

”行”のケースは2文字で無いと、将棋駒
と関連するとみなすにはかなり論拠が弱い

と私は思う。上記の”行”土器を良く見る
と、左側にシンニョウがあるようであり、

廻と同義と見られる、迴が書いてあって、
”廻行”とも読める

のではないかと、私には疑われる。
仲人は”なこうど”。”奔”は奉納の”奉”
を示そうとした物品であり、それと、
”めぐり合い”を意味する”廻行”とで、

結婚式等の、慶事の神事に使用する物品の、
製作者等が住んでいた場所

とも取れるように私は疑う。
 従って、西暦1260年型の大将棋や、
後期大将棋の平安時代の成立を匂わさない
とは言い切れないものの、千葉県横芝光町
北長山野遺跡の15号住居跡は、

慶事の神官に関連した、識字層が居た場所
であり、将棋棋士や駒師等は居ない疑いが、
これだけだと否定できない。

以上のように、私には思えるのである。
(2021/05/24)

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千葉県光町神山谷遺跡で奈良期酔象墨書土器(長さん)

今回は漢字としては比較的珍しい、新字体
の酔の入った、酔象と書かれている事が疑
われる、奈良時代成立の墨書土器(甕)の
話題である。

”酔仔(すいし)”と書かれておりインド
チャトランガ・イスラムシャトランジとは
繋がらない

とみられる。さて、それでは説明に入る。
 写真がweb上に公開されpdfとなり、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。情報
が掲載されているのは遺跡の発掘報告書で
あり、そのpdfファイル名は以下の通り
である。
72303_2_神山谷遺跡1.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
財団法人東総文化財センタ一発掘調査報告書第25集
千葉県匝瑳郡光町神山谷遺跡(1)、2002年、
千葉県企業庁・財団法人東総文化財センター、
pdfファイルの図版144:”C1・C2区”
の右2段目に遺物の写真が掲載され、遺物
番号第SI-116,4番とナンバリング
されている。
 また第1番pdf、
72303_1_神山谷遺跡1.pdf
の、259ページ、第12表:”C区
竪穴住居跡一覧表”のSI-116に、
出土地点の建物跡の、成立年代が記載され、
8世紀の第2~3四半期との旨書かれてい
る。奈良時代とされているようである。な
お、遺物が出土したのは、1995年前後
の事のようである。

神山谷遺跡酔象.gif

上図から、象の下部分が右に大きく湾曲し
ているが、酔象の類の字が書いてあるよう
にも見える。
 しかしながら、象の字のゆがみは決定的
だと、本ブログは見なす。良く見れば

酔象ではなくて、酔仔であり”酔っ払いの
酒を入れる甕”という意味の風流な、酒瓶
のボトルキープ者のあだ名を書いたもの

ではないかと疑われる。なお、象の字の頭
の部分にあたる模様は、汚れの一部だと見
る事にする。
 奈良時代だが千葉県には、どうやら風流
な文化人も居住していたようだ。ただし
SI-116家は比較的質素だったようで、
遺物の出土量は相対的に、他のSI遺跡に
比べて少ないとの事である。
 ちなみに、墨書遺物は他に複数出土して
いる。酔という字は、墨書としてマイナー
な為、発掘報告書に、その旨の指摘は特に
無い。以上の事からよって、

酔象とは書かれていないので、8世紀に
置けるイスラムシャトランジ等の影響によ
るものではない

と、疑える。恐らくだが日本でのチェス系
ゲームの隆盛や、象駒の存在に関する認識
は奈良時代には、奈良の都から離れてしま
えば、さほどでは無かったと、この遺物か
ら疑われるように私は思う。(2021/05/23)

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愛知県白石遺跡で奉王墨書弥生土器(長さん)

以前、茨城県の栗島遺跡で、夲王墨書遺物
が出土したが、茨城県教育財団文化財の
調査報告第268集「栗島遺跡」2007年
(平成19年)3月には、”口口奔”と釈文
されているとの説明をした。実は、茨城県の
今述べた報告書で口口奔と釈文したのは、

口口奉の類であろうと解釈

された為のようである。他方、本ブログでは、
養蚕品の、御供え物用物品とされているこの
遺物は、平将門関連ではないかとした。だか
ら、この養蚕関連品は、

朝廷ではなく、地域で一時実効支配していた
平将門へ、献上する養蚕品を供える為の物品

だった可能性がある。

夲王とは奉夲王という意味だった

という事になる。このため、

奔王という単語自体が、元をただすと奉の字
の、横棒を増減させて字を作るという、言わ
ば洒落で出来た可能性

が考えられる。前記の発掘報告書は、ある
意味、的を得た釈文をしているのかもしれな
いのである。
 以上のような考えを、まるで裏書するよう
な遺物が、西暦1990年頃、愛知県豊橋市
の白石遺跡で発掘されている事を、管理人は
最近知った。

奉の字は弥生時代には有ったようである。

ずばり”奉王”と書かれた、弥生時代の墨書
土器が、web上に公開された文献に写真が
載っているようである。文献は発掘報告書で、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されている。繰り返
すと遺物の写真がその中に掲載されているが、
pdfファイル名は、以下の通りである。
71071_1_白石遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
豊橋市埋蔵文化財調査報告書第15集
白石遺跡、1993年3月、
豊橋市教育委員会。
遺物の写真は、写真図版17の弥生土器3の
最上段右隅に有る。遺物番号が9-1番と、
ナンバリングされている。

愛知県白石奉王.gif

丸い黒い輪の様な模様にも見えるし、中央に
奉王、右上に王王王と、やや小さく書いてあ
るようにも見える。発掘報告書には、墨書の
指摘は無い。確定するには、ヨゴレが多すぎ
るものと見られる。
 なお本文中の説明から、弥生式土器であり、
遺跡地点が、弥生時代前期の遺物を多数出土
させる場所だともあるようである。日本への

”奉”という漢字の伝来も、相当に早かった

事を示すのであろう。
 上記の土器から、単語”奔王”が、
奉王→夲王→奔王
と訛って出来たと、ぼんやりとだが理解出来
るように思う。
 少なくとも、平安時代後期に、大将棋駒で
奔車と王将が考え出されれば、奉納の奉の字
から、夲王が分かれてきた事を、常識で知っ
ている祈祷関連を商売としていた人間ならば、
奔王という駒名を、考え出すのは容易だった
と推定できる事だけは、かなり確かなように
私には思える。(2021/05/22)

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