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西暦1170~1260年どう酔象情報は維持(長さん)

少なくとも全国遺跡報告総覧にpdfの形で
平泉町の発掘報告書が公開された2021年
4月21日以降、後期大将棋は西暦1170
年程度に成立という、増川宏一・木村義徳の
論は、通説と認識されるようになった。
 増川宏一氏は、興福寺境内跡から1098
年物の酔象が発掘はされているので、

公表はしていないものの、後期大将棋の早期
成立論で、不明期を西暦1100年程度から、
1170年の間に減らし難点をシノイでいる

と推定される。
 他方本ブログでは、12世紀の中期頃成立
との論の強くなった、鳥獣戯画の将棋図の

将棋は6×6升目の平安小小将棋であり、
酔象はこのゲームで引き継がれている

と見ていた。鳥獣戯画が1170年頃まで成
立してい無ければ、組み合わせてしまえば

増川論だと、酔象の消失期間は事実上消滅

する。
 だが、本ブログでは、王将/玉将の1:1
導入と共に、大将棋に於ける酔象の復活は、

鎌倉幕府の親王将軍が成立した西暦1260
年より少し前の、元寇の前夜と依然見ている。

そのため、西暦1170年から概ね1260
年までの90年の

鎌倉時代空白が、本ブログ方式を無理に取り
続けるとすれば、依然埋まっていない。

酔象、王将、龍王の導入は、モンゴル帝国の
脅威の増大の影響とした方が、考えやすい事
が確かな為である。そこで今回は、本ブログ
のような思考を、依然取り続けるとすれば、
鳥獣戯画のミニチュア平安小小将棋も平安末
期で廃れ、鎌倉時代前期の酔象の記憶の消失
が、そのままでは避けられないとしたならば、
それでも実際には大将棋で復活出来た

メカニズムは何なのか

を論題とする。回答から書く。

平安時代から引き継がれた、国司制度の、”
守介掾目(かみすけじょうさかん)”の第
3番目が”じょう”の掾であり、それと象と
で音と字形(ツクリ)類似なので連想できた

と考えられる。
 論を開始する。
 そもそも空白期間は、長いとは言え90年
なので、

西暦1173~1163年に生存した、親鸞
や、同時期生存の結城朝光の如くの長生き人
間が居ればなんとか回避できる時間の長さだ

とは言える。
 だから、鳥獣戯画の将棋図は依然、鎌倉前
期の15升目制後期大将棋の非存在説を取る、
本ブログにとってもありがたい存在ではある。
 しかしながら、酔象の一時的衰退問題は、
後期大将棋の平安時代末成立説が”兵奔王”
墨書土器が平泉遺跡で発見された事による根
拠の強化により、本ブログのようにその説を
取らない立場にとって、優劣を分ける点とし
て際立つようになり、特に

痛手になるように変化

してしまったと考えられる。
 そこで本ブログでは、上将の上と、象、相、
丞、掾が中国に於いて同一視され、掾を、
”じょう”と訓読みした日本では、鎌倉時代
前期に

一時期”酔掾”という言葉があって、ナンバー
3を連想させた為、象の字との類似性から、
酔象という単語を、保持する要因となった

と考える事にした。恐らく”酔掾”という文
字史料が、鎌倉前期成立の遺跡等から、将来
発見されるだろうと予想する。
 国司の階級は、そこを警護するという職業
を発生させる口実を与えるので、鎌倉時代に
も、地方武家の間では概念がほぼ保持された
と本ブログの管理人は認識する。例えば、
茨城県の豪族の大掾一族は、苗字に取り入れ
ている。
 そして、国司制度に準えて、守を玉将、
介を金将とすれば、その当時には、銀将と
怪奇小説、玄怪録岑順の上将と象とは同じで、
ナンバー3だと判って居ただろうから、
酔象や銀将という単語は、酔掾、上将に通ず
と覚えれば、酔掾、つまり鎌倉時代には武家
が勤めているので、

”自堕落した、地方国司職階のナンバー3
役人”として連想して保持されたと見なせる。

つまり酔象は、こうすれば西暦1170年か
ら1260年の間の約90年位なら、忘れ去
られずに復活出来るのではないかと、私は考
える。
 よって日本の国司制度の階級が、たまたま
”守介掾目”であって、音が”ぞう”に近い
”じょう”、字もツクリが”象”に似た形の
”彖”が第3番目であった為に、

酔象という言葉を酔掾という単語で、1世紀
弱の間、保持して保存する有力な要因の一つ
になった。

以上のように私は考えるのである。
(2021/04/30)

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岩手県山田町沢田Ⅲ遺跡で現字”国”縄文土器(長さん)

本ブログでは以前に、笹原宏之氏著書の
”日本の漢字”、岩波新書、2006を紹介し、
”鎌倉時代中期成立の平家物語の写本に、字体
の「国」が書かれている等、
平安時代末期までに教育漢字の「国」の書体が
成立していた”とされると紹介した。ところが、
最近奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されて、web上で見
る事が出来るようになった、pdfファイルの
発掘報告書に、漢字そのものが未伝来とみられ
る縄文時代成立の土器に、”国”の字のように
見える模様を見出したので、以下に紹介する。
なお発掘報告書に、墨書の指摘は特に無い。
 遺跡は岩手県下閉伊郡山田町山田にある、
表題の岩手県山田町沢田Ⅲ遺跡であり、
発掘されたのは2013年~2020年の間、
報告書は今年発行され、全国遺跡報告総覧には、
2021年の4月20日に登録され、pdfで
公開されたようである。pdfファイル名は、
以下の通り。
90839_7_沢田Ⅲ遺跡発掘調査報告書.pdf

王だけ本物であり、枠のクニガマエと、玉の点
は、たまたまの焦げ目の模様のよう。だが、王
の字の日本伝来が、相当に早い事を示している

とみられる。
 発掘報告書の名称は以下の通り。
岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第722集
沢田Ⅲ遺跡発掘調査報告書、2021、
国土交通省東北地方整備局三陸国道事務所・
(公財)岩手県文化振興事業団。
 写真が、この発掘報告書pdfの、188
ページ、写真図版188 縄文土器(24)
の右下に、遺物番号第311番とナンバリング
されて載っている。

沢田遺跡国.gif

土器のほぼ、真ん中の位置に、「国」のように
私には見える、玉を口で囲んだような模様が有
る。第1pdfの
90839_1_沢田Ⅲ遺跡発掘調査報告書.pdf
の、目次を見る限り、縄文時代の土器を紹介し
ているように見える。中国で漢字が誕生してい
た頃には、教育漢字の国は、伝来していたこと
に、国と書いた墨書だと解釈すればそうなりそ
うだ。
 平家物語の伝承者である琵琶法師が、”国”
を作成したという類の、本ブログの論は、今の
解釈が正しいとすると完全に吹き飛んでしまう。
 そこで、上記の図を良く見ると、国の枠の口
は、左右の一部だけ、確かに縦筋が有るようで
あるが、それだけである。つまり枠の横筋であ
る水平のラインは、全体の模様の一部が、枠に
溶け込んでいるだけである。

クニカマエは、たまたま存在する破線型の縦筋
の存在によって、そう見えるだけであり人為的
な墨書ではなくて、自然に出来た焦げ目である
疑いがあると見られる。

 また、王ではなく玉になるように見える点は、

王より薄く、たまたまの焦げ目の斑

のように思える。ただし、

王までニセモノにするのも不自然

だ。
 縄文時代のものとされているように、私には
認識されるこの遺物の、王の模様に限っては、

王という文字が日本に伝来したのが、相当に早
かった事を、示している

のではないか。成立時代の推定に、かなりのバ
ラツキが有るのだろう。この土器の国の字に見
える模様は、王のほかは焦げ目であり、結論と
して偶然の模様であるように私には思える。
(2021/04/29)

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平城宮第40次調査で”山母王”墨書土器(長さん)

本ブログでは前に述べたように、山姥の初出は
今昔物語であり、それが鎌倉時代中期に遡れる
かどうか疑問な為、鎌倉時代の摩訶大大将棋・
摩訶大将棋の成立を疑う立場を取ってきた。
だが最近、イスラムシャトランジの絵と疑われ
る墨書で紹介した、奈良国立文化財研究所の、
”平城宮出土墨書土器集成Ⅰ”に、山母王と釈
文された、墨書の書かれた土器があるのに、本
ブログの管理人は気がついた。釈文は、本文の
42ページ第40次調査、SD4850出土、
土器番号第901番の、外面に有る。該遺物は

欠けていて第1字目の”山”が一部しか無い。

 繰り返すと文献はpdfファイルで、現
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されており、web上
で見る事が出来る。pdfファイル名は、以前
にも紹介したが以下の通り。
63054_1_平城宮出土墨書土器集成1.pdf
 写真が、PL.52の3段目右にあり問題の
”墨書の有る外面”は、ツマミの付いたフタの
外側のようにも、私には見える。

平城宮山母.gif

上縁にも水平に墨が一部分残って有るようにも
見え、第1字目が本当に”山”かどうか、解釈
が確定出来ないのではないか

と個人的に疑う。従って山姥の意味で、書いて
いないと、本ブログでは疑う事にする。
 言うまでも無く、山姥が、平城京の盛期の
奈良時代に成立すると、本ブログの論は、

いっぺんで瓦解

する。従って、この遺物は重要であると見る。
 表には日付と当事者名等が書いてあるように
私には解釈され、

伝言等の相手先が、一例”田母王”であって実
氏名が書いてあるのを”山母王”と読んでいる

疑いが、このケースには依然残るように思える。
 肝心な部分が欠けてしまった、残念な遺物だっ
たように思う。(2021/04/28)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札+3字(長さん)

神奈川県鎌倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉
センター遺跡出土の、中将棋のバージョンを
記載したとみられる木札の上部1行目と2行目
の行間に、本ブログの管理人がさいきん、

”銀銅付”と薄く3文字が書かれている

のに気がついたので、以下報告する。

猛豹(もしひゃう)が銀将と銅将の並びの、更
に一つ袖の升目に置かれる事を、注釈したもの

のように見える。
 像は極めて薄く、成書等に目を凝らさないと
見えない。本ブログが言う、上段の第1行の
”志ろいぬ”と、上段の第2行の”もしひゃう”
の間に、薄く漢字で3文字書かれているように
見える。
 文字は、よみがえる中世3武士の都鎌倉、
平凡社、1989年でも、集成鎌倉の墨書、
鎌倉考古学研究所、2017年でも、どちらで
も、だいたい同じ感じに見えている。
 たとえば前者を画像処理して判り易く示すと、
以下のような配列である。

銀銅付.gif

いうまでもないが。次に書いてある”猛将の
洒落で、『まうへう』ではなくて『もしひやう』
である所の猛豹”は、金将、銀将、銅将と続く
最下段への配列についての話であるという意味
に取れるように、注釈したと解釈できる。つま
り、木札ではローカルルール中将棋の、カテゴ
リーの事柄が書いてあると、注釈する為のもの
のようである。
 薄くてよく判らないが。漢字である所からし
ても、タッチが濃い普通の文字とは違い、別の、
比較的楷書で漢字をきちんと書く人間の入れた、

元々薄い字の注釈

なのかもしれないと私には思える。そして、そ
の注釈のお陰で、これも当たり前かもしれない
のだが。この木札が、中将棋について書かれて
いる事を、更にはっきりと示す効果をも、幸運
にも我々現代人に対して、しっかり与えてくれ
ていると、言う事が出来るのではないか。以上
のように本ブログでは、主張出来ると考える。
(2021/04/27)

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60年モデル50年前倒と角行、竪行親鸞起源説(長さん)

以前に述べたように、奔王と横行の同じ筋での
非共存説を取るとすれば当然横行を、西暦
1255年程度にではなくて、西暦1205年
程度に数十年早めて、袖に移動させなければな
らない。その動機は、駒種の増加に求めるのが
自然なため為、日本将棋の駒として著名な

角行と、中将棋以上に存在する竪行の出現も、
同じ程度に数十年、早く見積もる必要が起こる。

増川宏一説や木村義徳説に、近寄る必要が必然
となるという事である。
 所で本ブログでは、横行から角行と竪行が分
化したのはほぼ自明だとしてその理由を考察し、
仏教宗派のひとつ浄土真宗の親鸞の教義手法が、
少なくとも影響していると見てきた。しかしそ
の説に関し、角行と竪行の成立が

数十年早まると、親鸞が居ないといったパター
ンの矛盾が起こらないかどうか

が当然のことであるが問題になる。この点では、

親鸞が長寿だったお陰で、幸いにも影響が無い

事が判る。今回はこの事を説明する。
 本ブログの今までの論だと、将棋棋士が奔横
の駒の性能(動かし方)ルールの、竪行包含の
おかしさから、横行が袖移行した少し後に、

角行と竪行を発明しておいて奔横の駒名を変化

させたという事になっていた。故にイベントが、

ヒントを与えた阿弥陀経親鸞の晩年に起こった

と推定された。普通なら、イベントを早めると、
当事者が、まだ生誕していないという矛盾が起
こりやすい。しかしながら、このケースは、
西暦1201年に親鸞は六角夢告で浄土教、判
り易くは阿弥陀教に転向し、西暦1211年に
新潟に配流されているという、時代の流れになっ
ている。
 だから親鸞上人の晩年ではなくて、若き日に、
将棋棋士達が、彼の教義を聞いて尤もだと考え、
横の他に竪、残りの奔横の動きから角を発明し
た上で、横行を角行と竪行に並べるために袖に
移動させた後に、奔横は奔王に名称変更したと
いうふうに、時代をずらしても

このケースは、親鸞は居るので幸運にも問題が
起こらない

のである。なお、阿弥陀教を将棋棋士が比較的
先行して受け入れ易いのは、そもそも将棋は当
時、博打に絡んだ行為であった。ので将棋を常
習すると、極楽浄土(天国)に成仏できにくい
立場にあると、周囲から見られると考えるのが
自然だった。だから阿弥陀教を初期に受け入れ
るのは必然であろうと見られるという事である。
 また、奔王の成立が奔横の成立より早いよう
に見えるのも、実は錯覚で、
岩手県平泉町が、徳島県徳島市よりも、親鸞が
配流された新潟県上越市に近いため、先行して
定着。それに対して地理的に遠い

徳島県徳島市では比較的後まで奔横が残存した

と考えれば、一応矛盾が起こらない。
 以上のように、親鸞の没年が1263年と、
比較的遅いにも関わらず、数十年イベントの成
立年を、前だおしシフトさせても、彼の西暦
1173年という早い生誕年のお陰で、本ブロ
グの論に、今述べた点での影響は、ほぼ無いと
見られるのである。(2021/04/26)

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岩手県平泉町祇園Ⅰ遺跡歩兵奔王土器のC14年代(長さん)

以下、pdfファイル
90879_1_祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書.pdf
の炭素14放射性元素測定法による、
奔王土器の成立年代に関する内容紹介である。

12世紀ではなく13世紀初頭成立と取れる

内容が記載されている。測定結果が、発掘報
告書の54ページによると、2σ値範囲で、

1042年~1104年または、
1117年~1210年となっていて、
古木効果と、平泉遺跡の最盛期が11世紀で
はないとすれば、1210年近辺になる

という事のようである。
 ここで古木効果と言うのは、木材で心材に
近い部分は、成長が終了した後に、生木とし
て存在する為に、人手の加工時よりも、測定
結果が古くなるというものとだとの事である。
 なお推定値が2山に分かれるのは、天然の
C14の存在挙動が線形で無い為、年代の推
定域が、割れてしまうためらしい。なおその
点に関して、そんな感じもするものの、私に
は今の所、この理屈が個人的に、完全には理
解できていない。
 以下もう少し詳しく述べると発掘報告書名
で岩手県平泉町文化財調査報告書第136集
祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書、
2020年3月、平泉町教育委員会となって
いる、pdfファイルの52ページに、
(株)加速器分析研究所のレポートが転載さ
れている。それによると加速器をベースとし
た14C-AMS専用装置(日本電気㈱社製)
を使用し、14Cの計数を行って通常の手法
年代測定を出した結果との旨、記載がある。
 発掘報告書の54ページには、試料して、
歩兵奔王カワラケ破片土器そのものではなく、
出土した地点にたまたま有った木製炭化物を、
14C年代測定した別3箇所の結果も含めて、
幾つかのデータが表に載っており、その中で、
測定番号第IAAA-181999番につい
てが、共出土に該当する。その数値が、冒頭
で示した2領域の年数範囲で表された数値で
あり、結論として繰り返して述べれば、(歩)
兵奔王カワラケ土器破片の成立年代は、西暦
1210年より前だが、それに近いという旨
の結論になると見られるとの事のようである。
 発掘報告書の本文中、C14測定の説明文
以外の所には、遺物番号第13番の
歩兵奔王土器は12世紀成立との旨が書かれ
た箇所および、表が有る。がそれは平泉遺跡
の文献上の、歴史常識から来る値と私には取
れる。
 つまり純粋に形式的に

14C測定の結果の方だけを取れば問題の遺
物から奔王の成立は1210年前後が正しい

という事になるようだ。
 仮に、二中歴が使われたのが西暦1205
年まで。奔王が成立したのが1208年。
平泉町の遺跡で知られたのが1210年なら、

二中歴時代の、別々のゲームの重なりは、
数年程度の差で辛くも避けられる

とは言えなくも無さそうだ。
 だから簡単な”回避策”は本ブログの言う、
108枚制の13升目普通唱導集大将棋から、
鳳凰と麒麟を除いた104枚制の大将棋まで
が、西暦1210年までに、いっきに出来た
と解釈する事であろう。その際、その急激な
形成の原因を、二中歴そのものの普及と、考
える事にすれば、もしかすると良いのかもし
れない。懐中歴より二中歴の方が、写書部数
が多かった。そのため、大将棋の部分の記載
を、より多くの識字層が読んで、ゲーム性の
改善の試みが、いっきに進んだという事に、
してみてはどうかとも思う。1210年から
1260頃までは、内乱は激増しなかった
鎌倉時代中期ではあるが、大将棋のゲーム史
上はその後、ゲーム間で淘汰戦争が激化して、
むしろ戦国時代だったという事かとも取れる。

相当に苦しいが。

 つまりは、徳島市郊外川西遺跡の奔横の時
代より後に、平泉出土の問題土器を、年代順
に並べるのは依然として、かなり困難だとい
う事だと、私は確かに感じる。(2021/04/25)

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岩手県平泉町祇園Ⅰ遺跡12世紀成立歩兵奔王墨書(長さん)

以下に本稿を作成する、3日程度前に、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録された、

影響のとても大きな出土遺物の話題

である。本ブログの、これまでの論にとり、

かなり不利な内容

だ。最も簡単な解釈は、二中歴に
平安大将棋が記載された頃、

後期大将棋も、有ったと考えるという事

であり、

増川宏一氏と木村義徳氏の推定にとり有利

であるという内容である。
 遺物は瓦の破片であり、2018年前後
に発掘されたようである。場所は、
中尊寺境内遺跡で著名な、岩手県平泉市の
岩手県平泉市祇園Ⅰ遺跡。

兵奔王と、濃く縦書きされており、奔王駒
が、瓦片の成立時点で存在する事を、
強く示唆している。

平泉兵奔王.gif

発掘報告書が、西暦2021年4月21日
付けで、web上、pdfファイルで
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されて閲覧出来、
pdfファイル名は、以下の通りである。
90879_1_祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書.pdf
 写真は、報告書の72ページの
写真図版16出土遺物(1)(第4次)の
第2段目中央にあり、遺物番号13番と
ナンバリングされている。
 新聞ネタになるレベルの発見だが、五角
形の将棋駒で無かった為、少なくとも私に
は、これまで確認出来ていなかった。なお、
発掘者自体は、情報を広める努力をしてい
たようだと疑われる、一応の根拠が有る。
新聞赤旗で2018年11月に、増川宏一
氏が、志羅山遺跡の両面飛龍駒を、
後期大将棋と特定する記載を、概説記事に、
脈連無く載せている点。およびそれに調子
を合わせたような記載が報告書本文に、有
るように見えるからである。発掘調査隊本
部は取り上げなかったが、増川宏一氏とは
報告者は当然見識が有ったので、ただちに
知らせたと見ると、記載の様子とよく合う。
 報告書には、はっきり将棋関連だと記載
され、フリーキーワードで大将棋と入力す
ると、データベース内でヒットする。将棋
駒の出土地帯として、余りにも有名な場所
である。
 遺物を見ると、破片な為、本当は

歩兵奔王だったと推定

できる。また、左に薄く”兵奔”とも有る
ように見える。

平泉兵奔王コント.gif

歩兵が奔王の上段に並んでいる事を示して
いる

と取れ、本ブログの言う、

「西暦1260年モデル」以降の大将棋が、
1200年以前にも有った事を、強く示唆

する。なお、報告書の21ページには、
C14測定から、共出土品の成立年代が、
11世紀後半から12世紀であると、記載
され、

逃げ道はほぼ無い。まいった発見だ。

状況は以上であり、単に”平泉周辺遺跡で、
飛龍駒が示唆するように平安大将棋が盛ん”
という認識を

はるかに越えた、影響力の甚大な発見

であると考えられる。そもそも

平安大将棋に奔王駒は無い

のである。
 本ブログにとっての救いは唯一、

初期配列図として見ると、記載が貧弱な事

位か。
 冒頭で述べたが、はっきりした墨の左隣
には、薄い兵の字の下に

同じ奔が書いてあるようであり、ヨゴレ

であると推定される。初期配列の一部であ
るという可能性は、ほぼ無さそうである。
 恐らく、奔王駒を中央歩兵の下段に初期
配列する事だけを、作成者は表現意図した
のであろう。
 今の所、将棋史の研究者のコメントを見
出せないが、

”兵奔王”などという3文字墨書は、将棋
の影響

と見て、間違い無いと思う。以前に本ブロ
グでは類似の、”兵”と”仲人”の文字が
共記載されている土器を、紹介している。”
平安大将棋が記載された二中歴が、有効だっ
た1200年前後に、後期大将棋も有った”
とする、増川宏一氏と木村義徳氏が別々に
した

推定を、それぞれ頭から完全に否定するの
は、これによりかなり難しくなった事だけ
は、少なくとも確か

だと見るべきだろう。(2021/04/24)

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仙台城周辺遺跡の瓦に描画の将棋駒絵追加(長さん)

以前に、仙台城二の丸北方武家屋敷から、
瓦に金将らしい将棋絵の書かれた遺物や、
木の板に、寿の字を書いて将棋駒を表した
絵が描かれた遺物の出土を紹介した。
 東北大学では、仙台城周辺の当該遺跡の
発掘を断続的に、何回か実施しているらし
く、付近の別の武家屋敷跡から、金将瓦絵
の仲間と見られる遺物の写真を、本ブログ
の管理人が発見したので、以下に紹介する。

大局将棋関連の初の出土遺物となる”猛龍”
駒の絵かもしれない。

写真はいつものように、奈良県の
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録された同じ遺跡の、
金将等とは別のコンテンツの発掘報告書で
ある。
 web上、データベースとして登録され
たpdfファイル名は、以下の通りである。
9466_2_仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第11地点・第12地点.pdf
この発掘報告書の表題は以下の通りである。
東北大学埋蔵文化財調査室調査報告1
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区
第11地点・第12地点
東北大学埋蔵文化財調査室、2011。
 そこの図版79武家屋敷地区第11地点
出土瓦質土器(4)の最上段中央に、
遺物番号19とナンバリングされた瓦とみ
られる遺物の写真の表面左下に、五角形の、
金将のケースと同様とみられる、白抜きの
将棋駒型五角形のカゲが有る。中に

字が書いてあるが正確にはどう読むのか私
には判らない。

仙台城猛龍.gif

最も近い字は、第1字目は猛のようであり、
第2字目は、下線や、その上に乗った八の
字を無視すれば、龍のようでも有る。

仮にこれで正しければ、”猛龍”となり、

仙台城付近の住人に大橋家作成の大局将棋
が知られていた証拠という事に、なるのか
もしれない。ただし、文字通り絵に描いた
餅であるから指されていた証拠にはならず

大局将棋について、噂が飛び交っていた
証拠という程度の物品

と、少なくとも私は見ている。
 なお駒本体に対し、字は曲がって描かれ
ておらず、自然に出来たの模様だとしたら、
このケースは、かなり不思議であろう。
 付近で日本将棋が指されていたのは、出
土駒から自明であるし、大局将棋が成立し
ていたと本ブログが見る、徳川家治時代よ
り、瓦の埋蔵は発掘報告書の115ページ
の記載からみて後の、19世紀のようであ
るから、出土して、特に不思議は無い遺物
ではなかろうかと解釈する。なお江戸時代、
大局将棋が仙台城付近の住人に対して隠匿
されていたとも、特に考えにくいだろう。
 よってこの瓦の絵は、仙台城周辺では
江戸時代、将棋文化が大いに栄えていたと
見て、概ね良い証拠のように、私には思え
る。(2021/04/23)

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富山県高岡市手流野間尽遺跡より角行木片か(長さん)

以下、web上の発掘報告書に載っている
木製品の写真に、”角行”と刻書されてい
る疑いのある遺物の紹介である。

字が、遺物の右に寄っている上に、行の字
が薄くて自然の模様の疑い

がある。発掘報告書は、奈良県の
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録されていて、以下
のpdfファイルで紹介されている。
5783_1_間尽遺跡調査報告Ⅱ.pdf
 発掘報告書名は、以下の通り。
高岡市埋蔵文化財調査報告第11冊
間尽遺跡調査報告Ⅱ、西暦2004年3月、
高岡市教育委員会。
 遺物は、図版四四の中央部にあり、
遺物番号第280(R7983)番(
樹種:スギ)とナンバリングされている。

間尽遺跡角行.gif

全体として五角形のように見えなくも無い
が、単なる細長い棒の切れ端のようにも、
見え、はっきり将棋駒とまで、言えないだ
ろう。そもそもササクレていて歪である。
 文字らしきものは、墨ではなくて、刃物
で切り込んで付けたように、私には見える。
 角行のうち角の方は有りそうだか、行は、
行ニンベンが、ニンベンになっていて、存
在自体がはっきりしない。よって、このケー
スには

 単なる自然の傷の疑いがある

とみられる。
 成立年代は、巻末の奥付の表によると、
~中世前期だから、鎌倉時代から南北朝時
代と取れば、以前に述べた、新潟県新発田
市住吉遺跡の角行の疑いのある出土遺物の
瓦の類と、ほぼ同一パターンと言う事に、
なるだろう。
 ぼんやりとして、曖昧な情報では有るが。
高岡市手洗野は、小将棋の金の書体に関す
る説明が書き込まれた、曲物板らしきもの
も出土している場所である。なので、一応
の注意は、今回の遺物例についても当然必
要ではあろう。(2021/04/22)

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仙台城周辺遺跡跡から金将駒瓦等(長さん)

以下もいつものように、奈良県の
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録された情報である。
以前奈良県の山田寺跡、福岡県柳川市本町の
本町遺跡で紹介等した、瓦に将棋駒の絵を描
いた遺物が、将棋駒の出土で有名な仙台城跡
の、北側の周辺武家地でも出土したとの事で
ある。
 当然成立は江戸時代の事であり、はっきり
とした意図や、作図方法も実は、私には良く
判らないのだが。出てきた事に不自然さは余
り無い遺品とみられる。
 web上、データベースとして登録された
pdfファイル名は、以下の通りである。
70989_1_仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区第14地点.pdf
 コンテンツは発掘報告書であり、報告書の
表題は、以下の通りである。
東北大学埋蔵文化財調査室調査報告8
仙台城跡二の丸北方武家屋敷地区
第14地点第2分冊
東北大学埋蔵文化財調査室、2020。
 そこの、図版37 1号井戸(Ⅰ~Ⅲ期)
出土遺物(3)の、下から2段目左側に、
遺物番号T18とナンバリングされた瓦と
みられる遺物の写真があり、その上下写真で
下の方の面に、金の字が少し右にズレている
ものの、駒全体に対して字が、ほぼ成立した
”金将駒”と見られるものが、描かれている。
 何らかの方法で、実在の金将像を投影した
のであろう。
 
仙台城瓦金将.gif

 なお、同じ遺跡からは、駒名として、多分
”寿”だと思えるが、一文字が書かれた、五
角形画が、こちらは木の板に有る遺物も出土
している。
 今のべた金将の有る次のページの、図版
38 1号井戸(Ⅰ~Ⅲ期)出土遺物(4)
の、同じく下から2段目の左から2番目、
W33とナンバリングされた遺物である。

仙台城板寿.gif

将の字の寸の部分が力に見える点で似ている
ので、ひょっとしたら、同一人物の仕業かも
しれないと思う。同様なパターンは以前、”
石名田木舟遺跡の将棋駒型『吉』絵入り曲物
底板”の例で紹介した。この寿駒の方の作成
意図は、石名田木舟の場合と類似で江戸時代
の仙台城下在住の、将棋マニアのお祝い用な
のであろう。なお、江戸時代の彩色の綺麗な
遺物物品の中にあって、もはや見た目の墨が
薄すぎる為、こうしたケースには発掘報告書
に”墨書”との指摘が特に書かれ無いようだ
と、私は以前より認識している。
 将棋駒が出土するほど将棋が盛んな遺跡で、
この手の遺物が出土するというパターンが、
普通であるという事がほぼ事実だと、これで
完全に、私には思えるようになって来た。
(2021/04/21)

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